国家戦略室 (アンダーグラウンド)

日本本来の政治、統治、歴史についての研究

核兵器の使用について

2022年04月10日 | 考察

ウクライナとロシアの戦争のからみで、国民の国防への意識が高まり、核兵器使用の議論が高まっている。

核兵器の使用に関しては我が国では絶対禁止すべきであり行うべきではない。しかしながら我が国の国防は米国の傘下にあり、米国の意向に合わせないと守ってもらえないというのが率直なところであろう。

この時米国がつくった第九条をたてに核兵器の使用について議論することになるが、バイデンのいうようにアメリカが日本に対して核兵器が使用できないようにしているということが前提としてあるならば、とりあえずは日本での核兵器開発、日本自衛隊による使用はできない。

しかし核の持ち込みや運搬協力は要請があるかもしれない。

日本は本来ロシアとアメリカを仲裁する使命がある。今回の戦争はアメリカがNATOにウクライナを参加させることでロシアののど元に刃物を突き付けようとしたところからはじまっている。ロシアの戦争の仕方というのはこれまで見てきたとおり、ルールに従って粛々と行うようなものではない。また戦争というものは末端まで軍規が整然と整っているかというと、そんなものはまずない。民にとってはいずれも敵は虐殺行為をしているに過ぎない。

 

 


高齢者は顕齋をできなければせめて幽齋を。

2019年11月28日 | 考察

生産性でばかり論じるが、高齢者が毎日祈り、神咒を唱え、座を行えば、災害も減ずるだろう。そのような世代を支えることは、若者のためにもなる。

社会の価値観を原初にもどし、かような人々を支えることで、自分達も潤い、進化することが、感じられるような教育を行うとよいだろう。

神を信じる気持ちを失ってはならず、それが、人類全体に秩序をもたらす。


殷周と古朝鮮から高句麗

2019年11月14日 | Weblog
殷と周との戦いというのは、古代歴史の最重要事項である。
殷は東族、周は西族という見立てから出発すると分かりやすい。日本や檀君朝る

 殷以前は夏王朝があったとの伝説があるが、そこについてはまだ私も詳細にはみていない。ただ洪水により中原も混乱し、太古日本の統治説からすれば、統治ができなくなったということであろう。

 殷の最後の紂王が酒池肉林で人心を失い、周と戦争になって負けた。その時点で殷の祭祀が途絶えたといわれている。ところが、息子の一人が祭器をもって逃げ、祭祀そのものは箕子に引きつがれていたようにも見受けられる。

 正式の祭式は祭器とともに、しかるべき後継者、血統の者が行わなければなさないと思われる。

 例えば日本で言えば天皇の血筋を引いたものが三種の神器を継承し、大嘗祭のような継承の儀式を行わなければならない。

 しかし殷は紂王が最後の統治者として、それを後継に譲れなかった。殷の継承者としての儀式が行われないため、殷として祭祀は途切れたということになるのだろう。

 殷が日本と関係があったと思うのは何を根拠にというだろうが、まず殷周の戦争が始まった時に東方からの援軍が来ていることが契丹古伝に出ている。確かにそれが日本からの援軍かどうかは微妙な点がある。

 箕子が朝鮮を建国したとき檀君がその地方の支配権を譲ったという話がある。檀君については諸説ある。伝承ではファンインという神がいて、熊女と交わって生まれたのが檀君ということになっている。しかし九鬼文書などでは檀君はスサノオノミコトのおくり名であるとみることもできる。つまりスサノオノミコトの系統が続いていて、系統がおなじなのでその地位を譲ったとも考えられる。
 
 そして契丹古伝によれば箕子には子がなく、皇室から養子を得ている。つまり朝鮮と日本はこの時点では兄弟関係にある。
 しかし何代かあとに衛瞞という将軍が燕国から亡命、朝鮮の王は信じて国の重要な守りを任せたが、なんと裏切りから朝鮮を乗っ取ってしまった。
 この朝鮮はすでにはじめの朝鮮ではない。このとき箕子朝鮮の後継者は、なんとか逃れて別のところにうつったともいわれている。

 その後、時代が変わって朝鮮では朱蒙が、古朝鮮の流民を集めて国を建てた。朱蒙の父は謎の人物で水辺の女性を犯してどこかに去ってしまったといわれているが、奇妙なことに三本足の烏を信仰の対象とし、三種の神器を手にしたといわれている。

