歴史だより

東洋の歴史に関連したエッセイなどをまとめる

片倉先生の著作を読んで その5

2009-03-19 23:07:33 | 日記
片倉先生の著作を読んで その5

《付論》
A織田信長と黒人―信長に仕えた弥介―
日本人が黒人の存在を知ったのは、信長政権の頃で、ヨーロッパのキリスト教宣教師が連行してきたといわれる。織田信長は、「南蛮」文化に関心を示し、キリスト教の布教を認めるなど、西欧文化に好意的で、人一倍好奇心の強い権力者であった。この信長は宣教師から入手した黒人を弥介と呼び、本能寺の変で最期を遂げるまで、身辺に彼をおき、仕えさせていた。信長の森蘭丸(森乱名利)などに対する「少年愛」は周知のことであるが、彼の好奇心は黒人にも注がれていた。ここでは、信長と黒人の問題について、先学の諸書に言及しつつ、著者の見方を提示している。
近世初期(16-17世紀)は、ヨーロッパのアフリカ・アジア侵出とともに、奴隷貿易が盛行し、アフリカの黒人が各地に連行された。日本へは宣教師が黒人奴隷を連行・随行させ、その様子は「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵など)に描かれている。そして1581年4月14日付のルイス・フロイスなどの宣教師の書簡には、「黒奴」を、信長が見物したときの様子が記されている。

信長の「黒奴」見物後、宣教師から信長に、「黒奴」が贈られたことに関しては、次のような史料的根拠が存在する。すなわち、徳川家康に仕えた松平主殿助の日記として知られる『家忠日記』1582年の条に、「上様御ふち候大うす進上申候、くろ男後つれ候、身ハすミノコトク、タケハ 六尺二分、名ハ弥介と云」とある。この記事は、同年、信長は武田勝頼を滅ぼし、甲州からの帰途、家康の居城(浜松)に立ち寄った状況を記したもので、このとき信長は、宣教師から贈られた黒人を連れて、出陣していたことがわかる。この日記にある弥介(大佛次郎は小説中、弥助と書く)という名も、信長により命名されたものという。信長の「南蛮」趣味と黒人に対する強い関心と、布教活動を容認してくれた信長に対する宣教師たちの感謝の念との相互の思いが黒人の譲渡、贈与という形に結果したのであろう。信長はこのアフリカ出身(モザンビーク生まれ説など)と目される黒人の存在をとおしても、海外に視野を広げていたと想像される。

本能寺の変で信長は、その生涯を閉じたが、随従した黒人の運命については、その足取りを示す確かな日本側の史料はない。ただルイス・フロイスの報告書(1582年11月5日付、イエズス会総長宛、信長の死に関する報告書)において、貴重な情報が次のように載せられている。すなわち、「信長の求めによって巡察師が彼の許に残していった黒人(カフル)が信長の死後、世子の邸へ行き同所で長い期間戦っていたので我らは少なからず心配していたが、明智の一家臣が彼に近づき、恐れずに刀を(棄てるよう)求めたところ、彼はこれを差し出した。別の家臣が明智の許に行き、黒人(カフル)をいかにすべきか問うたところ、その黒人は動物(ペスティアル)であって何も知らず、また日本人でもないから彼を殺さず、インドの司祭たちの教会に置くように命じられた。」とある。この報告書によれば、黒人は、信長が宿泊していた本能寺で明智軍と戦い、その後、信忠のもとに行き、明智軍と戦ったようである。結局、光秀の家臣に捕まり、その処置を問われた光秀は、「その黒人は動物であって何も知らず・・・」といって、教会(本能寺の近くにあった京都最初の南蛮寺、四条坊門通室町姥柳町)におくように命じた。黒人を動物とみなす光秀のこの態度には、当時の日本人の未熟な黒人観の一斑が表白されているが、光秀の命により黒人は死を免れて、もとの教会に戻された。そこで再び教会と宣教師に使役される立場となり、その後の消息は知る由もないが、決して幸せな人生が待ち受けていたのではなかったであろうと著者は推測している。

B日本のなかのモンゴル―続・蒙古襲来の影響に関する研究―
本稿は、氏の前稿「蒙古襲来の影響に関する研究―日本人のなかの蒙古襲来―」(『日本人のアジア観-前近代を中心に』所収)発表後、「日本のなかのモンゴル」に関して収集した情報や資料を紹介し、前稿の不備を補うことを目的としている。
まず最初に、1989年の「世界子ども音楽祭」に出演したモンゴル人のオユンナが自らが作詞・作曲した「天の子守歌」がグラン・プリを獲得したり、大相撲でのモンゴル人力士が活躍したりと、日本におけるモンゴル人の才能と力量が各分野でいかんなく発揮されていることに触れる。

