国家戦略室 (アンダーグラウンド)

日本本来の政治、統治、歴史についての研究

バイリンガル

2019年03月04日 | Weblog

バイリンガルにはその習熟度によって3種類に分類できる。

1@2言語が母国語同様に話せる。

2@一方の言語は十分にはなせるが他方は不完全である。限定的。

3@二つの言語とも不完全で、限定的。

このうち三つ目に二つの言語ともに不完全であると抽象的論理的思考が発達しにくくなるということが分かっている。

大方の日本人は話せたとしても2@であり、この場合は主たる言語で思考するため影響は少ないという。

しかし、どちらかの言語使用が長い場合はどうだろうか。ある台湾人が日本での生活が長く、母国語の単語が出なくなっってきたというのを聞いたことがある。まだ20代である。彼女の日本語は完全ではない。つまり、2@から3@に移行してしまったのである。

バイリンガルには風船理論という有名な理論がある。それぞれの言語で培った知識や能力は別々に機能する。そして一方の言語に習熟すると一方の言語は劣化し、その知識と能力、機能も抑制されるというのである。

これには反対論があり、いやそれぞれの認識は氷山のように深層で結びついて有効に働くという説もある。

後にこれはそれぞれの言語の習熟具合によると考えられるようになった。

つまり1@の場合は氷山説で説明できるが、3@の場合は風船説が当てはまるという。

現実を振り返ってみてどうだろう。二つの言語を母国語同様に習熟できるだろうか。

またそれを終生維持できるだろうか。

これらの理論は使用頻度と言語の劣化を考慮していない。

否定語で聞いた場合イェスノーの答えが日本語と英語で反対の場合がある。

あなたは日本人じゃないの。日本語ではイエス、英語ではノー。

この反応をその場その場で瞬時で切り替えるのは相当難しい。

それぞれの言語構造が別の言語に有益に働くとは言い切れない。

なにかを説明しようとするとき日本語で考えるか、英語で考えるかは一つであり、はなすときの状況でそれを切り替えるのは相当難しい。

熟練したとしてもどちらかに偏って行く。

三種類に分類されているが、変動しやすいし、境目も曖昧である。

現在の日本の状況ではしっかりとした日本語が確立する前に英語教育を行うことは日本語に影響を与えるだけでなく、抽象的、論理的思考が影響を受ける可能性がある。

言語能力が高い人を引き合いに出して議論しても、多くの日本人にとってどうかと言うことを考え、国家としてどうかということも考えなくてはならない。

日本語学者、言語学者は大いに意見を述べ、英語の一律早期教育に反対すべきである。


言語

2019年03月01日 | Weblog

 

 

われわれは言語の研究者ではない。しかし毎日使い長年慣れ親しんでいるものとして、学者の言うことがほんとうにそのとおりなのかどうか振り返ってみることはできる。

言語学者の意見がどうであろうと、意見をいう権利はある。

英語が初等教育に取り入れられるという。

国際化を目指すことと国際的人材を輩するため、またどんな研究でもあるいは仕事でもある程度以上になると海外の文献を読む必要が多くなってきている。その際英語ができないと不利になると言うことである。

だが日本人はなかなか英語を習得できない。

そして言語を二つもつということがどういうことなのか、実際に起きていることを整理したい。

帰国子女がしばしばおかしな日本語を使う、そしてそれを英語に置き換えてはなす。

つまりそれぞれの言語の習熟にはかなりの期間がかかり、おかれている環境と期間によって習熟度が異なる。

両親の影響家庭内でどの程度、どちらの言語を使うのか、混ぜて使うのか、友達同士はどうなのか、学校ではどうなのか。

そしてしばらくたつとどうなのか。

日本に長くいて、日本語を話せるようになり、日本語を話すことが多く、母国語を話す機会がないと、母国語がスムーズに出てこなくなると言う外国人を何人もみた。

つまりいかに修得しても、あるいは、幼児期から母国語を使っていたとしても、その後の環境で言語の使用能力は変化する。

 また、年齢を経るにしたがい、複数の言語を維持していくのがつらくなってくるという例も聞いたことがある。このとき母国語にもどるか、あるいは後で学んだ言語に定着するかは必ずしもきまっていない。

 こうした研究はバイリンガルなどから相当研究されている。そうした一つの説を取り上げて、政府は英語の幼児教育を勧めようとしているのだが、それを勧めようとしている人たちの多くは英語を必要とする環境にいる。

 ところがほとんど英語の必要のない職業に就いている人は想像以上に多い。せいぜい辞書片手に中学英語を使う程度で用が足りているのである。

 日本が幼児期から英語教育を始めることで懸念されるのは、日本語の発音がつくられるまえに英語を学ぶ点だ。

 正確な日本語を学ぶ前に英語の発音構造をみにつけてしまうことがいいことなのか?日本語の発音や文の学習が妨げられないかということである。そして日本語の発生と音が徐々に崩れていかないかということだ。

 日本人は英語の発音が悪いとよく言われる。それは欧米人からみた日本人の英語がという意味である。

 言霊学からいえば日本人の発音の方が根本言語、哲学的言語である真言に近いのである。

 悪評高いカタカナで覚える英語は言霊学からみれば、英語をネイティブに発音から学ばせるよりはましなのだ。

 英語のカタカナ化を通じて、日本人は日本人の頭で英語を記憶するからだ。

 カタカナの発音は欧米の発音とは異なっているから、最初からカタカナで覚えてしまうと修正しにくくなるという。だから英語の教科書からカタカナが消え、英語教育が効果のある幼児期からネイティブの発音を学ばせることがよいと言われる。

 しかしカタカナで覚えることは既存の知識と関連づけるため覚えやすい。膨大な単語を耳から覚えた発音で記憶することは負担も大きい、やるならどっぷりと他言語につからなければならない。

 かなりの外来語がカタカナで導入され、われわれの記憶もカタカナの発音と結びついている。

 だが、英語の発音と記憶が同じように結びついているだろうか。神経伝達、想起のスピードはどうだろうか。 

 文法まで含めうと英語で考えるようにならないと流ちょうにははなせないと言われるが、そうなると思考が言語と結びつく。

 日本語で考えていたことがそっくり英語で置き換えられると人は考えているようだが、必ずしもそうではないということが分かっている。

 日本語で考えてきたことが、同じように英語で話すのが大変なように、それを英語で考えよと言うならば、今度は思考そのものがたどたどしくなってくる。じつはそこに洗脳の余地もある。

 つまり、日常使っていない言語で考えうことは思考を鈍らせる。外国語の教材を学ぶ中で欧米の思考法を自然と学ぶ機会を与えると言うことができる。

 実は大学で私の英語教師は自分の思想に沿った英語教材を使うことで、私たち生徒を啓蒙しようとしていた。幸い私は英語が苦手だったのでその生徒をしょっちゅう怒らせていた。

 もちろん例外はあるかもしれない。個人の能力、言語の環境、おかれている言語の環境などにより、差違はあるだろう。英語が仕事に欠かせなくなってきている人がいることはよくわかる。

 しかし英語の習得にはメリットがあるばかりではないということは声を大にしていいたい。

 負担が大きく、膨大な時間を費やしてネイティブほどにははなせない。もちろん単語や知識は増やせるだろう。しかしどこかおかしい。しかも母国語と同等な会話能力、読書能力を終生維持するのはかなり困難である。日本人にとってさえ年をとると漢字を忘れ、言葉を忘れるようになってくる。

  多くのビジネスマンに英語が必要なことを否定するつもりはない。また多くの文学や科学が英語に翻訳されており、英語ができなければ実務上難しいということも分かっている。

  しかし、いま私は英語をほとんど使っていない。そして私のように日々の生活で使っていないと忘れる。そのような日本人がかなり多いのではないだろうか。そうした人々の日本語の基本的な能力をリスクにさらしてまで、幼児期から英語教育が必要なのだろうか。