 三本足の烏とは日本ではヤカダラスという、神話上の存在てある。三種の神器については諸説あるが、日本の三種の神器を模したものとも考えられる。

 一般にこれは半島の伝承が日本の神話に流れこんだといわれているが、逆の可能性もある。

 高句麗の三足鳥も太陽の化身といいわれている。朝鮮の伝承ではなんのことだがわからない。日本の神話と照合すると、朝鮮人にとっては心外だろうが、太陽の化身の意味は、太陽は皇国の象徴であり、皇国の命を受けていることを示している。三足烏は日本では神武天皇を先導したことがある。

 日本の伝承ではこのヤタガラスはある神話上の人物らしい。神武天皇を導いたとされ、スサノオノミコトの仕えたものの子孫だともみられる。

 先に檀君がスサノオノミコトのおくり名だという仮説を書いた。朝鮮の神話ではファンインという神が地元の熊女と交わってできたのが檀君ということになっているが、おくり名であるということであれば、何代にも渡ってこの名前が踏襲されて来たのだろう。

 スサノオノミコトは弓を使ったという伝説も残っており、これが朱蒙の弓伝説にも繋がるのではなかろうか。

 高句麗の系統は日本の神話と関係が深く、ヤタガラスの系統の人物が朱蒙の父親だったとすれば、話は分かりやすい。

 先日安市城での先頭の映画を見たが、唐の大軍を破った城主は王を殺害した将軍に反逆し、高句麗を守ろうとした。

 王を殺害するという行為は下克上で、中国朝鮮では易姓革命として肯定されているが、我が国では許されない。

 太古においてはこの行為は非道とされていた。殷周革命の時代でもその記述があるが、そのような国となった高句麗はやがて滅びることとなる。

 

英語教育について

2019年11月06日 | Weblog

 出口王仁三郎は英語教育には否定的で、彼ならエスペラントをやれというだろう。だがエスペラントはまだ国際語として利用できるほと、広がっていない。

 国際語としてエスペラントの可能性について暗示していたバハイ内部でさえ、英語が優勢である。

 いまの時代、英語がなくては国際人ではいられないというのが、一般的な見方であろう。だが、日本人の多くは英語が不得手であり、その理由が、明確になっていないまま、実用的理由から英語の早期教育が導入され、さらに今回のような大騒動が起きた。

 かなり長期間英語を學んでも身に付かない、あるいは日本に長くいると習得した語学力も維持できないという声も聞く。

 理由は学習の仕方に問題があるとも言われるが、言語構造の違い、それによる脳の形成と機能など、議論はあるが、実用性から反対論が声を潜めている。

 同じラテン語から派生した言語だと構造がにていたり、単語に類推のきくものがあるため、記憶も定着しやすい。 
 エスペラントの学習にしても英米人やヨーロッパ人にとってはかなり有利である。



 日本語教育の分野では最近の言語学の知見が紹介される。母国語同様二つの言語を同じように操るには言語的な才能、環境、言語修得の意欲が必要とされる。

母国語が中国語である台湾人が長く日本にいると母国語が出てこなくなるので困っていたことがある。母国語でさえ操りにくくなる。

絶えず二つの言語に接触しているならまだしも、そうでないなら、日常使わない言語は衰退ししやすい。

要は外国語をどの程度学ぶ必要があるかということをおさえないと、教育の目標が定まらない。

外国の文献を読むため、取引のため、外交のためいうのであれば、それぞれの目的に絞って学習しないと無駄になる。

例外はもちろんあるだろう。だが無駄が多すぎえば実利も、意欲も削がれる。



教育の混乱

2019年11月05日 | Weblog
英語に限らず教育が混乱している。

明確な目標、一貫した価値観に基づく教育が行われないため、一部を除いては能力を分散させてしまってなにものにもなれない。

実務に役立つ教育がひとつ。

皇国の真相に基づく価値観を教えるのがひとつ。

ことの二つの柱がなければ、多くの子供が路頭に迷うことになろう。

英語が実社会であるいは科学で必要ならば、シェークスピアではなくて、専門知識に必要な英語を中学高校から学ばせても無駄ではない。高校の教育は専門の基礎として方向性を定めて大学で一般教養を求めるようなことをするようりも、専門野中から一般教養を引き出すようにするがいい。科目をわけ、異なった教師をばらばらに教えるのは問題がある。

