母の膵臓癌日記

膵臓癌を宣告された母の毎日を綴る

いままでの経緯 (19)

2009年09月30日 00時19分19秒 | 日記
9月26日(土)
朝から調子が良く朝食もいっぱい食べられた、と機嫌が良い。最近の母の神経は食事に集中している気がする。

母が洗濯物を干しに庭に出た隙に父が「これ見て」と朝刊を差し出す。
父の指した部分の記事は元野球選手67歳の死亡記事だった。野球になど興味ないのに、と思いながら読み進めると死因は膵臓癌、とある。
『2007年2月に膵臓がんが見つかり、15時間に及ぶ手術を受け、闘病生活を続けていた。』
そうか、2年半も生きていられたんだ。手術が成功したんだなと思っていると父は逆に
「2年半くらいじゃ早いな。手術したってのに。」と小声で言う。
「膵臓癌は手術しても完治することはあまりないのよ。」と私も小声で言うと
父は少しショックを受けた顔をして黙る。

洗濯物干しを終えて食卓テーブルに戻った母が、今日はいくつか済ませたい用があるから駅の方まで車で送ってほしいと言う。
どんな用なのか訊くと

・耳鼻科に行ってたまった耳垢を取ってもらう
・郵便局と銀行2つ回って計5冊の通帳に記入する
・眼鏡屋に行って度の合わなくなった老眼鏡のレンズを換えてもらう
・駅の反対側の補聴器ショップに行き補聴器の調整をしてもらう

「えっ?一度にそんなに?」と私はつい声を荒げる。
「調子がいいからってそんなに一度に回ったらまた疲れるじゃない。一日ひとつにして何度も行けばいいよ。」
「大丈夫よ、そんなにたいした距離歩くわけじゃないしすぐ終るから。」
と、母は言い出したら聞かない。子どものようだと思う。
「全部今日じゃなくちゃだめなの?そんなに急ぐの?」
「うん。」
うそばっかり。補聴器も眼鏡もどちらも昨日今日合わなくなったわけじゃなし、と思うが
これ以上言っても無駄のようなので私はあきらめて
「じゃ、疲れたと思ったらすぐに言ってよ。」と言う。

F子も銀行に用があると言うので、母とF子と私の3人で夫に車で送ってもらい耳鼻科の前で降りる。
母が診察している間に郵便局と銀行を回り母の通帳記入を済ませると12時を回っていて
駅の近くの回転寿司で昼飯を食べよう、と母が言う。

5分くらい歩いてその店に着くと人気の店らしく、入り口の外に行列が出来ている。
母は近くのデパートの休憩所で待たせ、私とF子が列に並ぶ。20分くらいして順番になるとちょうど呼んでいた夫も着いて
カウンターに4人で並んで座る。
母はまずびんトロを二皿注文し、食べ終えるとサーモンの皿を取る。
サーモンを一貫箸でつまんで私の皿に置き、自分も一貫食べ「おなかいっぱい。もうこれでいいわ。」と言う。
そして「見て、こんなにいっぱい食べちゃった。」と嬉しそうに3枚重なった皿を指差す。
寿司五貫食べたことがそんなに喜ばしいのかと内心驚きながら、すごいね、食欲あるじゃない。と合わせる。

食事を終えた時点で気分良く家に帰れば良かったのだ。
しかし母はあと二つの用事も片付けてしまうつもりを変えることはなかった。
次は眼鏡屋に行くと母は言い、夫はそれなら自分の用を足して駅ビルの駐車場にとめてある車で待っていると言い別れる。

駅前にある眼鏡のチェーン店では、若い女性の店員が対応した。
母は屋外用と室内用、二つの眼鏡を差し出し、度が合わないのでレンズを交換したいと言う。
視力検査やレンズの説明など、眼鏡が2つなのでそれぞれに倍の時間がかかるのだろうか、
1時間以上も私とF子は店内の椅子に座って待ち、待ちくたびれて少しだけ外に出て他の店を見歩いた。