このように、日本人のなかに、モンゴルへの興味と関心をもつ人びとが増えつつある状況の中で歴史上「日本のなかのモンゴル」として注目すべき事件である蒙古襲来について調査した結果を報告している。例えば、前稿で取り上げなかった叡尊という仏僧の祈祷について、次のように紹介している。叡尊は1281年、石清水八幡宮で、560人余りの持斎者とともに、モンゴル退散の祈祷を行ったが、その内容は、「東風をもって兵船を本国に吹き送り、来る人を損なはずして乗るところの船を焼失せしめたまへ」(『感身学正記』)というもので、国や民族の違いを超越して敵兵の無事をも祈っていた点に特徴が見られる。

また日本の供養塚・供養塔は敵と味方を問わず、幽魂を弔う心情や思想の発露であり、「慈悲一視同仁」の仏教思想に合致し、怨霊の祟りを恐れる鎮魂思想に基づくものであるという。一方、韓国にある「三別抄抗蒙殉義碑」はモンゴルの侵略に抵抗して殉じた三別抄集団の果敢な戦いを顕彰した碑で、日本の供養塚・供養塔とは、その趣旨・性格を異にする。もちろん、日本にも、九州の薩摩塔のように、戦勝の祈願を主目的とする石塔も存在したが、元兵などの霊魂を鎮めるための蒙古塔・供養塔が存在するところが日本的である。つまり、日本人の自然な心情として、「死者を許し」死ねばすべて善人になるというのが供養塔の基底思想であるというのである。この点では、蒙古塔以外にも、真言宗の総本山高野山に建てられた「高麗陣敵味方戦死者供養碑」(1599年)にも、敵と味方を弔う心情と思想を看取できる。また近年2004年、「イラク戦争」犠牲者の追悼に際して、イスラム史学者でもある森本公誠東大寺別当が、日本仏教には敵味方すべてを弔う伝統があるとして、法要を発案したが、その発案の趣旨の中にも、この思想が存在しているという。

その他、元寇の遺産と目されるものとして確認できたものを補足している。佐賀県神埼郡神埼町(2006年から神埼市)西分地区に伝わる陶磁器「尾崎焼き」は、元寇の際、ここに住みついたモンゴル人(「唐人」ともいう)が焼き物と人形作りを教えたのが始まりと伝承されてきた。「尾崎人形」には、鳩笛、小鳥の笛物(テテップー)、子守人形など、20種類以上ある。

また『西日本新聞』(1999年11月)の記事によれば、対馬には1軒もない対馬(津島)という名字が東北の津軽地方に多いのは、約700年前の元寇のときに避難した対馬住民が「日本海」を漂流し、津軽地方の豪族(安東水軍)に助けられ、津軽西海岸に住み着いたからではないかという。元寇は人びとの移動をも惹き起こした。この名字の人は、東北地方に6000人おり、西海岸の宮館地区は8割以上が対馬・津島姓である。元寇→対馬島民の避難・漂流→安東水軍の救助→津軽地方に定住といった歴史の流れを考えた場合、「津軽の子守歌」のなかでも、モンゴル(「モコ」)への恐怖心がなぜ歌われたのかという謎が解けるかもしれないという。

さらに、元寇の遺産とはいえないとしながらも、盛岡市の名刹報恩寺の羅漢堂に、マルコ・ポーロ像と言い伝えられてきた善注尊者(第100番)と、フビライ像とされる法蔵永劫尊者(第101番)という木像が安置されている。当寺は、1394年に南部家第13代・南部守行によって創建され、1602年に現在地に移築され、羅漢堂は、1735年に完成し、五百羅漢像は京都の仏師によって彫られた。このとき胡服を着した両像も刻されていたらしく、この胡服の2像は、中国天台山の五百羅漢を模造したものと推論されている。そして富山県高岡市の瑞龍寺にも、マルコ・ポーロと伝えられる像(正式には「達磨像」)が祀られている。

