国民が天皇陛下を国の中心と見定める必要がある。
陛下は普通の王ではない。
国民が主として認めてはじめて上下一致のマツリゴトが行われる。
いまはまだ和光同塵。国民が憲法を重視し、陛下にこれに従うよう望み、陛下もそれに従っている。
成立の経緯は米軍によるものだが、曲がりなりにも大半の国民と陛下がこれをみとめ、これに従って国が成っている。
陛下は天立であり、本来は憲法を変える権限も神より見ればあるが、国民はそのことを知らずに憲法により陛下の権限を制限したつもりでいる。
陛下は民の意志としてこれをみとめ国憲として承認され、今日運用されている。
これを和光同塵と解する。
政治の混乱は実は「民主」に始まる。
民主の語自体が背理・矛盾を含んでいて、民が主であるはずがない。民は本ではあっても主ではない。主はあくまで君の属性であり、主であるがゆえに君と呼ばれる。主でない君というのは君ではない。また主である民というのもおかしな話で、民は統治の客体であるがゆえに民という。統治の主体は民ではない。
君の定義は統治の主体であり、民の定義は統治の客体である。
ゆえに言語本来の意味からしても君主が民を統治するというのが自然本来の姿であり、それを捻じ曲げて民主主義などを作り出してしまったためにさまざまな矛盾が生じてきた。
ゆがんだ思想、ごまかしの論理からはごまかしの支配者が現れる。民主主義でありながら独裁者が現れるなどもその典型であろう。
欧米のデモクラシーとも違う。デモクラシーは民衆政治である。民「主」と訳せば、民の語源は目を突かれて盲目になった奴隷である「民」が「主」となることを意味する。
君主の統治が批判されたのは、欧米の道を踏み外した君主の出現で、民、将軍が悪君主を成敗して主となったために、民衆政治による論理を構築せざるをえなかったのだ。
今日この論理が世界中でまことしやかにまかり通っている現実は22世紀には過去の政治的迷信が世界を覆ったとして、われわれが過去の宗教の信仰を軽んじると同様に無知のしからしむるものとして小学校で教えられるだろう。
われわれは無知のゆえにどういう政治形態が理想かを知らず、古式を捨て、外国学者の意見に従って政治形態を運営している。
伊藤博文が留学した先でなんといわれたか。憲法はあるべきか・・・。
「わが国の文化に根ざすものでなくてはならない。」
ところが今の憲法はアメリカの思想の不完全な焼き直しに過ぎない。
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