店にもどると母が
「Sちゃん(私)ちょっと来て。この人の説明、早いし声が小さくてよくわからないの。一緒に聞いて。」
と本人の前で言うので私は内心汗をかく思いで
「あの、母は耳が遠いのですみません。」と言って隣に座る。
店員もすみません、と頭を下げるが私が一緒に聞いているからか、声の大きさもスピードもそれまでと変える様子はない。
レンズのグレードと価格の表を見せて指差しながら、こちらとこちらならこのような特典がつきます、など慣れた口調で喋り続ける。

これでは母についていけるわけないと思い横を見ると、母はさっき寿司を食べたときと違って背中を丸めひどく疲れた表情をしている。
「大丈夫?疲れたんじゃないの?」と訊くと
「疲れちゃった。こんなに時間がかかると思わなかったから…」
急いで母とF子を先に車に戻らせ、女性の店員に母は病気で疲れると体に障ることを話し、この続きは後日ということにしてもらう。

それでなくても年よりは目で見たり話を聞くのに労力を使う。
ましてあの声量とスピードで話されたら、理解しようとして神経を集中し相当エネルギーを消耗したのだろう。
だからといって母によくわかるような調子で話したら何時間かかるかわからない。
次回来たときはどのくらい時間がかかりますかと訊くと40分くらいで終るという。
やれやれ。まだ40分もかかるのだ。母はもう眼鏡はいらないと言うのではないだろうかと思う。

車の中で待っていた夫も、別れた時とうって変わって具合の悪そうな母に驚いている様子だった。
「パパに『ちょっと気分がいいとすぐ調子に乗って動くから』ってまた怒られちゃうわ。」と母は言うが
父だけでなくみんなそう思っているんだよ、と言いたい気持ちを抑える。

家に帰ると母は胃が痛いと言い出す。やはり疲れたのがいけなかったのか。
オキノームを飲んで横になると少し眠れて、胃の痛みはなくなり夕食も食べられたというのでほっとする。

いままでの経緯 (18)

2009年09月29日 10時23分03秒 | 日記
9月24日(木)
父はお彼岸のお墓参りに朝から出かける。
父と母は同じ県出身なのでたいてい墓参りは二人で一緒に行き双方の家の墓を回るのだが
先週母は迷った末、今回の墓参りをあきらめ父に一人で行って来るように頼んだ。

しかし母はこの日は朝から気分が良いと言い、朝昼の食事も半分くらいは食べられた。
散歩がてらに徒歩10分の郵便局まで用足しに行ったりして前日とは違う穏やかな日を過ごす。

夕食は大根と豚バラ肉の煮物、きゅうりと若布の酢の物、冷奴と里芋の味噌汁。
このうち酢の物と冷奴は母のリクエストだった。さっぱりした冷たいものが食べやすいのだ。
2階で夕食後、食器を洗っていると母が階段を上ってきた。煮物の量が少し多かったので、私に返そうと持ってきたのだ。
「大根は柔らかかったけど、ちょっと甘かったね。お砂糖入れたでしょ。」
「あっ、そうか。甘い味はだめなのね。そんなに砂糖は入れてないんだけどな。」
「酢の物は味付けしてなかったの?ポン酢をかけたら味がちょうど良くなったわ。」
「…三杯酢で味付けたんだけど、薄かったかしら?」
文句をつけ過ぎたと思ったのか、母は最後に
「冷奴は美味しかったわよ。パパも美味しいって言ってた。」と言い、私は苦笑する。
「冷奴が美味しいって…それは豆腐の味じゃない。」母も笑って、とにかく今日の夕食はいっぱい食べられたと言う。

母が階下へ下りた後、食器洗いを続けながらほっとして目頭がじんとしてくる。
味付けはどうあれ、母は夕食が食べられたことを喜んでいる。昨日の泣き顔と対照的な今日の笑顔。
涙が一粒こぼれると、さまざまな感情の嵐が押し寄せて堰を切ったように次から次へと溢れて流れ落ちる。
母の癌がわかって以来初めて、思う存分泣いた。

9月25日(金)
3回目の抗がん剤を受けに病院へ行く。

診察の最後に女医のM先生が
「次回から担当が代わります。私は緩和ケアの方へ異動なので」と言い、母も私も少しがっかりする。
女医の先生だけあって、患者の話を面倒くさがらずによく聞いてくれる、気さくで感じの良い先生だった。
今度の先生は男の先生だけどとても優しい方ですよ、とM先生は言っていた。母と相性が良ければいいのだが。