次に、「日本のなかのモンゴル」として、元寇の激戦地となった地域を中心に、自治体がモンゴルとの親善・友好関係を結んでいることに話題を移す。姉妹都市関係を締結しているのは、兵庫県出石郡の但東町とバヤンホンゴル県ボクド郡、長崎県鷹島町とウブルハンガイ県ホジルト市、宮崎県都城市とウランバートル市である。その契機は様々だが、都城市の場合、1992年頃に始まったモンゴルに風力発電を贈るという活動だったという。また日本におけるモンゴル関係の施設としては、兵庫県の但東町は、モンゴル民族の文化と歴史を紹介する「日本・モンゴル民族博物館」を建て、地域の活性化と連動させ、交流活動を展開している。その他、福岡市には「元寇史料館」があり、鳥取県米子市には井上靖夫人が館長を務める「アジア博物館・井上靖記念館」のなかに「モンゴル館」があり、チンギス・ハーンを生んだモンゴル遊牧民を知り、理解を深めるための資料が展示されている。日本とモンゴルの関係の取り組みにおいても、両者の関係を歴史的に明らかにしつつ、地域の人びとの国際的意識(連帯と共生)の向上に努め、相互の親善と友好の方法を追求していく必要があると力説している。

ところで、最後に、2005年4月、大相撲藤沢場所に先立ち、横綱朝青龍らは、神奈川県藤沢市片瀬の常立寺にある「元使五人塚」を墓参し、モンゴルの風習に従ってハダク(青い布)を墓石に巻き、先の霊を慰めた。この元使塚は1275年、執権北条時宗により処刑された、フビライからの5人の使者を供養するために建てられた5基の五輪塔である。この日本には過去に学び、現在・未来の友好を志向する「日本のなかのモンゴル」が存在すると文章を結んでいる。


以上の要約によってもわかるように、先生の文献渉猟と博覧に加えて、洞察力と文筆力には敬服している。これが本書を通読しての最初の感想である。第3章「済州島吏民のベトナム漂流記録」は、先日出版された桃木至朗先生編著の『海域アジア史研究入門』(岩波書店、2008年)とも関連し、興味深く読むことができる。視点を変えれば、ベトナムに関する史料も今後発掘できることを教えてくれる著作でもある。

さて、歴史家は史料に対して真摯な態度で取り組み、それを読み込んでいくことが求められる。この歴史研究における史料批判の重要性はよく言われるところであるが、それを実践するとなると、煩瑣な作業を厭わない忍耐力と、一字一句の相違をも見逃さない緻密な観察力と、前後の脈絡を読み込む洞察力が要求される。それを見事に実行されたのが、第2章に見られる「趙完璧伝」の校合である。後学の今後の研究に資するために、掲載されている。逐一記された8頁余りにわたる註釈を見れば、著者がいかに細心の注意を払いながら、忍耐強く、正確に諸史料間の校合を行われていたかがわかる。この労を多とする基礎的な作業に敬意を表したい。

元来、史料および文献収集における先生の情熱と執念は人並みはずれ、私も20年以上も前に先生が海外のフランス極東学院やアジア協会から取り寄せられた史料などを借用する機会があった。『洪徳善政書』の漢文およびベトナム語訳などはもちろんのこと、Vu Van Mauのベトナム語の著作にも必ず目を通されて、アンダーラインと書き込みが記してあった。この徹底した実証的な文献主義のもとに完成した大著こそ、冒頭で紹介した『ベトナム前近代法の基礎的研究―『国朝刑律』とその周辺―』である。この著作は、今なお他の追随を許さないベトナム前近代法制史研究の金字塔の位置にある。そこに先生の博識と文献渉猟の幅広さとともに、研究姿勢を看取したのである。

ただベトナム前近代史では史料が少ないことは、中国や日本の古代史と同様である。史料的に制約されるので、その史料の行間を、推察力と想像力で読み取ることが求められる。そして比較史的研究手法で時には大胆な仮説を提示することを試みることも、歴史の解明のためには必要となってくる。この試みがなされたのが、本書に収録された第6章「魏志倭人伝とベトナム―入れ墨の比較史的考察―」であろう。ベトナム前近代のと入れ墨に関する成果をもとに、日本の古代の重要史料であるいわゆる『魏志倭人伝』の解読および入れ墨の政治社会的役割とその史的位置に関して検討している。3世紀の日本と12~13世紀の李朝・陳朝といったベトナム初期王朝との比較史的有効性について、著者自身、保留していることからもわかるように、今後さらに研究の深化が期待される分野である。
また歴史家が史料に対して真摯な態度で向き合い、それに沈潜することの大切さは、著者がしばしばその著作で言及されるところであるが、こうした実証主義とは対照的に、いわば伝説という普通、歴史家ではなく、文学者が主題として取り上げる問題にまで積極的に考察対象を広げておられる。その成果が現われたのが、第7章「為朝南行伝説と義経北行伝説―二人の英雄と沖縄・アイヌ―」であるように思われる。