 必要と思う人々は学ばせればいいが、一律に行うことは反対したい。

 もし幼児期に英語を勉強させるとすれば会話や音よりも、日本語化されている英語や、その語源などを日本語、カタカナ、イラストを交えて教えるにとどめた方がいい。

 苦労するのは単語であり、英語の不規則性、熟語、慣用的表現である。

 語源の派生等を幼児期に学問的に学んでおけば、後の単語の学習を加速する。

 また英語に限らず、発音記号などにも親しませておくほうがよい。私はまともに発音記号を学んだ記憶がない。それぞれの発音は口腔内の構造を知って発音したほうがいい。ルはこう発音するとやってみせるだけでは不十分で、横断図で示し、日本語との違いを視覚と聴覚で覚えさせる。どうしても発音を教えたければ、そのことに学者の異論はないだろう。

 英語とは基本となる言語体系が違う上に、単語の類似性が外来語以外ほとんどない。

 本となる言語がラテン語なりギリシャ語であったなら類推が働く。

 ところが幼児期から海外にいた子女はこのハードルを難なく越えているように見える。

この見えるというところが大事で、できている用に見えても、日常会話はできても、複雑な会話になると、どちらも中途半端であることが露呈する。ここが帰国子女が言語で苦労するところだが、あまりクローズアップさえていない。帰国子女にとってここは深刻な問題になることがある。

 結論から言うと同時に二つの言語に習熟し続けることは一部の言語的な才能のある人をのぞいてはかなり難しい。

 ある程度の会話能力は維持できても、一定以上はどちらかの言語が危うくなっていくとともに、知識や思考もその言語に関連して修得されるため、日本語で考えたことが、英語で話し始めると言葉が浮かんでこないために明確さを欠くことが起きる。一日英語にひたっていて、日本の感性や繊細な表現ができる感覚を維持するのは難しい。

 むろんその程度や能力は個人差があるが、日本語と英語の場合このギャップが大きく、負担も大きい。

 アメリカはこのことを分かっていて英語を戦略的に使っていて日本にも押しつけてくる。英語支配の構造である。

 日本の教育者がこれに押し切られて幼、あるいは知らずに鵜呑みにして児期から英語教育をすべての国民に押しつけるのは、日本という国にとってデメリットが大きい。

知識は与えればメリットがあるというものではない。

与えた知識は脳内で化学反応を起こし、人格を形成する。

知識は多ければよいと言うものではなくて、どんな知識を記憶させるかが重要である。

かつて日本の文化は天変地異で壊滅し、大陸から知識を輸入せざるをえなかった。そのため日本に残っていたやまとの文化も変質し、漢文化を基本とする文化が隆盛を極め、それとともに仏教が伝来して、日本の言語と信仰と政治が崩壊した。

我が国に残っていたのはこの崩壊後の世界から日本がなんとか再興されてきた歴史だけである。

欧米文化の輸入は今日も必要であるが、日本の言語と文化は守らなくてはならない。それは着物を着るとか、お茶をならうというレベルではない。

言霊学に基づいた言語を立て直し、国民に普及させ、日本の太古の文化が世界宗教の源流であることを示さねばならない。

ところが英語教育はこれに逆行している。

王仁三郎はこれに対してエスペラントを提唱している。エスペラントの学習も簡単ではないが、英語よりは論理性があり、日本語の発音に近い。このことが日本語破壊を軽減する。日本人としてはこれが精一杯の譲歩である。

言語と思考については研究が不十分である。日本の言語学者は海外の文献から海外の言語学を日本に導入するので精一杯であるが、日本語を基準として外国語を研究したものは皆無に近い。

だれもやらぬなら私がやるしかないのか?

せめて大本の信仰者から言語学者が出ればよいのだが。

われわれ日本人は漢字の導入で、儒教、道教などの思想を導入し、漢文化した仏教の導入で、政治の根幹である天皇への信頼を失った。このことが日本の災いになったことは一部の人しか理解していない。

今日また英語を導入し、漢文化で変質した日本語がさらに変質しようとしている。

日本人の脳が溶けてゆく。

英米文化に浸かった官僚が、アメリカに留学し、原理主義的自由主義に洗脳されて帰ってくる。

TPPを何の疑いもなく受け入れるように洗脳されてしまう。

やまとの言霊が脳に入っていると、そう簡単には信じない。

 

 


TPP

2019年02月28日 | Weblog

 王仁三郎の意見では自給自足を世界的にまで広げていくという世界経済の進展政策が示されているが、TPPは自給自足を破壊してから世界経済流通優先で物事をすすめようとしている。これはものごとの進め方が間違っている。こんなものを国の政治家や官僚がありがたがって国を豊かにすると信じているならそれは妄想である。古いものを熟成させて転換してゆくということと農業などの一次産業の保護をなくして進展させるという事とは話が違う。異なった道を探すべきである。農業は育てるという魅力がある。それをAIやロボット技術と結びつけ、貧困な国への援助と結びつけなければならない。経済を考え、いまのところ単なる持ち出しだけにならないよう考えなければならないが、国内の貧困から世界の貧困、優良な人材の支援などはかかせない。

 日本は武器を売らない。また、ただ技術を売るだけではない。麗しき日本の習慣を造り、人を作りWinWinの関係を築いていくことが肝要である。

 国内問題が山積みになったのは政治家と官僚の顔の向ける方向が間違っているからだ。天皇陛下は金もうけをもっとせよとおっしゃったか。

 政治家は生活に困る人、被災者になにをしたか。

 アメリカの圧力がないのになぜ日本はTPPを勧めるのか。

  経済ブロックの形成は重要だが、TPPはルールを見直すべきである。

 


言霊、情操教育

2019年02月27日 | Weblog

情操教育等という言葉を使っている限りは情操教育はおぼつかない。おもいやり、きくばり、等できるだけ平易な漢語を使わない教育が必要だ。

日本語本来の力というのが、やまとことばにあって、まずは脳に大きな影響をあたえる。今のところこうした研究は皆無に近い。

外来語の使用は否定しようもないが、大和言葉の発掘と使用は国語学者の急務であり至上課題だ。

やまとに大和と当てるがごとき使用もなるべくは控えたい。

これは国粋主義的な思いからではない。

私たちが魂の力を発揮したければ、やまとことばを再興して、自らの魂に力を与えなくては成らない。

これは翻訳に傾く学者には困難であるし、門外漢には関心が薄い。

一音一音に意味があり、それは言葉に魂と宇宙の学びが込められている。

音声は空気を振動させ、伝搬する。身体を振動させる。脳に振動が伝わる。

欧米を基準とした言語学ではなく、日本語からみた言語学を構築するべきである。

その際、平安時代の音声が必ずしも正しいとは限らない。古いからいいとは限らない。

本来の日本は一度崩壊し、漢文化を使ってたてなおされたために、やまとの文化はいったん地下にもぐった。

カタカナは漢字から発達したものではなく、音声の響きが腹部に響く形から、あるいはある種の図形から考案されている。

この事実を真実だと知ったときには鳥肌が立つ。

身口意というが、体と心の間に真言があり、それが言霊である。

原始仏教の思想にはあまりないが、これは密教では重視されており、出口王仁三郎も本当の言霊をつかったのは空海くらいだといっている。

密教の継承がなぜ日本におこなわれたか。

これは密教がもともと日本から伝搬していた太古の宗教を仏教に焼き直したものだったからである。

空海は四国で誰かに密教のルーツとなる太古神道の言霊の口伝を受けていたと考えられる。

左手と右手で合わせて音を出す。火足り、水極まり、合わさり音がでる。

音声はもっと複雑だが、息、口腔などの作用で声ができる。息とは意気ではないか。

神の名は唱えることで空気を振動させ、神と同調する。

同調した神名はまさに単なる音声ではなくこの世に現れた神であり、私たちの存在を照射する。

われわれが神名を唱えるというよりも、神名が神であり、われわれの心身を振動させ、振動を広げてゆく。


元号に願う

2019年02月26日 | Weblog

明治、大正、昭和、平成ときて、今の時代に何が必要か、何がかけているか。

仁愛でしょう。

自由といえば聞こえはいいが、弱肉強食の時代。

正義、平等、平和に絡む元号は多いが、

仁愛に由来する言葉はすくない。

仁愛は教える事ができないという人がいる。

さにあらず。

仁愛を注ぎ、人にそなわるものを育てる。物語は仁愛を思いださせる。実行は仁愛を、広げる。

だが、こっか

 


統計の不正

2019年02月05日 | Weblog

統計不正については学べる点がある 

1、統計はごまかせる。

 数学的にはごまかしができるはずはない。しかし、抽出や運用、さらには数式の運用さえ人の手に任せられているかぎり、ごまかしがきく。

 原発やスタップ細胞を思い起こしてみればわかる。絶対安全だったか、有ると証明されたか?