点滴後、弟が顔を出す。ちょうど1時ごろだったので一緒にどこかで昼食を食べないかと私が誘うと応じてくれ、
近くの和食処に3人で行き二人は金目鯛の煮付け定食を、私は海鮮丼を注文する。

母が手洗いに行っている間、弟に父が母の病気についてあまり理解してないことなどを話す。
弟は父にわからせる必要はない、と言うが私は父が病気の母に依存していることを話す。
それはいまさら直らない、と弟は断言する。

弟と別れると、病院から車で10分ほどのところにある歴史の古い神社にお参りし
家の近くのスーパーで買い物をして家に帰ると夕方の5時を回っていた。
家に着くとすぐに大量の薬を薬ホルダーに仕分ける作業を母と二人でする。
「今日はお雑煮にする。簡単だから私が作るから。」
お雑煮?ずいぶん季節はずれな、と思うが餅好きな父母は正月以外にも時々作って食べているらしい。
疲れているから休んでから作るように母に言って私は2階へ上る。

あとで様子を見に行ったとき母から聞いたところによると、母は私が言ったにもかかわらず
時間を気にしてすぐに夕食の支度を始めようとした。
この時初めて父が母を気遣って食事はいつでもいいからまず休むようにと言ったらしい。
さすがの父も昨夜の出来事で心を入れ替えているようだ。
母は満面の笑顔で
「お雑煮が美味しくってお餅を2個も食べちゃった。パパも驚いてたわ。」
3回目の抗がん剤は副作用が強く出ると聞いていたが、今のところまだ現れていないようだ。
このまま副作用が出ずに過ごせますように、と祈らずにはいられない。

いままでの経緯 (17)

2009年09月27日 23時45分56秒 | 日記
9月23日(水)
朝、母の顔色が冴えず笑顔がない。前日、夕食がほとんど食べられなかったと言うので引き続き調子が悪いのかと思うが
今朝少しは食べられたと言う。
「なんだかね、つわりみたいなのよ。料理を作ってると匂いが鼻について気持ち悪くなるし、甘いものがだめなの。」
味覚が変わるというのは確か抗がん剤の冊子に書いてあった。
先週くらいは市販の果物のゼリーを食べやすいといってよく食べていたのだが、もう食べたくないと言う。

「夕食はあなたが作ってくれない?他人が作ってくれたものなら食べられるかもしれない。」
私は遅かれ早かれそうなることは覚悟している。
「いいよ。ここで作ってK(夫)やF子(次女)も下りてきてもらってみんなで一緒に食べるようにする?」
こう提案した理由は、食べ物の好き嫌いが激しく味付けにもうるさい父の気に入る料理がわからないので
母がそばにいて指導してほしいということと
母も気難しい父と二人で食べるより多い人数で賑やかに食べた方が食が進むのでは、と考えたのだ。

しかし母はうーん、と困ったような表情をして少し考えてから言いにくそうに言う。
「あのね、一度に食べられなくて、何かしながら合間合間に食べたりしてるのよ。
立ったり座ったり落ち着かなくてみんなに悪いから…」
「そんなの誰も気にしないよ。気を使うことないよ。」
「でも、2階で作ってくれた方が匂いもしないし」
ああ、そうか。と納得するが、ちょっと困ったな、と思う。母はそれを察したのか、
「自分たちで食べてるものと同じでいいのよ。それをちょっと。本当にちょっとだけ持ってきてくれればいいから。」と言う。
「わかった。じゃ、そうするね。」

そんな話を母と私で交わしているとき父が思い出したように、11月にある弟の3回忌の出欠をまだ伝えていないと言う。
法事を報せる往復ハガキを出してみると出欠の締め切り日は4日前だった。
報せのハガキはだいぶ前に来ていたのだが、その後母の病気がわかり、そちらの方で母も父も頭がいっぱいだった。
「私はちょっと行けないからあなた一人で行ってきてくれる?」
「うん、じゃ電話で理由も話して断ってよ。」と父。

