明智光秀は織田信長を裏切った家臣として長く汚名を着せられてきたが、いろいろ調べてゆくと文武両道の優しい武将で、光秀のおさめた土地では民が尊敬すらして神社までたてているらしい。
光秀にまつわる心温まるエピソードには次のようなものがある。
エピソード1
光秀はいいなずけがいたが、結婚する前に痘瘡を患い、顔にあばたができてしまった。慌てた父親が顔かたちの似た妹を嫁がせようとしたが、光秀は姉に決めているとして姉を娶った。
エピソード2
何年かして城を捨てなければならないような争いが生じて身重の妻を背負って急な坂道を上って逃げた。家臣が見かねて代わろうと申し出たが断った。
エピソード3
貧しくなった光秀だったが連歌の会というのを持ち回りでやっていて、光秀が饗応する番になった。
妻が髪を切ってその費用を工面した。
光秀が織田信長を裏切った理由としてよくあげられるのは、
身内を人質に出して殺させてしまったこと。これは母親を人質に出してそれを無視して信長が策を進めて殺されてしまったという事だが、そもそもこの女性は光秀の母ではない。
信長が家臣の面前でさんざん光秀を笑いものにして恥を欠かせた。よしんばそれが事実だったとしても、それだけで光秀が君主殺しをするとも思えないほどの人物である。
光秀本人の野望などがあげられるが、どうもそういうタイプの人にはみえない。
最近では信長は朝廷に圧力をかなりかけており、朝廷側から光秀に信長謀反の密命を授けたという説有力である。
光秀が親類縁者を危険にさらし、かつ秀吉まで納得済みで反逆したとしたら、当時の感覚としては朝廷への忠誠心以外に考えられない。
信長は朝廷からの官位を受けず、天皇をないがしろにするような態度を示し、ついには自分を神とみなすようになっていた。
NHKの大河ドラマ黒田官兵衛では、信長が日本に2王はいらぬといったところで光秀が驚き、本能寺の変を起したことになっている。
光秀は貧しい時代によく連歌の会などもよおしていたとも思われるが、こうした会は公家たちとの情報交換の場であったことは間違いない。本能寺の変の前にも愛宕神社で連歌の会に出席している。このとき詠んだ句が有名な
時は今雨がした知る五月かな
余談になるが昔から歌には秘密があるといわれており、例えば万葉集、古今集などは、解釈の仕方により皇室の秘事を伝えているという。古今伝授などが三種の神器にまつわることがらを含んでいることは、かなり後世になって神道の秘伝書などに書かれている。つまり歌には表面の意味と裏の意味があり、公家や太古の秘密を知るものは歌にその秘密を込めたのである。
関ケ原の合戦があった1600年(慶長5)、丹後の田辺城を石田三成の軍勢に囲まれた細川幽斎が、籠城・討死を覚悟すると、そのことを知った後陽成天皇は、勅使を派遣して和議を講じさせた。天皇は、幽斎が討死すると古今伝授を伝える者がいなくなるので、本朝の神道奥義、和歌の秘密が永く絶え、神国のおきても空しくなることを憂えたという。
もう一つ。光秀の妻 煕子の実父は勘解由左衛門範熙とされているが、この氏の名字の由来となった「勘解由使』という役職は平安時代に国司の引継ぎをスムーズにするための地方行政監査機関の職名である。国司が交代するときに紛争が起こりやすかったために査察調停してスムーズに交代させる監査役であった、この時代に表向きには廃れていたとは言われているが、天皇直属の密使としてつながりをもち、生き残っていたのではないかとも考えられる。つまり、光秀は煕子と共に天皇の密使と連携して戦国の世を太平に治める計画に参加していたのかもしれない。光秀が利休に転身して秀吉の軍師になるなどは通常の武士が行いうることではない。忍者で言えば上忍と言われる階級の者が行いうる技であろう。
利休というのはもと千宗易といわれ、織田信長とよしみであった。だから、最初から光秀が利休であったわけではない。つまり、もし光秀が利休になりかわったのは、信長を殺害した後で、利休は宗易と入れ替わったことになる。一時的に二人で一役を演じていたという説もある。
竹やぶで殺害されたのは別人であったということになる。晒された光秀の首は顔が判別できない状態であったという。
光秀利休説を唱える人(出口王仁三郎)によれば、もともと光秀は主君に謀反を興した人物が長く統治できるとは考えておらず、秀吉と通じて勝ちを譲ることになっていたという。
これで秀吉が四国から一番乗りでき、光秀軍にやすやすと勝てた説明がつく。
そして秀吉の軍師として生き残り、大陸侵攻のアドバイスしていったという。
光秀にはもう一つ天海という徳川家康のブレインともいう僧侶になったのではないかという説がある。
王仁三郎はこれについては書いていない。
ただし、王仁三郎が蒙古に神国建設を唱へた際、軍事顧問として王天海と名乗り、馬賊三百数十名を従へ蒙古入国しようとしていた。また、しかも満州から内蒙古の地にまたがる明光国(明智光秀の二文字を使った国)を打ち立てるよう紅卍会と協力してもいた。
私は利休説を取っていたので、天海説の受け入れ慎重であった。しかし、多くの家臣まで巻き込んで大芝居を討った光秀が正体がばれそうになったくらいで切腹するとは思えない。