2、組織的な責任の所在と真犯人をわけて考えるべき。

 野党は政争のために矛先を間違えている。

 いつものことだが、組織上の責任者と実施を指示したものとの区別を明確にする必要があり、そのための法律を作成する必要がある。

 同じであれば真犯人としてあげるのもいいが、別に真犯人がいてその責任を上司がかぶっていては、いちいち責任者がやめなくてはならない。これでは聖人君子であっても継続が無理。

 原発の運用の方向性などはもちろん上の責任者によってきまり、上を変えて方向性を変えてもらわねばならないが、統計操作が官僚責任者の采配であれば、その官僚を処罰しなければいつまでたっても不正は改まらない。

 合議制の多い行政組織であっても会議出席者の名前を明記保管し、当時の担当者を洗い出せるようにしておかなければならない。実施の責任者の名前も記しておかねばならない。民間ではやることを官僚ができないのはどういうわけか。

 それでも隠蔽があるのなら、国民が記録できるようネットでの公表を義務付ける。

 隠蔽を指示した人物をあぶり出す機構を作らないと、再発する。

 野党はこれで相手を倒すことを考えるのではなく、行政を適正に運用するにはどうすればいいか。提案すべき。

 自民の良識派と協力すれば、野党の評価もあがる。それをやらずに政党批判すればまたかと思われる。

 

 


千島の交渉

2019年01月23日 | Weblog

 竹島でも千島でも実効支配されるから不利になってくる。

 うやむやな時期に手をうっておかないからだ。

 事なかれ主義うやむや主義、官民の分離はこれに関しては不利に働く。ロシアがまともな交渉をやるか?

 第二次世界大戦の経緯が物語っている。ロシアは最後にどんでん返しをやる。

 二島返還などとだまされてはならない。

 国も土は海域、防衛問題に直結する。政治的妥協が国防を危うくする。国同士ではロシアという国は信じるに値しない。

 国際裁判所に仲裁に入ってもらえ。


明智光秀

2018年12月31日 | 歴史仮説

 明智光秀は織田信長を裏切った家臣として長く汚名を着せられてきたが、いろいろ調べてゆくと文武両道の優しい武将で、光秀のおさめた土地では民が尊敬すらして神社までたてているらしい。

光秀にまつわる心温まるエピソードには次のようなものがある。

エピソード1
 光秀はいいなずけがいたが、結婚する前に痘瘡を患い、顔にあばたができてしまった。慌てた父親が顔かたちの似た妹を嫁がせようとしたが、光秀は姉に決めているとして姉を娶った。


エピソード2
何年かして城を捨てなければならないような争いが生じて身重の妻を背負って急な坂道を上って逃げた。家臣が見かねて代わろうと申し出たが断った。

エピソード3

貧しくなった光秀だったが連歌の会というのを持ち回りでやっていて、光秀が饗応する番になった。
妻が髪を切ってその費用を工面した。


 光秀が織田信長を裏切った理由としてよくあげられるのは、

 身内を人質に出して殺させてしまったこと。これは母親を人質に出してそれを無視して信長が策を進めて殺されてしまったという事だが、そもそもこの女性は光秀の母ではない。

 信長が家臣の面前でさんざん光秀を笑いものにして恥を欠かせた。よしんばそれが事実だったとしても、それだけで光秀が君主殺しをするとも思えないほどの人物である。

 光秀本人の野望などがあげられるが、どうもそういうタイプの人にはみえない。

 最近では信長は朝廷に圧力をかなりかけており、朝廷側から光秀に信長謀反の密命を授けたという説有力である。

 光秀が親類縁者を危険にさらし、かつ秀吉まで納得済みで反逆したとしたら、当時の感覚としては朝廷への忠誠心以外に考えられない。

 信長は朝廷からの官位を受けず、天皇をないがしろにするような態度を示し、ついには自分を神とみなすようになっていた。

 NHKの大河ドラマ黒田官兵衛では、信長が日本に2王はいらぬといったところで光秀が驚き、本能寺の変を起したことになっている。

 光秀は貧しい時代によく連歌の会などもよおしていたとも思われるが、こうした会は公家たちとの情報交換の場であったことは間違いない。本能寺の変の前にも愛宕神社で連歌の会に出席している。このとき詠んだ句が有名な

 時は今雨がした知る五月かな

 余談になるが昔から歌には秘密があるといわれており、例えば万葉集、古今集などは、解釈の仕方により皇室の秘事を伝えているという。古今伝授などが三種の神器にまつわることがらを含んでいることは、かなり後世になって神道の秘伝書などに書かれている。つまり歌には表面の意味と裏の意味があり、公家や太古の秘密を知るものは歌にその秘密を込めたのである。

 関ケ原の合戦があった1600年(慶長5)、丹後の田辺城を石田三成の軍勢に囲まれた細川幽斎が、籠城・討死を覚悟すると、そのことを知った後陽成天皇は、勅使を派遣して和議を講じさせた。天皇は、幽斎が討死すると古今伝授を伝える者がいなくなるので、本朝の神道奥義、和歌の秘密が永く絶え、神国のおきても空しくなることを憂えたという。

 もう一つ。光秀の妻 煕子の実父は勘解由左衛門範熙とされているが、この氏の名字の由来となった「勘解由使』という役職は平安時代に国司の引継ぎをスムーズにするための地方行政監査機関の職名である。国司が交代するときに紛争が起こりやすかったために査察調停してスムーズに交代させる監査役であった、この時代に表向きには廃れていたとは言われているが、天皇直属の密使としてつながりをもち、生き残っていたのではないかとも考えられる。つまり、光秀は煕子と共に天皇の密使と連携して戦国の世を太平に治める計画に参加していたのかもしれない。光秀が利休に転身して秀吉の軍師になるなどは通常の武士が行いうることではない。忍者で言えば上忍と言われる階級の者が行いうる技であろう。 

 利休というのはもと千宗易といわれ、織田信長とよしみであった。だから、最初から光秀が利休であったわけではない。つまり、もし光秀が利休になりかわったのは、信長を殺害した後で、利休は宗易と入れ替わったことになる。一時的に二人で一役を演じていたという説もある。

 竹やぶで殺害されたのは別人であったということになる。晒された光秀の首は顔が判別できない状態であったという。

 光秀利休説を唱える人(出口王仁三郎)によれば、もともと光秀は主君に謀反を興した人物が長く統治できるとは考えておらず、秀吉と通じて勝ちを譲ることになっていたという。

 これで秀吉が四国から一番乗りでき、光秀軍にやすやすと勝てた説明がつく。

 そして秀吉の軍師として生き残り、大陸侵攻のアドバイスしていったという。 

 光秀にはもう一つ天海という徳川家康のブレインともいう僧侶になったのではないかという説がある。

 王仁三郎はこれについては書いていない。

 ただし、王仁三郎が蒙古に神国建設を唱へた際、軍事顧問として天海と名乗り、馬賊三百数十名を従へ蒙古入国しようとしていた。また、しかも満州から内蒙古の地にまたがる明光国(明智光秀の二文字を使った国)を打ち立てるよう紅卍会と協力してもいた。