歴史家はただ単に過去の事件・事象を研究して、事足れりとするのではないことを教えてくれる著作でもある。つまり歴史家は事実の慎ましい奴隷ではない。遠き過去を現在に手繰り寄せて、過去の営為を意味づけ、生き生きとした歴史認識を醸成させるというクローチェ流の責務が歴史家にはあることを気づかせてくれる。歴史とは現在の眼をとおして、過去を見ることであることを教えてくれるのが、「日本のなかの朝鮮」をテーマとした第8章「趙完璧が伝えた京都の徐福祠(寺)」、第9章「彦根のなかの朝鮮(その1)―彦根藩・朝鮮使節と「被虜女人」―」、第10章「彦根のなかの朝鮮(その2)―宗安寺黒門の由来―」および付論B「日本のなかのモンゴル―続・蒙古襲来の影響に関する研究―」であろう。歴史家の研究するものは、死んだ過去ではなく、何らかの意味でなお現在に生きているところの過去である。歴史とは、現在と未来と過去との間の尽きることを知らぬ対話であるという思いを一層強くする。

そして第11章「日本の姉妹自治体のなかのアジア」および第12章「日本の自治体と東南アジア」は、今日の日本の国際交流活動の現状を吟味・分析し、その問題点を指摘した貴重な研究である。著者の理想とする日本の国際化である「真の対等で、連帯と共生の道」を目指して努力する必要性を主張する点は、今後われわれに託された大きな課題であろう。現代的・今日的視点から、日本とアジア、ことに東南アジアとの関わりを考えてみる著者の姿勢とその志向性は教育者の立場からのそれである。

歴史研究と交流との関係について言えば、複雑で微妙な問題をも、本書は扱っている点にも触れないわけにはいかない。それが第4章「花山李氏の族譜試論―朝鮮のなかのベトナム」である。ベトナムの李朝末期、朝鮮の高麗王朝の高宗(在位1214―59)のころ、李朝の王子・李龍祥が国外に脱出し、黄海道甕津郡北面花山洞里にたどり着き、モンゴル軍の侵略に抗戦し、功績をあげ、高宗により花山君の爵号と食邑を賜与され、花山李氏の始祖になったという。この始祖説話が史実に基づくのか否かという難問に、現在の歴史研究ではその真実性と信憑性について解明しえない。つまり現存する史料から、この事実を浮かび上がらせることは今のところ不可能である。残念ながら、族譜という虚実が混在した歴史史料にしか、そのことは、記載されていないという研究状況である。いわば、「現実が研究を追い越している」(本文20頁)友好と親善の動きなのである。この花山李氏の子孫を報じる報道機関の姿勢について、韓国とベトナムでは、韓国側は、花山李氏の主張を事実として歴史に価値を与えているが、そこには韓国が族譜文化の比重が高い国であるという点で、歴史認識の相違および文化理解にもつながる重大な問題が潜んでいることを指摘している(本文101頁)。歴史の真実が解明された場合、両国の交流はどう展開されるのか。もし虚偽とされたとき、両国の交流に悪影響を及ぼすであろうことも危惧される。歴史研究そのものの難しさとともに、交流とのかかわりでも微妙な関係にあるのが、花山李氏の始祖問題である。歴史に裏打ちされた交流とは、まだ言いがたいが、“歴史の真実”を探求することが求められる。交流は発展されるべきであるが、学問上の真実を研究者は追究すべきであろう。

また、『彦根市史』(1962年版)という一見正しい歴史が綴られていると思われがちな市史という刊行物にも誤解・歪曲された歴史が存在する面を指摘されており、歴史認識の重要性を痛感する。歴史認識とは、記述としての歴史を、出来事の歴史に合致させようとする努力のことにほかならないとよく言われるが(渡邊二郎『歴史の哲学』講談社学術文庫、1999年、35頁)、両者が曲解され、隔離してしまわないためにも、真偽を見極める批判的吟味が今後も必要であることは言うまでもない。

