歴史だより

東洋の歴史に関連したエッセイなどをまとめる

桃木先生の編著を読んで その3

2009-03-21 22:52:37 | 日記
《桃木先生の編著を読んで その3》

第12章「経済史から見た近世後期の海域アジア」
従来の歴史学は、海でなく陸の農業社会の構造が、アジアのウエスタン・インパクトの受け方や近代化のあり方を規定した主要因だったとみなしてきたが、小農社会、プロト工業化といった切り口により、その農業社会の構造も、海域史との相互作用の中で形成されてきたことが理解されるという(118頁)。近年のグローバル・ヒストリー研究の成果によれば、銀の流れが「世界の一体化」を生み出した「長期の16世紀」(1450-1640)が終わり、「伝統社会」に向けて独自の歩みを進めた。すなわち、東南アジア島嶼部やインド洋世界では、近代世界システムへ包摂され、弱い国家や在地農民の「自給的」セクターへの封じ込めといった、負の「伝統」が前面に出た。一方、東アジアでは、対外関係を国家がコントロールするシステムのもとで独特の成熟が実現した。ただし後者の東アジアでは、日本の「閉じたプロト国民国家・プロト国民市場形成」と中国における「帝国システムのままでの膨張」といった差異が生まれた。このことは「なぜ日本がいち早く近代化できたのか」ないし「なぜ中国には産業革命が起こらなかったのか」という古典的な問いかけに関わる重要な問題でもある(109-110頁)。

そして躍動する近世前期から凝集の近世後期への転換はいつ、どのように起きたのか。また世界的な銀価格の平準化(1640年代)が、中南米と日本を発して中国に流れ込む銀の環地球流路「ポトシ/日本銀サイクル」を衰退させ、アジア各地で既存の政治・経済・通商システムを揺るがせたのだろうか。近代世界システム論が、ヨーロッパ史の画期として重視してきた「17世紀の危機」(農業不振・飢饉・伝染病・人口減少・経済の後退と政治危機など)を、ユーラシアの他地域に認め得るのか。また中国への銀流入減少と明清交替との間に関係があるのか。こうした様々な問題が、17-18世紀の経済史に関して、提起されている(109頁)。

17-18世紀中国の対外貿易構造と国内社会経済の変動を分析した結果、中国とヨーロッパに共通する経済のトレンドが見出されたが、外国貿易の国内経済への影響の程度は、国内経済の質的編成構造に関係する。貨幣史的アプローチから、「現地通貨」と「地域間決済通貨」の2つの接続問題に着目した際に、中国は両者の分断・維持により世界経済の変動が地域経済に影響しないようにしたのに対して、ヨーロッパ・日本は、近代経済学の前提となる一国単位で閉じた収支構造を形成し、貿易収支が国内経済に直接影響し、近世後期の分岐を浮かび上がらせるに至ったという(109頁)。

16―18世紀の中国や日本といった東アジアは、労働力は豊富でも土地や資源は稀少であったので、資源節約的で労働集約的な「東アジア型発展径路」をたどった。つまり、稲作を主軸とする労働多投型の経営技術が発展し、施肥などにより土地生産性を高め、二毛作を行い、機織りなどの家内工業的余業を導入し、小農経営を安定して継続させる工夫がこらされたのである。この「東アジア型発展径路」に関する議論は、歴史人口学の成果を交えて、日本の経済社会の発展を説明する「勤勉革命」(Industrious Revolution)論に負うところが大きいという。すなわち、日本の1600年頃の総人口は、1200万±200万人で、その後の1世紀余りは1%近い年率で爆発的に増加し、労働集約的な水田農耕を基盤とする小農経営が広がったが、17世紀末に耕地面積の増加は頭打ちになり、18世紀日本の人口は3000万人前後で停滞した。農民は意図的に人口抑制を行い、所有する土地に労働を多投して一人当たりの農業生産高水準を高めることでヨーロッパのような産業革命(Industrial Revolution)ではなく、勤勉革命を実現した(111頁)。