 私は利休説を取っていたので、天海説の受け入れ慎重であった。しかし、多くの家臣まで巻き込んで大芝居を討った光秀が正体がばれそうになったくらいで切腹するとは思えない。

 利休の死は不可解である。秀吉の不況を買ったという説もあるが、秀吉は利休の首検分すらしていない。
 朝鮮への出兵を諌めたともいわれているが、大陸への進出は、もともと光秀の献策であった。

 九州でキリシタンが大名を隷属化し、一部を植民地化しはじめ、従わない神社仏閣を焼き払い僧侶を焼き殺し、日本人女性を海外に売り飛ばしていたからだ。

 この惨状は記録に残っており、歴史家も知っている。

 日本からローマ法王に会うため渡航した天正少年使節団の記録には

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』とある。

 秀吉は九州でこの惨状を目にしてキリシタンを禁制にした。

「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」と記録されている。

 当時のスペインポルトガルは人心掌握と侵略のためにキリスト教を利用していた。

 信長、光秀、秀吉はやがて欧州が中国大陸を制覇して日本に襲ってくることを知り、懸念していた。

 そこでそうなる前に、アジア大陸を治めようとした。おそらくそれが光秀の策であった。

 ただその方法が欧州の真似をして侵略といわれてもいたしかたないような強引なやり方になってしまったのは、秀吉に日出ずる国としての矜持があり、他国の内情が分かっていなかったことにもよる。

 日本人には聖徳太子の時代より日のいずる国というプライドがあり、他国、特に朝鮮側が日本という国をリスペクトする気持ちも歴史観もなくなっているということを十分に理解していなかった。

 そのため聖徳太子の時も小野妹子が返書を失くしたことにし、秀吉の時も小西はいい加減な報告をせざるをえなかった。相手の無礼な返答に使者が苦労するのである。

 朝鮮も中国も何度も支配者が入れ替わり、日本の天皇何するものぞという感覚をもっていた。また、お互い相手の戦力に関しても甘く見ていた。出兵した日本兵は最初でこそ破竹の勢いを誇ったが後半疲弊し、多くの犠牲を払っている。明もかなりのダメージを負った。

 光秀が利休となり利休が切腹した理由としては利休が実は光秀であることがばれそうになったと言っている人がある。

 もうしそうであるなら、光秀はこんなことでは死ぬわけはない。味方の多くを逆臣にしてしまい、謀反のかどで死なせてしまった。それには理由のあることとはいえ、ばれるからといって腹を切る道理がない。

 光秀は国家の安寧を画策し、秀吉に大陸を任せ、国内統治を家康に託する策に出たと考えてもおかしくはないだろう。

 また朝廷が光秀に指令を出すとしたら、高齢に達した太閤の跡継ぎを誰にやらせるか。太閤の子供にやらせるのか。だが、秀頼が嫡男でなければどうなのか。

 光秀=利休説をとるものは利休が切腹することで利休が永遠の生命を得、秀吉は4畳半に引き込まれ凡爺になったといわれている。

 たしかに晩年に近づくほど子供である秀頼を溺愛し、ただの子煩悩な認知症老人になってしまったともおもわれる。

 利休の弟子に腹を切らせたりもした。また家来や侍女をまとめて殺害した秀次への仕打ちは残酷だった。

 光秀は、秀吉の認知症に気づいて、自ら軍師としての役割を終わらせることで腹を切ったことにし、秀吉に朝鮮を任せ、国内は徳川家康に統治させることにしたのではなかろうか。

 あるいは正体がばれそうになり、千宗易の本物の方に責任をとらせて切腹させたのだろうか。

 万一秀吉が途中で倒れても、朝鮮出兵が頓挫するだけで、国内の統治は徳川が行えるようにすることが日本の国としてもベストと判断したのではないだろうか。

 光秀が天海になったという説はかなり流布しており、ネットでも容易に見つけることができる。

 光秀=天海とすれば春日局を登用して家光を育てた理由もうなづける。

 春日局は逆臣といわれた光秀の家臣斎藤利三の娘であるといわれる。そしてここがまたあいまいなのだが、春日局お福の血筋はどこかで明智家とつながっているらしい。つまりお福の母親がはっきりしないのだ。

 一説には利三は光秀の異母兄弟であったためとされている、そうすると春日局は光秀の姪にあたる。

 徳川実記には「明智日向守光秀が妹の子齋藤内藏助利三が女」と記されている。しかし光秀の妹の子が利三というのは年齢的に無理がある。姉の間違いではないかと、記録自体を否定する説もある。

  この光秀の「妹」というのはかなりの謎で、妹についての記録は信長に嫁いだ御ツマキくらいだろうか。あまりないという。

 光秀は煕子を失った後、以前姉とは違うと退けたそっくりの妹を娶ったのではないかという説もある。

 なぜなら、本能寺の変のあと、坂本城に亡くなったといわれる光秀の妻子がいたという記録があるからである。

 王仁三郎の説ではお福(春日局)は齋藤利三の妹となっている。

 また春日局の出生地も3か所ほど説があり、そのなかの亀山城説は少数説ではあるが、光秀のいた城である。

 仮に妹が光秀の義理の妹。つまり煕子の妹であり、光秀が煕子亡き後妻として娶っていて、その子供ができ、それを利三の妹あるいは娘として養女に出していたとしたらどうであろうか。

 年齢的にはないことはない。しかも出生地が光秀のいた亀岡城という説もあること、利三がこのころ、たびたび亀岡城といったりきたりしていたという記録がある。

 お福は光秀が死んだ後、利三の死に様をみたという説もある。いずれにしても公家たちの間で当時の文芸を学ぶ天才教育を受けている。その後小早川家臣の妻になっているがこれが関ヶ原の合戦で勝敗を分けた小早川とつながっていく。偶然であろうか。

 そのご夫の浮気で離縁して、家光の乳母になったという突然の展開にだれしも面食らう。家光の乳母を広告で募集するものだろうか? 

 そして家光は春日局と家康の子供ではないかとも言われている。

 家光の家は家康から、光は光秀からとられたとも言われてる。

 では、豊臣と徳川の敵対関係はどう考えればよいであろう。大阪の陣である。

 実は豊臣秀吉の子といわれていた豊臣秀頼は、秀吉の子ではなく、淀君と家臣大野の不倫によって生まれた子ではないかという説がある。

「一、おひろい様之御局をハ大蔵卿と之申し、其の子ニ大野修理と申し御前の能き人に候、おひろい様之御袋様と共に密通之事に候か、共ニ相果てるべし之催にて候処に、彼の修理を宇喜多が拘し置き候、共に相果てるに申し候、高野江逃れ候共に申し候よしに候、(後略)、

—慶長四年十月一日付内藤元家宛内藤隆春書状」

 

 それまで秀吉は幾人もの側室と交わったにもかかわらず子供ができなかったのである。

 大野長治は一度徳川家康暗殺で謀反を働いている。当時より、治長は淀殿と密通していたとの噂があった。

 家康を殺害しようとした大野が淀君を籠絡して子を産ませて、秀吉の子と僭称しているとすれば、家康が豊臣に恩義を感じていたとしても抑えねばならない。

 