一貫性にかけている。

これを修正するためには、古代人が行ったように、国語と歴史と地理を複合的に学べるような教科書をつくり、昔行われたように小学校以前から暗記させ、あとで省みられるようにする方法をとることである。

このためには、大人がこのバイブルにも匹敵する経典を選び出し、それを子供の頃から教えなくてはならない。


神話と天使

2019年10月31日 | 歴史仮説

 出口王仁三郎によれば、人間と同じ形態の異星人は存在しないという。

 すると、天使や神々という存在は宇宙人ではなく、いわば神界、幽界の異次元人ということになる。
 天使や神は神道でいう幽とよばれる異次元の世界にいると考えられている。

 太古はこの異次元とこの世界の次元が近く、比較的容易に行き来できたといわれている。

 この世界は異次元の存在が先にあり、そこから幾柱かの神々が受肉し、その後人が作り出された。

 つまり最初は神人がこの世に肉体をもって現われ。これが、いうところの肉体をもった天使であり、人間に先だって何柱も生み出されたというのである。

 それからつぎにアダムとイブの神話にみられるようにこの世界で創造された存在もあるらしく、これは土ではなく木から生み出されと出口王仁三郎は書いている。これらの人間は先の天使人類より性質、能力において劣るらしい。

 異次元から肉体をもって現れた神々は、木から創造したアダル彦エバ姫らのような人間と交配ができたらしく、のちにいわゆる混合種も産み出されたという。このあたりはなんともグロい話である。

 宇宙人か超古代人が自分の遺伝子クローンを作りそれと交わって繁殖したというSFがあるが、にたようなもので、宇宙人を異次元の天使と言い換えれば想像できるのではなかろうか。

 聖書の人間がつくられた時期のおいては、すでにたくさんの天使人類が存在していた、創世記で神が複数で語られているのは、天使が数にはいっているからである。

 霊界物語を見ると、最初の神々は天地創造の厳かな神々が語られているが、途中から邪気が発生して、神々の戦争が延々と続く。

 これが太古現界の神話なのか、神の世界つまり幽の世界の争いなのかはっきりとわからなくなってくる。霊界物語自体が現実の出来事の描写なのか、過去の出来事の描写なのかわからなくなることがある。

 話をとばしたり、ぼかしてある部分がある。

 神々も戦争をするとすれば、人間よりも優れているとはいいがたい面もあるということではなかろうか。

 聖書学?からみると神々の戦争の大きなものはルシファーという知の天使、光の天使の堕落である。これがイブを誘惑した蛇の正体イブリス、サタンらしいが、人間の堕落は蛇となったルシファーのせいである。

 このくだりは霊界物語の76巻あたりに、パレスチンの伝説として、イブリスという悪魔が人間の創造に嫉妬して、蛇の形をとってイブを誘惑したとして載せてある。

 この伝説ではアダムに先だってリリスという妻が存在したが、アダムに従わずに、イブリス=サタンに仕えて悪魔を増やしたという説が書いてある。こうした説は想像の産物として断ってある。

 しかしながら、古代人が創作したものとしても示唆にとんでいる部分もある。

 霊界物語では、世界の混乱のもともとの原因は人間のせいではなく、女神天使の不倫のせいとなっているところもある。

 夫神が失踪している間に妻神が、不倫したため、一夫一婦の天則をやぶった。天界のリーダーたる女神が、それをやってしまったので、世が乱れたというのである。

 幽の世界の混乱がうつし世である現界にあらわれているとしたら、原因は人間の堕落に先だって神々が堕落したのが原因ということになる。

 したがって大本では原罪説をとらない。女神の浮気である。男神の浮気は、日本の神道神話では比較的寛容ではあるが、女神の浮気にたいしては手厳しい。 

 男性については優性な種は増やすべしとでも言わんばかりに登場人物に語らせているところがある。現代の価値観からいうといささか批判を浴びそうな部分ではある。

 異次元にはたくさんの階層がある。異次元は別の場所というよりもこの場所に重なって存在し、存在するものの波長が異なっているためにぶつからず、見えもさわれもしないという。天国はあなた方のただなかにあるというイエスのことばはそのあたりをかたっているのではないか。

 天皇は異次元階層のトップから生まれた天使人類の遺伝子を持っているということになる。
 ナガスネヒコという人物が古事記に登場するが、長らく神と人の区別がつかなかったことが、記されている。彼はそのため、神武天皇に抵抗して、さきに到着していた人物をたてていた。外見上はあまり差がないというわけだ。