母方の親戚には他の用で電話する機会があったので、そのときに母が自分の病気のことを話したのだが
父方の親戚にはなにも報せていなかった。
母が伯母の家に電話をすると息子が出て、今手が離せないから後で電話させると言った。

午後には母は久しぶりに社交ダンスのサークルにに顔を出すので仲間が車で迎えに来るという。
私は先日のカラオケボックスで父と母がダンスを踊ったときのことを思い出す。
あの時は1曲を踊りとおせずシートに倒れこんで肩で息をしていたではないか。
「ダンスなんか踊ったら疲れるんじゃない?」
「踊らない。座って見てるだけで帰ってくるから。」
母がみんなが踊っているのを見て我慢できるんだろうか。誘われたらじゃあちょっとだけ、と言って席を立つ母が容易に想像できる。
しかし母の楽しみを片っ端から奪うわけにはいかない。仕方なく気をつけて行ってきて、と言う。

母がダンスに出かけるために洗面所でシャンプーしているとき、タイミング悪く伯母から電話が入る。
まだ髪を泡だらけにして洗っている母のところに父が受話器を持ってきて伯母から電話だと伝える。
今電話に出られないからあなたが話していて、と母が言うと仕方なく父が話を始める。
両親とも耳が遠いためハンズフリー設定にしているので、そばにいる私にも伯母の声がよく聞こえる。

「実はM代(母)が腸にできものができて…」
「えっ?」
「抗がん剤治療を始めてるんだけど、副作用であまりものが食べられなくて」
「あらあら」
私は冷や汗が出るような気持ちで聞いていた。腸にできもの?なにそれ。間違ってるじゃない。
詳しいことはあとでまたM代から電話させると言って父は電話を切る。

シャンプーを終えた母に、父に聞こえないようにそのことを話すと母は
「パパは何もわかってないんだから」とため息をついて自分から伯母に電話し、
自分の癌を知ることになったきっかけから今の体の状態についてまで事細かに話した。
夫を血液の癌、多発性骨髄腫で亡くした伯母は母の話から、どれだけ病気が進んでいるかを察知した様子だった。
母が法事は欠席すると言うと
もちろんそれどころではない、ご自分の体のことを第一に考えてお大事にしてくださいと伯母は言い、電話を終える。
そして母は迎えの車でいそいそとダンスサークルに出かけていった。

悪い予感は当たった。ダンスから帰ってきた母はこれまでになく生気のない顔をしていた。目は落ち窪んで、皺が深く刻まれている。
疲れたの?踊ったんでしょうと訊くと
「いつもの4分の1くらいね。3曲休んで1回踊るくらいなんだけど、やっぱり疲れるわね。」
母はちょっと休むわ、と言って寝室に行く。その背中がやけに小さく見えた。

夕食のメニューは秋刀魚の生姜煮と筑前煮、里芋の味噌汁になった。
秋刀魚は塩焼きにして大根おろしを添える予定だったが、母が生姜で煮たほうが良い、と言ったので急遽圧力鍋で煮たのだ。
秋刀魚は焼くと脂の匂いが鼻につくのだろうか、失敗したと思う。主菜も副菜も煮物になってしまった。

それぞれ1つの器に二人分盛り、味噌汁は小鍋に入れて階下に持って行く。
母に気分はどうかと訊くと、まだ食欲がわかないと言う。
「どうもありがとう。私は食べたくなったら食べるから。あなたたちもまだ食べてないんでしょう?」と
早く2階に戻って家族と夕食をとるように促された。私がそばで見ているとプレッシャーなのかなと思う。

8時ごろ、インターホンが鳴り、受話器をとると父の声で「ちょっと下に来て」と言う。
下りて行くと父が一人でダイニングテーブルに座っていて私にも座るように言う。
父の話によると、あの後母は夕食が全く食べられずに自分の部屋へ戻り泣いていると言う。
「S子(私)がせっかく夕食を作ってくれたのに食べられなくて申し訳ない」
「どうせ治らないならこんなに苦しい思いをするより、抗がん剤を止めてみんなと一緒に楽しく食事したい。」
そして、父に抗がん剤治療について書いてある書類を渡し、
「これ読んで。抗がん剤はいつ止めてもいいって書いてあるから。」
と言ってまだ部屋で泣き続けているらしい。
「かわいそうだな、あんなに落ち込んで。」
父の声も震える。