ところで、付論A「織田信長と黒人―信長に仕えた弥介―」においては、一般人がよく目に触れる機会のある信長に関する本を逐一取り上げて、問題となる箇所を指摘し、氏自身の評価を加えている点も参考となる。例えば、川崎桃太『フロイスの見た戦国日本』(中公文庫)、松田毅一「信長と南蛮人」(岡本良一編『織田信長のすべて』新人物往来社、所収)、そして遠藤周作の小説『黒ん坊』(毎日新聞社)および大佛次郎の『織田信長 炎の柱』(学陽書房)には、黒人に対する侮蔑的な表現ないし心ない表現が見受けられるとし、偏見を増幅しかねないので、慎重な態度が求められると警告する。そして、大佛の小説では、本能寺の変で黒人が信長のあとを追ったかのように、京都の商人・亀屋栄任(?―1616)が家康に語ったうわさ話を記しているのは、フロイスの報告書などに基づく限り、史実に反した大佛の創作であろうと推考している。ここには、歴史家として史料に基づいて史実を正す態度が見られるとともに、研究者としてのみならず、教育者としての眼を通して、諸書に対する論評を付してある。信長に仕えた黒人に関して、その目配りは、一般人の知的好奇心が注がれやすい遠藤周作・大佛次郎の小説までをも考察の対象範囲に入れて、アフリカ黒人に対する侮蔑的偏見が感じられる文章表現に注意を促し、またフロイスの報告書に基づき、記述の誤りを指摘している点は、先の内容紹介で記しておいた。このように、遠藤・大佛といった一流の文学者の想像力に対しては、あくまで誠実で冷静な歴史家の視点から、適切な批判を加えていることに読者は気づくであろう。片倉先生の歴史家として、ゆるぎなき信念と、史実を直視することにたけている洞察力を、思い知ることであろう。
このように片倉先生は歴史家として優れた学者であることは言うまでもないが、人間としても感受性の豊かな学者であることは、次のようなヒューマンな文章に表れていよう。例えば、8歳で日本に連行されて、祖国に帰りたい一心で、使節団を訪ねてきた女性の心中を想い、「彦根に住んでいたと思われる者が地元の彦根で使節に会えず、次の守山の宿舎にまで追いかけてきたことの背景に、なんらかの事情の存在が想定される。長い歳月が過ぎてゆく過程で、忘れがたい祖国や故郷への思いと、拉致、連行によって狂わされた人生の歯車の上に築かれた現実とのしがらみに苛まれての行動であったろう。姜弘重ならずとも悲哀と悲痛の心情に駆られる。」(本文196頁)と記している。

そして、信長に仕えた黒人・弥介の境遇と心中を察して、「弥介は、宣教師一行に伴われてアフリカ辺りから日本に連行され、信長の要求と、布教活動容認への謝礼の意との結果として信長に譲渡された不幸な人物であった。信長に仕えたのは、わずかに一年三カ月ばかりにすぎなかったが、この間は、日本の人びとの好奇な目に囲まれた恥辱と苦難の連続だったであろう。そのような状況のなかで、祖国や故郷に思いを馳せ、父母や家族の安否を気遣い、望郷の念に駆られる日々を過ごしたことと推察される。宣教師とは異なり、弥介は自分自身の記録をなに一つ残さなかったけれども、彼の目に当時の日本とそこに住む人びとはどのように映ったであろうか。もはやこの黒人の心情を知ることは容易ではないが、信長をはじめ当時の日本人が、弥介という人物の存在により、未知の世界を教えられたのは確かなことである。日本人の対外観の歴史を、弥介のような黒人が下で支えてきたことを看過してはならない。」(本文265頁)とする。

著者はあとがきにおいて、「この書は、いわゆる学術書と呼べるものではない。なかには随想とか読み物風のものも含まれており、推論や憶測の類が多い。それは筆者の関心の推移を反映した結果である。」(283頁)と、謙遜の意味を込めて、断っておられる。本書に収録した過半数の論考類は学会誌などに発表されたものだが、第2章「「趙完璧伝」の一研究」、第4章「花山李氏の族譜試論」、第9章、第10章の「彦根のなかの朝鮮(その一)(その二)」、付論A「織田信長と黒人」については、新たに書き下ろされた作品であるという(282頁)。奇しくも、先に引用したヒューマンな記述内容は、いずれも今回書き下ろされた作品の中にみられるものである。ということは学術的論述にとらわれることなく、自由に筆をとり、想像力を膨らませて、叙述した文章に、先生の人間性が自然とにじみ出たということになる。こうした記述に、歴史研究に長年携わってこられた先生の信条なり、人となりが現れたところに本書の魅力の一端が看取できるのである。

最後に、ベトナム女性の地位の高さをめぐる議論の参考文献として、私の拙稿「前近代の東アジアにおける女性の地位について(下)」(『広島東洋史学報』3号、1997年)を列挙して頂いた。記して感謝を申し上げたい。



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