 天使人類の子孫という言葉はそのままノストラダムスの預言にも登場する。最後の時、天使人類の子孫が助けるというような内容であったかと思う。

 イスラエルは神の選民と呼ばれてはきたが、出口王仁三郎は選民は神の直系ではないという。だからイスラエルの神話はアダムイブから始まり、それ以前の記載が十分ではないのたではなかろうか。

 日本の神話は神々の誕生から始まる。神々とは神と天使たちを含めた表現で、一神教多神教の区別は意味がない。天使とは日本でいう神々のことであり、神々には幽の幽、幽の顕、顕の幽、顕の顕の四つの態様があるという。中心の見えない神は幽の幽、天皇陛下は顕の顕の神の子孫として神と呼ばれていたのである。つまり、エホバと天皇はまったくことなるが、日本語ではいずれもカミと読んで間違いではない。

 人類には神々から生まれた直系と、アダムイブから生まれた人類がいたがいまは混じりあっていて、その混合の度合いにより様々な性質が見られるという。皇族天皇でさえ混じりあっている。ただ男系がまもられれば遺伝子に刻まれたなにかが保存されるのであろうか。

 太古の天皇は超人的な能力をもっていたが、神武天皇からは人皇と呼ばれ、極めて人間的である。時代が下るに従い、アダムイブの系統とも混じりあい、太古の能力をうしなっていったのではなかろうか。

 なぜ、神々は、天使たちはアダムイブを創造したのか。

 なぜ、七回も泥海にする必要があったのか。

 これでは人間世界は異次元天使の失敗と試行錯誤の結果ではないのか。
 
 人間側からみるとこうした神々はあまりにも人間的で、全智全能の神ではない。

 時には神もかなわんぞよとさえいっている。

 神自身が作ったルールに神がしばられている。

 いわゆる天使と呼ばれる存在は上位の神々からの内流をうけて上位の神と一体になる。そこで多即一が実現する。
 上位の根元的な神は時間と空間を創造した。そして下位の天使たちにこれを守らせることで、世界を維持する構造を作った。より上位の神が根本的な原理原則をたて、世界の運営はより下位の神が行う。
 故に下位の神にとっては上位の神が創造したルールを変えることはできない。時はより根本的な原理で、簡単にはいじれない。時の流れに沿って創造を展開せねばならず、それゆえ失敗した場合、つくりなおさなければならない。
 根本的な神の目からは老子が書いているように万物は鄒佝であり、百姓(民)は鄒佝となる。それゆえこの世界では無情にも生老病死が存在し、天国と地獄が存在している。ところがそれだけでないというのが神の神たるゆえんともいえる。
 世界を構築するための神々が生まれ、さらにこの世界を運営して行くために人間という存在が生み出された。
 
 こういう構造にしたのは神で、世界はいわば神の芸術ともいえる。人間にはある程度こうした構造を理解し、鑑賞する能力が備わっているようだ。


韓国の仁

2019年09月24日 | 考察

 普天の教えによれば、実は日本は韓国の仁にだけはかなわない。いま日本には仁愛が足りない。AIで元号にあがったのが、「仁愛」だったという。日本に勝ちたいと思うのであれば、仁をどのようにいかすか。考えてみては?


太古の神話と現代

2019年08月14日 | Weblog
最近高句麗を題材にしたドラマをみて、高句麗建国の朱蒙が天帝の子であるヘモスであることを知った。どらまではこのへモスは殺されてしまうのだが、史伝では納屋のようなところに引き込んで女性を身ごもらせてそのままどこかへいってしまったことになっている。今の時代で言うとひどい話なのだが、考えてみればキリストも実はこのような背景があったのではないだろうか。キリストは処女懐胎と言われているが、出口王仁三郎ははらませたものがいることをにおわせている。

はらませるという言葉は乱暴だが、昔の貴人はあちこちで子供をつくっていたようで、出口王仁三郎の出生にもそのような話がある。

大国主命でもそういうことがあって、妻が嫉妬に狂った時期があったらしい。最近のドラマでは不倫は絶対ゆるされないが、優秀な種は増やしたほうがいいような考えがある。しかしこれはごく限られたはなしである。大国主命でさえ大変だったのである、庶民がまねしてやれば、家庭は崩壊、色恋沙汰が、増えるだけ。