利休の死は不可解である。秀吉の不況を買ったという説もあるが、秀吉は利休の首検分すらしていない。
朝鮮への出兵を諌めたともいわれているが、大陸への進出は、もともと光秀の献策であった。
九州でキリシタンが大名を隷属化し、一部を植民地化しはじめ、従わない神社仏閣を焼き払い僧侶を焼き殺し、日本人女性を海外に売り飛ばしていたからだ。
この惨状は記録に残っており、歴史家も知っている。
日本からローマ法王に会うため渡航した天正少年使節団の記録には
『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』とある。
秀吉は九州でこの惨状を目にしてキリシタンを禁制にした。
「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」と記録されている。
当時のスペインポルトガルは人心掌握と侵略のためにキリスト教を利用していた。
信長、光秀、秀吉はやがて欧州が中国大陸を制覇して日本に襲ってくることを知り、懸念していた。
そこでそうなる前に、アジア大陸を治めようとした。おそらくそれが光秀の策であった。
ただその方法が欧州の真似をして侵略といわれてもいたしかたないような強引なやり方になってしまったのは、秀吉に日出ずる国としての矜持があり、他国の内情が分かっていなかったことにもよる。
日本人には聖徳太子の時代より日のいずる国というプライドがあり、他国、特に朝鮮側が日本という国をリスペクトする気持ちも歴史観もなくなっているということを十分に理解していなかった。
そのため聖徳太子の時も小野妹子が返書を失くしたことにし、秀吉の時も小西はいい加減な報告をせざるをえなかった。相手の無礼な返答に使者が苦労するのである。
朝鮮も中国も何度も支配者が入れ替わり、日本の天皇何するものぞという感覚をもっていた。また、お互い相手の戦力に関しても甘く見ていた。出兵した日本兵は最初でこそ破竹の勢いを誇ったが後半疲弊し、多くの犠牲を払っている。明もかなりのダメージを負った。
光秀が利休となり利休が切腹した理由としては利休が実は光秀であることがばれそうになったと言っている人がある。
もうしそうであるなら、光秀はこんなことでは死ぬわけはない。味方の多くを逆臣にしてしまい、謀反のかどで死なせてしまった。それには理由のあることとはいえ、ばれるからといって腹を切る道理がない。
光秀は国家の安寧を画策し、秀吉に大陸を任せ、国内統治を家康に託する策に出たと考えてもおかしくはないだろう。
また朝廷が光秀に指令を出すとしたら、高齢に達した太閤の跡継ぎを誰にやらせるか。太閤の子供にやらせるのか。だが、秀頼が嫡男でなければどうなのか。
光秀=利休説をとるものは利休が切腹することで利休が永遠の生命を得、秀吉は4畳半に引き込まれ凡爺になったといわれている。
たしかに晩年に近づくほど子供である秀頼を溺愛し、ただの子煩悩な認知症老人になってしまったともおもわれる。
利休の弟子に腹を切らせたりもした。また家来や侍女をまとめて殺害した秀次への仕打ちは残酷だった。
光秀は、秀吉の認知症に気づいて、自ら軍師としての役割を終わらせることで腹を切ったことにし、秀吉に朝鮮を任せ、国内は徳川家康に統治させることにしたのではなかろうか。
あるいは正体がばれそうになり、千宗易の本物の方に責任をとらせて切腹させたのだろうか。
万一秀吉が途中で倒れても、朝鮮出兵が頓挫するだけで、国内の統治は徳川が行えるようにすることが日本の国としてもベストと判断したのではないだろうか。
光秀が天海になったという説はかなり流布しており、ネットでも容易に見つけることができる。
光秀=天海とすれば春日局を登用して家光を育てた理由もうなづける。
春日局は逆臣といわれた光秀の家臣斎藤利三の娘であるといわれる。そしてここがまたあいまいなのだが、春日局お福の血筋はどこかで明智家とつながっているらしい。つまりお福の母親がはっきりしないのだ。
一説には利三は光秀の異母兄弟であったためとされている、そうすると春日局は光秀の姪にあたる。
徳川実記には「明智日向守光秀が妹の子齋藤内藏助利三が女」と記されている。しかし光秀の妹の子が利三というのは年齢的に無理がある。姉の間違いではないかと、記録自体を否定する説もある。
この光秀の「妹」というのはかなりの謎で、妹についての記録は信長に嫁いだ御ツマキくらいだろうか。あまりないという。
光秀は煕子を失った後、以前姉とは違うと退けたそっくりの妹を娶ったのではないかという説もある。
なぜなら、本能寺の変のあと、坂本城に亡くなったといわれる光秀の妻子がいたという記録があるからである。
王仁三郎の説ではお福(春日局)は齋藤利三の妹となっている。
また春日局の出生地も3か所ほど説があり、そのなかの亀山城説は少数説ではあるが、光秀のいた城である。
仮に妹が光秀の義理の妹。つまり煕子の妹であり、光秀が煕子亡き後妻として娶っていて、その子供ができ、それを利三の妹あるいは娘として養女に出していたとしたらどうであろうか。
年齢的にはないことはない。しかも出生地が光秀のいた亀岡城という説もあること、利三がこのころ、たびたび亀岡城といったりきたりしていたという記録がある。