東アジアには小農社会(家族労働力をもって独立した農業経営を行う小農が支配的な存在である農業社会)が明では15-16世紀に、朝鮮と日本とは、16-17世紀に出現した。またこの地域の「伝統社会」とされてきた中国の宗族、朝鮮の両班社会、日本のムラ社会は、その基礎の上に築かれた。この社会を支えたのは、経済インセンティブに駆られた独立小農民であり、その勤勉精励の背後には、儒教的エートスがあった(近世以降の北部ベトナムは「勤勉革命」に至らず、「貧困の共有」状態であったとする見解もある)(111-112頁)。
さて、近世後期のアジアの海上貿易はどのように変化したのであろうか。17世紀前半には、銀産が減少に転じ、国際交易のダイナミズムを変動させ、17世紀半ばまでには、新しいアジア域内交易のパターンが生まれた。中国生糸――日本銀の交換は1750年代まで継続したものの、徳川幕府は、日本の市場経済の発展と銀貨幣需要増大により、17世紀半ば以降、銀の国外流出の食い止めを図った。日本は、経済的には、17-18世紀に、木綿・砂糖・生糸・茶の国産化を進め、海外貿易を縮小させ、政治的には、中国冊封体制から政治的に自立し、「日本型華夷秩序」を出現させた。そして19世紀初頭には「鎖国」と認識されるような閉鎖的な政治経済体系へ移行した。19世紀後半の開国期に先の4品目の国産化を完了していたことが、日本の工業化とアジア間競争の成功の鍵だったという。

一方、中国に関しては、どうであったのであろうか。18世紀半ば頃から、イギリスの主導により地域市場が世界市場へと統合されてゆくとともに、中国の対外貿易に構造的な変化が生じた。その後イギリスで工業技術の革新が進み、中国によるイギリス産綿製品の輸入が増加し、従来世界の貿易の主要品であった中国生糸は、対イギリス貿易のなかで重要性を失った。こうして前世紀までに吸収した大量の銀が国外に流出し、中国はイギリスの世界貿易のなかで第1次産品の生産国へと位置づけられていった(112-114頁)。

第13章「近世後期の東アジアの通交管理と国際秩序」
清朝は「華夷秩序」(儒教や漢字を基準とした文化の中心を「華」、その周縁を「夷」とみなし、両者の間には上下関係が存在するという概念)の論理に裏打ちされた東アジア国際秩序の頂点に立っていた(118頁)。売り手市場であった清朝は、自国産業保護のために貿易制限をするというヨーロッパ的発想はなく、その管理は治安維持に主眼が置かれていた。今後の課題としては、海上通交管理を支える王朝側の論理や正当性、管理される側の認識、海防体制の詳細などである(120頁)。

日本は1630年代から80年代にかけて、キリスト教禁教と貿易管理を二大骨子とする通交管理システム(「鎖国」)を築き上げたが、民衆の海外渡航、キリシタン禁制の厳密さ、自国の経済の完結性保持という点で、清朝の「海禁」とは異なっていた。徳川幕府は、日本型華夷秩序を成立させ、朝鮮や琉球の使節を利用して、将軍の権威を国内に演出していたとする見解も現れている。民衆の対異国意識や「日本人」意識の形成問題などについての検証が必要である(121頁)。

清朝の版図は政策判断と軍事行動の結果として集積されたものであり、チベット仏教・イスラームもその治下にあり、多面的・複合的で、儒教文化への即自的埋没・盲目的同一化でなかった。したがってその支配は理念と形式では一元的国際秩序と集権的国内統治と見えても、実際には直接/間接支配、朝貢、互市など多様な統治関係が展開していた(123頁)。こうした多元的統治原理の併存を共通の理解としつつも、「中華」という特定の価値体系=漢字・儒教思想の優越性を前提とする見解、さらには上位に普遍的・抽象的統治理念の存在を主張する見解などに分れる。こうした近代史から出発したモデルのほかに、内陸アジア・前近代史に即する立場からのアプローチもある。

満洲人王朝である清朝の帝国統治を理解するには、軍事集団でもあり身分集団でもあった八旗が重要で、漢人科挙官僚が漢地統治に限定されていたのに対して、旗人は帝国全域の統治を担った(ただしこの八旗は必ずしも成員の出自を意味するものではなく、出自・経歴にはかかわらず、取込んでしまう柔軟な運用面が見られたという)。中国社会~海域世界からのアプローチと、こうした内陸アジア~満洲史からのアプローチの成果を統合して、清帝国像を構築してゆくことが今後の課題である(125頁)。