ともかくもこの朱蒙が神器を手にして高句麗という国を古朝鮮の再興として打ち立てる。
この際に巫女が大きく関わって扶余という国では巫女と王が対立する。巫女が神示の解釈を違えたりするところが逆にリアルに見える。扶余の巫女は最初朱蒙の父を不吉の前兆として閉じこめるのである。王が巫女と対峙して祭政が分離する。そこから朱蒙が生まれる。巫女もやがて自らの非を認めて朱蒙を支えてゆくのだが、このあたりは創作かもしれない。しかし、この時代は巫女の神示と政治が深く関わり祭政が近づいていた。


怨みを解き、相生きる

2019年07月20日 | Weblog
韓国の日本パッシングはわれわれが若い頃にはあまり表面化していなかった。なかった訳ではないが、親日派もいたし、日本に協力した方が韓国にもメリットは大きいと考える人もいた、

ところが韓国が力をもち、韓国が過去の歴史を手段として日本との外交に有利に立とし始めてから、日韓の関係は悪化した。これには韓国の政治勢力の変化がかかわっているが、その政治勢力をどの周辺国が操っているかも考えておきたい。

実際のところ韓国が憂さ晴らし的に過去の歴史問題を外交に利用して未来の歴史を台無しにするのであれば、韓国の経済や政治にメリットはほとんどない。

冷静になれば子供でもわかることである。過去の問題を理由にして一時的な立場の優位をえようとする行為は感情的な喧嘩に近い。

こうした行為を政治の場に持ちだしてくる相手を、日本人は心の底ではまともに取り合える相手ではないと思い始めている。

ロシアもまた千島返還交渉で、表面とは裏腹に第二次世界大戦の結果などという日本人の傷にふれてくるような言葉を発している。

ほとんどが戦後世代となった今。戦争が追いつめられてやむなく起きたことを戦後世代は理解しはじめている。そして、戦時中というのは何が起きてもおかしくない状況で敵味方入りまじって狂気を繰り広げる。原爆でとどめを刺したというのは。アメリカの汚点であり、時代がもうすこし変われば、たとえアメリカの兵士を救うためであったとしても避難されるであろう。

原爆のような兵器は戦争集結のためとはいえ使うべきではない。そう考えた昭和天皇の判断がいかに正しかったかは後世が証明する。

だが、日本人はそれよりも自分たちにも悪いところがあったという面を反省した。

これは戦争に負けたからでもあったが、戦争自体が多くの狂気と残虐を生み出し、やめたい、起こしてはならないと本気でおもっていたからだ。

可能な限り対話で解決を図る。やむえないときに経済戦に突入する。

いつまでも相手を関係を悪化するつもりはない。相互に尊敬しあって関係を築いていきたいというのが日本人の基本的な考え方であろう。

日本の政治家の多くは未成熟で、国内的には失政を繰り返して自分の利益をむさぼっていることもあるが、対外的にはバカ正直で、こちらが礼儀を尽くせば相手も礼儀を尽くすと思っている。交渉ではブラッフ苦手で、相手の手の内をみるのも得意ではない。アメリカにはなんども煮え湯をのまされている。しかしそれでも誠実に対応するのが基本原則であると考えている。

しかるにここ数年の韓国の行動はドを越している。

韓国人でさえ、懸念を示している。

そこまでしないとわからない国というより政治家なのだろう。

解怨相生はどうするのか、普天の神は働かないのだろうか。

経済戦は実弾戦ほどではないが、犠牲者を出す。

日本国内の宗教者としては何ができるだろうか。

普天教を支持して、韓国内で解怨相生の気を生み出してはどうだろうか。

大本の隠士としては、普天の士の祈りを支えるべく活動すべきではないだろうか。

怨みや過去を祈りにより浄化して、相生はかってはどうだろうか。

消費税の愚か。

2019年07月05日 | Weblog
もとより税制そのものに問題があるが、継続格差が、問題になっている時にそれをさらに拡大させる消費税増税は愚作である。
消費税増税すれば、生活がたちゆかなくなる人も増え、生活保護費などの費用が、急増する。あらゆる材料の価格があがり、ただ商品が、2パーセントあがるだけではすまない。

これでうまくまわるというのは、計算に必要な条件を組み込んでいないからだ。財源をどうするか、皇道経済学では、みいず紙幣の発行をおこなう。
 つまり福祉や軍事費は、これでまかなう。ただし、その前に、憲法を改正し、経済権と軍事権を陛下に返還しなければならない。

