国家戦略室 (アンダーグラウンド)

日本本来の政治、統治、歴史についての研究

核兵器の使用について

2022年04月10日 | 考察

ウクライナとロシアの戦争のからみで、国民の国防への意識が高まり、核兵器使用の議論が高まっている。

核兵器の使用に関しては我が国では絶対禁止すべきであり行うべきではない。しかしながら我が国の国防は米国の傘下にあり、米国の意向に合わせないと守ってもらえないというのが率直なところであろう。

この時米国がつくった第九条をたてに核兵器の使用について議論することになるが、バイデンのいうようにアメリカが日本に対して核兵器が使用できないようにしているということが前提としてあるならば、とりあえずは日本での核兵器開発、日本自衛隊による使用はできない。

しかし核の持ち込みや運搬協力は要請があるかもしれない。

日本は本来ロシアとアメリカを仲裁する使命がある。今回の戦争はアメリカがNATOにウクライナを参加させることでロシアののど元に刃物を突き付けようとしたところからはじまっている。ロシアの戦争の仕方というのはこれまで見てきたとおり、ルールに従って粛々と行うようなものではない。また戦争というものは末端まで軍規が整然と整っているかというと、そんなものはまずない。民にとってはいずれも敵は虐殺行為をしているに過ぎない。

 

 


高齢者は顕齋をできなければせめて幽齋を。

2019年11月28日 | 考察

生産性でばかり論じるが、高齢者が毎日祈り、神咒を唱え、座を行えば、災害も減ずるだろう。そのような世代を支えることは、若者のためにもなる。

社会の価値観を原初にもどし、かような人々を支えることで、自分達も潤い、進化することが、感じられるような教育を行うとよいだろう。

神を信じる気持ちを失ってはならず、それが、人類全体に秩序をもたらす。


韓国の仁

2019年09月24日 | 考察

 普天の教えによれば、実は日本は韓国の仁にだけはかなわない。いま日本には仁愛が足りない。AIで元号にあがったのが、「仁愛」だったという。日本に勝ちたいと思うのであれば、仁をどのようにいかすか。考えてみては?


神政復古

2016年09月25日 | 考察

論点を整理する。

現代の日本人には受け入れがたいこと。

①神々が実在するということ。神々の中にヒエラルキーがあり、皇室の祖先が日本統治の神であること。

神には見えない神と人間の形を持って存在する神が存在するということ。

神には善神と悪神が存在するということ。

人間の姿をした神は、人間との区別がつきにくいこと。(ナガスネヒコは最後まで認めなかった。)

天皇は神の直系であるということ。

②祭政一致が正しいということ。天皇親政が正しいということ。天立君主立憲がただしいということ。

③民主という言い方は君主を裏返した、虚構論理であり、多数の民をそのままでは意見が分裂してしまうから、多数決と代表制、議会などで一つの意見を選びだしてそれを国民の意見として通す方法を民主主義とみなした。

もし複数の君主がいる場合、彼らが議論して一つの意見を出しても君主制とは言わない。主は一人であり、民は複数であるため主になり得ない。なり得ないものをなるとみなして擬制したのであるから当然矛盾が起きる。

こうみると決定的な理解の違いは「神」を認めるかどうかということになってくる。

これは難しい。日本の神は、キリスト教の神と違い、むしろギリシャの神に近い。

キリスト教でいう天使も含んでおり、ゆえに堕天使もある。

出口王仁三郎は見えたというが、一般的には見えない。

宇宙がその姿とすれば、宇宙の精神であり、地球が姿とすれば、地球にある魂ということであろうか。

人間的な思考を持ちつつも、それを越える思惟がある。

天皇はシャーマンとして活動することでで、国政を総攬する。神の意思を伝える。本来は。

しかし日本書紀などを見ると、天皇も悩んでいることがあり、あの崇神天皇でさえ、神の意思を夢で問うている。

すなわち、神と天皇とに距離がある。天皇は神と民をつなぐ祭司長であろう。

 

故に天皇が退位を表明すれば、大臣国民がそれを許さないというのは本来ならば天則違反である。

天皇が政治的意思を表明しない、表明してはならないというのは憲法の檻であり、国民は神を信ずることができず、欧米の民主主義という虚構論理で国が運営できると信じて、天皇を政治から引き離して象徴にしている。

神はいままでこれを許容してきた。天皇は人間の側に立って国民との協調に配慮してきた。国民が決めたことを守り、また神への祭祀も行ってきた。

これは無理強いでは、国民と神と天皇との一体化は生まれないからである。

自然のうちに化するという方法でなければ、国民が心服し、自然のうちに悟るようにならなければ、上下そろわず、神政はうまくゆかないからであろう。

まず、我々は神への信仰を取り戻すべきだろう。

団塊の世代は神を否定した者が多く、若者はその世代に育てられた。そしてその次の世代は全く神を知らない。すべてでないにしても。

天皇とは統治者という意味である。統治者は政治にかかわらず、統治される国民が統治者であるというのは全く理屈になっていない。それが日本国憲法の正体である。

占領軍は天皇制が問題だと考えて、天皇の権威を制限する憲法を作った。そこで育った国民は天皇制の意味が分からなくなった。

遡れば明治憲法の誤りは、天皇制を強化したことでなく、天皇に制限を設けたことである。

世間一般の戦前の憲法解釈が逆なのだ。これに気づかねば改憲は失敗する。

天皇の意思が通るような憲法の構造であれば、天皇親政が原則であり、議会も政府も軍も天皇直轄であり、立憲君主でなく、君主立憲であれば、統制が取れ、ロシアとの戦争も、中国との戦争も起きなかった。

元帥らの良かれと思う行動が、陛下の意思を歪め遮った。

議会と軍部が対立したのは、陛下が号令をかけるシステムができていなかったからであろうが、

その遠因となったのは天皇制の根幹である国教が崩壊して、神道内部で祭神論争などがおき、国政を安定させることができなかったからである。

天皇家が縦の糸とすれば、横糸は国教樹立し、それを教育し、習慣を確立すべく、国民を育ててゆかねばならないが、そのような人材が明治初頭にはいなかった。

私は出口王仁三郎が、天皇家を縦糸とし、王仁三郎自らを通して広がる世界観を横糸として、両方が絡み合って行動が実現すると考えていたとみている。

つまり出口王仁三郎の言う皇道とは、天皇家を証する本来の神道だったのである。

だのに政府官憲は、天皇を僭称する存在として勘違いして大弾圧を行ったのである。

 

 

 


憲法改正1

2016年07月11日 | 考察

憲法改正が現実味を帯びてきた。

植民地憲法からの脱却は自民党古老の悲願であり、彼らが生きているうちにやらないと、日本は永久にこの憲法のくびきから脱却することができなくなってしまう。・・そう思っている人は少なからずいるのではないだろうか。

多くの人は自衛隊の問題や武装の問題に気を取られているが、実際問題は前文の部分から始まっており、天皇の地位についての記載は極めて大きな問題である。

自民党が見識をもってこれを変えられるかどうかが、日本んが再生できるかどうかのカギとなる。

現在の憲法は君主主義に民主主義をつないだようなものである。この点が全体に奇妙なひずみを生み出している。

率直に天皇親政、神が天皇を民のために立て、臣は天皇を補佐するとかければ一文で済むところを、奇妙な小細工をしなければならなくなっている。これはすぐには変えられないだろう。

だが今回の改正でおそらく、憲法の改正方法をもっと簡略化して、漸次改正してゆくようにするだろう。

それを誰がやるかということである。左翼憲法学者には絶対できない。かと言って日本の歴史を熟知した憲法学者は皆無に等しい。

 

 

 

 

 


不謬性について

2016年04月13日 | 考察

天皇に絶対服従をする場合天皇陛下は間違いを犯さないか。

この点が問題となる。

バハイ教ではこれを不謬性と称して語られているところがある。

教祖に間違いがないのか。バハオラはないらしい。

利己主義は従うものの防衛本能であり、主に裏切られた下僕の反省から生まれたものといえなくもない。

リストラを経験すると、会社への忠誠心などなくなり、自分と自分の家族をより重視するようになる。

そう考えれば一概に利己主義を責めることもできない。

リーダーが間違っている時は諌めるべき、あるいはリーダーの意に反してでも自分が忠と思うところを貫くべきというところから、陸軍の中国での勝手な行動が始まった。

また、曲がりになりにも天皇陛下のもとで一丸となって戦争に突入した反省から、国民は天皇にからむ教義をすてさり、競って欧米の民主主義をありがたく、むさぼるようにして吸い尽くしていった。

