歴史だより

東洋の歴史に関連したエッセイなどをまとめる

一柱寺について その2

2009-07-07 21:41:30 | 日記
「一柱寺について」その2



ここで、パパンの一柱寺に関する原文の記述を引用しておきたい。あわせて、試訳も付記する。
Les pagodes bouddhistes d'époque Ly sont les plus impo-
santes du Viêt-nam. Elles sont le plus souvent construites sur
des hauteurs (Phât-Tich sur le mont Lan-Kha, Quynh-Lâm sur le
mont Tiên-Du, Chân-Giao sur le tertre de l'Éléphant, etc.) ―
aussi dit-on que les Vietnamiens《 montent》 à la pagode (lên
chùa). À Thang-Long, les tertres artificiels étant déjà occupés
par des bâtiments impériaux, les architectes les ont élevées au
bord de l'eau : les pagodes de Hoè-Nhai et de Khai-Quôc se
trouvaient sur la berge du fleuve Rouge, celle de Báo-Thiên non
loin du petit lac, et la pagode au Pilier unique au milieu de
l'étang de la Vertu divine.
La pagode au Pilier unique a été construite pendant l'hiver
1049. Ce monument, sans conteste le plus original du pays, doit
son existence à un songe de l'empereur Ly Thái Tông. Ce dernier
avait rêvé que le bodhisattva de la Miséricorde le prenait par la
main pour le conduire sur un trône en fleur de lotus émergeant
de l'eau. Le lendemain, un bonze lui recommanda d'édifier une
pagode en forme de fleur de lotus, juchée sur une colonne de
pierre figurant la tige. Les annales ajoutent qu'《il fut demandé
aux moines d'en faire le tour en récitant des prières liturgiques
afin que l'empereur vécût longtemps, raison pour laquelle le
monument fut appelé Diên-Huu [formule qui exprime un souhait
de longévité]》. Chaque premier et quinzième jour lunaires, le
monarque venait s'y recueillir. Le pilier original ― détruit à la
suite d'un acte de sabotage en septembre 1954 ― était formé de
deux gros blocs cylindriques superposés, maintenus par des
tenons et des mortaises pratiqués à même la pierre, rappelant
l'habitat perché des temps anciens. Le monument était précédé
de bassins et de fontaines qui reproduisaient les trois mondes du
mandala bouddhique et aboutissaient à la《 cloche de l'éveil au
monde》 (giác thê chung), fondue en 1080*. Comme le stûpa du
monastère de la Gratitude envers le Ciel, cette cloche faisait par-
tie des《 quatre grandes merveilles》 du royaume**.
Les pagodes, les sanctuaires et les temples disséminés à tra-
vers toute la ville commençaient à dessiner une géographie reli-
gieuse qui ne se souciait plus de géomancie. Désormais la ville
était placée sous la protection des Quatre Gardiens de Thang-
Long (Thang-Long tú trân) : à l'ouest, le temple des Éléphants
agenouillés (Voi-Phuc) ; au nord, celui de la divinité martiale du
Ciel sombre (Quán-Thánh) ; à l'orient, le temple du Cheval
blac (Bach-Ma) ; au midi, celui qui était voué à Cao-Son, l'un
des fils du dragon et de la fée qui sont à l'origine du pays et de
son peuple. Tous ces temples, sauf peut-être le dernier, ont été
érigés par les empereurs Ly. Ils reprenaient la tradition du pre-
mier d'entre eux, qui avait décidé de transférer sa capitale à la
croisée des quatre points cardinaux.

* Une stèle, située dans un bâtiment annexe, attribue à Gao Pian la fon-
dation de cette pagode : l’ambiguïté demeure entre ce qui revient au
« prince Gao » et ce qui revient aux premiers dynastes vietnamiens.

** Les deux autres étaient la grande statue de Bouddha de la pagode de
Quynh-Lâm(瓊林) et l’une funéraire de la pagode de Pho-Minh(普明),
l’une et l’autre fondues sur ordre de Ly Quôc Su, le Maître du royaume.
Ces « quatre grandes merveilles » (Tu dai khi) ont disparu.