陛下が、仁徳天皇の故事にもとづき、所有権と課税の仕組みをあらためるよう詔を発し、政府関係者の生活をあらため、教育を改変して、皇道経済学を広めなければならない。

結局いまそんなことは難しいから、強いものがちになる。生活困窮世帯が、増えている。富裕層が、政治に干渉しすぎ。

統計のごまかしをだれも指摘できない。とりあえず自分たちの都合のいい数字が上がればいいのだろう。

そういう仕組みになっている。

皇室財産が、国民の税金でまかなわれているのではない。国民も企業も不動産や財産を拝借しているのみ。富裕層が、財産をため、困窮世帯がふえているようなあり方は。まちがっている。山川あっても峻烈ならず。税制をまちがっているから貧富のさがかくだいする。


太古歴史から坐

2019年05月09日 | 太古史

殷と周の対立について、我々が知る資料は周に残されたものがほとんどで契丹古記のごときは偽書とみなされている。

偽書については日本でも竹内文書を筆頭に富士古文書や九鬼文書、ホマツタエなどが取り上げられることが多い。そのなかには津軽外三郡史などのようにほんとに偽書の度合いが高いと思われるものもある。

いずれも後代に書き写されたもので伝承の過程で様々な内容が付け加えられているようにも思える。

これらに出口王仁三郎聖師のフィルターをかけると、超古代史が嘘ではないのかもしれないと思えてくる。

出口王仁三郎師はなぜか太古歴史について詳細な年代を残していない。古事記についても高い評価をしながらも、「わやにされている」ので霊界物語を書いたとも言っている。

ただ、古事記の前半部分は霊界物語に引用されて言霊解釈されており、それらが言霊によって書かれていることから出口王仁三郎は古事記を否定しているのではないということが分かる。故に太古歴史を研鑽する上では古事記はやはり重要ではある。

また日本書紀に神武天皇のところで天孫降臨から179万年という年代を王仁三郎は肯定している。この途方もない年月を前提に古代史を読み解かなければならない。

また天孫降臨の意味についても様々な憶説が流布している。

出口王仁三郎の文献全体は、皇国史観に貫かれており、それは神武天皇に始まる皇国史観ではなく、超古代史を含めた皇国史観である。

つまり反天皇ではなく、他に天皇があるという説でもなく、本人が天皇だという意味でもない。

確かに自分の出自に皇室の血統があるようなことも言っているが、問題はそこではない。

出口王仁三郎は日本が本来持っていた皇室の歴史と皇道という信仰を明らかにしようとしていたのである。

現在伝わっている日本の神道は歴史の過程で歪められいて、一貫性がない。古事記編纂の時期にもそのことが憂慮されてようやく編纂されたのである。

当時は中国からの漢字文化の導入が盛んであり、仏教伝来と、その直には道教儒教が潜在的には伝わっていた様子がある。

4世紀から6世紀の間に怒涛のように入ってきた文化が我が国の文化に上書きされてしまった。

カタカナの発祥は、音声が腹に響く形からつくられたとのこと。漢字からではないというのが王仁三郎の見解。

カタカムナについては、戦時中に楢崎という研究者が研究していた。独特の解釈で、後継者の一人に会ったことがあるが、神仏をあまり信じない人であったので、結局遠ざかってしまった。カタカムナと出口王仁三郎の接点はいまのところ見出せない。しかし大変興味深い。

それはさておき、はるか昔の文化を怪しいオカルトの誤りを避けて研究していくのは至難である。

例えば竹内文書の説を読んでいると確かに荒唐無稽な内容もあるが、出口王仁三郎の説を思わせる部分もある。

霊界物語はあくまで霊界で見聞した内容であるため、正確に年代がしるされているわけではない。おおむね30万年前の話とも言われるし、戦前戦後の内容が含まれているとも言われる、あるいは先ほどの天孫降臨が179万年前であれば、それ以上前という事になる。

120通りの読み方ができるといわれている。

いまのところ想像できる範囲では世界は何度も大洪水や災害に見舞われて、太古に天皇中心の世界があったが、それが破壊されたという事である。しかも6回今度あれば7回目という事になる。

そして道院の考え方ではその原因は人心の荒廃が原因であるという。人心が乱れて一種の毒気が大気に充満し、それが天変地異を引き起こすもととなるのであるといい、それを消すのは道院の経典の読誦と座であるという。この二つによって、人が一種の浄化装置となり、その毒気を浄化するのだという。