先の天皇機関説の問題だけでなく、陛下が積極的に親政されなかったこと、立憲君主の立場を貫かれたことに対しては、家臣からも不満が記録されている。

また総理として東條英機を推挙したのは内大臣木戸であったが、それを肯定したのは天皇陛下である。石原莞爾については2.26事件が起こった際どんな人物か理解していないようなところもあった。

昭和天皇は明治のころのような人物が自分の周りにいないことを嘆かれていたが、あの時代に出口王仁三郎たちがいた。皇后は大本を知っていたという。にもかかわらず大本の大弾圧を黙認されていた。つまり、人物は在野にいたが、天皇の側近にいなかぅたというだけなのではないだろうか。

陛下が出口王仁三郎を知って居たという記録はない。しかし当時出口王仁三郎は社会現象であり、皇后がご存知であったとすれば耳に入らぬはずはない。

陛下をおまもりしようとして皆神山に秘密の宮殿が作られていた。この案は出口王仁三郎から出たという説もある。

しかし、陛下はここに移るのを嫌がった。

陛下と出口王仁三郎には考え方に差があったように思われる。陛下は一宗教家である出口王仁三郎に対してどうこうすることもいうこともできなかったのかもしれない。

歴史上、天皇が神に従わなかったために亡くなった記録がある。神功皇后の夫で仲哀天皇である。

この天皇の時にはいまだ神がかりの術があり、皇后に神がかかって

西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託があった。

しかし、仲哀天皇は、これを信じなかったため翌年急に崩じてしまったという。

つまり天皇が100%正しいとはいえないということになる。

今日の常識からいえば、隣の国を神があげるといって、信じられないのはふつうであろう。

神がかりで隣の国を奪い取るなどとんでもない話ということになる。

しかしながら、かつてアジアが日本であるという太古史が事実であり、神の存在が事実であれば、筋はとおる。

国境なき時代アジア全体を太陽の一族が神の命令で支配していたという説を信じる者にとっては

新羅は侵入者であり、当時日本国内の部族と通じて国を奪おうとしていたのである。

攻める理由はあった。

また神道を祭る皇室の者が仏教に傾くことは多かった。天皇は迷われ、仏教の導入拒否をためらったところから蘇我氏の専横、支配が広がり、朝廷は混乱した。天皇が断固として神道を守ろうとすれば、皇室が一丸となって神道を支えれば、物部氏が負けることなどなかった。

出口王仁三郎は皇道説をとり、天皇機関説に反対し君主立憲を主張した。ところが周辺資料によれば天皇陛下ご自身はこの議論を嫌われ、天皇陛下は開戦時も戦中も立憲君主たることを貫き通された。天皇陛下ご自身が天皇機関説に傾き、憲法内での天皇のお立場を守られた。

秩父宮様はこれに対して非常時にあっては天皇親政を主張されたが、昭和天皇はこれをとられなかったらしいという、話もある。

出口王仁三郎はわかりやすく、天皇陛下の独裁でいいと言い残している。

現代の視点から見れば出口王仁三郎は狂気である。天皇陛下の意見が常識である。陛下は明治天皇を尊重し、英国に倣って立憲君主を固持したのである。

また陛下の見識ではここで反対すれば内乱が起き、結局は大戦が起きるであろうというよみであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


3、ニーチェと仏教。因果論の否定

2016年03月09日 | 考察

 ニーチェを読むうちに原始仏教を理解するいくつかのヒントがあった。

 特に因果論の否定は大きい。

 え?因果律を否定するの?というと驚く方も多いだろう。

 種があって実がなる。そこから「結果」という漢字・概念が存在し、その種子を原因と称する。

 因は物事の成り立ちが依って立っているところを示している。

 これがあるのはかれがあったから、それを更にさかのぼってもともとは・・という意味で原を付ける。

 ところが原因と呼ばれるものにもさらに原因がある。そうするとさっき言った原因は本当の原因ではない。

 そういうのを因果の連鎖という人もいるが、特定の事象を原因といい、そこから生じた事象を結果といいなれてしまうと、根本原因、最終結果とでもいうものが存在しないことがわかる。

 苦しみがあるのは、私がこの世に存在するからだともいえるし、世の中が悪いせいかもしれない。世の中を悪くしているのは政治家かもしれないし、権力者かもしれない。

 生まれ変わりがあるとして、前世の因縁かもしれない・・・と考えたのが仏教と土着宗教の結合の始まりだった。

 この世あの世をわたっての因果応報というのはもとは仏教の思想ではない。仏教はむしろこうした因果応報の輪廻のしがらみから自由になる解脱の道を示そうとしていた。

 初期の仏典には釈迦が生まれる前や、死後のことを説こうとしたのではないということが示されている。

 それは無記といわれ、死後どうなるか、生まれる前はどうなったかなどとの質問には釈迦はあえて答えず沈黙したという。

 あんまりしつこくいってくる弟子には、「語られぬものは語られぬままに受け取れ、それは修行に役立たぬ」と説教したのである。

 つまり釈迦の思想は生まれ変わりを論ずるものではなく、、生老病死という人間が直面する現実からどうやったら逃れられるかということだった。

 釈迦が再発見した縁起は、12の縁起としてまとめられた、これには大きく二つの解釈法がある。

  A群は輪廻転生説から説明しているもの。これは当時のインドにある輪廻転生によって説明したのもの。

 B群は認識が存在しなければ名(概念)も色(目に映る景色、色相)も、記憶も苦しみも何もなりたたない、あるとかないとかいえないという、認識論的な発想だった。

 B群が本来の形に近いと考える。

 我々が触っている物体は我々の感覚と認識という脳の働きを通して物体と認識される。生老病死の苦しみも、記憶や、将来の不安、実際に肉体の衰えから来る痛み、苦しみなどを認識することから生じてくる。だが深い睡眠にみられるように意識が途絶えている時は、それらがあるとかないとかいうことはわからない。他人が見てあっても本人にはあるともないともいえない。どんな苦しみも認識を遮断すれば存在という基盤を失う。

 ここから誤った解釈が一つある。仏教は瞑想と教団の環境を整えるために厳しい戒律を設けていた。そのため、感覚や意念を遮断することが修行の重要な道理と考えてしまった人がいたようである。

 欲望から様々な手段を講じて離れることは説いているが、すべてに対する心意思の作用を停止させるのが仏教の教えではない。これは、経にもそういう問答の書いてあるものがある。

 心を鎮静させる修行方法(定)も取り入れてはいるが、それが本旨ではない。

 認識の消滅は絶えず起こっており、これを観察してゆくのが縁起生滅観である。初期の仏教はこれを智慧として、最重要視している。

 戒、定、慧とあるが戒、定、は正しい慧を獲得するための前提であった。

 後世、四諦説は苦しみと苦しみのもとと、苦しみの消滅と八つの正しい道と整理されている。

 しかし古い経典によっては、苦しみと苦しみが生じる縁起の道跡をみつめ、苦しみの滅状態と苦しみが縁によって滅する道跡を見つめるという翻訳表現をとっているものがある。これは四相縁起と言われているがこの四相縁起の説明が、八正道説や、医者の例えとごっちゃになって四諦説が成立したと私は考える。

 苦しみが滅するというのは痛みが消えるというような実際の治癒のプロセスではなく、たとえば自分の死への恐怖がない時のこと、死を想像していない瞬間のことである。

 死が自分に恐怖を与えるのは、私が死を認識しているときだけである。

 これから洗濯をしなくちゃなどと別のことに集中すると死も死の恐怖も消えている瞬間がある。禅の考案などは、これを気づかせるためのものと推察する。思考が恐怖に力を与えているということをありのままに覚知するというのでもあろうか。

 夢中になれる趣味に没頭していると時間さえ忘れることがある。これは時間認識も思考との縁で生じていることが分かる。

 少なくとも死等についての認識もその瞬間だけはなくなっている。

 結局考えていないことをあとから気づくというところから始まるのだが、そういう関係性に気づいてゆくと、死の恐怖から一歩退いて物事を見る感覚が生まれてくる。

 心頭滅却すれば火もまたすずしとは言うが、火が涼しいと感じるようでは日常生活がこまる。やけどしてしまう。火は熱い、時には危険と感じながらも冷静さを保っていくというのが目標であるような気がする。