まずは出口王仁三郎が明智光秀について述べている部分。

「 今回亀岡大道場に於て、皇道大講演会を開く事になりました。併し皇道大本は敬神尊皇報国の大義を唱導する一大教団なるに拘はらず、所も有らうに、逆賊無道主殺しの、不倫不徳の明智光秀の城址を選ぶとは、物好きにも程がある。且又皇道の主義に対しても、何んだか釣合ひの取れない行り方でないか、相成るべくは至聖至浄の地の高天原と称する綾部の霊地に於て、開始されては如何と、知人より種々忠告を受けた様な次第であります。講習の諸氏も亦是と御同感の方々がお有りであらうと思はれます。
 それは兎に角として、私は序ながら明智光秀に就て、一言述べて見たいと思ひます。光秀が日向守と称し姓を惟任と改められたのは、織田信長公に仕へてから後のことであります。光秀の祖先を調べて見ると、清和源氏の末裔なる、六孫王経基の子多田満仲の嫡子、源の頼光七世の孫であつて、伊賀守光基と云ふ人があつた。其子の光衡が文治年中、源頼朝より美濃の地を賜ひ、土岐美濃守と称した。その光衡が五世の孫、伯者守頼清其の二子に頼兼なる人があつて、その頼兼の七世の孫こそ、十兵衛の尉光継で光秀の祖父に相当り、光秀は光綱の一子であります。この光綱と云ふのは美濃国可児郡明智の城主で、明智下野守と称へたが、早世したので光秀が尚幼弱なために、光綱の弟兵庫助光康を準養子として、明智を相続せしめたのであります。光康は後に宗宿入道と称した人で、有名な明智左馬之助光春は此人の子であります。故に光秀は其の叔父なる光康に養はれて成人したもので、光康は実父にも優る恩人である。光秀の母徳明院は光綱の死後、間もなく此世を去り(濃州明智蓮明寺に葬る)遺孤として可憐なる光秀は、用意周到なる光康の訓養に依り、幼にして聡明一を聞きて十を知るの明があつたといふ。
 光秀は其叔父の光康と共に、明智の城中に於て死せむとするを、光康が強つての乞ひに涙を呑んで、光康の息子光春及び甥の光忠を拉して諸国を遊歴し、千辛万苦の末朝倉氏に仕へ、後織田氏に聘せられて、幾多の戦場に軍功を積現し、左右に策を献じ、信長をして天下に覇たらしめ、自分は又江州丹波両国五十四万石の大諸侯に列し、君臣の間漆の如く密にして、一にも明智二にも光秀と寵遇厚く、信長の甥の信澄に光秀の四女を嬰らしめたる程であつた。一朝にして武田勝頼を亡ぼしてより、信長の心意行動共に稍驕慢の度を加へ、僅少微細のことゝ雖も立腹して功臣光秀を打擲し、家康の饗応にも再び之を罵倒し侮辱を与へ、終にはその近習森蘭丸をして、鉄扇にて其の面を破らしめ、近江丹波五十四万石の領地を召し上げて、以て中国に放たんとするに至つた。忍びに忍び耐へに耐へたる勘忍袋の緒が断れて、光秀にとりては、不本意極まる、本能寺の変起るの止むを得ざるに立到らしめたるも、此間深き理由のあらねばならぬ事であらうと思はれる。後世挙つて光秀を逆賊と呼び、大悪無道と罵る、果して是とすべきものであらうか。
 長岡兵部大輔藤孝は光秀女婿の父である。『叢蘭欲茂秋風破之、王者欲明讒臣闇之』と痛歎し、光秀もまた、
  心なき人は何とも云はゝ云へへ
    身をも惜まじ名をも惜まじ
と、慨したのであつた。光秀が大義名分を能く明めながら、敢て主君を弑するの暴挙に出づ。已むを得ざる事ありとするも、実に惜むベぎ事である。然し乍ら元亀天正の交は恐れ多くも、至尊万乗の御身を以て、武門の徒に圧せられ給ひ、天下は強者の権に属し、所謂強食弱肉の世の中の実情であつて、九州に島津、四国に長曽我部、毛利は山陰山陽両道に蟠居し、北陸に上杉あり、信越に武田あり、奥州に伊達あり、東国には北条等の豪雄があつて、各自に其の領地を固め、織田徳川相合し相和して、近畿並に中国を圧す。群雄割拠して権謀術数至らざるなく陶晴賢は其主なる大内氏を亡ぼし、上杉景勝は其骨肉を殺し、斎藤竜興は父の義竜を討ち、其他之に類する非行逆行数ふるに遑なき時代に際し、独り光秀の此挙あるを難ずるの大にして且つ喧ましきは、五十四万石の大名が、右大臣三公の職を有する主人を弑したりと云ふ事と、戦場が王城の地にして其軍容花々しく、以て人口に会炙することの速なると、加ふるに世は徳川の天下に移り、世襲制度を変ぜしめたる上は、光秀を其侭に付して置く事は、政策上尤も不利益であつたことゝ第二第三の光秀出現せむには、徳川の天下は根底より転覆する次第であるから、偏義なる儒者が光秀を攻撃したのが、今日光秀に対して批難の声が特に甚しいのではないかとも思はるゝのであります。
 承久の昔、後鳥羽院より関東の軍に向つて、院宣を降し玉ひし当時に於て、関東九万の大軍中、この院宣を拝読し得る者は、相模の国の住人本間孫四郎只一人より無かつたと云ふ。応仁以降海内麻の如く乱れ、文教のことは纔に僧侶の輩に依りて、支へられしに過ぎなかつた。況んや元亀天正の戦国時代、将軍義照亡びて、世に武門を主宰すベき人物皆無の時に当り、文学に志し君臣父子の大義名分に通ずるの武士、幾人か在つたであらう。
  神嶋鎮祠雅興催  篇舟棹処上瑶台
  蓬瀛休向外尋去  万里雲遥浪作堆
 是れ光秀が雄島に参詣されし時の詩作である。臣下を教ふるに当つては、常に大義を説き、主君が築城の地を問ふに対し、答ふるに地の利にあらずして、其の心にありといふが如き、至聖至直の光秀にして、本能寺暴挙のありしは、深き深き免るべからざる事情の存せしは勿論であるが、然し乍ら主殺しの悪評を世に求むるに至りしは、光秀の為に反がへすも残念な事であります。我々は大にその内容を攻究せずして、猥りに世評のみに傾聴すべきものでないと思ふ。独り光秀が行動の是非を沙汰する斗りでなく、又時代観の相違を知るの必要があらうと思ひます。
 又光秀の家庭たるや、実に円満であつて、他家の骨肉相食む如き惨状あるなく、一門残らず賢婦勇将にして、加之古今の学識に富み、彼の左馬之助光春が雲竜の陣羽織を比枝山颪に翻へし、雄姿颯爽として湖水を渡り、愛馬に涙の暇乞を為せし美談のみか、臣斎藤内蔵介の妹は、常に光秀に師事して学ぶ所多く、後に徳川家の柱石と仰がれし烈婦春日局とは此の婦人なりしが如き、実に立派な人物ばかりであつた。又光秀の家系は前述の如く立派な祖先を有し、家庭また斯の如く美はしく、且つ家系は宗家の控へとして、美濃全国に君臨し、近江の佐々木、美濃の土岐とて足利歴々の名家である。古歌に
  曳く人も曳かるゝ人も水泡の
    浮世なりけり宇治の川舟
で、時世時節なれば止むを得ざるとは云へ、実に織田家の臣下としては、勿体なき程の名家であつたのであります。明智光秀の波多野秀治を丹波に攻めしが如きは、信長の命に依る所である。波多野兄弟等抗する能はずして、軍に降る。信長許して之を安土に召す。兄弟能く信長の性格を知つて容易に到らず。茲に於て光秀は安土に往復し質を入れて誓うた。兄弟は光秀の心を諒して安土に到るや否や、信長は其遅参を詰つて、慈恩寺に於て切腹せしめた。是信長秀治兄弟を欺くのみならず、光秀をも欺いたのである。
 太閤記に云ふ、秀治信長の表裏反覆常なきを怒ると雖も、今更為すべき様なし、敷皮に直り光秀に向ひ、儼然として曰く、此頃の御懇切は草陰にても忘れ申さず、但飛鳥尽きて良弓蔵めらるゝと云ヘば、御辺も身の用心をなし玉へ、信長は終に非業の死をなし給ふベし云々。秀治の臣下怒りて光秀の質を殺すも、秀治の此言を聞きては、決して光秀母を殺すと云ふべからず。これ疑ふべからざるの事実である。
 然るに中井積善の如きは
光秀母を餌にして以て功を邀ふ、犬テイも其余りを食はず』とか、又儒者の山形禎なども、『光秀凶逆母を殺し君を弑す、他日竹鎗の誅、天の手を土民に藉りて』云々
と激評せるが如きは、悉く見解を誤れるものである。吾人をして当時の有様より評せしめたならば、『信長無残にして、光秀をして其母を殺さしむるの悲境に立たしむ』と言ひたくなる。
 光秀の質を殺すは秀治の臣下にあらず、将た光秀に非ずして、実に是れ信長なりと言ひたいのであります。
 田口文之、信長を評して曰く、
『行詭計於其妻以斃其父右府所以不終』と、新井白石、信長を評して曰く、
『信長と云ふ仁は父子兄弟の倫理絶えたる人なり』と。
 平井中務大輔が、孝道の備はらざるを諌めて、死するも宜ならずや。
 其他猜疑の下に、林佐渡守、伊賀伊賀守、佐久間右衛門尉の如き忠良なる臣下の死し、斎藤内蔵介等の如きも、信長の仕ふベき主にあらざるを見て身を退き、秀吉の如きも一日光秀に耳語して曰ふ、
 『主君は惨き人なり、我々は苦戦しで大国を攻め取るも、何時までも斯くてあるべきぞ。やがて讒者のために一身危からん、能く能く注意せられよ』云々と。
 菅谷秋水、信長光秀両者を評して曰く、
 『信長は三稜角の水晶の如く、光秀は円々たる瑪瑙の玉に似たり』と、名将言行録に光秀を評して、
 『其敵を料り勝を制し、士を養ひ民を撫す、雄姿大略当時にありて、多く其倫を見ず』云々。
 是も余り過賞の言ではあるまいと思ふのであります。
 以上の所論は信長対光秀の経緯に就て略叙せしのみならず、光秀の黙し難き事情のありし事も、幾分か伺ひ知る事が出来るのであらうと思ふ。信長は光秀の反逆がなくとも、何れ誰かの手に依つて亡ぼさるベき運命を有つて居つたのであります。亦光秀が其実母を質とせし如く論ずるも、光秀の母はその幼時に既に世を去り、遺孤として叔父の光康に養はれしものなる事は前叙の通であつて秀治に質とせしは叔父の妻で、即ち光春の母である。故に質を殺すの原因も亦前陳の如く、信長より出でたるものにして、光秀に取りては、実に気の毒千万の寃罪である。何うか史上より光秀殺母の点だけは抹殺したいものであります。
  時は今天が下知る五月蝿かな
 世界各国今や暗黒界と変じ、神代の巻に於ける天の岩戸の隠れの惨状である。吾人大日本人は一日も早く、皇道を振起し、世界二十億の生霊を救はねばならぬ時機に差迫つたのでありますから、世評位に関はつて躊躇して居る場合ではない。吾人に言はしむれば、光秀の城址たる亀岡万寿苑は、実に言霊学上却つて適当の地であらうと思ふ。その亀の名を負ひし地点は、実に万世一系の皇室の御由来を諒解し奉り、万代不易の神教を伝ふるに万寿苑の名また言霊学上何となく気分の悪くない地名である。亦明智光秀といふ字も、明かに智り光り秀づると云ふことになる。講習会諸氏は、皇道の大本を明かに智られ、神国の光り秀妻の国の稜威を、地上に輝かさんとするには実に奇妙であると思ひます。其れ故に吾人は光秀の城址だからと云つて別に厭な心持もしないのであります。』 
出口王仁三郎全集 第一巻
 