道院の修方が日々修行するのは己のためだけでなく、世界のためであり、世界を救うにはまず己を浄化しなければ、善意のつもりで動いていても罪を増してしまうという。

大本でも祝詞や祈りをささげる。だがこれが悪しき心ももちで唱えてもただ周囲を穢す結果になってしまうという。

思うに道院と大本は一体であるという。出口王仁三郎がいる時には度院は大本であり大本は道院というところまで言われていた。

両方の祭式や修行法をどのように取り込むかあるいはとりこまないかはしらないが、誦と座は大本信徒としても学ぶべき必須のことであると思われる。おそらく、茶や武道よりも優先して行うべきであろうと思われる。

一時期教主の考えにより、道院は距離を置かれていたように思われる。笹目という仙人のような道院のリーダーがおおもとの三代教主に座を勧めたらしいが、むしろ坐禅の方を選んだような話もうそかほんとか聞いたことがある。

私は出発が仏教であっただけに個人的に短い期間であったが座禅をやったことがあるが、道院から見ると座禅は人為的な方法で好転の坐法といわれている、道院の坐法は先天の坐法といわれ格段に優れているといわれている。これを読んだかは何かの縁があるのかもしれないのであるから、ぜひ求修して、坐と誦だけでも学んでほしい。それと並行して祝詞や祈りを用いればまた効果百倍であろう。

祝詞にしろ、坐にしろ、読誦にしろやり慣れていないと苦痛に感じるかもしないし、いろいろなものと比較したり、自慢したり、軽視したりという感情がわいてくる。だが、あきらめずにやっていると、え?いいんじゃないと気づいていくる。

坐は仏教の禅のアグラよりも楽だ。仏教の禅の脚の組み方は成長期にやると脚が曲がってしまうことがあるので注意したほうがいい。













令和

2019年04月26日 | Weblog
令和について

令和、これまで出典が漢籍であったこと自体おかしかった。
年号そのものの始まりが中国文化の輸入からはじまったからだろうが、今回万葉集から引用されたのは喜ばしい。

ぱっと見違和感がないでもないが、文字を象形文字と日本の古文化で読み解くと、つくられた意図が見えてくる。

令和の令の上の部分は杯を逆さにしたとか蓋という説がある。山が天を意味し、一が地を意味し天地が一体になるという説明もあった。廟の屋根の部分という解釈もある。
下は人がぬかずく形であるということでほぼ一致している。

命令、号令の意味合いで使われる。令色に意味にも使われる。いずれも正直あまり言い印象は受けない。なのになぜこの字をあてたか。

ぬかずくは何にぬかづくかである。国家という意味とはとらえにくい。天蓋、あるいは天地合したところにぬかづくという意味が近い。

天地合するとは天の神地の神、天神地祇を意味すると考えたい。

天津神国津神である神々にぬかづくの意味であるとみる。

さらに和の字。昭和の字は平和の和、和合の和ではあるが日本を表すともいう。
一般的な意味からも年号にふさわしい。

さらにこれを分解すると左のへんは稲を表す。日本が葦原の瑞穂の国であること、
そして右側が口だがこれは、のりとを納める神の器であるという解釈があり、
ここから人の口ではなく箱のようなものが描いてあることがある。

しかしながらのりとを納める神の器というのは人間の口である。

祝詞の本体は巻物ではない。言霊である。口で空気を振動させることで発せられる音声が基本であり、祝詞の器とは口である。

つまり口は言霊を意味する。

つまり和は一文字で日本が農耕、稲作を基本とする言霊の国であることを表している。

まとめる令和という年号は、日本が神にぬかづき、神の下にあって頭を垂れ、農業を基本とする言霊の国ということである。




法律、ルールで取り締まるだけでいいのか

2019年03月21日 | Weblog

日本が法治国家であるから、世の中が資本主義であるから、だからそうするのが当たり前だという理屈を話の途中で差し込む評論家的な人は話していて、一歩も進まない。そこにはそうした物事への信仰が含まれていて、そうした仕組みが完全ではなく、偏れば害をなすと言うことがわかっていない。ルールは交通整理のような面もあり、うまく造れば社会が適切に機能する。しかし、なにからなにまで法律で規定していくと、法律で想定しない事態が生じたときにうまく対処できず、法律にさえひっかからなければ何をしてもよいということになる。
 法律は道徳の最低限と王仁三郎は言った。