第14章「蝦夷地と琉球――近世日本の2つの口」
この章では、17世紀中頃から19世紀初頭にかけて日本列島の南北端に展開したアイヌ社会と琉球社会の特質とその状況を述べる。当該期の両者を東アジア世界の流通・交易の観点から考えるならば、没交渉でなかったことは、アイヌの伝統的技法によって生産された昆布が、琉球ルートの対中国貿易の主要な輸出品として知られていたことを見ればわかる。つまり薩摩藩が日本市場で獲得した昆布は、貿易銀と同様に、海商の船によって那覇に輸送され、琉球における薩摩藩の貿易拠点である在番奉行所に隣接した昆布座で保管されていた。昆布は薩摩藩や琉球側の貿易資本でもあったのである。日本列島の北と南に位置し、直線距離で2000km以上離れた蝦夷島と琉球とは、交易商品である昆布の生産・流通を介して有機的な関係を切り結んでいた(128頁)。

17世紀半ばから19世紀初頭の蝦夷地は、為政者の変遷という点では、近世大名松前氏の蝦夷島支配期(1593-1792)と幕府の第一次蝦夷島直轄期(1792-1823)にまたがる時代であるが、アイヌ史的観点からみると、2つの画期をみることができる。すなわち1つは、寛文9(1665)年に起こったシャクシャインの戦いとその戦後処理を画期とし、もう1つは寛政元(1789)年に起こったクナシリ・メナシの戦いとその戦後処理(第一次幕領化)を画期とする。前者は「蝦夷地の平和時代」から「諸豪勇時代」への移行とみて、後者は「諸豪勇時代」から「役蝦夷の時代」への移行とみる研究者などがいる。このように2つの武力衝突に象徴される軋轢のなかで社会的特質が当該期に移行していたことが窺える(129-130頁)。
言語は文化を背景として差異化し機能するが、当該期のアイヌ語は、樺太方言、千島方言、北海道方言の3つに分けられることから、3つの文化集団が独自の歴史的展開を遂げたと考えられる。千島アイヌは、ラッコやクロテンといった獣皮を生産し交易したが、それを西欧・清朝・ロシアは高値で欲した。ロシアの進出を危惧した幕府は、19世紀初頭にエトロフ島以南への来航を禁止した結果、千島アイヌはロシアとの交渉を軸とした社会秩序を形成した。その後、樺太千島交換条約により日本領となるまで、独自の文化世界が構築されることとなる。樺太アイヌは、明清交代以前からアムール川方面との活発な交流を持していたが、清朝期になると、デレンに仮府が置かれ、収貢頒賞の原則で編成された。その頒賞品である絹製官服は威信財とされるとともに、「蝦夷錦」として日本市場へも交易された。つまり当時の日本は沿海州地方を「山丹」と呼び、その交易を「山丹交易」と称したが、この交易品の1つがこの「蝦夷錦」であった。そして17-18世紀の樺太アイヌは、日清両国との交易を前提とする独特の文化を築いた。北海道アイヌについては、場所請負制度の定着の過程で、和風文化とアイヌ文化とが併存する社会が形成された。この時期に、場所請負商人により蝦夷地経営が本格化し、大規模漁業が導入され、アイヌ雇用が恒常化し、出稼ぎ和人漁民の流入が一般化した。これにより場所請負人への前貸精算に基づいた雇用関係が固定化し、債務奴隷化していくアイヌが続出した。先述したクナシリ・メナシの戦いは、「気受け」への配慮を欠いた新規場所請負人の経営方針に根ざして惹起した紛争として捉えられるという(131-133頁)。

一方、琉球の特産物である黒砂糖、ウコン、綿子(真綿)は、地域別に割り当てられ、管理生産されていた。黒砂糖は薩摩藩を通して日本市場で売却され、琉球の対中国貿易の貿易資金である銀を獲得していた。また硫黄は、明清時代を通じて琉球産の朝貢品であり、その多くが中国市場で消費された。こうした琉球の特産物をめぐる研究は、国際的な流通と琉球社会の生産関係と切り結んだ視点が有効性を持つという(137-138頁)。 