母が病気になってから初めて、母を哀れむ気持ちになった父を見た気がする。
父はこれまで膵臓癌を「腸にできもの」と言うくらい、母の病気について認識していなかったのだ。
先日、母に向かって
「あんたはまだ10年生きるよ。そして俺を見取ってから死ぬんだ。」と笑って言った時は
母への励ましで言っているのか、それとも本気でそう思っているのかと私は訝ったが
やはりほぼ本気だったのだろうと思う。
身の回りのことをほとんど母に依存した父の生活の仕方は病気とわかっていても全く変わらない。

「抗がん剤で癌は治るのか?」と父が訊き
「治りはしないよ。」と私が答えると父は一瞬黙り込む。
「抗がん剤はね、効くかどうかはひとによって違うけど効果があれば癌の進行を遅らせるんだよ。」
「じゃ、やらなければどんどん進むんだな?」
「普通はそうだと思う。」

父は震える手で母に渡された書類をがさがさ音を立ててめくり、
「抗がん剤はいつやめてもいいって、これに書いてあるっていうんだけど
どこに書いてあるのかさっぱりわからないんだよ」とせわしなく視線を動かす。
傍目から見て父は動揺しきっているように見える。

ちょっと貸して、と言って父の手から書類を受け取り眺めると、それは抗がん剤の副作用について書いてあるもので
確かに「いつ止めてもよい」という意味の言葉はない。
「これにはそういうことは書いてないね。でも、患者の体力ばかり落ちて効果がないと止めることもあるんだよ。」と話す。

そうこうするうち、母が寝室からダイニングに来る。瞼は泣き腫らして目の周りが赤い。父が慌てて
「これを読んでいたらS子(私)が来たんだ」と見え見えの嘘を言う。そして
「これには抗がん剤をいつやめてもいいって書いてないぞ。」
と、動揺してろくに読んでいないことを隠して、さも自分が確認したように言う。
「あっ、それじゃないわ。」母は別の書類を部屋から持ってくる。
見るとそれは抗がん剤治療の同意書で、但し書きとして本人の自由意志で止めることができると書いてあった。

「原因がわかっているんだから…疲れすぎたから食欲がなくなったんでしょう?
今度から気をつければ大丈夫よ。食べられないときばかりじゃないんだから。」
と私が言うと
「確かにね、疲れちゃうとだめみたいなのね。」
「昨日の朝なんか気分がよくてよく食べられたって言ってたじゃない。
裏庭の掃除したときもだけど、ママさんは調子良いとあれもこれもやりたくなって、やりすぎちゃうのよ。」
「そうなのよ。気分がいいときはつい『このくらいは大丈夫だろう』って思っちゃって」
「自分でセーブしなくちゃな」と父も会話に入る。
「そうね。自分で身をもってわかったからこれからは気をつけるわ。
せっかくSちゃんが夕飯作ってきてくれたのに悪いと思っちゃって情けなくてね。」
「そんなこと考えなくていいのよ。病人は自分なんだから周りに気を使わなくていいの。」私はつい声を荒げてしまう。
母は今度は父に対して
「あなただって私が動かないでいると嫌な顔するでしょう?」と言う。
父が答えるより前に私は
「そんなこと思うわけないよ、病人に対して。ねえ!」と父に言うと
「うん、言わないよ」と笑って答える。
やっと事態が収拾し、母も少し表情が和らぐ。
「夕食、食べられなかったけど後でお腹がすいたら食べるからね。」

2階に戻り私はふうー、と深いため息をつく。
とりあえず母は落ち着いてくれたようだが、その場をしのいだだけと言える。
抗がん剤を続ければ疲れる、疲れないに関わらず食欲がなくなるのは必至だし
抗がん剤を止めてもいつか必ず食べられなくなっていくのだ。
今後の母のことを考えると深い絶望感に襲われ、暗澹たる気持ちに落ちていく。

いままでの経緯 (16)