 
 
「 千の利休と云ふ人は、明智光秀の成れの果てである。明智光秀は山崎の一戦に脆くも敗れて、遂に名もなき一土兵の為めに竹槍にてつき殺されたと、歴史に伝へられてあるがあれは嘘である。天王山の一戦で勝敗の決することは、初めからよく承知してをつたが、光秀は将士の度々の迎へをうけながら、態とグズグズして居て、遂に勝を秀吉に譲つたのである。実は疾くに光秀と秀吉との間には妥協が成立して居たのである。聡明なる光秀は、たとへ如何なる事情があつたにもせよ、いつたん主殺の汚名を着たものが、天下の将軍となつても永続きがせぬと云ふ事をよく承知して居て秀吉に勝を譲つたのである。そして彼は頭を丸めてお茶坊主となり、萩の枝折戸四畳半の中にあつて、天下の大事を論じ、謀を廻らして秀吉を太閤の地位迄押しのぼして仕舞つたのである。彼は実に秀吉の好参謀であつたのである。朝鮮征伐なども、彼の献策に出たものである。茶室に這入るには丸腰となつてにじり口より入らねばならぬ。元亀天正時代の荒武者を制御操縦するに、もつて来いの場所方法であつた。第一秘密を保つに絶好であつた。後彼は娘の美貌が禍の因をなして自殺を余儀なくせしめられたと、世に伝へられて居るが、全く跡形もない事である。英雄、英雄を知る諸般機微の消息は俗人には分らぬ。
 筆者がこのお話を伺つて、或時の事二三の方々にお話して居りました、偶座に岡山の太田栄子夫人が居られて、この話を裏書する面白い物語をせられましたので、左に御紹介致します。
 太田夫人は、大正九年の頃、聖師様から「千の利休は明智光秀である」と云ふ事を承はつて、それを師匠(お茶の先生)の名倉某氏に話されたさうです。さうすると名倉氏はそれを又家元(当時第十三代円能斎氏)に話されました、すると円能斎氏の顔色がサツと変つて暫くは物も云はれなかつたさうですが、太い吐息と共に口を突いて出た言葉は、「まあどうしてそれが分つたのですか」と云ふ事であつたと云ふ事です。そして、更に語をついで、「その事こそ、千家に伝はる、一子相伝の大秘密であつて、後を嗣ぐ長男のみが知つて、次から次へと言ひつたへ語りつぎて、世に知るものが絶えて無い筈です。どうしてそれが分つたのでせう」と聞くので、名倉氏は「霊覚によつて分つたのです。丹波の国綾部町に、大神通力を供へた聖者がありましてその人の霊覚によつて、其秘事が分つて来たのです」とて、聖師様に関するお話をせられました。円能斎氏はいたく驚き且感じ入り、遂に執事を派して綾部に参拝せしめ、次で自らも亦参拝せられたさうですが、深くこの事を秘して人に語らなかつた。名倉氏も又秘して仕舞つたのですが、不思議な事には三人が三人共、相前後して同じ心臓病の為め倒れて仕舞つたさうです。
 太田夫人は「これは秘してはならぬと思ひ、皆さんにお話して居ります」と語られました。一座のものは是を聞いて、今更の如く驚き、聖師様の称へ盡せぬ御霊覚の程を感じ入りました。そして聖師様がもし、此霊覚によつて訂正さるるならば、世界の歴史も随分変つて来るかも知れないと思ひました。」
 
三鏡より
 
・・・・・・・・・・・・外面的には利休は、ついに豊公に殺されたが、内部的精神的からみれば、豊公は利休に殺されたのである。時めく天下の関白が、利休のために、四畳半裡に引きずりこまれて以来の豊公は、もはや以前の豊公ではない。豊公は内部的に利休に殺されて、英雄の分際からただの凡爺にたちかえつて、未見の世界が見られたのは、小不幸中の大幸福だつたのである。また利休は豊公に殺されたおかげで、永遠の生命を獲得したのであつた。・・・
 
