歴史だより

東洋の歴史に関連したエッセイなどをまとめる

桃木先生の編著を読んで

2009-03-21 22:49:11 | 日記
《桃木先生の編著を読んで》

今回は、桃木先生の編著『海域アジア史研究入門』(岩波書店、2008年、2800円)を取り上げる。
本書は桃木先生が筆頭・編者となり、海域アジア史を提唱され、それを日本史・東洋史・西洋史の既存の枠組みに束縛されずに、学際的に共同研究されたものである。

本書の執筆者は、「編者あとがき」(289頁)によれば、1980年代の京都大学東南アジア研究センターでおこなわれていた「漢籍を読む会」のメンバー、そして1993年から大阪大学で開催してきた「海域アジア史研究会」のメンバーを主とする。そのメンバーは東南アジア史、中国史、日本史、西洋史などを専攻する研究者である。そのメンバーが合流して、学際的に海域アジア史を追求する野心的な研究入門書として結実したのが本書である。

また先生の研究史の足跡に照らしてみれば、本書は先生が以前に執筆された論稿「南の海域世界――中国における南海交易と南海情報――」(『岩波講座世界歴史9――中華の分裂と再生』岩波書店、1999年)で提示されたテーマ「海域世界」(前掲論文、109頁)をさらに発展・展開されている。本書の編集の際に、かつて主題とされた「モノ・カネ・技術・文化」(前掲論文、112頁)に焦点をあてて、各執筆者がそれぞれの時代と地域の中で追求するという形で論述を進められ、本書全体を貫く“歴史の筋”として存在することは、読者に歴史を理解しやすいものにしている。

以下、本書を要約し、そしてその感想を記しておきたい。

総説「海域アジア史のポテンシャル」
近年の歴史学は、社会史・ジェンダー史・環境史など新しい領域が成立し、一国主義・国民国家史観やヨーロッパ中心主義を問い直しつつ、本書は、こうした歴史学の潮流に関連して、「海域アジア史」という新しい視野を提示しようとする入門書である。この「海域アジア史」という表現には、従来の陸の視点からの歴史ではなく、海域の視点からのアジア史という新しい問題提起の意味合いが含まれている。そして本書の「海域史」は航海・貿易・海賊・海上民といった海の世界そのものの歴史だけでなく、海をはさんだ陸同士の交流や闘争、海上と陸上の相互作用などを含むという(1頁)。

この海域アジア史は、歴史学の方法論を刷新するポテンシャルをもち、国民国家史観(一国史観)を相対化する意味をもつ。ひいては、アジア社会停滞論の根幹を崩し、近代歴史学の性格を変えるほどの意味をも持ち、近代知のあり方に挑戦する(3頁)。
また、単なる「対外関係史」が閉じた一国史観に回収されがちなのに対して、この海域アジア史という歴史観察の視点は双方向的であり、こうした視点により一国史の理解がより深まり、また世界史・アジア史の中に位置づけることも可能になるという。そして海域アジア史研究は、中国、イスラームといったアジアの特定地域の中心性・先進性を過度に強調する傾向に反対し、従来、中心の側から歴史を見る傾向のあった「日本史」「東洋史」に対するアンチテーゼであるという(4頁)。

次に、この海域アジア史関係の研究動向について整理する。戦前の日本史では、海域史や対外関係史が脚光を浴びたが、戦後は一国史的枠組みのなかで所有と生産様式の解明を主題にしたマルクス主義と大塚史学が流行した。しかし1980年代以降、日本対外関係史や日本列島を取り巻く海域史、琉球や北方の歴史像が書き直され始めた。一方、東洋史では、海陸の「東西交渉史」などが精密に研究され、そして西洋史側から大航海時代を「ヨーロッパ勢力の拡大の歴史」として研究されていたが、戦後はナショナリズムとマルクス主義の影響により、そうした研究は下火になった。しかし1980年代以降、貿易の影響力を強調する方法によって「アジア社会停滞論」の克服が目指され、そしてブローデルの影響も受けつつ、インド洋海域、東南アジア海域などの全体史を描こうとした。また大航海時代はアジア貿易に、ヨーロッパ人が「引き寄せられ、参入した」歴史と理解されつつある。このように、西洋史で、ブローデルが近世に着目し、ウォーラーステインが「近代世界システム論」を提唱するにいたり、そしてアジア海上貿易が大航海時代に先んじて発達していたことが認識されるようになった結果、アジアの「近代」も近世に始まる長期の過程の一部として理解されるようになった。アジアとの関係では依然としてヨーロッパ中心史観の傾向が強かった世界システム論を批判して、1990年代以降、アジアを正当に位置づけるグローバル・ヒストリーという学問的潮流が形成された(7頁、110頁、163-164頁)。従来、「世界史」の中で無視されてきた東南アジア史がアンソニー・リードの海域史を通じて、理論的に組み込まれ、大航海時代以降の歴史を「海洋を通じた世界の一体化」の歴史と捉え直された。近世アジアでは、中国を核とした世界経済が発展し、インドとインド洋交易もその重要な一環を構成していたと主張する論者(A. G. フランク)すら現れた(163頁)。