2009年09月26日 01時20分11秒 | 日記
9月21日(月)
朝の母は今までになく気分の良さそうな笑顔だった。
「浣腸のおかげでね、今日はスッキリしてご飯も食べられたのよ。」
母はちょっと来て、と言い奥の6畳間に私を連れて行く。そこには衣類がいっぱいにつまった透明のゴミ袋があった。
「いらない洋服整理したんだけどね、一度も使っていないTシャツもあるのよ。
ほらこれ。あなたパジャマ代わりに着ない?」
と何枚かの真新しいTシャツをごみ袋から出して見せた。
「いらないわー。うちにもいっぱいあるのよ。」
あらそう、もったいないけどしょうがないわね、と言いながら袋を元通り閉じる。
「写真も整理してないのがいっぱいあるのよ。あれも片付けないと」
みんなが後で困るからね…と独り言のようにつぶやくのを聞こえないふりをして私は
「ウチも玄関の靴箱、あれ壊れてるから粗大ごみに出さなくちゃ。一緒に出すものある?」と話題をそらす。

2階に戻って少しするとインターフォンが鳴る。
「この前頼んだ裏庭の掃除、今日できるかしら?」

母は病気になってから極端に早寝早起きの生活になった。
朝は4時頃起きて体操をし、その後朝食までの長い時間をいろいろなことをして過ごしているらしい。
今朝の衣類の整理もそうだが先日は夏の間にぼうぼうに伸びた裏庭の雑草を引き抜いて積み重ねた。
その時抜いた雑草の山の処理とまだ残っている雑草の引き抜きを、夫と二人でやってほしいと頼まれていたのだ。

私と夫が階下に下りていくと
「だめだめ、長袖長ズボンじゃなくちゃ。虫がいるからね。首もタオルで巻いて。」
夫と私は言われたとおりの姿に着替え軍手長靴、埃を吸い込まないようにマスクも着けて完全装備する。
「Kちゃん(夫)、帽子は?頭、蚊に刺されるんじゃない?」と母は農作業用の古い麦藁帽子を出してくる。
「帽子…?」私は思わず夫の、毛の薄くなった頭頂部を見て吹く。「いらないよ、大丈夫。」
夫も母も笑う。

夫が鍬のような農具と熊手で雑草を掘り起こし、抜かれた雑草を私がゴミ袋に詰めていく。太くて長いものはビニールの紐でまとめる。
母は指示しながら自分もせっせと動く。
「もういいから家に入って休んでたら。」と何度も言うが大丈夫、大丈夫と作業を続ける。
伸びきっていた自家栽培のゴーヤや茄子などもすべて取り払い、裏庭の土の部分がまっさらになって
「ああすっきりした。ありがとう。」と母が言ったときには私は額から汗が吹き出てぽたぽた落ちるほどだった。

これまで私たちは庭の手入れに関して父母に任せたきりで、たまに手伝ってと言われると手を貸す程度だった。
しかし猫の額のような庭でも見苦しくないようにしておくのは大変な重労働なのだと気づく。
雑草抜きだけではない。花木の水遣り、防虫、剪定…いろいろな作業がある。
私達にそれらを引き継がせるために、教える意味で手始めに今日、裏庭の掃除をやらせたのだろう。

母は「準備」を始めている。

しかしこの午後、母は抗がん剤を始めてから初めて食べ物を戻したらしい。
やはり午前中動きすぎたので疲れたのだろう。午後は寝室で休んでいた。

9月22日(火)
この日の早朝、母は前日出た裏庭の雑草ゴミの山をひとりでごみ集積所に出したという。
「明日は燃えるゴミの日だから出してね」と私に言っていたのに、朝は体調がいいので動きたくなってしまうらしい。
「サクラソウを植え替えたのよ。見て。」と言うので二人で裏庭に出ると
プランター7~8個に整然と植えられたサクラソウの苗があった。
「ね、これでまた一冬楽しめるわよ。」

サクラソウは寒さに強い。昨冬は母が種から育てた濃いピンク色のサクラソウが門から玄関までの小道を飾りとても華やかだった。
夏はほとんどがだめになってしまったが、一鉢だけ落ちた種がびっしり芽を出した。
それを7~8個の長いプランターに分けて植えたのだ。
きっと年が明ける頃開花が始まって4~5月くらいまで次から次へと咲くだろう。
(その花は絶対に自分で楽しんでね)と私は内心思う。

