歴史だより

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一柱寺について その1

2009-07-07 21:05:07 | 日記
ブログ原稿「一柱寺について」その1


2005年8月に、ハノイ旅行をしたことは、以前、ブログに記した。
その際に訪れた印象的な観光地について、解説を加えてみたい。今回は、ベトナム李朝(1010-1225)の仏教建造物で、有名な一柱寺を取上げてみたい。

一柱寺は、観光ガイド『地球の歩き方』などで真っ先に紹介されるほど、ハノイでは是非とも見ておきたい観光スポットである。その歴史はハノイの歴史とともにある。

『地球の歩き方 93 ベトナム』には、次のような説明がある(ダイヤモンド社、2001年、87頁)。
「一柱寺 Chua Mot Cot
李朝の太宗(リー・タイ・トン)が1049年に創建した寺(延祐寺)で、1本の柱の上に仏堂をのせたユニークな形から、この名で呼び親しまれている。
先の太宗は蓮華の上で子供を抱いた観音菩薩の夢を見てからまもなく子供を授かった。太宗は夢の観音に感謝し、ハスの花に見立ててこの寺を建てたと言い伝えられている。仏堂は小さいがベトナムを代表する古刹であり、ハス池の中に浮かび立つ優雅な姿はハノイのシンボルの一つ。」とある。

最初に、私が撮影した一柱寺の写真を載せておく。一柱寺を外から眺めた全体像と、内部の観音像の写真である。






まずは 一柱寺の位置についてだが、日本ではお寺というと、森に囲まれた静寂の中にたたずむというイメージがある。少し古いが和辻哲郎の『古寺巡礼』の記述が思い出される。しかし一柱寺はそうではない。いわゆる「現代」と隣り合わせである。その「現代」とはホー・チ・ミン博物館(Bao Tang Ho Chi Minh)やホー・チ・ミン廟(Lang Chu Tich Ho Chi Minh)、そしてバーディン広場(Quang Truong Ba Dinh) をさす。

一柱寺のすぐ近くにあるホー・チ・ミン博物館は、ホー・チ・ミン生誕100周年を記念して、1990年5月19日にオープンした。主席の生涯と業績に関する豊富な資料が展示されてある。その白亜の建物は斬新なデザインである。




また、一柱寺の北にあるホー・チ・ミン廟には、30メートル四方の大理石の廟内にベトナムの国父、ホー・チ・ミン主席の遺体が安置されている。1975年に建てられた総大理石の建物である。平日に訪れたが、廟内に入るには、長蛇の列であった。同行していただいた川口先生の聞き取りによれば、地方の小学生が集団でこの廟にお参りに来るのだという。やっとの思いで、廟内に入ると、兵士の厳重な監視のもとに、規則正しく、一列になって、ガラスケースの中にホー・チ・ミンの遺体を見ることになる。ロシアのレーニン廟の影響をうけ、エンバーミング(embalming)という遺体保存技術が施されているという。ここでは、撮影はもちろん厳禁で、手荷物は事前に預けておかなければならないし、軽装も私語も禁止である。兵士のチェックが厳しすぎて、ベトナムが社会主義国であることを実感させられた。




そしてバーディン広場は、この廟の南に面している。1945年9月2日、ホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の独立宣言を読み上げた所である(奇しくも、ホー・チ・ミンも、1969年9月2日に亡くなった。そしてホー・チ・ミン廟も、1975年9月2日の建国記念日に完成した)。




このような現代的雰囲気の中で、一柱寺が11世紀にタイムスリップしたかのように建っているのである。不思議といえば、不思議である。

ハノイの歴史は李朝が開国したのが1010年(1009年とする場合もある)だから、1000年の歴史がある。一柱寺は1049年に建立されているので、この都市の歴史に匹敵するほど、このお寺の歴史は古いということになる。

11世紀の李朝は、儒教を国教とした15世紀の黎朝とは異なり、仏教(とくに禅宗)が広く信仰された王朝である。李朝の太宗(在位1028年-54年)は、武人として知られ、北方のタイ族や南方の占城(チャンパ)を征討している。
また16世紀の黎嵩という科挙官僚が執筆した史書『越鑑通考総論』には、李太祖と李太宗について、次のように記す(陳校合本[上]、1984年、88頁)。

李太祖因臥朝之失徳、協震文之休祥、應天順人、乘時啓運、有寛仁之大度、有宏遠之規模。遷都定鼎、敬天愛民、田租有賜、賦役有制、南北通好、天下晏然。然聖學不聞、儒風未振、僧尼半於民間、佛寺滿於天下、非創業垂統之道也。太宗勇智兼全、征伐四克、有孝友之徳、習禮樂之文、討賊平戎、勸農耕籍、伸寃有鍾[鐘]、制刑有律、爲守成之令主也。然耽僊遊詩偈之禪、惑西天歌調之曲、非經國子民之道也。
《書下し》
李太祖、臥朝の失徳に因り、震文の休祥を協し、天に應じ人に順い、時に乘じ運を啓き、寛仁の大度有り、宏遠の規模有り。都を遷し鼎(てい)を定め、天を敬い民を愛し、田租に賜有り、賦役に制有り、南北、好しみを通じ、天下、晏然たり。然るに聖學、聞こえず、儒風、未だ振わず、僧尼、民間に半ばし、佛寺、天下に滿つるは、業を創り統を垂れるの道に非ざるなり。太宗、勇智兼全し、四克を征伐し、孝友の徳有り、禮樂の文を習い、賊を討ち戎を平らげ、農を勸め籍を耕し、寃を伸すに鍾[鐘]有り、刑を制するに律有りて、守成の令主と爲すなり。然るに僊遊の詩偈の禪に耽り、西天の歌調の曲に惑わされるは、國を經(おさ)め民を子(いつく)しむるの道に非ざるなり。