このように研究の進展が著しい海域アジア史研究にも、分野間の知識や視角のずれの問題、史料言語と研究者の使用言語の隔たりといった言語の障壁、学界・教育界の保守性など様々な障害が存在するのも事実である。現在の海域アジア史ブームを一過性のものにしないために、これらの障害を克服するよう努力していくことが必要であると主張している(8頁)。

総説を締め括るにあたり、本書の構成を紹介しておく。本書は、総説、時代とテーマを全般的に解説する第1篇(第1-17章)、個別的テーマを特論的に紹介する第2篇(第18-25章)の3つの部分から構成される。第1篇では、最近、解明された新事実、旧見解と新見解の相違および今後の課題と展望に留意しながら、学説史を踏まえて紹介しつつ、各テーマを全般的に解説するといった形で論述してある(11-12頁)。

第1部中世<9世紀―14世紀前半>
8世紀以前の海域アジアは、国家的使節団(たとえば日本の遣唐使)を介した国家・王権間の政治・外交的交流が主軸であったが、9世紀ごろ以降、中国海商による民間交易を介したヒト・モノ・情報の交流が大きく発展し、交流に質的変化をもたらし、海域アジア史の画期として捉える。南宋期ごろまでには、中国海域のイニシアチブが確立し、モンゴル帝国のもとでは海域アジアの交流はさらに活発してゆくことから、9世紀から14世紀前半までの「中世」海域アジア史は、「中国海商の海」の形成と表現されてよい。第1部では当該期の海域アジア史を叙述する(15頁)。

第1章「中国人の海上進出と海上帝国としての中国」
宋代の海商の拠点は、王権が指定した管理貿易港であり、両者の関係としては、海商が貢物献納・国家的儀礼参加を利用して王権に接近しようとしたのに対して、王権も外交関係や情報伝達の媒介役として利用した。この管理貿易が、自由貿易を望む商人にとって必ずしも桎梏となり否定的に捉えられたわけではなく、取引保証の安全性や大量取引の可能性といった有利な面も存在したことを指摘する。宋代で官僚の商業関係禁止の建前が緩和されたことをうけて、元代では、大商人が海運の公的管理者となる事例が顕著となり、この時代の貿易の特徴となっている。宋末元初のムスリム海商蒲寿庚、元初の朱清・張瑄などが代表的なものである。ただこれらの海商と国家との関わりや地域社会での位置などは、今後の課題であるという(19頁)。

 章題の海上帝国としての中国とは、海洋勢力(Sea Power)としての中国の始まりを南宋期に求め、南宋水軍、元の水軍、そして明代の鄭和遠征まで、中国の海軍が勢力をもった時期を「海上帝国期」と称されることに由来する(21頁)。南宋水軍は、金・元との戦争で成果を上げ、海賊対策などの治安維持や南宋の延命に寄与した。元朝はその南宋水軍を接収し、江南の税糧輸送に利用したり、また軍事的にも海を伝わって外部に進出するなど、海を積極的に活用した政権であった。しかし元末の内乱により、江南地域が元朝から離脱すると、大都(北京)に都を置いていた元朝は、海を直接支配することが困難になり、海上帝国としての元は解体し、海上では土豪層や海民の活動が活発化した。こうした文脈から前期倭寇も出現するようになった。明朝樹立後も、海上勢力は当初服従することはなかったが、明朝は海上帝国再建のために、海禁を実施した。

