歴史だより

東洋の歴史に関連したエッセイなどをまとめる

《冨田健次先生の著作を読んで》その21

2014-12-31 16:18:04 | 日記
仮名について
現行の平仮名は、漢字のくずしとして生まれている。
伊呂波歌に「色は匂へど散りぬるを、わが世誰(たれ)ぞ常ならむ、有為(うゐ)の奥山けふ越えて、浅き夢見じ酔(ゑ)ひもせず」がある。その漢字を示せば、次のようになる。
以呂波仁保部止知利奴留遠、和加与太礼曽川祢奈良武、宇為乃於久也末計不己衣天、安左幾由女美之恵比毛世寸旡 
(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、57頁)。
平安時代の書には、漢字・男性・公的という意識に対して、かな・女性・私的という意識が強烈に対立していたといわれる。書に限らず、文学作品においても、こうした意識が働いていたことは、紀貫之(870頃~945頃)の『土佐日記』にしても、女性仮託の立場をとったりせねばならなかったことからもわかる(榊、1970年[1995年版]、158頁)。
仮名というのは、真名(まんな、漢字)の仮の名という意味である。平安時代の平仮名は、恋文用の文字とも「色好み」の文字ともいわれたものである。
たとえば、
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな(和泉式部)
といった秀歌の中には、女性が男性への思いをはせる歌が多い。
仮名は、女性が男性に自らの意志を伝える手段として生まれたものであるから、情緒豊かで、気品が高くなければならないともいわれる。
そのため、仮名の書には、次のようなことが必要となるようだ。
①和墨で墨はなるべく淡く磨り、「墨づき」に意を配る必要がある。
②連綿といわれている字と字のつながりが、上手でないとうまくいかない。
③章法といって、天地左右、行間字間をあらかじめ頭に画いてから書くようにしなければならない。
④仮名は、側筆(そくひつ、筆を右へ倒す)で書くものであるし、筆は柳葉(りゅうよう)筆といって細身で穂の長いものを用いるようにする。
このような仮名の書法により、優雅典麗で気品が高く、落ちつきがあって、悠揚迫らざる風格の仮名の書がうまれるという(大日方・宮下、1987年、126頁~128頁)。
日本の文化の特徴を考えた場合、西欧やイスラム世界、インドとの違いは、東アジアの漢字・漢語・漢文・漢詩文明圏に属することが第一に挙げられる。
次いで、同じ東アジアの中国や朝鮮半島、越南(ベトナム地方)と異なるものがあるとすれば、女手=平仮名の誕生と、それによる和語・和文・和歌による文化的表現力の拡張が指摘できる。
日本文化史の特質は、漢語と和語、音と訓の二重複線性という点にあるといわれる(石川、2007年、39頁~42頁)。