(Philippe Papin, Histoire de Hanoi, Librairie Arthème Fayard, 2001, p.83-84)

《試訳》
《一柱寺について》
リー(李)朝期の仏教寺院は、ベトナムでもっとも重要である。それらは丘の上に、最も頻繁に建てられた(ラン・カー(爤柯)山の上のファット・ティック(仏跡)寺、ティエン・ズー(仙遊)山の上のクイン・ラン(瓊林)寺、象の丘のチェン・ザオ(真教)寺など)。だから、ベトナム人は、寺に行くことを寺に「登る」(「レン・チュア」)という。首都タンロン(昇龍)では、人工的な丘は既に皇帝の建物によって占められていたので、建築家は水のほとりにそれらを築いた。ホエ・ニャイ寺やカイ・クオック寺は、ホン(紅)河の土手にあり、バオ・ティエン(報天)寺は、小さな湖から遠くないところにあり、独特な一柱寺は、霊沼池(神の徳の池)の真ん中にあった。
 独特の一柱寺は、1049年の冬に建立された。この記念建造物は、もちろん、この国で最も独創的なものであるが、その存在をリー・タイ・トン(李太宗)の夢に負うている。後者(李太宗)は、観音菩薩が水から現れた蓮の花の王座の上に、自分の手を引いて、連れていく夢を見た。翌朝、坊主はリー・タイ・トンに茎をかたどった石の円柱の上にのせた、蓮の花の形をした寺を建てるように強く勧めた。

年代記は付記している。彼は僧侶たちに、皇帝が長く生きるために、礼拝式の祈願を吟誦して、繞を行なうように要求した。これこそ、その記念建造物がズエン・ヒウ(延祐)寺(長寿の祈念を表現する決まり文句)と呼ばれた理由である」と。陰暦の毎月1日と15日に、君主は集まりにそこにやってきた。1954年の 9月に、サボタージュ行為が原因で破壊されたのだが、本来の一柱寺は、古代の高床式居住を想起させるし、石に対してでさえも実地に用いられた枘と枘穴によって支えられ、重ねられた円筒状の2つの大きなブロックで形作られた。この記念建造物は、仏教のマンダラの三界を再現したもので、1080年に鋳造されたザック・テー・チュン(覚世鐘=世界を覚めさせる鐘)に帰着した池と泉に、年代的に先行していた(註1)。バオ・ティエン寺(報天=天に感謝すること)のストゥーパのように、この鐘は王国の「四大器」の一部をなした(註2)。

(註1)付属の建物の中に置かれていた石碑は、この寺院の創建をカオ・ビエン(高駢)に帰している。つまり曖昧さが「高王」に立ち戻るそれと、最初のベトナム王朝に立ち戻るそれとの間に残っている。

(註2)他の2つは、クイン・ラン(瓊林)寺の大仏像とフォー・ミン(普明)寺の葬式の遺骨つぼであった。どちらも王国の師匠であるリー・クオック・スー(李国師)の命令で鋳造された。この「四大器」(4つの大きな驚嘆すべき事)(トゥー・ダイ・キー)は失われた。

すべての街の貫いて普及した塔、境内、寺院は、土占いをもはや気にしない宗教的地理を描き始めた。以来、街は、タンロンの四鎮(昇龍四鎮=タンロン・トゥー・チャン)の保護の下に置かれた。西には、ヴォイ・フック(象伏=「ひざまづいた象」)寺、北には、クアン・タイン(「暗い天の軍神」)寺、東には、バック・マー(白馬=「白い馬」)寺、南には国と人民の起源となっている、竜の子と妖精の一人であるカオ・ソンに捧げられた寺があった。たぶん最後のものだけを別として、すべての寺院は、リー(李)朝の皇帝によって建てられた。彼らは最初の伝統を引き継いだ。そして東西南北の四方の交差点に首都を移すことを決定した。

以上が、原文および試訳である。

この記事からわかるように、一柱寺の正式名称である延祐寺は、延寿=延祐(祐=助で、神の下す助けといった意味)を意味し、太宗の長寿を祈求したことに由来する名称であったのである。

パパンが上記の引用文で言及している1080年に鋳造された鐘については、『大越史記全書』
英武昭勝5年(1080年)の条に次のようにある(陳校合本[上]、1984年、250頁)
『大越史記全書』英武昭勝五年(1080年)
春、二月、鑄洪鍾于延祐寺。鐘成、撞之不鳴。以其成器不可銷毀。乃廢置于寺之龜田。其田卑濕多産龜。時人謂之龜田鐘。
《書下し》
春、二月、洪鍾を延祐寺に鑄す。鐘成りて、之を撞くも鳴らず。其の成器を以て銷毀すべからず。乃ち廢して寺の龜田に置く。其の田は卑濕にして多く龜を産す。時の人、之を龜田鐘と謂う。