第15章「東南アジアの「プロト国民国家」形成」
本章では、19世紀初頭にできた政治的枠組みが、植民地期――現在の政治・経済地図に対して大きな規定力をもったとする視点から、18世紀――19世紀初頭を中心に、大陸部東南アジアにおける領域的統合の過程、およびその歴史的位置付けに関わる議論を紹介する(141頁)。
東アジアでは、18世紀を通じて、政治・社会の安定化傾向が看取され、日本は「鎖国」政策と勤勉革命により海外市場から撤退し、内部で完結した流通網を実現した。日本が東南アジアを含めた海域世界から離脱し、銀の一大供給源が消滅したので、東南アジアは17世紀後半期に不況に陥ったが、18世紀には、対中国貿易の拡大と辺境開発の進展により好況に転じた。沿岸諸港市間のネットワークは、バンコクとサイゴンという2つの中心に収斂した。

その一方で、海上貿易の幹線から外れた北部ベトナムでは農業開発が限界に達し、村落は下層民などの切捨てとその裏返しとしてのメンバーシップ強化により、自律性の高い村落共同体が出現した。このことは、吏僚層の中間権力化阻止を優先する王権が黙認し、村落内上位層による国有田の村落共有田化によって経済的裏付けを得た。そして中部ベトナムでも、交易の時代終了後に労働集約的農業の展開が進んだ(145頁)。

ところで、前近代と近代の領域観念と国家像をめぐる議論も活発である。例えば、タイでは、近代的領域観念と前近代のそれを異質であるとして、地理的空間把握に基づいたラインとしての国境は存在せず、その地方統治も名目的であり、歴史編纂を通じた過去の再構築という政治的営為の産物であるという見解がある。その一方で、コンバウン朝ビルマの領域認識には、近代的国境線概念と連続する側面があったとする見解がある。すなわち、「実現可能な理想の小世界」と「理念上の世界制覇すら阻む実在の超大国」を措定する点で、中国の華夷思想よりも、阮朝の世界観や日本型華夷秩序との共通性が高い。歴代中華王朝の華夷思想は、ネーションとは原理の異なる文化的認識体系であるが、部分的に移植したベトナム、朝鮮、日本では、サイズが小さいので、作用も異なっていた。中国のような強大な「他者」の存在が、ベトナムとビルマにおける内部の凝集力を強める方向に作用したとき、ネーションと接合可能な自他意識を生み出し、「プロト国民国家」とも呼びうる存在として、捉え直す視座が生まれてくるという。

18世紀から19世紀初頭に、大陸部東南アジアに政治的激震が訪れ、ビルマではコンバウン朝が統合し、タイではアユタヤの滅亡後、トンブリー朝・ラタナコーシン朝が成立し、ベトナムではタイソンの乱を契機として、黎朝が滅亡し、阮朝が出現し、ラオスとカンボジアの小国化が決定的となる政治地図が誕生した。ビルマのコンバウン朝やベトナムの阮朝の成立時には、周辺諸勢力の動きと連動して事態が推移して統合が果たされた点には注意を要する。前者の場合、ビルマ族のみならず、華人、シャン人、モン人、欧州人が、後者はまだ単一的でない「ベト人」、華人(広東系と潮州系)、欧州などを巻き込んでいた。
19世紀前半にこれらの諸王朝は、多様な人間集団を内部へ如何に位置づけ、統合するかを課題とした。例えば、ベトナムの場合、阮朝の明命帝の中央集権化政策により、華人が農業開拓を行ったメコンデルタでも「ベトナム化」が進行したが、阮朝は清朝中国に範を採りつつも、「本家よりも本家らしい」南の中華帝国(大南)として再構築した。この自意識は、朝鮮の小中華思想や日本の「武威の国」「神国」思想とも根底を同じくするものであり、王権に正当性を与える存在として、中国の存在感が注目される。またベトナムやビルマでは、画一的な地方行政制度の導入等により統合が強化されたとする。他方、実態面に着目して、こうした統合を過大視することを戒める研究もある。例えば阮朝による「外洋公務」(国営対外交易)が一時的な事業に終ったのは、華人ネットワークの開放性が維持されており、そこに対外交易を「丸投げ」したことにほかならないとする(147頁)。
東南アジア史研究において、前近代と近代の国家像の連続と断絶に関する議論は、現在進行形の議論で、いまだ定説は存在せず、未開の沃野だけに、研究の進展が期待される(148頁)。


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