小野道風と和様
小野道風(896-966)は、藤原佐理(944-998)、藤原行成(972-1027)とともに、平安後期の三蹟と一般的に説明され、理解されている。空海(774-835)、嵯峨天皇(786-842)、橘逸勢(?-842)の平安前期の三筆がまったくの同世代で、しかも国家の中枢にあって直接かかわりあった。それに対して、三蹟はその活躍した時代に重なりをもたない。つまり三蹟は道風が生まれ、行成が没するまでの130年にわたるバトンタッチ的経過として捉えられる。
ともあれ、平安朝の書道は、三筆・三蹟を中心として華やかに展開していった。その中で、小野道風は和様の創始者あるいは完成者であると一般に理解されている。
和様書道という書法形成を、一個の人間の所為にしようとすること自体に、多少の無理はある。空海と小野道風を結ぶ時間的距離、つまり遣唐使が廃止されてから、道風が「智証大師賜号勅書」、「屏風土代」を書くまでの30年余りには多くの書跡が存在したことであろうが、残存するものが少ないという。そのために、和様書道の形成という大きな構造が、一個の超人の存在に仮託される結果となっているようだ。小野道風は、和様書道の形成という大きな潮流にあって、その代名詞となりうるまでの傑出した力量の持ち主であり、和様の創始者あるいは完成者と歴史的に捉えられている(ただし、小野道風自身はそのような考え方はなかったと魚住は言う)。
ところで、当時の人々は道風の書をどのように考えていたのだろうか。『源氏物語』絵合巻(えあわせのまき)に、
「手は道風なれば、今めかしうをかしげに、目にかがやくまでに見ゆ」とある。この表現に見られるように、道風の書は殿上人から斬新ではらはらさせるほどみごとなものとして迎えられていたことがわかる。
また、天徳3年(959)、「天徳三年八月十六日闘詩行事略記」には、
「又た木工頭(きのたくみのとう)の小野道風なる者は、能書の絶妙にして、羲之 再生し、仲将 独歩す。此の屏風を施し、彼の門額を書すに、処処 霊あらざる莫く、家家 珍とせざる莫きなり。仍つて一朝の面目為り、万古の遺美為り」とある。
「羲之 再生し、仲将 独歩す」とは、王羲之がよみがえり、仲将(韋誕の字で、三国魏で善書の誉れ高き人)が独歩しているという意味であるという。このように、道風は当時の名声をほしいままにしており、その書が競って求められ、それが誇りとされていたことがわかる。
ここで注目すべきは、道風が王羲之の再生であるとの見方がなされていることであると魚住は解説している。つまり、小野道風を和様の創始者もしくは完成者とする書道史的な位置づけと、「天徳三年八月十六日闘詩行事略記」に見る王羲之の再来としての認識はまったく相反する捉え方である。
そこで、魚住は、道風の書法をより現実的なものとして把握するために、道風の「智証大師賜号勅書」と、王羲之の書の字を集めた「集字聖教序」の同一文字を比較・検討している。
その結果、「智証大師賜号勅書」における「集字聖教序」との相違点として、5点を挙げている。
①とくに字形の下部の横画にそり身がつく。
②縦画の上部が右方に傾きやすい。
③字形の上部が狭い。
④字形の下部が次第に太くなる。
⑤転折箇所がすべて丸く節目がない。
(これらはいずれもが中国書法においては未熟として戒められるべき点であるそうだ)。
二者においてどうしてこのように運筆の相違が現れたのかという点に関して、魚住は、小野道風が指の働きを巧みに使って書いていることが大きく原因していると推察している。中国では書する場合、伝統的に指をあまり動かさない。丸い柔らかな動きも、手首を柔らかく回すこと(回腕という)で書きこなすという。そして中国書法では指の働きで書することを、骨力を失わしむものとして戒める伝統がある。
そもそも中国人と日本人とでは、筆の持ち方に大きな相違がある。日本人が指の働きやすいように持つのに対して、中国の持ち方はあえて指の働きを用いにくくしている。
このように考察した結果、小野道風の書は、形としては王羲之の書を模しながら、同時に中国書法の伝統から抜け出し、日本人色を強く打ち出したものであったと魚住は理解している。この柔らかで骨ばらないたっぷりとした肥筆の道風の書が、平安朝の殿上人にとっては新鮮に輝くものであり、その好みを大いに満足させるものであった。このようにして、王羲之は名人としての虚像と化し、和様で漢字を書くことが平安後期に定着していった。だから、日本の書芸術はこの小野道風に始まるといっても過言ではないと魚住は理解している(魚住、1996年、221頁~259頁)。
魚住の本は、日本書道の文化史であるとともに、書を通してみた日中文化交流の一端を叙述している良書であるといえよう。