 さて、上述した時期において問題となることは、水軍の保持が貿易のあり方にどのような影響を及ぼしたのかという点である。宋代については、積極的な言及を見ないが、元代についてはモンゴル帝国の軍事力による海洋の組織化、ユーラシア規模での流通の活発化や経済的側面を強調する議論が従来あったが、近年、その交易関与の具体的な様相が明らかにされつつあり、今後に期待されるという(22頁)。

第2章「モンゴル帝国と海域アジア」
モンゴル帝国はチンギス=ハンを首長とするモンゴル族がモンゴル高原に割拠する遊牧諸部族を統一して打ち立てた国家である。モンゴルは遊牧民であり、本来、自ら商業・農業をおこなわない。一方、商人は遊牧世界と定住世界を結びつける重要な存在であったので厚遇され、必要物資の交易や資本運営、情報収集を請け負った。商人にとって遊牧集団は、資金とか安全保障の上でも大切なパトロンであった。モンゴル帝国期にこの両者の提携関係を表す慣習を「オルトク」と称した。この用語はもともとトルコ語で、「友」とか「パートナー」を意味し、そして支配者が委託した資本を商人が運用する形態、さらにはムスリムやウイグルといった特権御用商人をも呼ぶようになった。元朝が中国東南沿海地域を直接支配するようになると、このオルトクも南海貿易に参入するようになり、官請負の交易とともに隆盛を極めた。

このモンゴル帝国期には、ユーラシア大陸・インド洋海域規模で交易のネットワークが形成され、海路のモンスーン交易と陸路のキャラバン交易は有機的に連結し、ユーラシア大陸にまたがる覇権を確立し、「モンゴルの平和(パクス・モンゴリカ)」と称される(23-25頁)。

第3章「宋元代の海域東南アジア」
リードは15世紀から17世紀の東南アジアを交易の時代と捉えた。東南アジアは、「島の熱帯」として都市文明が必要とする香料・象牙・真珠・タイマイなど、国際商品の産地であり、海域アジアの地理的な中心に位置し、「海のシルクロード」が通っていたが、この2つの要因により海域アジアに関わる。

10世紀前後にこの地域に一連の政治変動があり、ベトナム(大越)は中国からの独立とともに、陸上がりを開始し、李・陳朝期(11-14世紀)に農業基盤を充実させ、東南アジア的国家から東アジア的国家へ変身しはじめた(31-32頁)。

一方、チャンパーは2世紀に林邑として建国したが、10世紀から15世紀後半まで海洋東南アジアの主役であり続けた。今日ではジャワのマジャパヒトと同じく、14-15世紀が発展のピークと理解され、新しいチャンパー像が打ち出されている。10世紀の海域東南アジアは、名産の沈香(伽羅)の供給者として優位に立っていたチャンパー、そしてマラッカ海峡の朝貢国の総称と理解されている三仏斉(3極のうち脆弱で、13世紀に風待ちの必要性がなくなり衰退)、中部からブランタス川流域の東部へ中心を移したジャワの3極構造として立ち現れた(33頁)。

13世紀に東南アジアの危機と画期をみる見解から、14世紀に分水嶺をみる傾向に移りつつあるという。つまり元寇はパガン滅亡の引き金となり、大越を苦しめたとはいえ、海域アジアではさほど大きな意味を持たない。むしろ元代の交易の活性化と交易網の緻密化により、元代には宋代の2倍以上の東洋の地名が知られるようになったことなどが重要である。『諸蕃志』(1225)や『島夷誌略』(1351)には、各地の輸入品が列挙されており、今後の詳細な分析が期待される(37-38頁)。

10世紀から15世紀において、宗教と交易の関係というテーマを考える際に、東南アジアの初期イスラーム化は、13世紀末期インド西部のグジャラート商人の影響によるもので、宗教が交易ネットワークを利用して広がったとする見解には、検討の余地があるとし、ジャワのイスラム化へのチャンパの関与および鄭和遠征のイスラム化促進の側面をも考慮に入れる必要があると説く(37頁)。