パパンが、「覚世鐘」として言及している鐘を、その当時の人は「亀田鐘」と称したというのである。その由来は、こうである。延祐寺の鐘を鋳造したのだが、撞いても鳴らなかった。せっかく鐘の形に作ったので、溶かして処分することもできず、その鐘を、寺の亀田に放置しておいた。その田は、卑湿であったので、多く亀が繁殖する田であった。そこで当時の人々は、田に捨てられた鐘を、「亀田鐘」と称したのである。この記事から、撞いても鳴らず、無用の長物となった鐘に対して、皮肉と軽蔑・揶揄の意をこめて、「亀田鐘」と称したことがわかる。

また一柱寺の池については、『大越史記全書』龍符五年(1105年)の条に次のようにある(陳校合本[上]、1984年、255頁)。
秋、九月、作白甍塔於延祐寺二、作石甍塔於覽山寺三。時帝重修延祐寺、増於舊貫。浚蓮花臺池、名曰靈沼池。池之外繚以畫廊、廊之外又疏碧池、並架飛橋以通之。庭前立寳塔。以月之朔望及夏之四月八日、車駕臨幸、設祈祚之儀、陳浴佛之式、歳以爲常。
《書下し》
秋、九月、白甍塔を延祐寺に作ること二にして、石甍塔を覽山寺に作ること三にす。時に帝、延祐寺を重修せしめ、舊貫を増さしむ。蓮花臺の池を浚わしめ、名づけて靈沼池と曰う。池の外に畫廊を以て繚(めぐ)らし、廊の外に又、碧池に疏ぎ、並びに飛橋を架けて以て之に通ず。庭前には寳塔を立てしむ。月の朔望及び夏の四月八日を以て、車駕、臨幸して、祈祚の儀を設けて、浴佛の式を陳ね、歳々以て常と爲す。
    
この記事によれば、1105年にいたってはじめて、蓮花台の池を「霊沼池」と称したことがわかる。


ところで、この一柱寺には、のちの黎朝の1456年11月には、「虎、出現!!」という衝撃的な事件を史書は伝える。つまり、『大越史記全書』延寧三年(1456年)の条には、次のようにある(陳校合本[中]、1985年、633頁)。
十一月、有虎入城中延祐寺、遣御前各執刀捉殺之。
《書下し》
十一月、虎有りて、城中の延祐寺に入りて、御前を遣して、各々刀を執りて捉えて之を殺す。

このように、城中の延祐寺に虎が入って来たので、皇帝直属部隊の御前を派遣して、各々が刀をもって虎を捕えて、殺したというのである。今から500年余り前には、こんな都会にも虎が出没したこともあったのだと改めて、過ぎた時の長さを思い知らされる。ただ、パパンの原書には、“Pagode au Pilier unique, fin XIXe siècle”と題して、19世紀末 独特な一柱寺の写真を載せている。これを見ると、寺の周囲は草木が生い茂っており、虎が出ても、おかしくないような雰囲気である(Papin, 2001, p.83)。

ところで、虎といえば、「苛政は虎よりも猛なり」という『礼記』檀弓(だんぐう)下の故事が思い出される。孔子が泰山のふもとを弟子の子路と共に通り過ぎたとき、墓前で泣く婦人を見かけたので、その理由を尋ねる。それは、舅(しゅうと)も夫も、そして子供まで虎に食い殺されたからであると答える。よその地へ移らないのはなぜかと重ねて質問すると、この地ではむごい政治が行われていないからというのである。そこで孔子は弟子に向って先の名言を口にしたのである(大島、1998年、83頁)。

一柱寺の虎出現に関する1456年の史書の記事は、単なる事実を述べたにすぎないであろうか。ただ気になることがある。憶測をたくましくすれば、いわゆる「苛政」を窺わせる状況が醸成されていたかもしれない。つまり『登科録』という科挙合格者名簿を見ると、この年の2年後の1458年の科挙については、「是年、天興僭位、不有庭試」とあり、「庭試」つまり皇帝の前でなされる科挙試験が行われず、合格者もたった4名という不振ぶりであった。一方、この点、『大越史記全書』延寧五年(1458年)の条には、「會試天下擧人、賜阮文儞等進士出身」という記事のみをしるすにすぎない。会試を実施した月日、合格者数、そして「庭試」の有無も、この史書は明記していない。そして翌年1459年10月3日には、皇帝仁宗の異母兄である宜民が、仁宗と皇太后を殺害し、クーデタを引き起こすにいたったことを記すのである。