 出口王仁三郎著作集第3巻より
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自国で受け入れられない原子力を他国に売る誤り

2018年10月18日 | Weblog

子供でもわかる。大人のごまかし。それを政府が支援することは天則に違反している。違反は災いを招き入れている。やめるべき。


核戦争を評価するなどという発言をする者は許されない。

2018年02月05日 | Weblog

アメリカが核戦略を見直したとしても、日本は核を評価するなどという言霊を発するべきではない。

日本は被爆国として、核戦争に一貫して反対の立場を貫き、核以外の解決策を模索すべき。

アメリカの核政策を高評価するなどという事を口にすれば、日本は威信を失う。


国教樹立

2018年01月24日 | Weblog

国教については、ドイツでグナイストら複数の憲法学者にすすめられていたにも関わらず、明治憲法では決めなかった。

その理由はおそらく、明治維新、古代の制度にならって神祇官がすぐに作られたが数年を経ずして降格、廃止になったこととも関係があるだろう。

日本の宗教といえば神道か仏教だが、仏教の教理からは天皇は出てこない。天皇は神道の教義から導き出されており、天皇陛下を国の中心に据えるとすれば神道しかない。

ところが明治維新いざ神祇官を設置してみると様々な教派間で意見の対立があり、まとまらない。

伊藤博文らの目には神道が国をまとめるに役立つとは到底思えず、欧米列強と肩を並べてゆくには宮中と内閣を切り離す必要があると考えた。

思うに古代の神祇官制度は、神託の存在が前提とされている。つまり神の意思を何らかの形で知り、それを国政に反映することを前提としている。

ところが、この時、神の意思をうかがう方法が失伝していた。

少なくとも神祇官にいた役職者たちは伝統を重んじ、口伝や祭祀を伝えていたが、肝心の神意をうかがうという方法を知らなかった。(占いレベルではあったかもしれない)故に形式の違いで論争になり、派閥争いになり、それが国の方針を固めようとする時期に機能しなかった。

実は在野では出口王仁三郎が生まれたのは明治四年で、彼が想念になるには少し時間が必要であったが、彼が学んだ本田神徳という霊学の大家はすでに(文政5年1月13日1822年2月4日) - 明治22年(1889年4月9日)神がかりや神占の研究をしていた。後に副島種臣が弟子となっている。

伯家神道のが学頭高浜清七郎という人が宮中に呼ばれそうになったが結局実現しなかった。

すでに、わが国の宗教間、宗派間の対立があること、国民をけん引するだけの内容が、仏教にも神道にももはやなく、いずれかを国教としてもちいても、教義教派の対立が生じて、それが政治に影響することが見えていたからである。

明治維新。1968年 神祇官制度が作られた。


君主立憲VS天立君主

2018年01月21日 | Weblog

いままで説明をあいまいにしてきた部分について現在の意見をまとめて書いておく。誤りかもしれないし、今後変わるかもしれないが、現時点の考えという事でご容赦願いたい。

明治憲法では井上毅と伊藤博文の意見が対立し、また識者の意見も対立して、明治憲法はどちらでも解釈できるように憲法を作った。

 

キーワードになるのが「輔弼」ということばで、簡単に補助あるいは助言と承認と解釈すべきかどうかいろいろ意見はあるだろう。

そして最も大きな意見の対立は、政府あるいは内閣、議会の輔弼なしに天皇が独断で採決できるかという事である。

この点について出口王仁三郎は天皇陛下の独裁でいいとして天立君主説をとり、天皇機関説を軍部と一緒になって批判した。

天皇機関説は天皇は国の機関の一部であるから、そういうわけにはいかない。憲法が上にあり、天皇が下にある立憲君主の立場をとった。

昭和天皇は明治憲法を立憲君主として解釈されていた。また張作霖爆殺事件の教訓から、天皇が強権を発動すれば国の組織が壊れてしまうという危機感を持たれていた。

この点について昭和天皇は終戦後に終戦時は昭和天皇の決裁で周旋できたのに開戦時はなぜできなかったのかと聞かれ、開戦時はそれをやったとしても軍部が内乱を起して日本がめちゃくになっただろうという予測を挙げた。

秩父宮が憲法停止して親政にするようを意見具申したという噂もあるが、天皇はこの時、明治天皇の意向が立憲君主であったと信じ込まれていたようだ。

また他所で専制君主といわれることを嫌っていた。立憲君主として自らを意識されえいたおであろう。

現代の視点から見れば、天皇陛下のお立場が法的に正しく、出口王仁三郎や、軍部での天皇機関説排撃は時代遅れのナンセンスという事になる。

そう思われる方は、ここから先を読まないでほしい。理解できないであろうから。

また私はそれに対して反論するつもりもない。反論している時間が惜しい。

私は出口王仁三郎が書いているように、天立君主立憲が正しいと思っている。

そしてその君主は祭祀を通じて天皇として立てられたその人である。

現在の祭祀が正しいかどうかはわからない。正しい方法を伝えていた家が断絶し、太古の祭祀を行う方法も散りじりになってしまった。

一種のシャーマニズム国家が日本のあるべき姿だとしたら、その祭祀方法が今ではわからなくなってしまっている。決められた一族が、太古に決められた方法で、決められた時期に行うことで、人間天皇が天照大神と一体になり、完璧な政治がおこなわれると考える人びともいる。

 

 

近世中世を経て変節した祭祀がどの程度正しいかもわからない。

そもそも三種の神器が同殿同床になっていないこと、天皇が関東おられること自体が「いいのか」とも思われる。

ただそのようなオカルト的側面は真面目に語られる時代ではないし、即物的な理由から天皇と皇室のあり方が考えられ、決められる今日である。

私はできるだけ出口王仁三郎の考えに近づこうとしてきた。それは、現代の大本の解釈かどうかは別として、明治初期、あるいは戦前の思想に近いものがあった。

危険思想として現代人が捨て去ってきたものである。

私は出口王仁三郎の残した文献を手掛かりに、明治初期や戦前の思想を読み解いてみると、そこには世間で学者の言っていることと違う問題点が見えてきた。

これは議論してわかるものではない。

仮説を立て、文献を探してゆくと必ず見えてくる情景がある。

議論するには反論しなければならないが、その時間は私にはないので結論だけの推論を記しておく。

この説は現代にあっては極めて少ないマイノリティであるので、書籍が存在しないのだ。

この書物のあふれる時代に・・。

昭和天皇は天皇機関説に反対ではなかったといわれる。また秩父宮の天皇親政に対して反対意見を出されていた。政治に積極的に介入されようとしなかった。という話が事実であれば、昭和天皇の意見は出口王仁三郎の意見とは異なっていた。

出口王仁三郎は天皇機関説に反対し、天皇親政を主張していた。そのことは今や文献を検索すればわかる。

おろかにも出口王仁三郎が自分の出自を盾に自分が天皇になろうとしていたなどというのはまるっきり誤謬で、出口王仁三郎は皇道を正しい道に戻そうと必死だったのである。

 ところが、天皇主義のなかには天皇機関説に共産主義思想を混ぜて説く思想家が力を持ち始めた。それが北一輝と大川周明であった。彼らの説は畢竟国家主義であり、天皇は機関の一つの役割に過ぎない。またファシズムの影響を受けた思想を紛れ込ませた統制派もあるが、これも天皇の意見が違っていれば天皇を意見を聞かなくてもいい、天皇を変えるという考えまで行く思想だった。

 つまりひとくくりに戦前の天皇制といっても違いがあった。

 現代思想から見れば、皇道派の出口王仁三郎や真崎らの考えの方が危険思想のように見えてしまうかもしれない。天皇親政など言うのはできるものではない、と思っている人も多い。また他国の歴史では国王の独裁体制がうまくゆかなかった例が山ほど歴史書として流布している。