 人の記憶が恐怖に連続性を与えてしまう。

 古い仏典の中で語られている釈迦の伝記がある。釈迦が人の居ない森林で瞑想をしていると獣の声が聞こえてきたという。最初のうちはそれが怖くて心が乱れたが、もともと、命を投げ出す覚悟で出家したのに、自分は何考えてんだとばかり反省してみると、実際には獣は襲ってこないので不安が心を乱していることに気づき、命を投げ出し来るままに任せようという気になった時に心が落ち着いたという体験談が書いてあった。

 はじめて読んだ時は、まあそうなんだけど、そう思っても不安なのが普通人で、それで克服できちゃうのが超人仏陀なんだよなあ。と思った。

 しかし釈迦の原初の説教と比べて考えると、釈迦はたとえばなしで大事なことを示していたことがわかる。

 それは、現実に襲ってきたわけでない獣への恐怖は心が作り出すいわば幻影に恐れおののいているのである。

 われわれは生きる上で、また死や病を前にして、必要以上に自分の心を恐怖で煽り立て、心を乱している。

 このことに気づくということが一番大事で、物事に対する想像や記憶が感情を膨らまそうと自分を襲ってきたときに記憶や感情が認識でなり立っていることを強く意識する。

 認識しなければカゲロウのように何もこちらをかく乱することはできない。

 だがこれは危険を予測しないということではない。リスクを承知で出家してきた釈迦が死を恐れるなど何事かということだ。

 これを一つ一つ考えていってみる。確かに耐え難い疼痛のようのものは存在する。

 しかしいわゆる阿羅漢と言った人々は苦痛を受けても一種の精神的な観法でで苦痛をやわらげることができたらしい。

 古い仏教典では「第一の矢は受けても第二の矢は受けない」という表現が使われている。

 つまり神経刺激は、それをきっかけにして生じる思い、解釈によって疼痛が耐え難いものになるというのだ。

 ニーチェも似たようなことを言っている。個体の侵害という解釈によって苦痛の程度が左右される。死という「とるにたらぬ生理的変化」と書いている。

 ニーチェによれば、物質というものは存在しない。それは「我」という概念が投影されたものであるという。

 けっこう誤解されているがニーチェは唯物論者ではない。物質すらないといっている。釈迦が違うのは釈迦は感覚を離れて「物質(自体)」があるともないとも言わないという事である。

 諸行無常の諸行も、物が変化すると翻訳するのは間違いである。色とは、物ではない。より正確には、白黒を含めた色である。しかも変化というのは、すでに比較による思考の解釈が、混入している。

 分かりにくい表現で申し訳ないがこの点についてはミリンダ王の問いという書物にナーガセーナとミリンダ王との問答の中に似たような質疑応答がある。

 私というものが存在するのではなく、もろもろの属性の総称をわたしというだけ。

 色受想行識つまり色は目に見える部分、受は感受、想は想念、行識は、意識の総称に過ぎず、当時支配的であったアートマンの理論を否定したのである。

 これがいわゆる仏教の玉ねぎ論であり、剥いていけば人間は核がなく、個体の存続があるわけでなく、流れるようにそれらが生じては消えているだけで、ただそれらには関係性があり、意識がなければ事象の認識はできないところを意識が消えれば名色も消えると説いたのである。

 仏教の場合は、実体についての議論には及ばない。カントのいう物自体、プラトンのいう形相などについて、釈迦は議論を回避した。

 無我とよく言うが、これは当時の思想にアートマンという人間ののなかに核になる存在があるという思想があったため、こんなものはないと否定したのである。

 これが、日本でいうところの霊魂を否定したものであるかどうかは、議論がある。仏教の全体的な印象としては、無霊魂説に傾いているようにみえる。あるいは釈迦自体は、色受想行識は我じゃないといっただけなのかもしれない。

 これは、イエスが、天国についてあまり詳しくのべなかつたのと似ている。知ったところで悪いことをするやつは悪いことをする。形而上の議論に時間を費やすことをあえて回避したとみられる。

 意識がなければ名色が消えるからこの部分だけは間違いないというところから出発している。

「誰が受ける」かという問いかけには対しては、「それは問い方が間違っている、何によって受があるかと問うべき」という返しがかなり古い経典に残されている。

 釈迦は「受」の主体の有無に触れることなく、今まさに感じている「受」がどういうときにあり、どういうときにないかをみつめなさいと言っている。

 まあ、実際理屈の上ではなんとなくわかったようなわからんような、いやわからんというところである。

 これは唯識論でもなく、むろん唯物論でもない。一種のセラピーに近い。

 縁起の核心部分は識あって名色があり、名色があれば識がある。

 行というのは意行と訳されることが多いが、識別するという知的行動の背後にある心理的な動きを示している。

 これらは今の概念では説明が難しいが当時の一般的な概念(法)であったという。釈迦は当時の概念を使って説明すると書いた経典があった。

 色受想行識(五蘊)は釈迦が編み出した特殊な概念ではない。当時流布していた概念を拾い上げて釈迦がそれ利用して縁起を説いたのである。

意識があるから色と名前がある。意識がなくなれば色も名称も、感覚もない。

それ以上でもそれ以下でもない。この実際の生起関係をみつめる。

 「我」という恒常的な個体が存続するのではなく、刹那に変転する色受想行識を仮に「我」と呼んでいるに過ぎないという。

 縁起や五蘊説は結局こうした観照的な視点を獲得することで、われわれがかなり大昔に文化的に引き入れた我執視点の自己認識のゆがみを是正しようとするものではないかと理解するに至った。

 確かに釈迦は「古道を発見した」といっていた。自分の発見だとは述べていない。そこから古代7仏の話や阿弥陀仏の話も現れてくるがそれが後世の付け加えだったとしても、再発見であったということは、重要な点である。

 病になっても死にそうになっても冷静な視点を獲得するためには、日ごろから物事の見方を練習しておかねばならない。

 とまあ思ったわけではあるが、ここでタイムアウト。

 優雅な学生生活は終わり、社会に放り出された。

 社会に出ると仏教の哲学や座禅など、くその役にも立たない。

 座禅したって翌日には仕事する退屈な朝がくるし、人間関係にもみくちゃにされてストレスも多く、縁起をみようが五蘊を見ようがまったく現実ののしかかる重さにうんざりした。

 全く役に立たないのだ。むしろ求道に必要だった繊細さと道徳心は感覚がとぎすまされすぎて社会で成功するにはじゃまだった。仏教の哲学なんぞこの重苦しい現実の前には役に立たない。ニーチェだって同じ。

  大乗の教えの必要性がひろまったのはこうした修行できない人びとは悟ることも救われる事もできないのかという現実があったからだろう。

 だが残念ながら大乗教典の多くは私が読んだ限り、人為的で、抽象的におもわれた。あるものは理解できず、これまた何の役にたつのか、原始仏教よりも空虚に思われた。

 法華経は皇室祭祀について、密教は太古の高天原教えの焼き直しであると出口王仁三郎が書いたのを読むまでは、投げていた。空海だけが、本当の言霊を操っていたというから、当時の神道奥義は伝承が途絶えていたのだろう。空海のあやまりといえば本地垂迹仏で、これは仏が神の形であらわれるということであるが、これはさかさまで、この時代、神が仏の姿をかりて人守っていたのである。伊勢神道などではそのように説いていたらしい。その後、空海が四国に八十八か所を設けたり、古語拾遺の斎部氏が四国で祭祀を継続していたことがわかり、空海が古代神道のエッセンスを斎部氏の伝承者から一部伝授され、太古神道と仏教が混じり合った密教が空海の中で符合したのではないかと想像した。

 そもそも密教は原始仏教とはあまりにも異なっており、ヒマラヤ奥地の太古の宗教がその時々の宗教勢力をかいくぐるために仏教の形をとってきたものと考えられた。その頂点に立つ阿闍梨である恵果が、そのルーツである日本の祭祀の素養をもつ空海と肝胆相照らすこととなったと考えると筋が通る。

 


