先日、”ノーベル文学賞は誰がために”で、村上春樹さんの「遠い太鼓」(1990)をふと思い出した。
この作品に関しては、私の”村上春樹論”を大きく変えた一冊として、未だに印象に残っている。昨年の7月ころの記事ですが、加筆して新しく投稿します。悪しからずです。
本の最後に、”37歳で日本を後にし、40歳で日本に戻ってきた。コネも何もなく独りぼっちで異国の地に生きるというのは骨が折れるもんだ”とある。
これだけでも、村上春樹が如何に素朴な人種であるかが理解できる。
私は素朴な作家が大好きだ。以下に述べる奥田英朗もそうだが、素朴な感性から滲み出る純朴な描写が何とも言えず、私の心を鷲掴みにする。
先日寄せられたコメントに、”文学はデフォルメされた成れの果てだから大体において如何わしい”とあった。
日本ではこのデフォルメは、誇張や簡略化といった虚飾に近い意味で使われるが、フランスでは少し堅苦しく変形や造形という意味で使われる。
しかし、この日本人受けするこのデフォルメも度が過ぎると、ノーベル文学賞も平和賞みたいに犯罪と汚職の迎賓館みたいに成り下がる可能性もなくはない。
そして村上春樹もある意味、このデフォルメの犠牲になってる気がしないでもない。
アウトビアンキ112
私は、村上春樹氏のフィクションがどうも好きになれない(勿論、例外も多々あるが)。つまり、デフォルメが少し過ぎるのだ。
しかし、ノンフィクションやドキュメントとなると、素で繊細な等身大の村上春樹が突然現れ、私の感性を魅了する。
人は弱く脆い生き物だ。村上さんも多分そうだろう。しかし、フィクションとなると村上氏の虚飾された強がりな部分がどことなく目立つ。
多分村上氏のファンは、こうしたさり気なくデフォルメされた”ハルキ流”の優雅な感性に惹かれるのだろうか。
若い女の子から見れば、村上春樹の小説は、”BMWの700シリーズ”に乗る華麗で洗練された、頼もしくも何処かに憂いと哀しみを抱えるオジサマに映るのだろうか。
しかし私は、周りから白い目で見られながらも、既に製造中止になった”小型の古臭いアウトビアンキ112”に乗りたがる村上春樹が大好きなのだ。
事実、イタリア滞在中ではランチアのデルタ1600GTを購入するも、故障続きで、カミさんに”素直にベンツかBMWを買っとけばよかったのよ”と叱られる羽目になる(笑)。
でも私は、そういう古臭くて不完全で、ある時は変に見栄っ張りで、それでいて妙にマニアックな村上春樹が大好きなのだ。
しかし、村上春樹のフィクションはBMWでありベンツである。世界中の誰もが見ても思わず振り向く、マジョリティな車。
一方で、彼のノンフィクションは、アウトビアンキ112かランチアのデルタ1600GTである。マニアの評価は恐ろしく高いが、古臭くて故障続きで大衆受けしないマイノリティな車なのだ。
「ノルウェイの森」の意外な盲点
先日も書いたが、村上春樹は英国や米国白人のマジョリティ系作家の影響を強く受けている。故に、彼のフィクションはどうしても、マイノリティの視点に欠けるものとなるのだろうか。
「ノルウェイの森」にしても非常にナイーブな純文学でありながら、”奇をてらい”過ぎるとの批評もある。
村上春樹は、この作品が1000万部を超えるベストセラーになったお陰で、多くの日本人に愛され、そして憎まれる様になったと吐露した。
事実、この本のタイトルは元々「雨の中の庭」だった。しかし、完成直前に妻に意見を求めた所、ビートルズの曲”ノルウェイの森”に変更された。本人もかなり迷ったそうだが、こういう所もデフォルメという誇張が暴走した結果なのかも知れない。
もし、そのまま「雨の中の庭」だったら、彼の文学人生も大きく変わってたかもしれない。今頃はノーベル文学賞作家として、早々に作家稼業はやめて、世界中を公演してまわってたかもだ。事実、”ノルウェイの森”とのタイトルは誤訳か?の論争騒ぎは以前からもあったという。
私は村上氏の作品を全部読んだ訳でもないし、プロの批評家でも小説家でもない。
ただ一言で言えば、村上春樹のフィクションは”奇をてらい”過ぎると思う。ノンフィクションの様に、村上春樹の素の描写で勝負できてたらとも思う。
勿論、マイノリティの視点での描写が、どれほど読者の心を掴むかは判らない。
しかし村上春樹が小説家を志したのは、バブル期絶頂の70年代後半である。彼が虚飾や誇張に凝ったとしても全く不思議ではないし、事実「ノルウェイの森」(1987)の頃の日本は、誰もが天狗になってた時代だ。
