象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

バルザックの『財布』に見る、くすんだ質感と偶然の出会いと疑惑とハッピーエンドと

2018年03月08日 16時11分33秒 | バルザック&ゾラ

『知られざる傑作』の中に収められてる短編では、この『財布』が結構好きですね。

『鞠打つ猫の店』の"窓辺の女"とは全く逆で、若くして成功した画家と貧しい娘との出会いが、くすんだ質感の中で、絶妙なオチと共に甘美な幸福の結末で終わる。バルザックには珍しい、おめでた物語
 

 この『財布』では、この"窓辺の女"を見上げ、憧れる事でドラマが始まるが。才能ある一人の青年画家のイボリット・シネールが、床に転落する事で幕が開く。意識を取り戻した青年の前には、一人の美女アデライトが。

 その後の展開も始まりと同じく、”鞠打つ猫の店”の様に、奔放で奇怪な芸術家の世界を描く事なく、全く慎ましく細やかで穏やかな展開に終始する。

 その上、母娘の貧相なアパートの室内を、バルザックはオランダ風の風俗画の筆致で、見事なまで精緻に再現してる所も憎い。

 ”全てがブラウンの色彩とくすんだ質感を帯びたオランダ風の室内画の様だ”と、訳者の私市氏は語る。全くこの一行だけでこの作品のイメージは掴めますな。

 このガラクタ置場に近い、この母娘の部屋に、イボリットの心は直ぐに揺れた。どんな親しみも憐れみも、侮辱の域を出る事はない。この貧窮は悪徳か、それとも並外れた誠実さか
 この母娘は、貧しくも策謀の天才と善良の天才を兼ね備えてたのだ。


 しかし、一枚の肖像画が画家の心を捉える。”繊細な容貌の骸骨”ルセニュール夫人は、亡き夫ルーヴィルがイギリスとの戦争で死に、未だに年金を認めて貰えないと、苦悩の深淵を告白する。


 当然、そこで起こる事件も穏やかで慎ましく、戦死をとげた娘の父の戦友が、ルセニュール夫人の賭け事にわざと負け、ささやかな金をさり気なく献呈したり。
 若い画家が、夫人に頼み込んで描き写す肖像画は、今は亡き父・海軍大佐の、色あせたみすぼらしいパステル画の遺影であったりと。

 その上、この母娘のボロ部屋に、毎晩訪ねてくる2人の奇妙な老人の描写も、実にユニークで温かい。一人はルイ16世の精兵風の生き残り老貴族と、もう一人はその軍人の複製風の亡霊老人と。

 2人の老人は賭け事をする為だけに、ここへやってくる。毎晩の様に老夫人を相手にピケ(カードゲーム)を行うのだが。そして決まった様に打ち負かされ、40フランをおいて帰る。


 このルーヴィル母娘は、博打で生計を立たてるのではと、若き画家は疑う。それにこの老人達は何の徳があって、毎晩”負け”に来るのか。その上、亡きルーヴィルの旧友は彼が描き写した肖像画を、5千フランで買おうと願い出る。
 
 そして、極めつけは、画家の持ってるこの財布。彼はカードゲームに夢中になり、この財布を亡くし、盗まれたと勘違いする。”肖像画を描かせた挙げ句、財布まで盗むとは”

 イボリットには、貧しい部屋を美化する”愛の詩情”が、全て剥ぎ取られたように思えた。希望が絶望に変わる時、それは部分的な死であり、感情の大きな荒廃に過ぎないと、自らを慰める。希望は思い出よりも麗しいのだ。泣けてきますな。

 画家は良心の呵責を感じつつも、若い娘を悪と堕落とに委ねるか迷った。彼はルーヴィル家と距離を置いた。既に、画家と母娘の、真の恋の駆け引きが始まってた。真の理解を得るには誤解も必要なのだ。


 彼は、娘が自分に寄せた愛着や有頂天にさせた愛情は、調べるに値すると。娘の冷たくも素っ気ない態度がそうさせた。

 イボリットは有罪を覚悟し、母娘を訪ねる。青褪め痩せた娘の姿を見て、疑いは晴れた。ルーヴィル夫人もまた、彼のやつれた顔を見て驚いた。”誰であれ、打ち明けられない苦しみもあります” ”真心や友情の力を疑ってはなりませんわ”


 誤解は解け、2人が甘美な喜びに浸り始めた時、夫人がピケをやろうと切り出す。画家の心は再びかき乱され、くすんだ世界の中に引き戻される。

 動揺した彼は初っ端から負け、小銭を出そうとポケットを弄ったその時。横にいたアデライトが見事な刺繍で施した財布を、そっと彼の目の前に置く。
 絶望は希望に変わり、2人の愛情を再生させるその瞬間、全ての疑念が信頼に変わる。


 実は、イボリットの母親が息子の心痛を見抜き、この老伯爵に、この母娘に様々な困難が付き纏ってる事を訴えてたのだ。
 故に、この母娘を救う為に、わざと賭け事で負け続けたと、この老伯爵は告白する。そして、この老伯爵に付きまとう亡霊老人の秘密も明らかになる。


 最後の最後でも、ささやかなオチの連続だが、見事にバランスの取れた短編でもある。刺繍された財布は、当時フランスで流行してたそうな。今でいうデコメされたアイフォンですかな。
 実に温かい心情溢れるホームドラマでもある。バルザックもこんな穏やかで平坦な作品も書くんだなと、少し驚いた。



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