このように見てくると、1456年11月の虎出現の記事は、虎を一旦は打ち取ったものの、その背後には、史書の表面に出てこない「苛政」が存在したようにも想像できる。史書をしるした歴史家は、虎出現に仮託してそうしたことを伝えたかったのではなかろうかと、深読みしたくなる。一柱寺にまつわる史書の記事は、簡略ながらも、その歴史的背景は奥深く、現象的事実だけを表面的に追っていっただけでは知りえない「真の歴史」をも含んでいるように思われる。

ともあれ、今回一柱寺を訪ねてみて、この寺は、ハノイの歴史を古代から近現代まで見守ってきた寺であると、つくづく思う。

《ブログ用の文献目録》
『地球の歩き方93 ベトナム』ダイヤモンド社、2001年
『個人旅行12 ベトナム』昭文社、2002年
和辻哲郎『古寺巡礼』岩波文庫、1952年[1980年版]
陳荊和『校合本 大越史記全書(上)(中)(下)』東洋学文献センター、1984~1986年
Ngô Sĩ Liên( Viện Khoa Học Xã Hội Việt Nam Dịch ), Đại Việt Sử Ký Toàn Thư Năm,
Khoa Học Xã Hội - Hà Nội 1993.(インターネットにて閲覧)
松本信広『ベトナム民族小史』岩波新書、1969年[1993年版]
Le Thanh Khoi, Histoire du Viet-nam des origines à 1858, Paris, SudEst Asie, 1987.
Philippe Papin, Histoire de Hanoi, Librairie Arthème Fayard, 2001.
大島晃編『中国名言名句辞典』三省堂、1998年
真保潤一郎・高橋保『東南アジアの価値体系3ベトナム』現代アジア出版会、1971年



一柱寺について その1

2009-07-07 21:05:07 | 日記
ブログ原稿「一柱寺について」その1


2005年8月に、ハノイ旅行をしたことは、以前、ブログに記した。
その際に訪れた印象的な観光地について、解説を加えてみたい。今回は、ベトナム李朝(1010-1225)の仏教建造物で、有名な一柱寺を取上げてみたい。

一柱寺は、観光ガイド『地球の歩き方』などで真っ先に紹介されるほど、ハノイでは是非とも見ておきたい観光スポットである。その歴史はハノイの歴史とともにある。

『地球の歩き方 93 ベトナム』には、次のような説明がある(ダイヤモンド社、2001年、87頁)。
「一柱寺 Chua Mot Cot
李朝の太宗(リー・タイ・トン)が1049年に創建した寺(延祐寺)で、1本の柱の上に仏堂をのせたユニークな形から、この名で呼び親しまれている。
先の太宗は蓮華の上で子供を抱いた観音菩薩の夢を見てからまもなく子供を授かった。太宗は夢の観音に感謝し、ハスの花に見立ててこの寺を建てたと言い伝えられている。仏堂は小さいがベトナムを代表する古刹であり、ハス池の中に浮かび立つ優雅な姿はハノイのシンボルの一つ。」とある。

最初に、私が撮影した一柱寺の写真を載せておく。一柱寺を外から眺めた全体像と、内部の観音像の写真である。






まずは 一柱寺の位置についてだが、日本ではお寺というと、森に囲まれた静寂の中にたたずむというイメージがある。少し古いが和辻哲郎の『古寺巡礼』の記述が思い出される。しかし一柱寺はそうではない。いわゆる「現代」と隣り合わせである。その「現代」とはホー・チ・ミン博物館(Bao Tang Ho Chi Minh)やホー・チ・ミン廟(Lang Chu Tich Ho Chi Minh)、そしてバーディン広場(Quang Truong Ba Dinh) をさす。

一柱寺のすぐ近くにあるホー・チ・ミン博物館は、ホー・チ・ミン生誕100周年を記念して、1990年5月19日にオープンした。主席の生涯と業績に関する豊富な資料が展示されてある。その白亜の建物は斬新なデザインである。