2、合気道との出会い

2016年03月08日 | 考察

 合気道との出会いは確か高校一年くらいの時だったと思う。

 わたしはあまり運動神経のよいほうではなく、小学校では柔道を半年ほど、中学でも2年ほどやっていったが上達が遅く、黒帯をとるほど熱心に通わなかった。遊びに近い。空手の漫画を見て空手をやりたかったが、近くに空手の道場がなく、柔道着が使えるという安易な理由で高校から体育館でやっていた合気道を始めた。

 合気道をやった半年は技の緻密さに驚いた。だが、本気で柔道家がかかって倒せるのか、空手家と対抗できるのかなど、すでに小柄な体躯で柔道でさんざん苦労していたので、本気で力を入れ入れられると鍛えた相手には歯が立たないのではないかと思った。喧嘩慣れした相手につけやきばの合気道では歯が立たないことを理解していた。

 教えていただいたのは有名な誰かのお弟子さんのそのまたお弟子さんということで、神業には見えなかった。ただ合気道の開祖は超人的な人で、鉄砲の弾すじがみえ、忍者のまねをして姿を消せたという。

 ほとんど負け知らずだったと言う伝説は聞いた。しかしその後継者に神業レベルの人はほとんどいない。塩田剛三氏が小柄で柔道の高段者をあいてにできたというくらいか。

 この合気道の創始者は「おおもと」に入信し、途中から教団と距離を置いて活動した植芝盛平である。

 合気道は武道としてとてもよくできていた。しかしそれでも体躯の小さな私は開祖のように大男を相手することが難しいことに気づき始めていた。

 同じ技でも上背が高ければ掛け方や角度を変えないとかからない。

 そして意地の悪い先輩たちは稽古と称して技をかけられないよう力を入れる。すると練習にならない。相手の打ち込み方対し方が悪いと別の技をかけたほうが手っ取り早い体勢になる。それでも諸先輩はできることを示したいのだろうが、これほど精神衛生上悪い練習方法はない。技は正しい形でかける練習を繰り返すのが基本で、初心者相手に力任せで止めてしまってはろくなことは覚えられない。ただ本気で先輩の技をはずすのはたいがいの相手にはできるようになった。

 また実践勝負をやらないのでどれほど武道として強いのかもわからなかった。

 よもや合気道が神道における祓いの儀式意義を持ちうることなど考える余裕もない。強くまた技が巧みで相手を組み伏せたほうが偉いのである。このような幼稚な勝ち負けやり取りから脱却しない限り、神の技にはならない。

 私はこの時点で合気道という良縁に触れながらも、肉体的な限界からそれ以上かかわってゆこうとせず離れてしまっていたのである。

 


1、仏教研究からのニーチェ(うつうつとした青年時代)

2016年03月08日 | 考察

 私は最初から神道を信じていたわけではないし、大本を妄信してきたわけではない。

 父は若いころ共産主義に傾倒したが、生涯宗教を阿片と呼びながら、正月は初詣に出かけ、祝日には門に国旗を掲げた。昭和30年代にはまだそういう風習は残っていたし、私もそれに抵抗はなかった。

 母方の祖父は生き仏のような人で、もと浄土宗であったが親戚の強要で仏壇を破壊され、別宗派に改宗させられたのだが、素朴に題目を唱え祈る人であった。誠に天使のような人であった。当時仏壇を破壊する宗派など想像はつくであろう。

 私自身は保育園の時代に物質が粒子で出来ているという話を聞いて、いろいろと世界を想像する哲学少年だった。

 中学生くらいから増谷氏の「仏陀」という本に出逢って仏教研究にのめりこんでいった。人間の完成形が存在するのならそうした人々を研究すべきと思った。中学の時にはすでに友人から釈迦坊主と言われていた。

 その前後は太宰治の人間失格や高橋信二の釈迦の生い立ちに関する本、ヘッセのシッダールダ(釈迦をモチーフにした小説)などに感銘をうけ、仏教書を読みあさった。他には成長の家の谷口氏が書いた生命の実相も立ち読みしたりしていたものの、この時成長の家の思想がおおもとから流れていることは読んではいたはずだが、それ以上深くは学ばなかった。万教同根という思想には共感を覚えた。学んだというより、自分の中にあるぼんやりした理想を書物で具体的にしようとしていた。

 増谷氏の本からは後世の大乗仏教によって脚色化された釈迦像ではなく、もっとリアルな知的考察で開けた部分があるという思いがそこで植え付けられた。

 翻訳ではあったが古い経典を読み込んでいくうちに、仏教は智慧の道であるという言葉や、戒、定、慧という仏の3学のうち、智慧が最も重要であるとの句が頭にしみこんでいた。

 ただ四諦と縁起をどれほど研究しても何も自分の心境に変化は起こらず、人生の解決にもならなかった。特に四諦は生が苦しみであるという苦観から出発しており、逆に私の人生観を暗いものにした。初期仏教は人を一時的に厭世的にしてしまう。これは仏教の欠点であると気づいたのはかなり後になってからである。

 古い仏典の説話や教典の多くは当時かなり翻訳されており、図書館でむさぼり読んだ。自分は学者になるわけではないので、枝葉末節の字句解釈に振りまわされたくなかった。シッダールダ太子は菩提樹の下で何を悟ったのか。それが自分の課題だった。

 多くの経典を読み、説話を読んでいったが、大乗仏教になると理解できない部分も多かった。

 釈迦は最初四諦や縁起を悟った。それが悟りだといっていたものが、大乗仏教ではそんなものは小乗で。。。などという扱いで、大事なことはもっとあとで説かれたというのである。いかにも負け惜しみの混じった説明で不自然に感じられた。エリート仏教に対して大衆部が起こした反乱かと思った。

 2500年もたてばどんなに立派な説でも迷信で埋め尽くされる。大乗仏教というのは初期の仏教とは趣を異にしており、これはシャカの説いたものではないと感じるようになった。実はこのことは後日ほぼ学説として存在していることを知った。江戸時代の富永仲基という町人学者が喝破していたのだ。彼の批判は的を得ている。

 しかし日本では大乗仏教こそ釈迦の本旨であるということが先入観として確立していたため、小乗仏教と上座仏教の区別があいまいで、研究するためにはセイロンにまで行かなければならなかった。またかつての上座仏教が現存しているかは知る由もなかった。(今も現存している)

 その後は時々流行になるニーチェなどの思想に傾倒した。訳本ではあったが当時出版されているニーチェの著作はほとんど目を通した。ニーチェはショーペンハウワーを通じて仏教思想、インド思想にも接触していて、間接的に影響を受けている。

 今考えると永劫回帰の思想は東洋の輪廻思想の焼き直しと見られないこともない。

 釈迦は瞑想による観方を変えるという方法によって、生老病死や輪廻といううんざりするような生存を解脱する方法を説いた。

 生まれ変わり死に変わりが実際存在するとニーチェがいったわけではない。しかし、この瞬間が永劫にくりかえされるとしても、それを肯定して、その永劫回帰を俯瞰する視点に立つことですべてを肯定する、自分が「人」であるという視点を上から俯瞰する。

 そのような視点に立つことを超人と呼び、自分自身を他者を見つめるように客観視する、死を小さな生理学的変化としてとらえる。そんな感覚もつことで、人間の感覚を救済しようとしようとしたと私は考えた。

 この考え方は、一般のニーチェ解釈とは少し違うかもしれない。しかしニーチェほどの複雑な思想家が単純に神を死んだことにして優秀な「超人」を目指す思想を打ち立てたというのは解釈がイージーすぎる。権力への意思もまた同様。単純に権力を志向したとも思えなかった。しかしながら後年出口王仁三郎を学ぶに及んでニーチェの思想は力主体従になるのかなとも思えた。彼は兵士が戦争に向かう中で「力」を感じ、霊なるものを認めず、肉体の理性を強調した。

 彼が長年研究してきたギリシャやキリストの神や預言者を使わず、ツアラツストラというペルシャ拝火教の創始者を著作の題材に選んだのは、東洋的な思想への接近を感じさせる。

