国家戦略室 (アンダーグラウンド)

日本本来の政治、統治、歴史についての研究

太古歴史から坐

2019年05月09日 | 太古史

殷と周の対立について、我々が知る資料は周に残されたものがほとんどで契丹古記のごときは偽書とみなされている。

偽書については日本でも竹内文書を筆頭に富士古文書や九鬼文書、ホマツタエなどが取り上げられることが多い。そのなかには津軽外三郡史などのようにほんとに偽書の度合いが高いと思われるものもある。

いずれも後代に書き写されたもので伝承の過程で様々な内容が付け加えられているようにも思える。

これらに出口王仁三郎聖師のフィルターをかけると、超古代史が嘘ではないのかもしれないと思えてくる。

出口王仁三郎師はなぜか太古歴史について詳細な年代を残していない。古事記についても高い評価をしながらも、「わやにされている」ので霊界物語を書いたとも言っている。

ただ、古事記の前半部分は霊界物語に引用されて言霊解釈されており、それらが言霊によって書かれていることから出口王仁三郎は古事記を否定しているのではないということが分かる。故に太古歴史を研鑽する上では古事記はやはり重要ではある。

また日本書紀に神武天皇のところで天孫降臨から179万年という年代を王仁三郎は肯定している。この途方もない年月を前提に古代史を読み解かなければならない。

また天孫降臨の意味についても様々な憶説が流布している。

出口王仁三郎の文献全体は、皇国史観に貫かれており、それは神武天皇に始まる皇国史観ではなく、超古代史を含めた皇国史観である。

つまり反天皇ではなく、他に天皇があるという説でもなく、本人が天皇だという意味でもない。

確かに自分の出自に皇室の血統があるようなことも言っているが、問題はそこではない。

出口王仁三郎は日本が本来持っていた皇室の歴史と皇道という信仰を明らかにしようとしていたのである。

現在伝わっている日本の神道は歴史の過程で歪められいて、一貫性がない。古事記編纂の時期にもそのことが憂慮されてようやく編纂されたのである。

当時は中国からの漢字文化の導入が盛んであり、仏教伝来と、その直には道教儒教が潜在的には伝わっていた様子がある。

4世紀から6世紀の間に怒涛のように入ってきた文化が我が国の文化に上書きされてしまった。

カタカナの発祥は、音声が腹に響く形からつくられたとのこと。漢字からではないというのが王仁三郎の見解。

カタカムナについては、戦時中に楢崎という研究者が研究していた。独特の解釈で、後継者の一人に会ったことがあるが、神仏をあまり信じない人であったので、結局遠ざかってしまった。カタカムナと出口王仁三郎の接点はいまのところ見出せない。しかし大変興味深い。

それはさておき、はるか昔の文化を怪しいオカルトの誤りを避けて研究していくのは至難である。

例えば竹内文書の説を読んでいると確かに荒唐無稽な内容もあるが、出口王仁三郎の説を思わせる部分もある。

霊界物語はあくまで霊界で見聞した内容であるため、正確に年代がしるされているわけではない。おおむね30万年前の話とも言われるし、戦前戦後の内容が含まれているとも言われる、あるいは先ほどの天孫降臨が179万年前であれば、それ以上前という事になる。

120通りの読み方ができるといわれている。

いまのところ想像できる範囲では世界は何度も大洪水や災害に見舞われて、太古に天皇中心の世界があったが、それが破壊されたという事である。しかも6回今度あれば7回目という事になる。

そして道院の考え方ではその原因は人心の荒廃が原因であるという。人心が乱れて一種の毒気が大気に充満し、それが天変地異を引き起こすもととなるのであるといい、それを消すのは道院の経典の読誦と座であるという。この二つによって、人が一種の浄化装置となり、その毒気を浄化するのだという。

道院の修方が日々修行するのは己のためだけでなく、世界のためであり、世界を救うにはまず己を浄化しなければ、善意のつもりで動いていても罪を増してしまうという。

大本でも祝詞や祈りをささげる。だがこれが悪しき心ももちで唱えてもただ周囲を穢す結果になってしまうという。

思うに道院と大本は一体であるという。出口王仁三郎がいる時には度院は大本であり大本は道院というところまで言われていた。

両方の祭式や修行法をどのように取り込むかあるいはとりこまないかはしらないが、誦と座は大本信徒としても学ぶべき必須のことであると思われる。おそらく、茶や武道よりも優先して行うべきであろうと思われる。

一時期教主の考えにより、道院は距離を置かれていたように思われる。笹目という仙人のような道院のリーダーがおおもとの三代教主に座を勧めたらしいが、むしろ坐禅の方を選んだような話もうそかほんとか聞いたことがある。

私は出発が仏教であっただけに個人的に短い期間であったが座禅をやったことがあるが、道院から見ると座禅は人為的な方法で好転の坐法といわれている、道院の坐法は先天の坐法といわれ格段に優れているといわれている。これを読んだかは何かの縁があるのかもしれないのであるから、ぜひ求修して、坐と誦だけでも学んでほしい。それと並行して祝詞や祈りを用いればまた効果百倍であろう。

祝詞にしろ、坐にしろ、読誦にしろやり慣れていないと苦痛に感じるかもしないし、いろいろなものと比較したり、自慢したり、軽視したりという感情がわいてくる。だが、あきらめずにやっていると、え?いいんじゃないと気づいていくる。

坐は仏教の禅のアグラよりも楽だ。仏教の禅の脚の組み方は成長期にやると脚が曲がってしまうことがあるので注意したほうがいい。













コメントを投稿