象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

近未来を見据える「日本人3.0」になる為に〜旧日本人からの脱却に向けて

2024年10月07日 06時12分32秒 | 読書

 ”日本人3.0”というタイトルに惹かれて、手にしたが、思う程の新鮮な内容でもない。
 過去に”新人類”という言葉が流行ったが、所詮は一過性のもので、ごく表面的な若者の幼稚で浅はかなパフォーマンスに過ぎなかった。
 「日本人3.0-新しい時代のルールと必須知識」(小笠原泰 著)では、日本という国家ではなく、日本人という個人に焦点を当て、”将来に開いた日本人”というテーマを設定する。
 著者の小笠原氏は、日本を世界の中の”最先端課題山積み実験国家”と表現する。
 仮に日本がうまく生き延びれば、緊縮財政なしの無痛改革もできるかな”と思うかもだが、そういう意味で日本はいわば、世界の中の”炭鉱のカナリア”であり、リスクを事前に知らせる兆候と役割を持つべき日本ではある。しかし、日本が抱えるリスクはあまりに多すぎるので、今後の日本人のあり方を考える事はとても重要だとも言える。

 以下、「新しい時代を生きぬく事の出来る”日本人3.0”の特徴とは?」より一部抜粋し、大まかにまとめます。


3つのタイプの日本人

 本書のタイトルである”日本人3.0になる”とは、今後も続く変化の激しい不確実な環境に適応し、個人の多様性と個性を前提に自らの進むレールを敷き、自己投資を通して自分を成長させ、変化の荒波を泳ぎ切る事である。その結果として”激しい変化を生き抜く社会の進歩のエンジンになる”事が日本人3.0になる事のメリットと言える。
 一方で”日本人3.0にならない”とは、政府や社会の敷いた従来のレールをみんなで走るという、個人の思考や判断停止を求める暗黙の了解や圧力を受け入れる事だが、その結果どうなるか?は言うまでもない。 

 この本では、日本人を3つの段階に分けて、解説している。
 まず、”日本人1.0”とは、安保闘争からバブル期までの戦後の(主に昭和)成長期を指し、経済的豊かさの追求と“ガラパゴス的な国際人”を夢見た日本人となる。
 例えば、「Japan as No.1」を鵜呑みにし、”日本人は(理由なしに)特殊で優秀だ”という言説を肯定し、物質的な豊かさのみを判断の基準とした。歪なナショナリズムの持つ優越感と外的拡張志向が強く、中流というカテゴリーに執着し、多様化なんて頭にはない。

 次に”日本人2.0”は、バブル以降から2000年前後の日本人で、著者はグローバル適応を試みたのに頓挫した日本人を、陸に上がる事を試みたのに何ら適応できず、再び海に戻ったシーラカンスに喩えている。
 確かに、安倍内閣から菅内閣までを振り返ると、まさに”シーラカンス”の喩えがピタリと当てはまる。更に、”失われた30年”という現実を無視し、”美しい日本”という曖昧な理想の元に現実逃避し、未だに中流カテゴリーに埋没し、多様化に向かう現状を無視した日本人となる。
 つまり、”日本人1.0”と”日本人2.0”は”最新の日本人になり損ねた人”となる。

 最後に、”日本人3.0”が目につき始める時期は、無機質・無感動・無責任の岸田内閣以降で、①自己の成長の為にリスクを取れる人で、現実を直視して日本人の像を把握し、コントロール&マネージできる人。
 ②日本人というバイアスを正確に理解でき、日本人像とは日本人という”乗り物”でしかないと思える人。つまり、日本人像を変えないでどう変わるかを考えている人。更に、理想と言われる日本人像に自分を寄せて個を失うではなく、個で戦える人。
 ③平均値とカテゴリーを気にしない人で、シェアを含め、新品でなくても中古品で問題ないと思う人。④国家に意識を収斂させる物語への関心の薄い人で、環境の多様化に敏感で、自分自身を高次の視座から認知出来る人。
 以上が”日本人3.0”の大まかな特徴で、過去との断絶を気にせず、過去に学んだ事を意識的に取り外しできる人でもあると。

 以上、ライフハッカーからでした。
 

最後に〜日本人”v3.1”

 勿論、日本の理想としてみれば、こんなタイプの日本人が必要かもだが、唯でさえ無意識にリスクをとって日常を生きてるのに、更にリスクをとれと言われても混乱するだけである。
 確かに、日本人というバイアスを理解する事は重要だが、そこまで日本人像を意識する必要がどこにあるのか?日本人でなくても生きていける位の強かさも必要ではないか。
 但し、”カテゴリを意識しない”というのは新鮮に映るし、更に、”自身を高い視座から俯瞰する”というのも新しい日本人としては大切な要素であろう。

 レビューにもある様に(一言で言えば)”みんな一緒に居心地の良い日本という沈没船に乗り続けるか、敢えてリスクを取って海外に飛び込み、変化に富んだ新鮮な毎日を送ってみないか”との内容だが、勿論、外国船が沈没しないとも限らない。
 それに、全ての業種が国際競争に晒される訳でもなく、”日本企業は時代遅れで衰退する”などと簡単に割り切れるものでもない。
 更に、”日本人3.0”は(絶対数は多くなかったかもだが)昔から存在してた筈で、様々な現状課題の壁は政府や他人任せではなく、個人で突破するのが理想だが、その為には”v3.0”の新世代のエネルギーが必要となる。
 確かに、日本だけが沈む訳でもないし、かと言って、楽観も出来ないが悲観する必要もない。結局は”自分でいられる居場所を国内外で見つける”事を目指す者こそが”v3.0”の日本人となる。

 個人的には、この”v3.0”を0.1だけ進化させた”v3.1”の日本人に期待したい。
 つまり、人はそう簡単に進化も変化もしないし、頑張れるものでもない。”リスクをとれ”とても限界があるし、日本人にも種としての限界がある。
 1点差であろうが10点差であろうが、勝ちは勝ちである。言い換えれば、1点差で生き延びる事は十分に可能なのだ。
 つまり、大衆レベルで日本人の知能がv0.1だけアップすれば、国家としてはかなりの知的財産になる。経済大国から知的大国へ、天然資源の乏しい島国の日本に新しいレールを敷くとすれば、悪くはない国家規模での施策でもあろう。
 従って、アホな日本人のままで死に絶えるのか?v0.1だけアップコンバートした新世代のアホな”日本人v3.1”で生き残るのか?

 こうした問題は、深刻に考える程に迷宮に迷い込む。そう、全てはシンプルに考える事で余計な事をしなくても、アプデする事は可能な筈だ。
 ”炭鉱のカナリア”はつまり、そういう事を言いたかったのではないだろうか。

 


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