”死刑判決の是非”でも少し触れた様に、トルーマン•カポーティの生涯最大の力作と言われる「冷血」(初版、1965)です。カポーティの運命を一変させたルポルタージュ作品として有名ですね。
”カンザス州の片田舎で起きた一家4人惨殺事件。被害者は皆ロープで縛られ、至近距離から散弾銃で射殺されていた。
このあまりにも惨い犯行に、著者カポーティは5年余りの歳月を費やし、綿密な取材を遂行。そして、犯人2名(ペリーとヒコック)が絞首刑に処せられるまでを見届けた。
捜査の手法、犯罪者の心理、死刑制度の是非、そして取材者のモラル__。様々な物議をかもした衝撃のノンフィクション•ノヴェル”
この裏表紙の紹介文に、読む前から並々ならぬ異質の何かを感じた。
カポーティの特異な同調と奇怪な友情と
このカポーティの力作は、”ニュージャーナリズムの源流”と評される作品だ。
1959年、実際に発生した殺人事件をトルーマンは徹底的に取材した。調査に3年、執筆に3年を要したその取材ノートは6000頁に達した。
事件の発生から加害者逮捕、加害者の死刑執行に至る過程を忠実に再現し、取材を行った作者本人は一切登場しない。
カポーティ自身、この様な手法で制作された本作を、”ノンフィクション•ノベル”と名づけた。その後、この手法を使ったノンフィクション•ノベルが、次々と他の作家によって発表された。「汝の父を敬え」や「真夜中のサバナ」や「復讐は我にあり」なんかは、そのいい例だろう。
ノンフィクションやルポルタージュの域を越え、まるでミステリーを読んでる様な感覚が、私の脳裏に未だ焼き付いてる。
この傑作ノンフィクションは、ヒコックと並ぶ殺人犯の一人である”ペリーの不遇の物語”とも言える。
一人称視点で、彼の悲壮な境遇に自らの生い立ちを重ね合わせた、カポーティの執念を感じさせるルポルタージュだ。
性的不遇で空想好きが故に、劣等感に塗れた殺人犯のペリーに、特異な同調と奇怪な友情を寄せるカポーティ。
事実、自分と同じ様に悲惨な境遇に育ったペリーに同情心を寄せ、”同じ家で生まれたのに、一方は裏口から、もう一方は表玄関から出た”と、トルーマンは意味深な言葉を残す。
我ら読者は、この不遇な2人の男の間に挟まれ、知らずうちに共鳴する自分を、不思議と虚しく思うのだろうか。
しかし、この得体の知れない複雑で奇怪な劣等感こそが”冷血”となり、ペリーの運命を追い詰める。
因みにタイトルの「冷血」だが、これといった理由もなく、何の落ち度もない家族を惨殺した加害者を表していると言われてる。
しかし一方で、表向きは加害者との友情を深め、内心は作品の発表の為に死刑を望んでいた、カポーティ自身を表すのではないかという説もある。
理由なき殺人とペリーの悲劇
無惨にも殺害された裕福なクラッター家を”自分の人生の尻拭いをする運命にあった”と淡々と語るペリーの供述。そこにこそ、彼が生きた強烈な運命の鈍痛で苦痛な響きが重なり合う。
この”理由なき殺人”に関しては様々な議論が出尽くすだろう。
勿論、二人の加害者の死刑判決に関しては至極当然だし、ペリーの悲壮な境遇や身体的欠陥を贔屓目にしても、また良心的に見ても全うなものである。
しかし、どんな境遇を経験しようが殺人は殺人だ。それも計画性があり、巧妙かつ残忍なのだから。まさに殺人とは命を盗む事で、”あらゆる犯罪は盗みの変種に過ぎない”とは、よく言ったもんだ。
殺人には、宗教的介入も許さるべきではないと思う。この小説の中にしばし登場する、慈悲や猶予なんて、慰めにすらなり得ないし、寧ろ加害者を凶暴化させるだけだ。
それに、加害者を幾分か有利にさせる精神鑑定もこの本を読めば、至極偽善に見えてしまう。
それでも、ペリーの”群れを追われた獣、いや傷ついて彷徨う不遇な動物”の、追い詰められた孤独の中でのこの”理由なき殺人”に、言い難い何かを考えさせられる。
彼に少しでも教育があったなら、相棒のヒコックが”奥行きのない空っぽで見下げた”浅薄なイカサマ野郎でなかったら、と耐え難い何かを感じてしまう。
真の犠牲者は誰なのか?