小野道風について
小野道風は小野篁(たかむら)の孫にあたり、柳にとびつく蛙を見て発奮したという話の主人公である。
水のほとりにたれている柳の枝に、蛙が跳びついていた。蛙は何度も失敗していたが、とうとう目的を遂げた。それを見ていた名人道風は、芸とはつとめるものだと悟ったというものである。
『屏風土代』(928年)は、延長六年道風35歳の時、勅命を奉じて宮中の屏風を書いた時の下書きである。土代とは草稿の意である。
道風の書は、概して鷹揚でこってりして温雅であるといわれる。このような若書きにもすでに和様の趣が濃厚である。
また、日本人の筆で華麗な躍動感を見せている書として、鈴木史楼は道風の「玉泉帖」を第一に挙げている。この「玉泉帖」は龍が飛び、鳳が舞うようだとよく評される。
ところで、初唐の虞世南が道風であるとすれば、佐理はまさに褚遂良であるといわれる。褚遂良は運筆の際、紙を離れること三寸といわれているが、佐理もまたこれと同様すこぶる達筆である。「離洛帖(りらくじょう)」(991年)は、佐理48歳の時、長門の赤馬関から甥にあてた手紙であるが、奔放自在の書で、天馬空を行くの感があると評される。
ところで、13世紀、鎌倉時代に描かれた伝頼寿(生没年不詳)の「小野道風画像」がある。畳の上に巻紙を広げ、立てひざで、単鉤法で筆を持ち、今まさに筆をおろそうとしている画像である。その顔は、猿面のごとき顔の老人で、「柳に蛙図」で描かれた若い頃の道風のイメージとはかけ離れている。この点について、石川九楊は興味深い推測を述べている。すなわち、初唐代の楷書である「九成宮醴泉銘」(楷書の極則)の書き手、欧陽詢が醜男(ぶおとこ)であったという逸話をふまえて、道風も猿面の醜男に描いたのではないかというのである(鈴木、1995年[1996年版]、22頁。石川、2007年、214頁。鈴木・伊東、1996年[2010年版]、122頁~126頁)。
三筆より三蹟の時代に入ると、その書内容は大分変わってくる。三筆の時代は唐から直接の影響が強く、知的に引き締まった書が愛好されたが、三蹟の時代に入ると、その緊張から開放され、情趣的な傾向が強くなってくる。
小野道風の「屏風土代」を、空海の「風信帖」と比較すると、転折の鋭さがほぐれ、曲線の転回がゆるやかになってきたのがわかる。つまり、「和臭」がでてきて、日本的自覚が発生してきた。この時代に平行して仮名書道が発達してきていて、艶美な表現が考案された。また当時の王朝的ムードもそのような書表現を求めた。この「屏風土代」という道風の作品は、漢字が日本的に処理されだした最初の記念として書道史的に重要な位置をもつものと考えられている(西川、1971年[1980年版]、140頁)。

石川の日本書史の見方について
明治時代以降において、日本の芸術の近代化は、絵画・音楽と書では、その近代化のモデルが異なっていたと石川九楊は捉えている。
900~1800年代半ばまで、日本の書の基本スタイルは、三蹟のスタイル(和様)で変わらなかった。つまり、927年に小野道風の「屏風土代」という書が書かれたが、三蹟の一人藤原行成の「白氏詩巻」が典型的、代表的な三蹟の書であると石川はみなす。この作品は、ちょうど『源氏物語』が生まれた1000年過ぎぐらいの書である。この一般に和様とよぶスタイル(書体)の書が明治時代に入るまで、日本の書史の中央を歩んだ。江戸時代の御家(おいえ)流もその系譜上の書である。もと江戸時代の大判や小判の字は、御家流で書かれていた。
つまり、小野道風に始まり藤原行成で完璧になった三蹟のスタイル(和様)は、明治維新まで日本の書の中央にあった。特に江戸時代には徳川幕府御用達の御家流とよばれる公用の基本書体として、公文書のたぐいはこの書体で書かれていた。しかし明治時代に入り、書は一大変革をとげた(石川、2011年、149頁~151頁)。
それでは次に、明治時代以降、現代までの作家・書家などの書の歴史を作者別に見てゆきたい。

西郷隆盛の書について
西郷隆盛は、大久保利通、伊藤博文らと並んで、明治維新の立役者で、時代の英傑であった。明治の元勲のなかでも、西郷隆盛の書はことに人気が高いといわれる。
肉の豊かな堂堂とした書風は、腹の据わった偉丈夫を思わせ、躍動的で、振幅に富んでいる書が多いそうだ。西郷の書風は、その波乱万丈の生涯におのずと通じ、その人生を締めくくった悲劇的な最期が、折り重なっていると鈴木はみている。
また、書を良くした西郷には、扁額に「敬天愛人」なる墨跡がある。この扁額について、平山観月は、
「すこぶる豪快で英雄の風格を伝えて躍如たるものがある。すなわちこの風格こそは書美の内容をなすものなのである。題材と一般に呼ばれる敬天愛人の辞句は、けだし大西郷の座右の銘であったであろう。かれはこの信念のために生きかつ倒れたのである。」と記している。まさに「書は人なり」であって、西郷の遺墨には、その人間像を偲ばせる魅力がある(鈴木、1995年[1996年版]、86頁~87頁。平山、1965年[1973年版]、269頁)。