午後も母は調子が良さそうだったので、私は久しぶりに長女のY子と一緒に飼い犬のぽろりを連れて近くのドッグ・ランに出かけた。
私が留守にしている間に弟が子ども3人を連れ母の様子を見に来て、1時間くらいで帰ったそうだ。

夕方家に帰り、階下をのぞくと母が天ぷらを揚げている最中だった。
最近食欲が落ちている母は、夕食のメニューを考えるのも嫌になり父に何が食べたいか訊くと天ぷらが食べたいと言う。
自分は揚げ物などは受け付けないが、それでは、と父のために天ぷらを揚げていたのだ。

しかし油の匂いが鼻について全く食欲がなくなってしまい、自分用に作ったおにぎりも食べられなくなった。
自分の部屋に戻ってそのまま寝てしまったが夜中に少しお腹がすいて、残っている冷たい味噌汁をすすったそうだ。

母は自分の病気を知った頃、
「私は食事が美味しく食べられるからいいわ。食べられなくなったらお終いだものね。」と言っていた。
同年代の友達何人もが、ものが食べられなくなってどんどんやせ衰えていくのを見てきているのだ。
「食べられない」ということが母にとって痛み以上の苦しみなのだということを
私は想像もしていなかったが、翌日知ることになる。

いままでの経緯 (15)

2009年09月24日 02時14分57秒 | 日記
9月19日(土)
世間はこの日からの連休をシルバーウイークと呼んで浮かれているが私にとっては道路が混むことくらいしか関係ない。

朝、階下へ下りていつものように母に調子を訊くと
「ひとついいことがあった。」とにっこりしながら言う。
「呼吸が楽になったのよ。普通に息が吸える感じ」
「へぇ、良かったじゃない!」
と言いながら私は内心(そうかあれからずっと息苦しかったんだ、何も言わないから忘れてた)と冷や汗をかく気持ちだった。

「でもね、お通じが悪くて…すごく硬くなってて昨日は出なかったから食欲がなくて。」
便秘薬は今まで1日3回1錠ずつ飲んでいたが、薬局では一回2錠まで飲んでも大丈夫だから便通に合わせて量を調節するように言われていた。
「便秘は良くないから、2錠ずつに増やそうね」
と私は言い、一週間の薬ホルダーに便秘薬を1個ずつ追加していった。
ただでさえ多い薬がまた増えてしまった。

この日は以前から夫が父母を連れてカラオケに行く計画を立てていた。
父母と私たち夫婦で母の行きつけのカラオケボックスに行き、昼の12時半から2時間部屋をとる。
夫は演歌好きの両親に気をつかい、たまに家族で行くときには歌わない演歌を歌うので
私も両親にも聞き覚えのありそうな歌謡曲の懐メロばかり歌う。
夫が美川憲一の曲を歌うと、突然父が立って母をダンスに誘う。
狭い室内で手を取り合って踊るが、曲がまだ終らないのに母は倒れこむように椅子に座り、肩で息をしながら
「疲れちゃって踊りきれないわ。」と言う。

結局母は歌の方も途中で「今日はこれでいいわ」と切り上げて父や私たちが歌うのを聞いているが
「あれが聞きたいわ。『わたしのお墓の前で…』っていう歌。誰か歌って」と言う。
夫は「わからないよ」父は「あれは声量がなくちゃ」と逃げるので、しかたなく音痴で声量のない私が「千の風になって」を歌うが
母は「よかったわー」と喜んでくれた。そして「私もそうだからね。お墓の中になんかいないから。」と言う。

この日母は2時から歯医者の予約があってカラオケの帰りに送り、歯医者が終って携帯の連絡があると
迎えに行き、スーパーに行って買い物をした。

夕食後にインターフォンで呼ばれ下りていくと母がひどく疲れた様子で
「ご飯を食べたら腰が痛くなってきたんだけど痛み止め飲んだ方がいいかしら?」
「オキノーム?飲んだ方がいいわよ。」
オキノームはオキシコンチンを飲む時間までに痛みが出たら飲むように、処方されている鎮痛剤だ。
最近母の朝の顔と夜の顔の違いが顕著だと感じる。1日の疲れが出ているせいか夜は目が落ち窪んで眉間の皺が深くなっている。
腰の痛みは半日出歩いたせいだろうか。