また、一柱寺の北にあるホー・チ・ミン廟には、30メートル四方の大理石の廟内にベトナムの国父、ホー・チ・ミン主席の遺体が安置されている。1975年に建てられた総大理石の建物である。平日に訪れたが、廟内に入るには、長蛇の列であった。同行していただいた川口先生の聞き取りによれば、地方の小学生が集団でこの廟にお参りに来るのだという。やっとの思いで、廟内に入ると、兵士の厳重な監視のもとに、規則正しく、一列になって、ガラスケースの中にホー・チ・ミンの遺体を見ることになる。ロシアのレーニン廟の影響をうけ、エンバーミング(embalming)という遺体保存技術が施されているという。ここでは、撮影はもちろん厳禁で、手荷物は事前に預けておかなければならないし、軽装も私語も禁止である。兵士のチェックが厳しすぎて、ベトナムが社会主義国であることを実感させられた。




そしてバーディン広場は、この廟の南に面している。1945年9月2日、ホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の独立宣言を読み上げた所である(奇しくも、ホー・チ・ミンも、1969年9月2日に亡くなった。そしてホー・チ・ミン廟も、1975年9月2日の建国記念日に完成した)。




このような現代的雰囲気の中で、一柱寺が11世紀にタイムスリップしたかのように建っているのである。不思議といえば、不思議である。

ハノイの歴史は李朝が開国したのが1010年(1009年とする場合もある)だから、1000年の歴史がある。一柱寺は1049年に建立されているので、この都市の歴史に匹敵するほど、このお寺の歴史は古いということになる。

11世紀の李朝は、儒教を国教とした15世紀の黎朝とは異なり、仏教(とくに禅宗)が広く信仰された王朝である。李朝の太宗(在位1028年-54年)は、武人として知られ、北方のタイ族や南方の占城(チャンパ)を征討している。
また16世紀の黎嵩という科挙官僚が執筆した史書『越鑑通考総論』には、李太祖と李太宗について、次のように記す(陳校合本[上]、1984年、88頁)。

李太祖因臥朝之失徳、協震文之休祥、應天順人、乘時啓運、有寛仁之大度、有宏遠之規模。遷都定鼎、敬天愛民、田租有賜、賦役有制、南北通好、天下晏然。然聖學不聞、儒風未振、僧尼半於民間、佛寺滿於天下、非創業垂統之道也。太宗勇智兼全、征伐四克、有孝友之徳、習禮樂之文、討賊平戎、勸農耕籍、伸寃有鍾[鐘]、制刑有律、爲守成之令主也。然耽僊遊詩偈之禪、惑西天歌調之曲、非經國子民之道也。
《書下し》
李太祖、臥朝の失徳に因り、震文の休祥を協し、天に應じ人に順い、時に乘じ運を啓き、寛仁の大度有り、宏遠の規模有り。都を遷し鼎(てい)を定め、天を敬い民を愛し、田租に賜有り、賦役に制有り、南北、好しみを通じ、天下、晏然たり。然るに聖學、聞こえず、儒風、未だ振わず、僧尼、民間に半ばし、佛寺、天下に滿つるは、業を創り統を垂れるの道に非ざるなり。太宗、勇智兼全し、四克を征伐し、孝友の徳有り、禮樂の文を習い、賊を討ち戎を平らげ、農を勸め籍を耕し、寃を伸すに鍾[鐘]有り、刑を制するに律有りて、守成の令主と爲すなり。然るに僊遊の詩偈の禪に耽り、西天の歌調の曲に惑わされるは、國を經(おさ)め民を子(いつく)しむるの道に非ざるなり。

黎嵩は、儒教思想(とりわけ朱子学)に染まった科挙官僚である。だから、仏教が栄えた李朝の皇帝の政治的資質を評価しつつも、儒教的立場から必ず批判しているのである。一柱寺を建立した李太宗についても、勇気も智恵も兼ね備えてはいるが、禅に耽り、西天(インド)の楽曲に惑わされて、儒教的な治国の道から外れていることを批判されている。