 しかしこの道徳もやりすぎると人を窒息させる。善悪は場所や時代で相対的な面もある場合もあり、杓子定規に物事を裁いていては解決しない時もある。

 仏教では飲酒を禁じている。だが、これを国家の法として厳格に規制するとどうなるか。闇で飲酒の取引がなされマフィアや暴力の資金源となる。阿片の汚染が広がる前の日本で阿片の流入を厳格に禁止し、栽培も所持も禁止することは重要である。厳しすぎるという人もいるがこれはゆるめると、蔓延しやすい。蔓延すれば悪とつながりやすくなってしまう。山ほどの事例があり、国家がガタガタになってしまう。
だがすでに蔓延してしまっているところでは、急激にやめさせようとしても非常に難しい。そのため、一時的に政府が管理するなどして徐々に減らして行く対応策を採ることもありうる。かつて台湾では

 
 

 

世界の大政奉還

2019年03月09日 | Weblog

大本には型の思想がある。世界で起きることは日本に、日本で起きることは大本に規模が違い時間が違っても起きるといわれている。なんらかの関連性をもって起きるとも言われている。


世界の貧富の差は日本に移しだされている。


貧富の格差は政治家や官僚が想像する以上。学者が想像する以上で、これが先進国といえるのかどうかというほどになっている。


おにぎりが食いたいと言って心中した親子の話がある。


制度的な問題、町役場の役所的対応。


だが根本にあるのは資本主義の行き過ぎと、政治家と経済的勝者の奢りであろう。何が悪いのか、正当な戦いで正当に勝ち得たものを享受するのは当たり前というのが資本主義者の考えである。


しかし皇道ちがう。


財産は天皇のもので、天皇かからの借り物である。経済的成功は神がそういう働きをさせているというだけである。


ではモチベーションをどこにおくのかと言えば、己の欲望ではない。かみに使えることである。だから日本人は労働というよりも仕事という。


仕事を神に捧げる。天皇から土地と財産をお借りして天皇にお返しする。


必要以上の財はもたないのが未来の姿である。


とまあ、私が読みとって描いた世界像であるが、なかなか人は納得しまいて。


だが経済が機械的に動くとばかりはいえず、また欲望ばかりで動くものではない。国民が太古のように天皇と神を信じ、役人がまともになればいまの経済機構をちょっと手直しするだけで替わるような気がする。


一つの例としてあげられるのが、所有権を拝借権とするということである。


所有していると思うから、いけないので、すべての財産は天皇のものとして拝借しているという考え方を持ち始めると、使い方にも差が出てくる。


言葉が思想を変え始める、


立て替え立て直しは手のひら返すようにといわれるが、こんな風に、資本主義至上、富裕層や先進国にあつまり財産や株が一気に神と天皇のものであるといわれる日が来ることを夢想する。


 


貧困

2019年03月07日 | Weblog

貧困それも若い人から高齢者に至るまで、貧困が忍び寄っている。このことに自民党も安部総理も真剣さが足りない。

仁徳天皇の故事を持ち出すまでもなく、我が国は下々が苦しんでいるときには天皇から生活を慎んだものである。

資本主義だから仕方がない、儲かったものがクルーズで遊べるというのは美風でもなんでもなく、欧米思想の欲望中心の考え方で早晩痛い目に遭う。痛い目にあってもそういう思いをしたい、そういう地位に上り詰めたいという人間を取り立てるようになると、そういう人物が高い地位に昇り、国の道徳が崩壊する。

資本主義だから仕方がない。そんな弱音でどうする。弱肉強食の資本主義をため直し、徳を重んずる皇道に変えて行くのがわれわれ日本人の使命である。

競争心をあおり立てる、実績主義で追い立てる。そうしないと生き残れないようなよのなかか、やる気のない共産主義か。。ではない。

高い志を評価する世の中に作り直さねばならない。

じゃあ原資はどうするのか。

同じ機構をつかっても、人々が高い志と使命を持ち始めれば、評価の基準がかわってくる。金が儲かるからブラック企業に投資すべきかどうか分かるだろう。

莫大な利益をあげ、法令に違反していなくても、過労で死者がでるような企業は社会的に制裁をうけてしかるべきと思われる。

法律は道徳の最低限である。法にふれないから何をやってもいいというものではない。