第4章「日本列島と海域世界」
本章では、9世紀―14世紀前半頃(平安―鎌倉期)の日本列島とアジア諸地域との交流史を概観する。研究動向の特徴としては、「国家」「国境」の相対化という方向性のもとに、国家・為政者間の政治・外交交渉だけでなく、海商・海民・僧侶など民間レベルの交流にも関心が向けられるとともに、ヤマトの「辺境」「周縁」とのみ理解されてきた琉球列島や東北北部――北海道地域に関して、国境をまたぐ「地域世界」「海域世界」の中でその歴史展開を捉えようとする点が挙げられる(39頁)。
9世紀は、日本とアジア諸地域との交流史において、国家的使節団を介した為政者による政治・外交中心の交流から、民間海商などの貿易を中心とする交流へと変化するという点で、重要な画期となった(40頁)。

この時期の東アジア海上貿易では、唐人と新羅人(唐に僑居する在唐新羅人)が大きな役割を演じたが、10世紀から14世紀頃の史料に現れない朝鮮半島出身の海商がなぜ活躍したのかという理由と背景は未解明である。
10世紀に唐が滅亡し、その後宋が再統一すると、中国の海商が日本に来航する数が増加し、10世紀後半―13世紀後半にかけての「日宋貿易」の時代に入る。その通説的理解には大幅な見直しがあり、従来、10世紀後半以降、国家による対外関係・貿易の統制は、急速に衰退し崩壊したと主張されてきたが、いまだ貿易管理の実態解明には及ばないものの、12世紀までは博多を中心に国家による貿易の統制が維持されていたという新しい見取り図が提示された。また11世紀後半以降、その博多にチャイナタウン(唐坊・唐房)が形成されていたことも考古学研究により明らかにされた。今後は海域アジア世界を広く見渡した貿易形態の比較史の成果を参照しつつ、「国際交易」の本質や港の機能・成立条件、そして王権・国家と海商との間の「もたれあい」の関係などを議論しなおす必要がある(41頁)。

また日宋貿易の時代は、庶民文化までを含めた中国文化が日本に流入し、深い影響を与えた時代でもあるので、今後、美術・工芸・民俗・生活史分野などのテーマも追求されなければならない。

13世紀後半――14世紀半ばの日元関係をめぐっては、1274年と1281年の2度にわたる元寇の問題を中心に研究されてきた。国内のヒトとモノの動員・徴発体制および恩賞問題を切り口として、その戦争が中世日本の政治・経済などに与えた影響を検証してきた。近年、こうした日本国内に限定された狭い歴史的視野を批判し、モンゴル帝国の眼からみた斬新な歴史像も提示されている。また第2回目の遠征の際に、長崎県鷹島沖に沈没した元船の遺物が海底から引き揚げられ、新たな研究の進展が期待されている(42頁)。

こうした戦争の一方で、日元貿易も行われたが、日宋貿易史研究に比べると、その研究の立ち遅れが目立つ。それでも近年元朝の対日貿易政策や元の国内状況が日元通交に及ぼした影響が検討され、日元貿易には、盛行期間とともに、中断・退潮期間が存在したことがわかってきた。また1323年に中国の慶元(現在の寧波)を出港して博多に向かう途中で遭難した「新安沈船」が1976年に韓国西南の多島海域で引き揚げられ、貴重な実物資料を得ることとなった。

日本列島南方に位置する琉球に関しては、考古学研究の進展により、次のような見取り図が描かれている。すなわち11世紀頃を境に、それ以前は沖縄諸島と宮古諸島の間で2つの文化圏に分かれていたが、その後中国産白磁、九州産石鍋や鉄器など両文化圏に共通する遺物の出土がみられることから、採集経済社会の段階から農耕・交易の比重が高い交易型社会の段階に移行して、文化的一体化の方向に進み、この動向の延長上に15世紀初めの琉球王国が成立したという見取り図である。また中山王の初期の本拠地と推定されている沖縄島の「浦添グスク」の発掘調査により、すでに13世紀には沖縄地域の他勢力を圧倒し、「初期中山王国」とも呼ぶべき強大な支配権力の出現を想定する琉球国家形成史の仮説を提起している(45頁)。