 ニーチェは神の死をこのペルシャの預言者の再臨に語らせた。

 ツァラトゥストラはもともと世界には善神と悪神の対立があり、やがて善神が勝つという思想を広げた。ゾロアスターが聞いたら飛び上がって驚くだろう。神が死んだというのは哲学的な皮肉ではあるが、本来のツアラツストラなら絶対口にしない言葉だろう。彼は言葉をもてあそぶシニカルな哲学者として、ツアラツストラの口に神は死んだと語らせたのである。

 ニーチェはこれを神話として、思想として理解して、この思想がすでに力を失っていると感じて、新たに超人思想が人類を救うというストーリーを作った。

 これは仏教と対比させるとわかりやすい。

 初期の仏教徒は覚者を目指して修行する。この修行者は菩薩とも呼ばれ仏陀(覚者)になるために、捨て身で善行を行う存在とされている。自分の悟りを後にしても人を救うといわれている。

 烏合の衆から覚者になる路程で菩薩は命がけで修行する。このプロセスは人間が動物と超人の間に張り渡された綱渡り師であるのと似ていないだろうか。

 そしてツアラトストラが説いた人間の三様の変化は価値観への態度の変化を現している。最初は道徳的、次に道徳をものともしない力で自分の価値観を創造する、最後は子供のように世界と戯れる。

 これは禅の奥義に達したと言われる明治の剣聖山岡鉄舟が示した「猫の妙術」とそっくりで 、ニーチェが意識しないで禅仏教の思想に近づいていたことが感じられた。同じように感じて下記のように訳した者もいたらしい。

如是経 序品 40-41 (登張竹風 1921年訳) 聞け、われ汝等に超人(佛)を說かん。/超人(佛)は地の意義なり。汝等希くば、超人(佛)は地の意義なることを欲するところあれ。

 最近ニーチェの思想がやさしく意訳されるとベストセラーになったが当時私の中ではすでにベストセラーであった。

 しかしニーチェを読み、ニーチェの思想を心身に満しても虚無感は解消されなかった。むしろ絶望的になった。ニーチェは学者的に三様の変化や超人、力への意思、永劫回帰などという思想を提示したが、それでいったい何人が満ち足りた気分になっただろう。

 ニーチェは物事を異なった視点から見ることが得意であったため、なるほどと思うものもあり、人間心理の考察は鋭かった。認識の考察も、ヘーゲルやカントといった自分たちが作りだした概念を理解させるのではなく、短文・・・アフォリズムで表現する手際が良かった。おそらく彼が古代ギリシャの研究で獲得した智慧が流れ込んでいるのだろうと思われた。悲劇の誕生は彼の出世作であるが、かれのギリシャ研究の総括でもあろう。かれはここを力点として自らにしみこんだキリスト教をあぶり出した。彼は牧師の子供だったのである。

 原始仏教の謎を読み解くことができず、かといってニーチェで限界を感じながらアッというも間に大学時代は過ぎ去った。振り返ればほとんど無益に過ぎ去った4年間であり、今考えれば両親に対してもうし分けないことをしたと思っている。

 当時自分はまだ探求者であり、絵にすればぼろをまとって各国を放浪する一種の乞食であった。

 縁がなければ良師には巡り合わぬとは言ったが、たぶん良縁はあったのだが気づかなかったのだろう。

 それは合気道との接点であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


戦前~の右翼の誤りと修正(皇道派、統制派)

2013年09月29日 | 考察

【1、右翼思想は一枚岩ではない】

 戦後世代のわれわれは右翼をひとまとめにして軍国主義と暴力集団の集まりのようにとらえがちだが、実は似て非なる議論がいろいろあった。

 現代は戦前思想を十把一絡げにして過激な軍事思想として否定してしまっているため戦前思想の整理ができなくなっている。

 こうなった理由は

1、戦後天皇制に脅威を抱いたアメリカが天皇制を維持しようとする勢力を打ち砕き、有力な学者や政治家をことごとく外してしまった、

2、左翼陣営やアメリカから大量のスパイが侵入して反天皇思想をばらまいた、

3、反天皇を主張する者が教育者、学者、日教組のリーダーとなって日本の国民を教育したことにより、日本人の思考と文化はアメリカの資本主義と民主主義、政教の分離、日教組による教育により日本人としてのアイデンティティが破壊されてしまった

ことによる

 そのため、アメリカですらめったにみられない国家斉唱を拒否する公務員教師、国旗掲揚を嫌う公立学校教師が出現することとなった。

 これは他国の思想が日本人に植えつけられてしまったこと。またもともと異国人であったこと。日本側からの視点を失ったために生じる。その結果彼らはもはや自分の国を愛することができないという思想的な統合失調に悩まされることになる。

 他国の人間が日本に住むことを否定するものではない。

 しかしながら公立学校で教鞭をとる公務員が国旗を踏みにじり、国家をうたわないというのは、国の統制をとるうえでいかにもまずい。

 たとえば自衛隊が自国の国家や国旗を踏みにじって目前の敵に懺悔するようでは戦えない。

 自由主義のもとにあって思想は自由であるかもしれない。しかしながら、公教育では国としての教育に一貫性が必要である。公務員としての線引きが必要なはずであるが、それが日本では壊れている。

 また教師が集団にしたがわない態度を見せれば、集団の規律を教えることができなくなってしまう。信念があれば従わなくてもいいという態度を教師が見せれば、子供たちの集団への適応能力は低下して、将来会社などの組織で活動してゆくうえで障害になる可能性もある。

 イエスマンになれというのではない。しかしことあるごとに組織的行動を乱すような人物を量産してしまったら、社会としても国としては秩序が保てなくなり、また個人にとっても不幸なことであろう。

 私立には私立の方針があるそれはそれでいいが公立学校には公立学校の方針があるべきだ。知識を提供し、知識を吸収させる。教育はダウンロード機能でいいというのであれば、何も学校である必要はなくネットで授業を行えばもっと質のよい教育ができるだろう。

 成人式で暴れる20歳が出現した背景にはそのような国の政策のミスがあり、なぜこんなになったのだろうなどととぼけたふりをする大人がいたとしたらバカとしかいいようがない。

 【2、戦前の右翼思想を見極めるための基準】

戦前の右翼といえば皇道派と統制派という分類がある。

どちらも皇室を中心に国家を動かすことを考えてはいたが、

皇道派は天皇親政をはっきりと打ち出し、国家社会主義的な思想には反対し、クーデターには反対だった。天皇機関説には反対。中国不拡大方針

●これに反して統制派は東条英機の国家総動員法にみられるように軍部が国を統制するという思想が強く、時としてクーデターを手段として使った。中国を屈服させてソ連に向かう。中国への戦線を拡大したかった。

特に対中国の方針で皇道派と統制派の対立は大きくなったらしい。

 

あれ?2.26事件は皇道派じゃなかったっけ・・・と思った人は少しは歴史の本を読んでいる人だろう。

【3、永田VS真崎の対決】

 実はあのクーデターは統制派の永田が皇道派を葬って統制派が優位に立つために仕組んで準備していたともいわれている。

 皇道派の真崎はこのクーデターの首謀者であることを疑われたが、のちに無罪とされた。戦後アメリカの検事が詳細に調査したときも真崎の関与はみとめられず、彼はむしろスケープゴートにされたといわれている。

 永田は自己の野望を貫徹せんとして事件前、皇道派真崎の悪評を流し真崎を要職から更迭するようしむけた。それを恨んだ相沢中佐が永田を殺害したのである。

 そして統制派は、荒木・真崎らエリート皇道派にあこがれる青年将校を扇動して2.26事件を起こしたというのが真相のようです。この扇動に一役買ったのが北一輝というわけです。

 皇道派とは荒木貞夫が陸相になった際に要職につけた自らの近しいエリートを指す。陸大卒ですらない相沢中佐や2・26事件の青年将校は本来は皇道派として論外であり、実際に派閥的なつながりは皆無だった。

 永田鉄山は頭の回転もよい秀才で皇道派の将校に殺害され、天才的な政略家として亡き後、惜しまれたが、統制派の部下が書いて出版させたパンフレット国防の本義と其強化の提唱を読むと本当にそうだったかと首をひねりたくなる。