黎嵩は、儒教思想(とりわけ朱子学)に染まった科挙官僚である。だから、仏教が栄えた李朝の皇帝の政治的資質を評価しつつも、儒教的立場から必ず批判しているのである。一柱寺を建立した李太宗についても、勇気も智恵も兼ね備えてはいるが、禅に耽り、西天(インド)の楽曲に惑わされて、儒教的な治国の道から外れていることを批判されている。

さて、観光ガイドに紹介されていた一柱寺の1049年の建立に関して、史書には次のように記されている(陳校合本[上]、1984年、236頁)。
『大越史記全書』崇興大寶元年(1049年)
冬、十月、造延祐寺。初、帝夢觀音佛坐蓮花臺、引帝登臺。及覺、語群臣。或以爲不祥。有僧禪慧者、勸帝造寺。立石柱于地中(ママ)、搆觀音蓮花臺于其上、如夢中所見。僧徒施繞、誦經求延壽。故名延祐。
《書下し》
冬、十月、延祐寺を造る。初め、帝、觀音佛の蓮花臺に坐り、帝を引きて臺に登らしむるを夢みる。覺めるに及び、群臣に語る。或ひと、以爲(おも)へらく、不祥なりと。僧に禪慧という者有りて、帝に寺を造らんことを勸む。石柱を地中(ママ)に立て、觀音の蓮花臺を其の上に搆(かま)えて、夢の中に見る所の如くす。僧徒、繞を施し、經を誦(とな)えて、延壽を求む。故に延祐と名づく。

この漢文の訳としては、おおまかに次のようになろう。
崇興大寶元年(1049)10月に延祐寺が建立された。以前、李太宗は、観音仏が自分の手を引いて、蓮華の台座の上に登らせる夢を見た。目が覚めると、宮廷の大臣たちにその夢のことを話した。するとある者が、その夢は不吉な前兆と思われますと答えた。禅慧という名の僧がおり、太宗に寺を建立するように勧めた。石柱を地中(ママ)に立てさせ、観音の蓮華台をかまえて、夢の中で見た通りに建立した。僧侶たちは、その周りをめぐり、仏教の経文を声に出して読み、太宗が長生きされるように(en priant pour une longue vie du roi)祈求した。だからこの寺院を延祐寺と名づけたのである(Khoi, 1987, p.156; Papin, 2001, pp.83-84.参照)。

細かいことを言えば、漢文の「立石柱于地中(ママ)」については、問題がある。現在は、一柱寺の柱は池の中から突き出て、お堂を支えている。図像的にも蓮華台は蓮が池中から茎をのばして咲くイメージである。パパン氏も「pour le conduire sur un trône en fleur de lotus émergeant de l’eau」(Papin, 2001, p.83)と仏訳している。この外見からすると、漢文の「立石柱于地中(ママ)」は、「池中」が正しいように思えるが、この点にも問題がある。ベトナム語訳でも、この点に特に注意を払い、次のような注釈を付す。
5 Nguyên văn: "lập thạch trụ vu địa trung". Bản Chính Hòa và bản VHv.2330 đều in rõ chữ "địa". Nhưng các bản in của Quốc tử giám (triều Nguyễn) như bản A.3 v.v... sử chữ địa thành chữ trì (ao, hồ). Xét ra nguyên bản Chính Hòa để chữ địa hợp lý hơn: Khi mới làm chùa chỉ dựng cột đá ở giữa đất, đến lần trùng tu năm 1105 mới đào hồ "Liên Hoa Đài" ở xung quanh cột đá (xem: BK3, 15a). Cũng có người giải thích chữ "địa" ở đây là chữ Nôm, đọc là đìa tức là ao, hồ. Chúng tôi theo văn bản, dịch là đất trong khi chờ đợi sự xác minh.
(Vien Khoa Hoc Xa Hoi Viet Nam, 1993, p.102, note5)
これによれば、諸版本はみな確かに「地(dia)」と記すという。後に引用する史書の記事から推測するに、1049年の一柱寺建立の時点では、池がなかったと考えれば辻褄が合うのかもしれない。

ところで、先の『大越史記全書』の記事からわかるように、太宗は霊夢に感じて、この延祐寺(つまり一柱寺)を造った。その構築は独特なものがある(松本、1993年版、60頁)。精霊崇拝の祠のような古い建築様式である。写真を見ればわかるように、蓮池の中から、蓮華台という石柱が突き出ており、その上にお堂がある。そのお堂には観音仏(le bodhisattva de la Miséricorde)を祀ってあるのである。この観音仏は金色に輝いていた。日本の仏像といえば、和辻哲郎の『古寺巡礼』にもでてくるように、古色蒼然とした薄暗い色のイメージがあるが、ベトナムの一柱寺のそれはそうではない(日本の仏像も元は金色であったらしいのだが)。
史書も説明するように、一柱寺の正式名称である延祐寺は、延寿=延祐(祐=助で、神の下す助けといった意味)を意味し、太宗の長寿を祈求したことに由来する名称であったのである。だが、この独特な建築様式を端的に表す一柱寺のほうを、ベトナム語でもchua mot cot用いている。フランス語でも、この一柱寺を「Pagode au Pilier unique」(直訳すれば、ただ一本の柱のパゴダ(仏塔))と訳している(Papin, 2001, p.83)


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