「10月18日(土)
相変わらず食事がのどを通らない。
10月19日(日)
カーテンが出来てきた。新しいときれい。
10月20日(月) (註・18~20日 曜日が誤ってずれている)
主人も悪いところなしで良かった(註・父は腹部超音波検査でも異常なしだった)
10月21日(水)
今日も朝から食事がとれないのでおかゆを飲みこむ
昼、主人と20分位散歩したがつかれた
安定剤をのんで休み夜はT也が来てくれた
薬をのんだ後にお腹がいたくなってオキノームを飲む
しばらくぶりで痛みが出た。歩いたせいかとも思う
10月22日(木)
今日はインフルエンザの予防注射に行って来た
食事はつばが出ないので飲みこみにくく、食欲もない。早く食欲が出てほしい。
10:30頃オキノームを飲む 痛みはとまった。
10月23日(金)
今日は病院にてCTを撮り結果を聞く日でした
結果は良くありませんでした
でも誰でもいつまで生きていられるわけでなし、いつかは死を迎える
遅いか早いかの違いだ
これから苦しいこと、いやな事、みんな抜かし楽しい事だけに頑張っていけば良い。
10月24日(土)
抗癌剤をやめる事になって1日目 痛みは午前中に来た。
皆、良くしてくれて嬉しい 1日でも長く生きていたいけど痛いのはいやだ
S子も本当によくやってくれるのでうれしい。
T也もN也も心配してくれ申し訳ない。
朝食、昼食も少したべられた。」
母は抗癌剤の副作用に苦しんでいたが、もともとの癌についてはまだ楽観視していた。
痛み以外のすべての症状―食欲不振、吐き気、だるさ、息苦しさなどを抗癌剤とその他の薬のせいと決め付け、
癌自体は自分のような歳ではそう早く進行するものではない、と信じていた。
10月23日はそんな母の見当違いがいっきに崩れた日だった。
この日、癌の様子を見るために撮ったCT映像は癌の急速な進行を如実に示すものだった。
私自身もこの時の衝撃は忘れられない。
インターネットなどで膵臓癌の情報を集めていたので、私は母のように楽観的ではないつもりだったが
やはり心のどこかで母に限ってそんなに早くどうかなってしまったりしない、と思いたい気持ちがあったと思う。
しかし現実は残酷だった。担当の女医は母の余命を「11月内かもしれない」と、私に告げた。
そして母自身に良くないことを知らせる了承を得て、
余命こそ言わなかったもののCT映像を見せながら、抗癌剤は効かなかったので中止することを説明した。
そのときの母の固まった表情を思い出すと胸がつぶれるように悲しい。
母は後にこの告知のことについて
「あの先生はずいぶんきついことを言うのね。
もう手の施しようがないようなこと、誰にでも言うのかしら。
きっと、医者の母親だから受け止められるだろうって思ったのね。」
と話していた。
いや、母は知らないが先生は事前に私と弟のT也に相談したのだ。
私は答えられなかったが弟が「本人に聞きたいかどうかを訊いて下さい」と言った。
そしてその後診察室で先生に訊かれ、母が「聞きたいです」と答えたのだ。
しかし、きっと先生の「良くない話」は母にとって予想を上回るものだったのだろう。
弟は告別式のとき、母の二つ上の姉に
「どうして治らない病気のことを本人に告げるの?残酷だと思うわ。」と責められ
「今はほとんどの病院でそうしている」と叔母たちに説明していた。
葬儀の後、私が
「そもそもT也が告知したわけじゃないのに。腸の検査結果を聞きにひとりでH病院に行ったときに
あっさり『膵臓に腫瘍があります、肝臓に転移してます』って言われたんじゃない。」
と弟に言うと
「うん、僕だったらいきなり本人に告知はしない。まず家族に話して相談すると思う。
でも母親はあいまいな説明では納得するような性格じゃなかったから、結果的には最初から告知して正解だったかもしれない。」と話し、
私もそう言われると確かにそのとおりだと思った。
告知されていても母は自分の辛い症状に「どうして?何故?」と常に問いかけて納得できる理由を探していたのに
告知されていなかったらとても受け入れられたものではない。パニックに陥るに違いない。
この日から母は「医者に見離された」と理解して半分死が近いことを覚悟し、もう半分でK療法という民間療法に一縷の望みをかける。
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相変わらず食事がのどを通らない。