トルーマンは、ペリーをまんまと罠に嵌め、殺害を幇助した相棒のヒコックを冷淡にこき下ろし、実質の被害者はペニー自身ではないか?と、暗言してるフシがある。
しかし、殺害を否定し、拒絶する権利を有してたのは、紛れもなくペリー本人だった。
事実、殺害を命じたのはヒコックで、4度の引き金を引いたのはペリーなのだ。これは丁度、麻原と信者幹部との関係に似てますね。
殺害に対する罪の意識は、最後までペリーを苦しめる。逆に、ヒコックには人を殺す勇気はないが、殺人に対する罪の意識も殆どない。絞首台に上がる時も、反省の色は全くない。
一方でペニーは運命的にも身体的にも”孤独”であるが故に、ハッタリを噛まし続けるイカれた相棒を頼るしかなかった。
無能なヒコックのハッタリにまんまと乗せられたと言えなくもないが、一家4人を殺害したのは紛れもなくペリー本人だし、ペリーの意志なのだ。
贔屓目に見れば、殺害に至る以前に、ヒコックと手を組んだ時点で、ペニーの運命はヒコックに弄ばれ、彼の人生は終わっていた。
この作品では、ペリーに同情の念を寄せる人物が著者を含め、少なからず登場する。勿論、私もその一人だ。
殺人自体は全く同情に値しないが、殺人に駆り立てられた哀れな人間の複雑な深層心理に、あらゆる角度からスポットが集中していく様は、実に見事で興味深く新鮮に映った。
カポーティの苦悩と葛藤と
とここまでは、何の変哲もない書評ではあるが。カポーティの本当の闘いと堕落が、この「冷血」を書き終えた時から始まる。
そのカポーティもまた主人公のペリーと同様、母親から疎外された少年時代の”孤独”を持つ、憐れな男なのだ。
以下、「叶えられた祈り」(カポーティ)の解説者である川本三郎氏の書評を参考にします。
1959年11月、カンザス州スモールタウンで起きた一家4人惨殺事件に興味を覚えたカポーティは、運命に導かれる様に取材を開始する。
警察の捜査→逮捕→裁判→最後の処刑と、一連の事件の全過程を執筆と同時進行させ、彼自身の”感情と感傷のスペクトル”とを同期させる様にして、この「冷血」を書き上げた。
つまりカポーティは、この惨殺事件を感傷的な気分で鑑賞してたのだろうか?
訳者の佐々田雅子嬢は、カポーティの心の深淵の闇を暴く様に、ドキュメントの細部にひたすら拘った。そのやり口は、ジャーナリストやルポラーターのありきたりな一過性の取材とは、全く異なる手法である。
一連の事件を軸に、殺害(現場)の詳細な描写と事件が起きた町の周辺、殺害された一家の恵まれた境遇や二人の犯人の対照的な生い立ちと価値観、そして処刑にいたるまでの、彼らの不安と恐怖を見事に書き下してる。
まるで、蛇が地を這う様なカメラ視点で事件を追いかけ、”ノンフィクション•ノヴェル”と自負するカポーティの並々ならぬこの意気込みに、不思議と異質な何かを感じてしまった。
カポーティの成功と失墜と
事実、カポーティはこの「冷血」の大成功で、情熱を失ってしまう。
努力家で勤勉な作家だった彼に、張りつめてた何かが切れてしまう。今まで彼を突き動かす何かが消えてしまったのだ。そして彼は崩れていった。
丁度、ペリーが死刑台に乗せられていく様に。ペリーが最後に吐き捨てた言葉、つまり”自分の人生の尻拭いをする運命にあった”小説こそが、この「冷血」であったとしたら。これ程の失墜は何処にあろう。
以降、酒とドラッグの量が増え、奇矯な行動が目立つ様になり、作家たちとも喧嘩した。
カポーティもペリー同様に、”群れを追われた獣”と化し、ゴシップだらけの有名人に染まっていく。
そんな悪戦苦闘の中で執筆し、未完に終ったのが、カポーティ最高の傑作と言われる「叶えられた祈り」(1999)である。
確かに、この「叶えられた祈り」は、ヒコック同様に、”奥行きのない空っぽで見下げた”小説に見えなくもない。
勿論、傑作には違いないが、力作である「冷血」と比べると、そう思えてならない。
最後に
ベネット・ミラー監督の映画「カポーティ」(2005)の中では、「冷血」を書くのにどれだけの苦しみが彼にあったか?その一点に絞ってて非常に素晴らしい作品になってると、川本氏はカポーティを演じたシーモア•ホフマンと共に監督を絶賛する。
トルーマンのペリーへの共感と奇妙な友情。その上、彼は小説の中の主人公のペリーを利用しただけではないか?という罪悪感にとらわれる。
この映画「カポーティ」は、作家の苦しみの物語にもなっていいて、「冷血」の後にカポーティが小説を書けなくなったのは、この苦しみの為だったのかと、川本氏は振り返る。
そこまでカポーティを最後まで苦しめた「冷血」とは?そして、カポーティを追い詰めたペリーという人物とは?