さて、観光ガイドに紹介されていた一柱寺の1049年の建立に関して、史書には次のように記されている(陳校合本[上]、1984年、236頁)。
『大越史記全書』崇興大寶元年(1049年)
冬、十月、造延祐寺。初、帝夢觀音佛坐蓮花臺、引帝登臺。及覺、語群臣。或以爲不祥。有僧禪慧者、勸帝造寺。立石柱于地中(ママ)、搆觀音蓮花臺于其上、如夢中所見。僧徒施繞、誦經求延壽。故名延祐。
《書下し》
冬、十月、延祐寺を造る。初め、帝、觀音佛の蓮花臺に坐り、帝を引きて臺に登らしむるを夢みる。覺めるに及び、群臣に語る。或ひと、以爲(おも)へらく、不祥なりと。僧に禪慧という者有りて、帝に寺を造らんことを勸む。石柱を地中(ママ)に立て、觀音の蓮花臺を其の上に搆(かま)えて、夢の中に見る所の如くす。僧徒、繞を施し、經を誦(とな)えて、延壽を求む。故に延祐と名づく。

この漢文の訳としては、おおまかに次のようになろう。
崇興大寶元年(1049)10月に延祐寺が建立された。以前、李太宗は、観音仏が自分の手を引いて、蓮華の台座の上に登らせる夢を見た。目が覚めると、宮廷の大臣たちにその夢のことを話した。するとある者が、その夢は不吉な前兆と思われますと答えた。禅慧という名の僧がおり、太宗に寺を建立するように勧めた。石柱を地中(ママ)に立てさせ、観音の蓮華台をかまえて、夢の中で見た通りに建立した。僧侶たちは、その周りをめぐり、仏教の経文を声に出して読み、太宗が長生きされるように(en priant pour une longue vie du roi)祈求した。だからこの寺院を延祐寺と名づけたのである(Khoi, 1987, p.156; Papin, 2001, pp.83-84.参照)。

細かいことを言えば、漢文の「立石柱于地中(ママ)」については、問題がある。現在は、一柱寺の柱は池の中から突き出て、お堂を支えている。図像的にも蓮華台は蓮が池中から茎をのばして咲くイメージである。パパン氏も「pour le conduire sur un trône en fleur de lotus émergeant de l’eau」(Papin, 2001, p.83)と仏訳している。この外見からすると、漢文の「立石柱于地中(ママ)」は、「池中」が正しいように思えるが、この点にも問題がある。ベトナム語訳でも、この点に特に注意を払い、次のような注釈を付す。
5 Nguyên văn: "lập thạch trụ vu địa trung". Bản Chính Hòa và bản VHv.2330 đều in rõ chữ "địa". Nhưng các bản in của Quốc tử giám (triều Nguyễn) như bản A.3 v.v... sử chữ địa thành chữ trì (ao, hồ). Xét ra nguyên bản Chính Hòa để chữ địa hợp lý hơn: Khi mới làm chùa chỉ dựng cột đá ở giữa đất, đến lần trùng tu năm 1105 mới đào hồ "Liên Hoa Đài" ở xung quanh cột đá (xem: BK3, 15a). Cũng có người giải thích chữ "địa" ở đây là chữ Nôm, đọc là đìa tức là ao, hồ. Chúng tôi theo văn bản, dịch là đất trong khi chờ đợi sự xác minh.
(Vien Khoa Hoc Xa Hoi Viet Nam, 1993, p.102, note5)
これによれば、諸版本はみな確かに「地(dia)」と記すという。後に引用する史書の記事から推測するに、1049年の一柱寺建立の時点では、池がなかったと考えれば辻褄が合うのかもしれない。

ところで、先の『大越史記全書』の記事からわかるように、太宗は霊夢に感じて、この延祐寺(つまり一柱寺)を造った。その構築は独特なものがある(松本、1993年版、60頁)。精霊崇拝の祠のような古い建築様式である。写真を見ればわかるように、蓮池の中から、蓮華台という石柱が突き出ており、その上にお堂がある。そのお堂には観音仏(le bodhisattva de la Miséricorde)を祀ってあるのである。この観音仏は金色に輝いていた。日本の仏像といえば、和辻哲郎の『古寺巡礼』にもでてくるように、古色蒼然とした薄暗い色のイメージがあるが、ベトナムの一柱寺のそれはそうではない(日本の仏像も元は金色であったらしいのだが)。
史書も説明するように、一柱寺の正式名称である延祐寺は、延寿=延祐(祐=助で、神の下す助けといった意味)を意味し、太宗の長寿を祈求したことに由来する名称であったのである。だが、この独特な建築様式を端的に表す一柱寺のほうを、ベトナム語でもchua mot cot用いている。フランス語でも、この一柱寺を「Pagode au Pilier unique」(直訳すれば、ただ一本の柱のパゴダ(仏塔))と訳している(Papin, 2001, p.83)