10月19日(日)
カーテンが出来てきた。新しいときれい。
10月20日(月) (註・18~20日 曜日が誤ってずれている)
主人も悪いところなしで良かった(註・父は腹部超音波検査でも異常なしだった)
10月21日(水)
今日も朝から食事がとれないのでおかゆを飲みこむ
昼、主人と20分位散歩したがつかれた
安定剤をのんで休み夜はT也が来てくれた
薬をのんだ後にお腹がいたくなってオキノームを飲む
しばらくぶりで痛みが出た。歩いたせいかとも思う
10月22日(木)
今日はインフルエンザの予防注射に行って来た
食事はつばが出ないので飲みこみにくく、食欲もない。早く食欲が出てほしい。
10:30頃オキノームを飲む 痛みはとまった。
10月23日(金)
今日は病院にてCTを撮り結果を聞く日でした
結果は良くありませんでした
でも誰でもいつまで生きていられるわけでなし、いつかは死を迎える
遅いか早いかの違いだ
これから苦しいこと、いやな事、みんな抜かし楽しい事だけに頑張っていけば良い。
10月24日(土)
抗癌剤をやめる事になって1日目 痛みは午前中に来た。
皆、良くしてくれて嬉しい 1日でも長く生きていたいけど痛いのはいやだ
S子も本当によくやってくれるのでうれしい。
T也もN也も心配してくれ申し訳ない。
朝食、昼食も少したべられた。」
母は抗癌剤の副作用に苦しんでいたが、もともとの癌についてはまだ楽観視していた。
痛み以外のすべての症状―食欲不振、吐き気、だるさ、息苦しさなどを抗癌剤とその他の薬のせいと決め付け、
癌自体は自分のような歳ではそう早く進行するものではない、と信じていた。
10月23日はそんな母の見当違いがいっきに崩れた日だった。
この日、癌の様子を見るために撮ったCT映像は癌の急速な進行を如実に示すものだった。
私自身もこの時の衝撃は忘れられない。
インターネットなどで膵臓癌の情報を集めていたので、私は母のように楽観的ではないつもりだったが
やはり心のどこかで母に限ってそんなに早くどうかなってしまったりしない、と思いたい気持ちがあったと思う。
しかし現実は残酷だった。担当の女医は母の余命を「11月内かもしれない」と、私に告げた。
そして母自身に良くないことを知らせる了承を得て、
余命こそ言わなかったもののCT映像を見せながら、抗癌剤は効かなかったので中止することを説明した。
そのときの母の固まった表情を思い出すと胸がつぶれるように悲しい。
母は後にこの告知のことについて
「あの先生はずいぶんきついことを言うのね。
もう手の施しようがないようなこと、誰にでも言うのかしら。
きっと、医者の母親だから受け止められるだろうって思ったのね。」
と話していた。
いや、母は知らないが先生は事前に私と弟のT也に相談したのだ。
私は答えられなかったが弟が「本人に聞きたいかどうかを訊いて下さい」と言った。
そしてその後診察室で先生に訊かれ、母が「聞きたいです」と答えたのだ。
しかし、きっと先生の「良くない話」は母にとって予想を上回るものだったのだろう。
弟は告別式のとき、母の二つ上の姉に
「どうして治らない病気のことを本人に告げるの?残酷だと思うわ。」と責められ
「今はほとんどの病院でそうしている」と叔母たちに説明していた。
葬儀の後、私が
「そもそもT也が告知したわけじゃないのに。腸の検査結果を聞きにひとりでH病院に行ったときに
あっさり『膵臓に腫瘍があります、肝臓に転移してます』って言われたんじゃない。」
と弟に言うと
「うん、僕だったらいきなり本人に告知はしない。まず家族に話して相談すると思う。
でも母親はあいまいな説明では納得するような性格じゃなかったから、結果的には最初から告知して正解だったかもしれない。」と話し、
私もそう言われると確かにそのとおりだと思った。
告知されていても母は自分の辛い症状に「どうして?何故?」と常に問いかけて納得できる理由を探していたのに
告知されていなかったらとても受け入れられたものではない。パニックに陥るに違いない。
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いつも応援ありがとうございます
私のブログへのコメント、ありがとうございました。
お陰様で、本日は抗がん剤、無事に終了しました。詳しくはブログにアップしてますので、よろしければ是非!