軍人としてはそれなりに優秀だったのかもしれませんが思想としてはあまりにも凡庸で、戦時中の東条体制を彷彿とさせるもだ。

 東条は永田の統制思想を受け継いで国家総動員法を成立させたのです。

 しかしながら永田鉄山の評価が高く、真崎大将の評価がやや低いのは、永田鉄山が真崎大将の悪評を意図的にリークして更迭をすすめたからだといわれています。

 更迭が永田の差し金と知った皇道派の相沢中佐が永田鉄山を殺害しました。

 また石原莞爾は英雄視されているが、真崎とは仲が悪く、永田鉄山とは中国(満州)進出の件で意見が一致していたらしい。

 逆に真崎大将は軍不拡大の方針をとり、これは昭和天皇と意見が一致していた。

 永田鉄山はルーデンドルフというドイツ軍人に心酔していたようであるが、これはのちの東条英機のような人物で国家体制を戦争のためにつくりあげたような人物である。

 戦前右翼思想の巨頭といわれるには北一輝と大川周明があげられる。

 中でも北一輝は大部の書物を執筆し、経済界のコネクションから金銭を工面し、2.26事件の青年将校に影響を与えたといわれている。ところがこの二人の思想はいずれも右翼、天皇制というよりは、天皇を利用した国家社会主義といえる。

 このことを真崎大将は見抜いていた。

 北一輝の『日本改造法案大綱』はロシア革命におけるレーニンの模倣で、それを基にした国家改造は国体に反する、とし、大川周明の思想は国家社会主義であって、共産主義と紙一重の差である、と結論づけた。」

そして軍人が参加して革新運動をやると、軍隊を破壊するだけでなく、日本の国を危うくすると認識し、そういう思想の持ち主を注意人物とし、軍人が彼らに近づくことを警戒していた。

 つまり世間で言われている皇道派と統制派の思想は逆で、クーデターをたびたび画策していたのは永田鉄山を筆頭とする統制派のほうで、むしろ真崎大将らはクーデターを警戒し、北一輝らの思想否定して遠ざけようとしていた。

 またカウンターくでたーと言って、皇道派にクーデターを起こさせるか濡れ衣を着せて、統制派がそれを鎮圧するというカウンタークーデターの計画もたびたび露見していた。 

 

※陰謀が露見した士官学校事件

 この事件は軍務局長の永田鉄山と士官学校幹事の東条英機が黒幕として、陸軍中央部、士官学校、憲兵隊、軍法会議と広範な連絡の下に、士官学校の生徒を扇動して、大規模なテロ事件を計画させ、岡田内閣や政界の重臣らを屠り、その責任を教育総監真崎甚三郎に帰して、皇道派の勢力を陸軍から駆逐して、統制派の軍政を敷こうと計画したが、士官学校の生徒がその陰謀に乗らなかったので、事件を直接画策した片倉衷と辻政信が、自ら描いたテロの陰謀計画をもって、皇道派の青年将校や士官学校の生徒の不穏計画として密告し、彼らを弾圧し、それをもって士官学校の直接監督の地位にある教育総監の責任を問わんとした事件である 

 

【3、天立君主立憲と立憲君主の違い】

簡単に言うと皇道派や出口王仁三郎の説く本来の皇道思想では、天が君主を立て、君主が民のために憲法を立てると考えるが、北一輝や美濃部達吉の天皇機関説では、天皇も国家という組織の一部で国家の決める法律に従わなければならないことになる。

戦後の視点からみれば、天皇が国家の上にあるのはおかしい。そんな超法規的扱いを受けることはおかしいというだろう。

つまり戦後の憲法は天皇を国事行為を行う一機関としてあつかい、立憲君主として違和感を持たないだろう。

今の日本人は素朴にも法律ですべて片が付くと思っている。ところが人間のつくる法律というのは万古不易のものでなく、作られた瞬間時代遅れになっている部分もある。時代が変わり作られた法律が想定しないようなことが次々起きるからだ。

天皇が超法規的に考えられ、国家の上に位置するという考えは日本が法律や機構という無機質なものが国を治めるのではなく、生きた尊敬できる魂が国民の魂と共感し、手段として法律が使われるということを想定していたのだ。

いかに国民の投票で選挙した人々が多数決で法律を作ったとしても、衆愚ということは起こりうる。

そんな中で、神聖、高貴というものと結びついた存在が国の中心にいるということは、私たちの生きる目的をそちらに結び付けてくれる。

たんなる言葉や概念ではなく。生きた神聖さの象徴に心を向けることによって、そしてその存在を尊敬することによって国民の魂に流れ込む。

そのことで国民が一体となって魂が引き上げられる。そういうシステムが太古日本には存在し、それを復活させようとしたのが出口王仁三郎であったし、彼と心をともにした人たちであった。

日本は法治国家ではない徳治国家であるといわれたのはそういうことで、天皇陛下の意思と地位と、国民の意思が一致することで初めてそれが実現する。

逆にそれを妨げる思想が、本来の日本の活力を奪いバラバラにする。

北一輝の思想には革命志向があった。そのことが青年将校を触発した。そしてその革命思想は左翼勢力から流入したものであり、出口王仁三郎らの唱える皇道思想とは異質のものであった。

しかしながら当時においても今日においてもこの区別を理解できる人はごくわずかであり、これが理解できる人だけが、理想的な太古の天立君主立憲政治形態を理解できるというべきであろう。

【まとめ】

天皇を国家という法人の上に置くか下に置くかということである。

天皇を国家の一機関と考えれば、天皇の財産も国家の財産から分配されることになる。天皇は大きな権限を持つが、国家を定めた憲法に拘束される。

過激といわれた北一輝らの思想も同様である。天皇を国家というシステムの中に組み込んで日本を考えている。

これは北がもともと社会主義者であったことも影響していると思われる。彼がスパイだったとまではいわないが、少なくとも日本の右翼思想を誤った方向に導いてしまったといえる。大川周明も変わったとはいえ社会主義から出発している。

つまり日本で有名な北一輝も大川周明も社会主義の影響を受けて天皇思想を構築したために人為的な間違いをおかしてしまった。

その間違いのカギになる点が天皇が上か国家が上かという点で、彼らは国家社会主義の影響をうけていたため、天皇をその枠内に収めようとしてしまった、そこが最大の間違いだった。

この点を出口王仁三郎は、天皇陛下の独裁でいい、天立君主立憲という言葉で表している。

つまり、天皇陛下は神によって立てられ、憲法に権威を与える権限があるということである。

この名残は日本国憲法でも国事行為として残されていて、この国事行為を国政ではないというのはかな苦しい理屈で、内閣総理大臣や最高裁判所の裁判官を任命する者が国政に関与しないという論理には無理がある。

これらの国事行為は国政に関する権能をふるっている証左である。つまりこの日本国憲法は内部矛盾をはらんでいる。

実際には内閣の承認と助言で形式的に行うことになっている。

おそらく、君主の伝統のない国民にはこれが理解できない。

政治的権力のない君主がなぜ、内閣を任命するのか。これは君主制がもっていた政治的権能の名残であるとみることができる。

結局のところどこの国も君主があってもその権能を制限して折り合いをつけているところが多い。これは君主が必ずしも全能ではなく時として夭折、愚鈍、時として横暴であったことが議会や元老院の成立を招いたと思われる。

日本の場合、陛下について述べることは怖れ多いことであるが、一つ問題になるのは昭和天皇ご自身が立憲君主としての立場を通されようとしたということである。これは若いころ陛下ご自身の意見により張作霖爆破事件で筋を通さなかった田中内閣を解散に追いやったことが影響している。

明治憲法は現在の日本国憲法よりははるかに天皇に権威と権能が許されている。しかし明治憲法とても成立の過程で君主の権力を制限するものにするか、制限下に置くべきものかに議論があった。そこである程度の解釈の余地を残しながら成立をさせた。そのことが逆に軍部や政府の暴走を許し、天皇の御意志とは別のところで政治が動き、戦争やむなきにいたる結果となった。

では天皇陛下が意思を明確に打ち出すことで、事態が収拾できたであろうか。

 陛下が意思を明確に打ち出すことで内閣が解散し、組織が成り立たなくなってしまったのである。陛下はその経験から可能な限り憲法を尊重して口を出さぬよう心がけるようになった。

 つまり裃が一致して陛下の意思と一体でないと組織はうまくいかない。国民の考えがばらばらで暴走する輩がいると陛下が強い強制力をもってして政治を動かそうとしてもうまくいかないのである。