夏目漱石(1867-1916)の書について
鈴木史楼は『百人一書―日本の書と中国の書―』(新潮選書、1995年[1996年版])において、日本と中国の書を合計100書紹介している。書家だけの書とは限らず、作家、画家などの書も含まれる。
その中で、夏目漱石の「則天去私」という書もある。素人の目からみても、「うまい」と感心する。それもそのはずで、「近代の作家で、夏目漱石ほど書を熱心に習った文豪はいなかった」と鈴木史楼は解説している。そのことは、漱石の蔵書目録を見てもわかるそうだ。そこには、顔真卿、懐素、王羲之の法帖が並んでおり、それのみならず、石鼓文、礼器碑、孔子廟堂碑などの拓本を持っていた。
漱石の「則天去私」という書は、我流ではなく、習うべきものは習った上で、安心して筆を運んでいるが、そこから一歩でも先へ進もうという欲はなく、それゆえに、さほど印象に残るような顔が、書から浮かんでくることもないと鈴木は説明している。書の専門家から見ると、漱石は習ったものを踏まえて、いたって正直に書いているだけのもので、あまり面白い書とはいえないようだ。
それではなぜ漱石は書に趣味を持つようになったのであろうか。この点について、筆を運んでいると、面倒なことを考えずにすみ、小説を書いているときの自分を忘れることができたからであろうと鈴木は推測している。
漱石はその小説のなかで、人間のエゴイズムを描いた。『草枕』の私、『それから』の代助、『門』の宗助などの主人公に、エゴイズムと闘う苦悩を背負わせた。人間の私利私欲を、漱石は胃に痛みを覚えつつ執筆した。そうして、一作ごとに、漱石は人間の理想的な境地である「則天去私」の世界へ近づいていった。この書には、小説のような沈痛な表情は少しも見えない。小説では四苦八苦している大きな問題を、漱石は自分の書で事もなげに解決してしまったように思うと、鈴木は解説している。興味深い書の読み方・見方である(鈴木、1995年[1996年版]、112頁~~113頁)。

漱石の翰墨趣味はかなりもので、書にも深くのめりこんだ。先述したように、彼の書は我流ではなく、書聖と呼ばれる王羲之の書はもとより、習うべき書は習わなければ気がすまなかったものとみえて、書棚には歴代の名品を収めた法帖をきちんと並べていた。
漱石の「夜静庭寒」と「文質彬々(ぶんしつひんぴん)」という作品に関しては、構えたところがなく、うっとりと心のあるがまま筆を運んでいるといった書で、見るからに正直な書であると鈴木史楼は説明している。「文質彬々」とは、「文質彬彬として然る後に君子なり」という『論語』に出てくる言葉で、外見と内容が一つになって初めて君子だということである。漱石は、これを自らの力量に応じて、痛快に筆を運んでいる。
明治38年(1905)の『我輩は猫である』から始まって、大正5年(1916)の『明暗』に至るまで、漱石は体調さえよければ毎日ほとんど原稿用紙のなかで暮らしていた。小説のことで行き詰まると、疲れた頭を休めて気分を変えるために、書をかいた。漱石にとって書は彼の心をそのまま正直に映す鏡であったといわれる。晩年に近づくにつれて、以前にも増して書にのめりこみ、書の虜になった。かといって、そこにきて腕が一段と上がったというわけでもなさそうである。
ところで、夏目漱石には、友人の一人に正岡子規(1867-1902)がいた。二人は学生時代からの友人であった。夏目漱石のその「漱石」という雅号は、もともと子規が自分で使いたいと思って考えた雅号だった。それを漱石に請われて、子規は友人に譲り渡したという。
二人の“浅からぬ因縁”はまだほかにもあり、大学を卒業して2年後、漱石は彼の小説の舞台となった四国の松山中学に英語の教師として赴任したが、松山は子規の故郷であった。
それは、明治28年(1895)のことで、二人とも28歳であった。二人は漱石の松山在住時代に同じ屋根の下で50日ほど暮らした。漱石の下宿で静養していた子規のもとには、毎日のように俳句の仲間が訪ねてきたこともあり、句会に加わり、漱石も俳句を作り始めた。
句会の折に目にした子規の筆を漱石はどういう目で眺めていたかについて、鈴木史楼は想像している。この点については、漱石は子規の筆を見るたびに、なんとも言えない羨望を感じていたのではなかったかというのである。
子規の25歳のときの書である「若鮎の二手になりて上りけり」(「若鮎」という句)は、俳句に自信があるためか、漱石の筆に比べるとはるかに躍動的で、痛快な筆で、澄みきった線であると鈴木は解説している。鈴木はそこに子規の強い自我が現れているいるとみている。確かに子規の書はうまいと感じる。
そして漱石も、子規も、書では良寛の筆が抜きんでて絶妙だと見ていたそうだ。良寛の筆が漱石と子規の二人の書を“浅からぬ因縁”の糸で結んでいるという(鈴木、1997年[1998年版]、142頁~154頁)。