 正直、専制と、独裁体制と天立君主立憲の線引きがあいまいだと思われるだろう。

 出口王仁三郎は天皇は独裁でいいという。天皇は民主的に決まるのではなく、天立であるから、天に伺うほかない。うかがう方法を私は知らない。すでにかなり前に失伝しているらしく日本書紀には継承権のトラブルが度々みられる。それで現在は長子相続になっている。民が決めるものではない。そしてそれを決める法も勝手に民が決めてよいものではない。

 憲法については君主の意思と民の公論にて決めることは可であるが、君主の意思に反して法律をつくるというようなことはあり得ない。君主の意思が先で、大臣や議会の議論はその意思決定を実際の形にして運用するために議論する。

 私は天立君主立憲とはそういうものであると考え、天皇は憲法の方向性や運用にかかわり、場合によっては緊急停止、変更などの指示を出すべきだと思う。

 生きた運用の命令は神から天皇へ、天皇から国民へと向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「輔弼」という言葉

2017年12月27日 | Weblog

大日本帝国憲法には輔弼という言葉が使われる。

日本国憲法では

「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。」とされておりこれがそれに近いものとされている。

輔弼といい、助言と承認といい、いずれにしても主体は天皇にあるということを多くの解釈者は忘れている。

いまの日本では助言と承認を与えているのは天皇の方であって、実際に決めているのは内閣ではないのか。

大日本帝国憲法においても、天皇を輔弼するのであって逆ではない。旧憲法では一般国務について「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」(55条1項)と定められていた。

この解釈が天皇機関説の美濃部と、上杉穂積とで違った。

美濃部は大臣の輔弼がなければやるべきことをやっちゃいけないと解釈したが、穂積と上杉は国務大臣の輔弼は天皇の統治権行使には不可欠なものではないとしていた。

輔弼を助けと承認と解釈してわかりやすく説明すると、

戦前の憲法「国務各大臣は、天皇を輔弼し、その責めに任ず。」には二つの解釈が可能だった。

A、天皇は絶対大臣の助け承認なしになんかやっちゃいかんという解釈。・・・美濃部達吉

B、いやいや助けと承認をうけるのが手順だけどなくても天皇は権利行使できるという解釈。・・・穂積、上杉

 

結論から言えば、明治憲法は二つの意見を持つ人たちの合作であった。伊藤博文は立憲君主を目指したが、井上毅は伝統法学と古典の立場から憲法を構築したが、いずれも宗教的素養がなく、国教樹立にまでは至っていない。

井上にとってはそれが両親であったかもしれぬが、出口王仁三郎は国教樹立の必要性を説いている。

 

いろいろと書いてきたが、天皇親政という視点からみると、この複雑なほつれがとけてくる。

天皇が憲法を通じて国民を統治し、大臣は家臣として天皇を補助し天皇の意思の具現化を補助すると考えるべきであろう。

大臣が天皇を助けるのであって逆ではない。

明治憲法はどちらにも解釈できるよう作られていた。あるいは盲点だったかもしれないが、元田あたりはわかっていたようだ。明治天皇もそれを許した。

 

 

 

 

 

 

 



 

 




超訳 憲政大意(穂積八束)

2017年11月25日 | Weblog

国家統治の主権の所在に違いがあるのは国体に違いがあるからである。

主権の所在は歴史の結果により、国民の確信からでる。

各国歴史が違い、国民の歴史が違うために国家の体制が異なる。

主権は国家の意思であり、主権がなければ国家もない。

しかし、国家は自然意思をもってはいない。人の意思を国家の意思とする。

いかなる人の意思権力を国家の意思とするかは歴史の流れを見、国民の確信に問うべきであって、国体の違いはここから生じる。

特定一人の意志権力を国家の意思とするものは君主国体

多数の群衆の意志権力を国家の意志権力とするものを民主国体という。

国家内部の主権存立の態様の違いであり、国家そのものに種別があるのではない。

君主国、民主国の違いは国家の種類の違いとしてみるのではなく、国体の違いとみる。

国家の概念と国体の概念とを区別することは、立憲政治の本質を明らかにする一大要件である。

統治主権の行動の形式をさして政体という。国体の違いは主権存立の違いからくるが、政権はすでにある主権の行動のいかんをいう。国体と政体は異なった概念である。

故に国体が同じであって政体が異なることがある。政体が同じで国体が違うこともある。一定の国体が一定の政体に伴うものではない。

国体と政体の変更は革命である。政体の変更は制度の改正である。

しかるにこの二つの概念を混同しているために(他国の)立憲政体を導入しようとして混乱してる。我が国固有の国体と政体は昔から変わっていない。

民主主義は国体の論

三権分立は政体の論である。

欧米では国体論と政体論を混同した。ルソー、モンテスキューの思想が欧米を席巻したが、その思想は決して新しいものでなく、それ以前にもあった。

我が国の国体は君主制。

国体の違いは歴史の成果によるものであり、その善悪をいうべきものではない。

今もしく偏狭な欧米の国体論で我が国の国体を軽んじるようなことがあれば、天与の最鋭の武器を捨て民族自滅を招くほかない。

 

憲法の制定は政体の革新としてみる。国体に変化なし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


超訳 契丹古伝

2017年11月09日 | 太古史

神は光のようなものであり、どう言っていいかわからない。

ただその存在をかたどったものが鏡である。

 天照大神と素戔嗚尊は天の誓約をされた。

素戔嗚尊は白頭山に降臨し、その一族は四方に広がった。

一族の聖なる廟は 太霊(フトヒ)と呼ばれ

宮廷は 高天宮(コマヤ)

国を皇国(シウク*スク)

一族の名称を皇族(スカラ)

その民は宝(タカラ)と呼ばれた。

 

 ウスホツのヤマト記に曰く、

ヤマトの国がいまだかつて滅亡しない理由は、深く上古の歴史や伝承を研究し、先代についてはっきりした知見をもち、神理をつまびらかにし、歴史を正確にしているためである。

素戔嗚の一族はヤオロチの一族を鴨緑江によって懲らしめ、一族を降伏させ、月支国に聖宮(ヒシヤ)を構えて統治した。

新羅国はこのヤオロチの末。

 

周の文王と武王は異民族である羌族を率いて出陣し、賄賂や色仕掛けで殷の内部かく乱した後、武器をもって攻撃し家臣の身分でありながら主君を殺し、食人の刑を行った。

伯族は周に抵抗したが成功せず、和族は周に遠征したが勝てず、陽族は国境付近で果敢に戦ったが、易族の裏切りで敗れた。サカイン族が決戦を挑んだが、姜族が殷都内で火を放ったために、紂王は火中で死して殷の祭祀がここで途絶えた。

ワニ族は海上に逃れ、ハンヤ族は北に退き、宛族は南に退いた。朱申族の王は賄賂に毒されて兵を出さなかった。

結果 皇家はことごとく衰えた。

武伯と智淮だけが最後にとどまった。特に智淮は、周の捕虜となっていた紂王の叔父(祭祀に造詣の深かった箕子)を奪取して 遼口河口、カレキというところに城を築いてかくまい、皇殷と称した。

周の武王はこの地を自国に組み入れようとしたが、箕子はこれを退けた。その後韓と燕に襲われ、箕子はやむを得ず遼西の閭山に移動した。

武伯族に日本からの援軍が合流した、それにより裏切り者を倒し、敵軍を撃破し、周に打ち勝つことができた。

箕子には子がなかったために 皇族の皇子を継承者にむかえた。その後300年は平穏に収まった。

 ある時衛瞞という将軍が助けを求めてやってきた。当時の箕子から始まった朝鮮王は彼を快く迎えいれ、信頼して防衛線の一部をまかせた。ところが彼は敵と図って朝鮮を裏切り、国をのっとった。これを衛瞞朝鮮という。