 これは日本の統治方法が強制的な専制と異なるところである。国民の思想の一致がぜひとも必要なのである。その前提として政教慣造の一致というのがある。つまり政治も教育も習慣も根本的なところを一致させれば細かい法律を作る必要のない場面が出てくる。

 戦前の事件をみると現場の軍人の暴走がみられる。彼らは陛下を口にしながらも、結果として陛下の意思に背く行動をしてしまっている。つまり軍人の教育と、社会教育が不十分で、異なったものの考え方が国内に広がっていたためである。

陛下が核兵器の開発を制止された。しかるに一部軍人は腹を切ってでも行って詫びるとしている。これは不忠であり、陛下の意志を無視して自分の意志を陛下の存在に結び付けただけだった。かような軍人や政治家が増えた。

中国への侵攻も陛下が意図したことではない。しかるに一部の軍人が目先の利益にとらわれて軍事侵攻を繰り返した。つまり軍の統制が完全にできていなかった。


君民一致

2013年09月24日 | 考察

共産主義陣営 資本主義陣営 分かれる。

中国・北朝鮮は共産主義陣営

アメリカ、欧米の多くは資本主義陣営 ロシアもそちらに向かうこととなった。

しかしこれらはいずれも民主主義を建前とする。

独裁者がおり、帝国主義的な行いをしていても、民主主義として建前をみせている。

誰もが奇妙なことと感じている。北朝鮮の指導者は民主主義によってえらばれたことになっている。

多大な権力をもつ帝国主義的なアメリカは選挙で大統領という元首を選ぶことで民主主義という体裁を保っている。

我が国といくつかの少数国だけが君主国としての名残を残している。

共産主義にアンチテーゼとして資本主義者は自由主義をあげる。市場原理主義は自由に競争させて弱肉競争を激化させる。

TPPはその戦略の一つである。

我が国は君主国であり、身土不二の思想から天産自給を国是としていた。

アメリカの自由貿易主義はこれを破壊する天則違反である。

アメリカが本気でこれを仕掛けたとしたら、力の論理で言えば日本の農業は大ダメージを受けるだろうが、もし日本が正しい生き方を貫き、農産物の保護を強く主張して我が国の方針を堅持すれば、アメリカはこれをかみ砕くことはできない。

日本においては政治と信仰と教育と農業は別々のものではない。

これを分離したのは戦後の教育であり、表面的に知識によって破壊しても、血肉に記憶された遺伝子はそう簡単には破壊できない。

我が国は君主国家であり、憲法は暫定的に方便として機能してきた。その方便を作ったのはアメリカであり、今度はその方便をまた変えよと圧力をかけてきている。

しかしこれも時代のしからしむところで、方便でいつまでも国民が正気を保てるわけでもない。

成人式が乱れ、親子関係が破壊され、雇用や高齢者が置き去りにされる。かような国家を我々は誇れるのか

どのような仕組みがよいのか人々は考えて資本主義を考え共産主義を考えた。それは経済の仕組みである。しかしながらその背景には神を無視した、神がなくても統治できる機構による隠された意図があった。

しかしながら、結局はそれは失敗に終わった。共産主義がもはや理想社会という幻想は終わった。

 共産主義のモチーフは原始共産制である。必要に応じた分配である。このモチーフは、神の栄光を託された君主がいてこそ成功する。このことをマルクスは知らなかった。

労働を搾取とのみ理解するのはそのような生活の中で産業社会が発展しつつあったからだ。

我が国では働くことを仕事と呼んで誇りをもって仕事につくという目標があった。

それを破壊したのは確かに資本家であり利益を極限まで追求する経営者であり、また過当競争の中でそうしなければ生き残れなかったからだ。

結果生き残るのはブラック企業という皮肉が生まれた。

資本主義は仕事の価値を金に置くことで貴い仕事を単なる労働に貶めた。かねで労働者を雇い家族の生活を人質にすることで、経営者は資本家は彼らの欲望をみたし、一部の人間が多くの人間を支配する構造を作り出した。人情浮薄となり、正義と道徳は腐敗してゆく。

君主主義はこれとは違う。モチベーションの源を神、徳、生命の源泉、魂に置く。天立君主とは、天によって君主として定められたものである。

そこには未知の力が働く。

ただしそこには民との相関関係がある。君と民とが一体になって心をひとつにするのでなければ力は発揮できない。

民が主か国が主か。

かくのごとき矛盾した憲法があっては国民も政治も混乱する。

憲法の最大の問題は9条ではない。

君主の位置づけである。

君主の発言を国民が知るということ。このことが大切で、それを遮っているのがもろもろの組織である。

スベラギがシロシメス国が日本である。

今できることは、陛下の発言をできるだけ公に、正確に国民に伝え、君民が一致することである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


誰も言わない日本の憲法の矛盾。

2013年06月23日 | 考察

 憲法に矛盾があるなどと誰も言わない。

 しかし本当のところ日本の憲法は矛盾をはらんでいる。

 そのために国力が削がれている。

 最大の問題は憲法九条と思っている人よりも、天皇陛下の地位と権威である。

 外国の憲法は国王の権力を制限するためにつくられた。その形式を日本に持ち込んだものだから日本国憲法も天皇陛下の権威を制限し、国民が略奪した格好になっている。

 これが国民主権というものの実態である。

 主権は仁徳のところにかかれているが、本来神が民のために天皇に与えたものとされていたが、最近は神を否定したがために、その権威を国民が奪い、国民という選挙によって選ばれたのごとき家臣である代表がその権限を自由にしているに過ぎない。ただ日本の場合それに天皇が権威を与えるという形式だけは残した。

 天皇が総理に政治権力を委任しているという文脈で読むと憲法のルーツが読みとれる。

 国によっては君主ではなく人民の代表が統治権を握ている。大統領しかり、将軍しかり。これは神定ではなく民定である。

 日本の憲法はこれが混在している。

 それはアメリカが日本の憲法を決めるとき、天皇を残しながら民主主義憲法をつくるという決断をしたからである。

 これこそ矛盾である。なぜなら天皇陛下は君主であり、民主主義憲法をつくれば「主」が二つになってしまう。これはやりすぎである。せめて民のためにある民本という言葉にしておけばよかった。

 アメリカは天皇陛下を形式的な主とし、総理を実質的な主として政治を行なわせ、形式的に任命という国事行為を天皇陛下に行わせることでつじつまを合わせようとした。この矛盾を信じ込ませようとし、日本国憲法をつくった。

 また信じこんでいる多くの国民。

 それを説く御用学者。もっともらしく語るマスコミ。政治家。

 太古の心で考えれば一天万乗の君。

 

 

 

 

 


戦前戦後の勘違い

2013年05月05日 | 考察

 権力にはそれを制限するための機構が必要だと言う。

 戦前が政府が権力をほしいままにし、暴走して戦争に突っ込んだとみているからだ。

 しかしこれは厳密に言うと誤解している面がある。

 わが国の最高権力者は天皇陛下であり、実は天皇陛下の権限を中途半端に制限する明治憲法をつくったものだから、天皇陛下は憲法の仕組みに遮られて軍部の統率、経済の統率が十分出来なくなってしまったのである。

 嘘だと思うなら憲法成立過程と戦前の混乱を詳しく精査するといい。

 元田永孚(もとだながざね)は明治憲法成立時にこのことを懸念していた。

 伊藤博文が中心になって憲法は作られたが、伊藤はドイツで散々国教の重要性についてアドヴァイスを受けながらも、我が国の伝統的な祭祀について判断する知見がなかった。わが国の神道の真髄にめぐりあうことなく、立憲君主制を日本に導入した。彼がいかに日本の風土にあった憲法にといってもそのあとは見て取れる。大日本帝国憲法もまた欧米の憲法を日本に合わせたものに過ぎない。

 ただ保守的な考えをもった重鎮の反対にあって解釈の余地あるものにしておいたので、穂積八束、上杉慎吉らが大日本帝国憲法により君主立憲論を説き、美濃部らの立憲君主論である天皇機関説を排斥したが、陛下ご自身が憲法を遵守され時代の流れを御心に映されていた。つまり憲法停止などの議論に組されなかった。