オキノームを飲んだ後、母とお喋りしていると兄夫婦が来る。
父も部屋から出てきて5人で母の病状のことや父の検査のこと、10月に行く旅行などについて話し1時間くらいして帰る。

9月20日(日)
朝、母はいつもの朝と違って浮かない顔をしている。訊くと昨晩はお腹が張って満足に眠れなかったという。
便秘のせいで食欲も出ないと言い、お腹をさする。お腹を見ると、普段より丸く出っ張っているように見える。
「便秘薬増やしたのに効いてこないの?」と訊くとうん、まだ出ないと言う。
私の頭に「腹水」という単語がよぎった。ネットで読んだ末期がんの症状の中にあったと思う。

2階に戻ると急いでパソコンを立ち上げ、「腹水」と打ち込んで検索する。

「肝臓の病気の場合、腹水は肝臓や腸の表面から漏れ出てきます」
「大量にたまると腹部の膨張や不快感が生じます。腹部の膨張により、胃が圧迫されて食欲不振になったり、肺が圧迫されて息切れを起こしたりします。」

腹部の膨張、食欲不振、息切れ…母の症状と一致する。だんだん心配になって弟に電話を入れる。
「母親が昨夜便秘のせいでお腹が張って眠れなかったっていうんだけど」
「そうか…便秘薬をもう1種類出してもらうと良かったな。」
「今朝もそのせいで食欲がないって。あまり食べてないみたい。」
「うーん、もうきてるのか…」
弟は食欲がないのは抗がん剤の副作用だと思っているらしい。
「腹水なんじゃない?」
「腹水?」
弟はちょっと沈黙した後、腹水ももしかしたらあるかもしれないけど、まず浣腸を試してみるように。
もし腹水だったとしてもどうということはない、どうにもできないと言う。
そんなものなのか、と思って少しほっとする。こういう時相談できる医者が兄弟にいる、ということは本当にありがたい。
階下に下りて母にこのことを話し、「あとで私が浣腸買ってきておくから」と言うと
「ありがとう、お願いね」とすんなり受けるのが以外だった。
母は座薬も嫌いなので浣腸などもってのほかじゃないかと少し心配していたからだ。

この日は昼の12時半から市民会館で演歌の大御所のコンサートがあり、車で母の友達二人を途中で拾いながら母を送った。
車中で同年代の友達二人は母の病気を気遣いながらもコンサートへの期待感で目は輝き声もはしゃいでいたが、
母は調子が悪いせいもあって声のトーンは低く笑顔がなかった。
市民会館に着くと、開場を待っているのは老人ばかりだった。杖をついてやっと歩いているような人や車椅子に乗った人までいる。
母達を降ろし、コンサート終了の2時に迎えに来ると言って家に帰る。

2時に迎えに行くと友達二人のうち一人が入れ替わって来た時と別の女性が車に乗り込む。
「コンサートはどう?良かったですか?」と私が聞くと
皆口々に良かった、上手だったと嬉しそうに感想を述べる。母は「でも眠かった」と付け加える。
麻薬の副作用に加えて昨夜お腹が張って眠れなかったせいもあるのだろう。

入れ替わった女性は母やもう一人より少し若いように見えるが、帰る車の中で何度も繰り返し
「Iさん(母)はとても来れないって思っていたのに、来れて良かったわねぇ」と言うのが私はなにか気に障る。
癌で死にそうだとでも思っていたのか?
もう一人は、母が痛みの話をすると
「痛いのなんて私なんか毎日あっちもこっちもよ!この年になったらみんな痛いの!」
と乱暴な言い方をするが、こちらのほうがまだましだ。
どこで降ろせばよいか聞くと若い方が
「私はピンピンしてるからどこからでも歩いて行けるの。適当にとめやすい所でとめて。」とのたまう。
私は心の中で舌打ちするが母は全く気にしていないようだ。

家に帰ると母はすぐベッドに横になりそのまま夕方まで眠ってしまったようだ。
私はその間に買い物に行き、5本入りの浣腸を買ってきた。