皆が皆、BMWやベンツやポルシェに乗りたがったし、そんな時代にマイノリティの視点で小説を書けとても、出来る筈がない。
「ノルウェイの森」でセックスの描写が多すぎると酷評されても、それを多くの日本人が望んでたのだから。
レヴュー〜旅が醸し出す毒性
奥田英朗さんの言葉に、”いい人は家にいる、旅人とグルメにろくな奴はいない”とある。
そう、私は基本的に旅をしない。いや、旅が出来ない人種だ。だから旅ドキュメントが大好きである。
村上氏のノンフィクションはいつも興味深く読ませて頂いてるが。40才を前にし、イタリアとギリシャを中心としたヨーロッパでの3年間の生活の中の執筆で、偉大な作家の仲間入りを果たす。故にこの作品は、村上氏の旅行観いや人生観を十全に物語ってる様に思う。
”ある朝、目が覚め、ふと耳を澄ませると、何処か遠くから太鼓の音が聞こえてきた。その音を聞いているうちに、僕はどうしても長い旅に出たくなった”
「ノルウェイの森」と「ダンス•ダンス•ダンス」を書き上げ、作家としての大きな転換期となった、三年間の異国生活のスケッチブックとしての「遠い太鼓」。
旅をするというより、旅を生きる作家である。旅に沿うのではなく、旅の中に潜む”毒性”を見付け出し、その毒性の中に旅の真理を見つけ出す。
"旅とは特に疲れるもの"という村上氏独自の旅物語に、唯只脱帽する。
あらゆるタイプの旅行に関する書物が夥しい程出回ってる今、誰もが何の気苦労もせず世界中を安心して旅が出来るようになった。
英語が喋れなくても本が読めなくても字が書けなくても、バカでも無能でも、お金と暇さえあれば何処へでも行ける時代になった。
勿論、誰もが村上氏の様に、"疲れ果てる旅"を経験出来る筈もないが、この本を読む事で、その疲れ果てさせる旅の毒性の一部を、頭の中ではあるが、共有する事は出来る。
そして、その旅のある種の毒性が自己覚醒を促していく過程が全く羨ましい。
”遠い太鼓”の響き
耳を澄ましてると、太鼓の音が遠くから響いてくる様に、旅もまた遠くから耳に響いてくる。そして、旅人を摩訶不思議な世界へと誘い込む。そして決まった様に、自らの無力さと空虚さに打ちひしがれる。
世界は私達が思うほどに狭くはないし、知らない事が殆どだ。
旅をして元気をもらう人と、旅をして逆に疲れ果てる人。前者は、旅の良い部分のみを上手く吸収し、エネルギーに変換する何処にでもいる典型のバックパッカーだ。旅行好きな人は、殆どがこの部類に属するであろう。
一方後者は、旅の深淵で精緻な部分に異常なまでに執着し、お陰であらゆる方向からエネルギーを吸い取られ、素になった自分に気付く。そして新しい自分に生まれ変わる。
そう、陳腐なベストセラー作家ではなく、偉大な作家として大きく生まれ変わった、村上春樹のようなタイプである。
遠くはなれた場所から打ち寄せては返す波の様に、長くウンザリと疲れ果てた人生の中で、旅は静かにリズムを整えてくれる。そんな旅の伴侶といえる一冊でもある。
旅の終りと浮かれた日本
この作品は、570ページを超えるドキュメントでありながら、一切の無駄がない。回りくどい表現も、ええカッコしい言い回しも、奇をてらった描写も一切ない。素の村上春樹がそこには存在する。
村上氏は、この3年の間に日本がすっかり変貌した事に驚きを隠せないでいた。
つまり、1989年のバブル末期の日本の変貌ぶりに狼狽し、全くついていけなかったのだ。
”その時の日本にあったのは、巨大な収奪機械であった。生命あるものないもの、名前持つ物持たぬ物、形あるモノないモノ、そういた全てを片っ端から呑み込む。無差別に咀嚼し、排泄物として吐き出す巨大な吸収装置。
そこで目にしたものは、咀嚼し終えたものの悲壮な残骸と、咀嚼されようとするものの嬌声であった。好むと好まざると、それが僕の国だったのだ”
そう、日本は金箔が施された歪で空虚な疑似階級社会に成り下がっていた。
アメリカのとある作家は、当時の日本社会を”ヤッピー”だと皮肉った。
”BMWなら700に乗ってる男としかデートはしないわ。500ならまだしも300なんて貧乏臭くてイヤ”、これが当時の日本の若い女の正真正銘の本音だった。
彼女たちにとって左ハンドルの超高級車は、単なるモノではなく、自らの存在価値を明確に定義する、重要な幻想だったのだ。
確かに、こんな浮かれた時代に、純小説を正当に評価出来る日本人がどれだけいただろうか?