 残された資料では陛下は立憲君主としてのお立場を極力通されようとされていたご様子である。これには若いころの経験が影響しているそうだ。張作霖爆殺事件で軍部が陛下の指示に従わなかいばかりか、陛下の意思にたがうような行為を行った。陛下は間に立って苦慮した田中義一総理に辞職を迫った。総理が辞職、内閣が総辞職してしまった。このことがあってから陛下は反対の意見があっても裁可を与えるという形をとるようになったといわれている。

 つまり陛下の意見表出は時には組織が腐っていると組織を崩壊させてしまう。戦争の開始についての陛下は反対であった。しかしその意思を強く表出して何が何でも軍部の、総理の意見を否定することになれば国の中枢組織が崩壊し、機能が停止するおそれがあった。

 秩父宮様は憲法停止と天皇陛下親政の考えを持ち陛下とも口論されたといわれている。出口王仁三郎も君主立憲、わかりやすくは天皇陛下の独裁でいいといっている。

 しかしこの時それを行えば、国論は割れ、責任者が腹を切ったり辞退するなどして国が機能を果たさなく恐れがあった。陛下が表に出てなぜ国論が割れるのかと思われるが、そもそも中国への侵攻を陛下は望んではいなかった。それを軍部が既成事実を作って前に進めてしまった。その前例がまた軍部に連鎖的に起こり満州事変の立役者石原でさえとめられなくなるほどの勢いをもっていた。

 つまり、すでに軍部は天皇陛下を崇めながら天皇陛下のいうことをきちんと聞いていなかったということになる。

 陛下は大局的に判断されていた。張作霖を爆殺すればいいという陸軍の判断はのちに国としての判断としては非常に稚拙であったということが分かる。

 日本の君主政治というのは欧米の専制主義とは違う。君主と国民の気持ちが一体となって初めて機能する。機構だけを当てはめても、国民が納得しなければ、君主立憲は意味をなさないばかりか機能しない。

 ゆえに陛下はぎりぎりのところで立憲君主として行動せざるを得なかった。

 

 君主立憲とは美濃部らの説く憲法によって君主をする立憲君主ではなく、天皇陛下の独裁で憲法作成を指示し、天皇陛下が憲法を道具として国政を動かし、必要とあれば陛下の独裁で憲法を改正も停止もできるものということである。

 現在からすれば乱暴な説であるが、国教樹立ということも含めて宗教的統一国家を考えるならばこれは世界最強の平和国家になる。

 ただ日本国民は神など存在しないという人も増えて、まして天皇陛下の神話などに耳を傾けようとはしない。これも教育のせいなのだろう。

 実際にシャーマニズムは存在し、脈々と生きている。ただ表層には現れずまた玉石混交、危ういものも多い。

 正しい宗教が確立して思想の背骨が確立すれば、教育も政治も悩むことはない。

 しかしそんなものがないと思っているところが現代人が蠢動してうつになる原因でもあるのだろう。

 


普天教

2013年04月24日 | 考察

 


姜甑山の予言
1871年(明治4年)に朝鮮の金羅道で生まれ、1909年(明治42年)に数え年39歳で没するまでの間、無数の奇跡的な神業を成し遂げて、「天帝の化身」「天師」と崇められた希代の神人・姜甑山の予言である。
「天下蒼生が滅亡の境に到りつつある」

「まず乱法を作った後に直法を出す」

「今、万一西洋人の勢力を退けなければ、東洋は永遠に西洋人に踏みにじられるだろう。故に、西洋人の勢力を退け、東洋を助けるのが正しいので、今、日本人を天地間に大きな働き手として立てよう」

「朝鮮を西洋に渡せば人種が異なる故、差別と虐待が甚だしく、生きる事が不可能であり、又、清国に与えればその民族が愚鈍な故、手におえないであろう。日本は壬辰乱の後に道術神明たちの間に怨恨が結ばれているので、彼らに(朝鮮を)与えてこそ、その怨恨が解かれるだろう。
故に彼らに一時、天下統一の気と日月大明の気を与えて役事を成就させようと思うが、一つだけ与えないものがある。即ち仁の字である。万一、仁の字までも与えれば天下すべて彼ら(日本人)のものになってしまうだろう。故に仁の字だけは君たちに与えるので、この意味をよく守るがいい」

「東洋と西洋を競争させて、傾いた局面を調整しようと思うが、余りにも両者に違いがあり、張り合わせが困難なので、兵(病)で両者を平等にしようと思う」

「将来日清戦争が二度あるだろう。初めは清国が敗れるだろう、二度目に起こる戦いは十年かかり、その結果、日本は追われて本国に帰るであろう。又、胡兵がやってくるだろうが、漢江以南き犯せないだろう」

「元来人間とは、したい事が出来ないと腹がたって大きな病を得るので、それ故、今、すべてのことを自在にし、各々の自由行動にまかせて、まず乱法を作った」

「将来世界・・・(の)国々は色とりどりに入り乱れて、起ちあがり、様々な生活物資を作り出そうと生産競争を呈するだろう」

「嘘はすべての罪の根本であり、真実は万福の根源である。今、神明をして人々を臨監させて、心に判断の基準を設定させ、邪正を鑑定し電光に付すようにするので、心が正しくなくて、邪を行う者に気運が廻る時は、肝が破れて骨筋が飛び出すであろう。運数(運命の巡り)が良かろうと、大峠は越え難いのである」

「後天には、天下が一家のごとくなって武威と刑罰を用いることなく、道化政府は衆生を治め化育するので、官僚は職務の範囲で奉仕を事とし、分限を越える弊害はなくなるだろう。又、庶民は・・・すべての煩悩に悩まされる事なく笑顔で和やかに融合し、日常生活が道徳のまま行われ、老衰病死を免れて不老長寿になり、貧富の差が撤廃されて、美食麗装が意のままになる世に変わるだろう。又、すべてのことは自由な欲求に応じて神明が随伴し、あるいは雲車(飛行機)に乗って空中を飛翔し、遠方でも剣山でも、何処であろうと天が低いので上下することが思うままになり、又、知識が発達して、過去、未来、現在に及ぶ十方世界のすべてのことに精通し、水火風の三災がなくなって、瑞祥が溶け込み、平穏清和な楽園となるであろう」

「日本はあまりに強烈な地気が集まっているので、その民族性が荒く、貪欲で、侵略性が強く、我が国が昔から彼らの侵冠を受け、平和な日が少なかった。それで、その地気を抜いてしまえば我が国も、将来、平和になり、彼の国も又、後日、安全を保てるだろうから、私が今、その地気を抜いてしまう為に、先日、神濠公事を行ったところ、神濠と語音が同じ神戸に火災が起きたのである。これは将来にその地気が大きく抜ける兆候である」

 

相克から相生へ

 私の道は相生の大道である。
 先天では、威勢や武力をもって勝負を決し、
 富貴と栄華をこの道で求めてきた。
 これが即ち相克の流転である。

 私は今、後天を開闢して相生の道を開き、
 善をもって生きる世界を造る。
 万国が相生し,男と女が相生し、
 上の者と下の者が相和し、
 分限を守って己の道に忠実となる。
 全ての徳が根源に帰るので、
 大仁大義の世界となるのだ。


38度線

 現下の大勢は相撲の土俵と同じで、
 童相撲と青年相撲が終わった後、
 上相撲で土俵を終えるだろう。

 (そして、紙に太極の形の線を描きながら、次のように言われた。)

 これが三十八度線である。土俵場は朝鮮の三十八度線に置き、 
 世界の上相撲の場を取らせよう。
 万国裁判所を朝鮮に設けるが、
 土俵場に牛が出れば場が片付くであろう。

乱法

 もともと人間とは、やりたい事が出来なければ
 憤りが積もって大きな病になるものである。
 それ故、これからは、すべてのことを解き放し、各々の自由行動に任せて、
 まず初めに乱法を造り、その後に真法を出す。
 君たちはすべての事において心を正しくしなさい。
 偽りはあらゆる罪の根本であり、真実は万福の根源である。


男女

 今は解冤時代である。
 何千年もの間、厚い囲いの中で、
 男性の玩弄と使役を受けるだけであった女性の恨みを晴らし、
 正陰正陽で乾坤を正す、
 今後は礼法を改め、女性の言うことを聞かずしては、
 男の権利を無闇に行使できない世の中にする。

 人を用いるときは男女の区別なく用いるようになるであろう。
 来るべき世では、男も女も皆、
 大丈夫で大丈婦なのだ。