りりぃさんの記事を読んで、胸が熱くなりました。私もこの頃、りりぃさんのブログをリアルタイムで拝見していたからです。
いつも「頑張って!」と心で叫びながら拝見していました。
今は、お母様のお立場からの日記、大変参考になります。
りりぃさんは、さぞかしお辛いでしょうが、現在この憎き膵臓癌と闘う私達のために、どうかご無理のない範囲での更新を宜しくお願いします。
何時も温かいコメント、有難うございます。
私は”膵臓癌のブログ”を数々・拝見させて頂きましたが、コメントを入れさせて頂いたのは、りりぃ。さんのブログが始めてでした。
(いまだに、りりぃ。さんと、ミケさんだけですが・・・)
コメントを入れさせて頂いた事がきっかけで、急速にりりぃ。さんのブログに、身内意識の様な親近感が湧いていました。
そして、ミケさんと同じくリアルタイムでブログを拝見させて頂いていたので、暫く更新が無かった時には、本当に心配でした。
祈るような気持ちで、一日に何度もブログを訪問させて頂きました。
そして悲しいお知らせを目にした時は、とても信じられない気持ちで我が目を疑いました。
嘘であって欲しい!・・・何度もそう思いました。
その事を知った時は人前だったので、トイレに行き泣きました。
お母様の書いたままの言葉をこうして拝見させて頂くと、言葉少なく書かれた中にお母様の辛さや苦しさ・希望や絶望感が伝わってくるよで、やりきれない気持ちでいっぱいです。
そして、この日記を書かれている時のお気持ち・さぞかしお辛い事とお察しします。
お辛い気持ちを抱えながらも、お母様の日記をこうしてブログで更新・公開して下さって本当に有難うございます。
どうぞご無理されないように、ご慈愛して下さいね。
りりぃさんはもう普段は、とても明るく元気に過ごされていらっしゃるのですね。
なによりでほんとうに良かったです。
でも、ここの日記に垣間見るように、やっぱり心の中は風が抜けるような淋しさなのだろうとお察しいたします。
りりぃさんのご様子に、この先の自分を重ねて考えたりしてしまいます。
お母様の日記、みぃさんもおっしゃっているように、お母様のその時々の必死のお気持ちが伝わってきます。
今、私の母もこういう状態なので、可哀想で子どものように抱きしめてあげたくなります。
母は昔の話をよくします。
麻薬の副作用でテンションが高かったり、おかしなことをいいますが、
ときどき宝物のような言葉がでてきます。
大切にとっておかなければなりません。
りりぃさんのお気持ちを察すると、言葉もありません。
貴重なお母様の日記を紹介してくださることに、ただただ感謝の気持ちで一杯です。
私も毎日緊張の連続で、精神力だけで何とか持ち堪えているような気がします。
身体中に悲しみが充満していて、どこか突くと涙が溢れ出そうです。
でも私が諦めたり投げ出したりしたら、全てが終わってしまいそうな気がして、何とか頑張れています。
心が折れそうになった時、りりぃさんやみぃーさんのブログや励ましの言葉で元気を取り戻しています。
本当にありがとうございます。
家族の皆さんは大変だったと思いますが 病院にずっといた母と比べて 自宅にいらっしゃるお母様のことを うらやましく思ってもいました。
丸山ワクチンなど他の治療法などのことも ココで知り ホントは母にもっとして上げられたことがあったんではないだろうか?そんな思いに駆られたこともありました。
残された父を思い 2度と同じ後悔や失敗をしないようにとも思ったのもこの頃でした。
この辛かった頃、ミケさんのようにブログに来て下さっているいる方々が
見えないところで心から応援していてくださったんだなぁ…と
改めて感謝の気持ちでいっぱいになりました。
ミケさんの張り詰めた毎日の状態、とてもわかります。
私はその頃母の前では努めて穏かな表情を作っていましたが
1人でいるときは自分が崩れてしまわないように険しい顔をして保っていたと思います。
でも、ブログの温かいコメントを読むと涙が出てすーっと肩の力が抜けたものです。
みぃさん
みぃさんもそれほどに私の母について
心配したり、亡くなったときには悲しんでいただいて本当にありがとうございます。
いろいろな闘病ブログを見ていると、中には闘病している本人の記事に対して
信じられないような暴言コメントが見られたりして寒気がしたこともありました。
拙ブログはコメント数は多くありませんがコメントしてくださる方が
本当に温かく真摯な方ばかりでどんなにか救われました。
emuさん
コメントありがとうございます!