日本列島の北方、つまり本州の北部――北海道地域において、10世紀と11世紀を従来は比較的平和な時代と考えられていたが、「防衛性集落」が広範に出現し、「戦いと緊張の時代」であったことが明らかになった。この集落の出現や、鉄器・須恵器の使用にみられる「擦文文化」はヤマト社会との活発な交流・交易と密接にかかわっていたと推測されている。しかし11世紀末――12世紀になると、ヤマト国家の軍事・行政的支配力が本州最北部まで伸びると、この「防衛性集落」も姿を消し、比較的安定した状況となる。これは「エミシ」の呼称がより北方の人々に限定された「エゾ」に変化していく事実と直結した状況であるという。この12世紀に本州北部地域を支配したのが、平泉に本拠を置いた奥州藤原氏で、ヤマト国家の北方支配を肩代わりする一方で、強い独立性を持ちつつ北海道の一部を支配したが、その支配基盤のひとつが交易の統括であった。しかし12世紀末に鎌倉幕府により滅ぼされ、13世紀以降は津軽半島日本海側の十三湊を北方交易の拠点とする安藤氏が代官として支配した。このように奥州藤原氏から安藤氏へ推移した12世紀――13世紀前後に北海道は「擦文文化」から「アイヌ文化」へと移行する。この文化移行は、ヤマト側の日本海交易の発達と連動していると考えられており、アイヌは鉄器・漆器・米などをヤマトとの交易より入手する交易の民としての性格を強め、その社会の階層分化が進展し、有力首長が生まれる高度な政治社会が誕生した(ただし琉球のような国家形成には至らなかった)。

以上、9世紀――14世紀前半頃の日本列島と海域アジア世界とのかかわりを概観した場合、日本列島の北部と南部で、11世紀――13世紀頃を中心とするほぼ同じ時期に、交易の展開が地域形成・社会統合を大きく進めるという併行現象がみえてきたという(47頁)。

第5章「明朝の国際システムと海域世界」
中国を中心とした国際秩序についての代表的研究として、西嶋定生の「冊封体制」論と浜下武志の「朝貢システム」論をとりあげて、次のように批判する。前者は超時代的朝貢システム、国際的枠組みを設定しており、その強弱によって時代毎の国際秩序のあり方を論じる傾向があり注意を要し、隋唐期と明清期のあり方の相違に留意していない点でより慎重であるべきである。また後者は、西洋近代の「条約体制」にアジア前近代の「朝貢システム」を対置して、前近代をひとくくりに論じる傾向があるので、その時々のシステム構築、運用の視点から明朝のシステムを再評価することの必要性を主張している(51-52頁)。
冷寒化の環境変動もしくは銀の循環クラッシュを原因とする「14世紀の危機」により、元朝から明朝へと王朝が交替した。明朝は、経済の冷却化・収縮に対応する形で、新たな国家システムを構築した。すなわち、銀の循環に代わる社会編成論理として「戸メカニズム」つまり里甲制によって戸単位で人口を再編成し、徴税・徭役を振り分ける統治体制を採用した。そして貨幣経済による外部からの侵蝕を恐れて、対外交易を帝国が直接管理した。

洪武・永楽年間にかけて朝貢・海禁を軸とする明朝の国際秩序の原型を顕在化させた「明初システム」を構築した。これは金銀使用の禁止など現物経済回帰への志向性や、長城建設・海禁のような「華夷」の峻別に見られる「固い」体制としての特徴を有し、16世紀まで固守されたが、様々な軋轢を生むことになる。14世紀後半に成立したこの「明初システム」は、当初は合理的で有効な管理体制ではあったが、16世紀以降、銀の大量流入と交易の活発化に直面して、形骸化し、変化していった。すなわち、16世紀になると、アジア海域にヨーロッパ勢力が進出し、中日混在の倭寇的勢力が活発な活動を展開して、海上交流は活況を呈するが、その原動力は大陸銀や日本銀であった。16世紀には、1567年頃の海禁解除などを契機として、中国の民間海商による交易を許容する「互市」が朝貢システムに組み込まれてゆく。これは実際には国家システムの路線転換というよりは、地方における運用の限定的変化とみるべきかもしれないという(57頁)。

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