つまり、彼はこの「冷血」を執筆する事で、もう1人の自分の闇の部分を描きたかったのではないか。もう一つの運命をペリーの生き様に投影し、ペリーと共に焼き尽くされたのか。
「冷血」の本題は、”In Cold Blood”だが。まさにカポーティは、”冷血”の中に入り浸った感覚と感触の中で、この小説を書き綴ったのではないか。
不遇という”冷血”の中に彷徨うペリーとカポーティ。
二人に共通する運命の悪戯とは、こういう事だったのかもしれない。
冷血ってノンフィクションというけど、実際に起きた事件をもとにしたルポルタージュみたいなもんでしょ。多少の脚色が入ってんのかな。
でも、カポーティって変わってるよね。フィッツジェラルドみたいな正攻法なノベルも書くし、フォークナーみたいなとても抽象的で悲惨なモノも書くんだ。
転んだサンのブログ見てると、小説家のコラム見てるみたいで、ひょっとしたら小説家志望だったの?
ではバイバイ👋
カポーティの両親は彼が子供の時に離婚し、アメリカ南部の貧しい各地で、遠縁の家に厄介になりながら育ったそうです。
全く、冷血の主人公で殺害犯のペリーと非常に似通ってます。この冷血には、カポーティの全てが詰まってますね。
このブログにはカポーティの怨念が乗り移ったんでしょうか。自分にしては不思議と上手く書けたかな。
因みに、私はイラストレーター志望でした。作家はどうあがいても無理っぽです。
Hoo嬢も若いのに結構、小説には詳しいですね。もしかして小説家志望かな?
不遇という冷血とは、よく言いましたね。でも、カポーティの世代でノンフィクションやルポルタージュは珍しいですよ。戯曲全盛の頃ですもん。
よほどカポーティの血が騒いだんでしょうな。冷血が熱血になるほど、洒落になってまへんが。
でも殺害犯のペリーと自身を重ね合わせ、鬱になるカポーティって、異常なまでに繊細ですな。だから、フィッツジェラルドよりも人気があるんですよ。
座布団3枚ですかね。まさにカポーティの内なる冷血が熱血に昇天し、自らを燃やし尽くしたんですね。
当時はまだルポルタージュという言葉はなかったと思うんですが、調べてみたら、第一次大戦後に生まれた、社会的な事件などを作為を加えずに客観的に叙述する報告文学とあるから、主観的な作為を加えた”冷血”は、主観的ルポライティングですかね。
カポーティがときおり魅せる毒牙が堪んないんですよ。
実際に読んでないので、自身を持って言えませんが、カポーティは殺人犯のペリーの背中にもう一人の自分を見てたんではないでしょうか。転んださんの<ペリーと共に焼き付くされた>という表現が全てを物語ってます。
読んでみたいとは思うんですが、とても怖い気がして中々手が伸びません。
カポーティの中では一番好きな作品ですが、何でものめり込みすぎると、いい事はないですかね。
Hoo嬢も言ってたように、フォークナーの「サンクチュアリ」に似てるようで読む人を選ぶかもです。
冷血だけど熱血が脈打ってる
熱血だけどもっと冷血。
コメントどうもです。
確かにあれは事故だったんだよ。
しかし偶然にしては度が過ぎてる。
ペリーは同性愛者で女性的でもあったが、殺人の現場では遥かに攻撃的であった。
その事がカポーティの全てを惹きつけたんだね。
カポーティ自身、同性者である事はある短編で吐露しているから。
「冷血」は事故のように殺人を犯したペリーの物語だ。しかしなぜ、事故のように人を殺すことになったのか?
もしそれが事故なら、カポーティが殺人者ではなく著名な小説家である事も、偶然の事故なのだろうか?
カポーティはそういう事から回復するのに、1年も掛かったわけだ。
沢木さんがカポーティの立場だったら、「一瞬の夏」みたいに、人生を賭けて追いかけたんじゃないかなと。
カポーティはもう一人の自分として、ペリーという殺人犯を眺めてたんですね。一方は小説家として絶頂期にある男と、一方は死刑執行を待つ男。
もし二人が同一人物だとしたら?偶然の事故のような運命が二人を引き裂いたとしたら?
考えるだけで怖くなってきますね。