国家戦略室 (アンダーグラウンド)

日本本来の政治、統治、歴史についての研究

皇道大本

2016年05月06日 | 編著者略歴

さて、皇道大本について確信をもったのは、霊界物語以前に神霊界やその他の機関誌などで発表されていた論文が復刻されてからだった。

最初のころは昔の論文が過激なせいかあまり、一般には流布していなかった。ところが途中から著作権切れということもあったせいか、急速に古いものが流布し始めた。それをよく読むと、四代目の教主補がいうように時代に合わせて出口王仁三郎が右寄り思想に傾いたというのは全く逆で、彼は初期においては徹底した尊皇主義者で、天皇陛下と対立するどころか、天皇制を本来の形に戻すために必死になっている様が読み取れた。この点については四代教主補出口栄二氏の解釈は間違いも甚だしい。氏は大学で宗教学を教えていたらしいが、アカデミックな視点にはまり込んで、自分の解釈で大本を解釈してしまった。

今のアカデミズムから見れば出口王仁三郎の皇道大本は時代錯誤である。そうであってこそ皇道大本である。元の神代に戻すのが大本であり、それが時代錯誤といわれなければおかしい。時代が錯誤しているのである。

読者がどちらの立場に立つかは自由である。しかし、こと出口王仁三郎に関しては天皇陛下と対立する気持ちはみじんもなく、天皇陛下を支えるべく本来の道を敷くのが自分お役目だと考えていた。

そしてその思想は天皇陛下の親政であり、大本や出口はそれを補佐する存在として認識していた。

しかしながら昭和天皇ご自身が天皇親政という形をとられなかった。君主立憲ではなく、立憲君主としての立場を取られた。さらに周囲がそれを是とした。

現代人は戦前の思想をまとめて否定してしまったがためにこの事が理解できないでいる。

戦前の思想、天皇制は悪として、独裁政治として、軍国主義として神話を基礎とした妄想の政治として否定してきた。神を教わっていないから、神聖という感覚が啓発されておらず、理解できない。妄想か思いこみ、異常心理と思っている。これらは戦後必死で米軍やアカデミズムが否定してきたものだからだ。

ところが出口王仁三郎はこれと正反対の説を唱えた。

1、いや、神は存在する。

2、神々とは欧米でいう天使を含めた言い方で、善神もあれば悪神もあり、また迷う神もある。

3.更にさかのぼると神は当て字である。カミという音とカタカナ表記が本来日本のものである。

カミは欧米人が唱えるゴッドや神々、天使の他肉体を持った天皇をカミに含める。

それらは直接、間接の形で意識を重ねることがあり一即多、多即一の関係になりうる。

4、カミがタミのためにキミを立てたというのが君主とタミとの関係であり、君主が国民を支配する一方的な関係ではない。

5、まずこの神が実在するというのが第一前提であり、神の直系として日本には天皇陛下が立たれているというのが前提となる。そしてこれは神の意思によってこの世に現在も存在している。考え方としては、神というこの世界を生み出している意思は、天皇という中心をたてて、人類を統治しようとしている。それは覇道によるのではなく、天皇がタミを想い、タミが天皇を想う関係であり、天皇の中に神の意思が現れ、その意思とタミの意思が一体になることで世界の調和が保たれるようになっている。

(直系というのは神がそのまま人間としてこの世界に出現した系統ということで、人間にはあだる彦エバ姫から生まれた存在が混じっているがそれとは別とされている。}

 

これは日本人の思い込みとられることを覚悟で書いている。

クリスチャンはキリストを、仏教徒は仏陀を通じて、イスラム教徒はマホメットを通じて神を感じ取ろうとするが、これはすべて人類が天皇を中心として神と一体になるということの型でもある。

ここで疑問が生じる天皇はキリストのように聖なる存在で間違いはおかさないのかと。

天皇陛下もまた人として生まれている。仏教に傾いたことがあったこと、立憲君主に傾いた天皇があったこと、民主主義に傾いていることなどが知られている。天皇はタミの心を映す鏡でもあり、タミとともに歩まれている。つまり天皇は神と人の分水嶺に立つ存在で、双方の姿を映す存在でもあると考えてはどうだろう。

故に太古には審神者がおり、天皇や皇后に懸かった神の意思を判じた者がいた。

神功皇后の三韓征伐は、普通に考えれば侵略である。普通に考えればなかなか受け入れられない。前の天皇は信じなかった。そのために早逝したという。天皇であっても神の意思を信じないことがあったことになる。

仏教導入の折、迷われた天皇がいた。大臣がこの是非を判じた。天皇陛下も迷うのである。

殺害された天皇がいた。天皇は決して不死身ではない。

断絶したことがあるだの崇神天皇以前はいなかっただのと証拠もないのに無き者にするのが現代の日本の歴史学である。とことん神話と切り離そうとしているが、神の存在について議論もされず否定だけされるというのも奇妙なものである。学問に神は不要だというのであれば、最初の一歩から学問は神につながる一切についての肯定的な見解は出さないことが前提になっている。

だが残念なことに神はまだ否定されたわけではない。迷信がかずかずあったとしても、神は否定されていない。ただ個人がいないと信じ、学問が神をいないものとして研究しているに過ぎない。