神田喜一郎も、「漱石の書」(1965年)と題した短いエッセイがある。
漱石は、書に対して深く関心をもち、また独自の見識をもっていたという。漱石は、玄人や専門書家の書を喜ばなかったようだ。というのは、習熟の結果から来た技法上の巧みさはあっても、それがあるために、かえって俗になると考えていたからである。
明治の知識人の多くは、漱石とは違って、専門書家の書を随喜した。例えば、巖谷一六、日下部鳴鶴、長三洲などである。しかし、そうした人の書は漱石の眼中にはなかった。わずかに心を惹かれたのは、中林梧竹の書にすぎなかった。専門書家の書より、池邊三山とか菅虎雄といった素人の書を愛した。また古人でも、当時にはほとんど一般には問題にもされていなかった良寛とか明月の書を愛した。
このように漱石が専門書家よりもむしろ素人の書を愛したのは、天巧を尊んだからであると神田喜一郎はみている。つまり天巧とは、高尚な人格から自然に生まれた、いわゆる工まざる巧みさのことであり、天衣無縫の妙といってもよい。ここに漱石の書に対するすぐれた見識があるという。
唐の柳公権は「心正しければ、筆正し」といった。いいかえれば、「書は人なり」ということになる。漱石自身の書においても、端的にこれが見られる。その書は、高雅であり、超脱であり、俗気などは微塵もないと神田は評している(神田、1977年[1978年版]、31頁~33頁)。

漱石・子規の書に対する石川九楊の評価
石川九楊は、明治の文士の書として、高村光太郎と会津八一の書は特筆すべきとして注目するものの、夏目漱石、正岡子規の書に対する評価は厳しい。
次のように記している。
「しかしこれら森鷗外、夏目漱石、幸田露伴、正岡子規等の書に見るべきものはあまりなく、これらの文士への書の讃辞はたぶんにファンの贔屓(ひいき)の心理にあるように思われます。」と(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、230頁~232頁)。
つまり、夏目漱石や正岡子規の書への讃辞はファンの贔屓の心理にあると石川はみている。

漱石と日展
日展の前身である文展を批判した夏目漱石は、「文展と藝術」において、次のように述べていることを、大溪は抜粋して擱筆している。
「文展の審査とか及落とかいふ言葉に重大な意味を持たせるのは必竟此本末を顚倒した癇違ひから起るのである。世間は知らない領分の事だから己を得ないとしても、藝術家自身が同じ癇違ひをして騒ぐなら、神聖な神輿(みこし)をことさらに山から擔ぎ下ろして、泥を塗りに町の中を引き摺るやうなものである。不見識は云はずとも知れ切つてゐる。極端な場合には其理知の程度さへ疑ひたくなる。」
「文展が今日の様に世間から騒がれ出したのは、當局者の勢力に因るのか、それとも審査員の威望に基づくのか、又は新聞紙の提灯持に歸着するのか、自分はまだ篤と其の邊を研究してゐないので何とも云ひかねるが、兎に角斯う八釜しい機關にして仕舞はれる以上は、藝術家も自家本來の立場を新たに考へ直して、文展に對する態度をしかと極める必要があるだらうと思ふ。」
「個性を發揮すべき藝術を批評するのに、自分の圏内に跼蹐して、同臭同氣のものばかり撰擇するといふ精神では審査などの出來る道理がない。」(大溪洗耳『続・戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、180頁~185頁)。
このように漱石は文展の審査のあり方を根本的に批判していた。
会津八一も日展を戦後まもなく批判していた。
「然るに、昨年秋の日展に行きますと、何とも名状すべからざる字がある。成るべく人が判らないやうにしてゐる。履き古した草鞋に墨をつけて、屏風を撫でたやうな字がある」と、1950年の講演「書道の諸問題」(昭和25年3月18日)において批判している(会津八一『会津八一書論集』二玄社、1967年[1983年版]、126頁)。
「何とも名状すべからざる字」とか「履き古した草鞋に墨をつけて、屏風を撫でたやうな字」と痛烈で皮肉な評言で、日展の書のあり方を非難している。会津は書道において明瞭でわかる字を書くことを何より主張していた(会津、1967年[1983年版]、104頁~105頁参照)。

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