結局、「ノルウェイの森」は、女性たちにとって”BMW700シリーズ”に過ぎなかったのか。
マイノリティな視点から眺めた「遠い太鼓」の様な傑作ドキュメントは、500や300シリーズの様に貧乏臭く映ったのだろうか。
あとがき
村上は笑えなかった。これからこの土地で、一人の作家として責任を負って生きるという重荷を、いきなり背負わされたのだ。
全く重力が異なった惑星に降り立った様な気分だった。
この3年間の意味は何だったのか?40になって再び振り出しに戻ったのか?失われたままの状態でこの国を飛び出し、再び失われたまま舞い戻ってきたのか?
無力感と疲弊はそのまま残ってた。ただ歳を取っただけで何も解決してはいなかった。
でも振り出しに戻れただけでも良いと思う事にしよう。
村上は、この地の慣れない重力を落ち着かせる為にこの本を書いた。長くなったのも時間が掛り過ぎたのも、そのせいだ。
”今でも時々太鼓の音がする。その響きが耳の奥に感じる事がある。でもふとこう思う。今ここにいる過渡的で一時的な僕そのものこそが、旅という行為なのではないか”
この一冊を読み、村上春樹に対するイメージが一変した。そういう意味でも非常に興味深い一冊でもある。
そして、この一冊だけでもノーベル文学賞に十全に値すると思うのだが。と言ったら褒め過ぎだろうか。
”村上春樹はどうも好きになれない?”でブログを立てようと思ってるですが、日本には熱狂的な村上ファンが多いので。
ただノーベル賞は無理としても、ピューリッツァー賞はもらってもいいかなと。今更直木賞や芥川賞では可哀相すぎるし。
因みに、「フィンランドの森」は読む気が不思議と起こらないです(笑)。
私は一時彼にハマってほとんどの著作を読んだと思っていたのですが、この『遠い太鼓』は読んでいないと思う。
一時はハマった村上春樹だったのでしたが、ある時から少し食傷気味になり毎年ノーベル賞受賞を期待されながら獲れないのも、「さもありなん」とも思っていたから、今回、転象さんの絶賛されるこのノンファクションを読んでみたく思いました。が、最近、歳のせいか、Blogのせいか、時間がなく、まとまった読書かできなくなっていらから、図書館で借りてきても読了できるか自信がない。
ビコさんほどには村上春樹の本を読んでないんですが、彼のフィクションと翻訳はどうも好きになれない。だからノンフィクションばかり読んでます。
純文学というより現代文学として捉えればとも思いますが、私も含め昔の人から見ればやはり物足りないんですかね。
原作に忠実か?現代版風にアレンジか?
読みやすいという点では村上に軍配が上がるし、
原作を十分に忠実に味わうという点では、翻訳の専門家に軍配が上がるのかな。
ただ一度翻訳されてるものを翻訳し直すというのは、それだけ純度が落ちるわけで、鮮度という点でも劣る。特に日本語は独特の固有な言い回しがあり、古い訳本は堅苦しい言い回しが多いのも事実です。
個人的には小説に力を集中し、翻訳に力を分散すべきではないとも思いますが、村上は人気ある作家なので外野も煩いし、色々と注文も多いんだろうね。
ゾラもバルザックも新しい訳本は読み易いけれど、古い訳本の方が原作に忠実で、堅苦しい日本語も美しさという点では現代の日本語より大きく勝ってます。
美しい日本語を学ぶという点でも、古い訳本をお薦めしたいですね。
村上春樹さんも小説だけに集中してたら、今頃はとも思いますが。難しい所です。