emuさんのお母様はどうしていらっしゃるかといつも気になっていました。
emuさんのお名前を見て本当にうれしかったです。
私も小さくなってしまった母が可哀そうで抱きしめたい衝動に駆られたことがありました。
宝物のようなお言葉、ぜひ大切に刻んでおいてくださいね。
華さん
ずっと応援いただいてありがとうございます。
華さんの励まし、とても力になっていました。
今私も華さんと同じ気持ちで、親御さんが闘病中の皆さんを心の中で応援しています。
お互い、父親の健康には気をつけてうんと長生きしてもらいましょうね^^
またお邪魔してしまいました(^^)
私も拝見させて頂いていたブログの中で、酷い誹謗中傷を受けてブログが炎上されかけた方がいらっしゃいました。
その時は”ここは思い切って応援コメント”を・・・と考えましたが止めておきました。
仲裁に入るようなコメントを入れると余計に酷くなっていました。
見ていて何時・収集がつくのか心配になってしまいました。
私も訪問させて頂き始めた当初は正直「何?この人・・・」と思ってしまいましたが、読み進めていくうちに「ああ・この人はこう言う表現のされかたをしているけど、愛情が感じられる」と思うようになり、最後まで訪問を続けました。
自分でブログを立ち上げた今、本当に深く感じる事があります。
何時もりりぃ。さんや、ミケさんから頂くコメントはとても温かくて、そのコメントに励まされる事が沢山あります。
何気ない言葉の一つ一つが、とても有難く優しくて・・・
言葉って、こんなにも人を勇気付けたり励ましたりする力があるのだと、改めて気付く事が出来ました。
しかしその反対に、何気ない一言は人をいとも簡単に傷つけ暴力にもなるとても怖いものだとも。
私は本当に、りりぃ。さんのブログと出会えた事に感謝しています。
そしてこれからも宜しくお願いします。
りりぃ。さんが以前コメント下さった”ブログを宝物に”と仰ってくれましたが、私にとっては度々戴けるりりぃ。さんや、ミケさんからのコメントも大事な大事な宝物です。
大切にしていきます。
人の心って難しいですよね。
実を言うと 私自身若い頃は 友人知人などの親御さんが亡くなったと聞いても さして気にも留めない冷たい人間だった気がします。
それが 年をとるごとに お世話になった上司、悪友など少しずつ 自分に近い人が亡くなる度に 悲しみを理解できるようになって来ました。
正直 小さい頃から 親ともさして仲が良かったわけでなく たぶん 母が事故で突然亡くなっていたら こんなに辛い思いはしなかったと思っています。
神様は 親不孝な私に 日々少しずつ弱っていく母をみせて 自分の今までの親不孝を反省するとともに 恥じなさいと言ってる気がしました。残されたわずかな時間に できるだけの親孝行しなさいといわれている気がしました。
母の為に 私自身が こんなに涙するとは 自分でも思っていませんでした。
だから 酷いことを書き込む方々の 心の内は 少し理解できる気がします。ただ それをコメントとして書き込む心は 全く理解できませんが・・・・
私の周りでも 今回の母の病気のこと、そのために仕事ができず 店もとんでもないことになりましたが 暖かく見守って力を貸してくださる方もいましたし 私に 母の元へ行けといわんばかりのことをなさった方もいます。
今回 つくづく いろんな人がいるなぁとわかりましたし また 最後まで私を信じて支えてくださった方々に まずは恩返しする為に 私も頑張って生きなきゃ!と思いました。
私も10年前からブログ作ってますが 私事も含んで いろいろ書いてますので 母の闘病日記を分けてアップできた際には お知らせしますので 良かったら お立ち寄り下さい。
あ、コメント入れられないブログなんですけどね(笑
私はフルタイムで働いているので夜しかネットをみられません。
そして今は毎晩実家にいって、母のそばにいるため寝る前にちょこっとチェックする程度です。また、ときどき泊まって一緒に寝ているから、それもできない日が多いんです。
でもここに来ると、沢山の方が同じように闘っておられることを感じて勇気をもらえます。
コメントは減っても毎日寄せていただいていますので、よろしくお願いしますね(笑)
実は少し前までは日常のことを綴ったブログを書いていました。(今はずっとさぼっています 笑)
近くに住みながらなかなか母の顔も見に行けなかったりすると、母がそれを読んで私の近況を知って電話がかかってきたりしていました。
母の病気のことを記録しておくために、別ブログをひっそり立ち上げようかとも思いましたが、ますます時間がなくなること、また辛い病状に正面から向き合って整理するのは、今の自分には精神的にも却って落ち込みそうだと思ったから見合わせました。
みぃさんやミケさんのブログも寄せていただいて、心の拠り所とさせていただいています。
みなさん、これからもよろしくお願いします。
みぃさん
本当にネット上での言葉のやりとりは相手の顔が見えないだけに
本意が伝わらなくて誤解を生んだり、傷つけたりすることもあるので不安がありますね。
かといって慎重になりすぎると硬い文章になってしまうし^^;
口下手な私ですが今後ともよろしくお願いしますね。
華さん
お母様の死はとても悲しいことでしたが
そのことによって華さんはいろいろなことを勉強して成長されたのですね。
そして最後まで支えてくれる人達の存在は華さんにとってそれこそ宝ですよね。
華さん自身のお話を聞かせていただいてありがとうございます。私も力をもらった気がします。
闘病ブログをアップされた際には是非お知らせくださいね。
emuさん
お忙しいところを、2度もコメントいただいて恐縮です^^;
emuさんは境遇が似ていることもあって勝手に親しみを感じているので
お名前を見つけてついうれしくなってしまいました。
でも、もちろんemuさん自身の生活が一番大事ですから
コメントなど全く気にせずお時間のあるときにお寄りくださいね。
お母様の穏かな状態がずっと続きますように祈っています。