歴史だより

東洋の歴史に関連したエッセイなどをまとめる

桃木先生の編著を読んで その2

2009-03-21 22:50:30 | 日記
《桃木先生の編著を読んで その2》

第6章「琉球王国の形成と展開」
本章では「古琉球」すなわち12世紀頃から琉球王国が成立・展開し、1609年薩摩島津氏によって征服されるまでの時代を対象とする(59頁)。
その研究の流れとしては、次の3つの特徴があった。①国内史的視点から「琉球王国」の形成・展開過程および内部構造を明らかにする王国史研究、②対外史的観点から、アジアの対外世界との関係、特に朝貢体制の中での外交・貿易の実像を探る研究、③中世日本国家との関係史研究、および琉球や地方世界を含めての「日本中世史」像の再構築のための研究といった具合である(59頁)。

従来ともすれば一国史的な視点から研究されてきた「琉球王国」であるが、海域世界をつなぐ民間主導のネットワークに包摂された1つの拠点としての琉球の性格に注目し、海域アジア世界のなかに位置づけていく必要がある(60頁)。

琉球の朝貢開始の前提は、14世紀中葉における従来の博多――明州ルート(大洋路)にかわり、琉球を経由する肥後高瀬――福建ルート(南島路)への日元間航路の変更である。海商の寄港地として利用されたのが、「浮島」と呼ばれた天然の良港、那覇であり、民間交易勢力により、自然発生的に港市として形成された。そして華人居留地「久米村」には中国沿岸海民の南洋方面への交易活動の一環として福建系華僑社会が形成され、現地政権と関わりを持ち、内政にも関与した。那覇には、「久米村」を囲む那覇全体に琉球人と雑居する形態で「倭人」の居留地が存在し、王府は彼らを登用し、外交業務などに従事させた。按司や三司といった現地権力は民間交易勢力を外交・交易活動に活用し、港湾機能も整備したので、古琉球社会は、首里・那覇一帯の突出した王都と、草深い村落社会という二重の社会構造であった。海域ネットワークの拠点としての港市那覇は琉球王国の形成・展開を考える上で看過できないのである(61頁)。

琉球王国の対外貿易の特徴は、明の海禁政策下、朝貢体制に参入することで行われた国営中継貿易だった点である。「琉球国」は明朝から命名された対外呼称であり、明朝から頒賜された中国冠服は琉球国内の身分秩序形成に影響を与え、冊封儀礼を通じた中国皇帝の権威は王権の存立に不可欠のものとなった(63頁)。ただ、明朝の琉球招諭は、海商の交易活動が前提となっていたので、王国自体が地域交流を担う民間の交易主体の側面を持っていたという(62頁)。また従来、外交文書集『歴代宝案』の研究は、「朝貢貿易」をキーワードとする中琉関係に重きが置かれすぎてきたが、海域世界や東南アジアの内部状況も解明しうるポテンシャルを持つ史料であることが近年の研究で明らかにされつつある(62頁)。例えば民間勢力による「私貿易」があったことは15世紀に輸出禁制品の中国式火器が伝来していたことからも窺えるし、海底遺物の調査により陶磁器や磁石が確認されており、琉球海域で活動した交易勢力の実態解明に手がかりを与えてくれる(66頁)。

第7章「日明の外交と貿易」
中世後期の日本と海域アジアとのかかわりを、日本と明朝との外交・貿易関係の推移に着眼して概観する(68頁)。
まず最初に、初期日明関係上の事件としては、中書省長官で建国功臣胡惟庸が1380年に企てたクーデター未遂事件があり、林賢に誘われた日本国王使(征西府とする説と、九州探題――室町幕府[北朝]とする説がある)も加担していた。これにより明朝の対日姿勢が硬化し、南宋の日本人僧が流刑に処せられた(68頁)。

その後、1401年に足利義満の対明交渉が成就し、これ以後、全部で19回遣明使が送られた。義満が冊封された意義は、従来は皇位「簒奪」を目論み、権威付けを明皇帝に求め、明銭輸入により事実上の貨幣発行権をも獲得したとするのが通説であったが、近年では、日明貿易の独占的掌握にあり、明皇帝権威の援用は副次的なものであったとする。「日本国王」号は天皇「王権」を超越するものではなく、国内に対しては「征夷大将軍(室町殿)」の名義を使い分ける二重政権であった(69頁)。

僧は還シナ海地域間交流の担い手であったが、室町幕府は彼らを武家外交の外交官僚として活用し、「外交機関としての五山」を成立させた。この京都五山は、漢字文化圏における語学力・儒教的教養を習得し、中国士大夫層の文化に対応できる禅僧を、多数輩出した。それは多くの門派によって構成されており、決して一枚岩ではないが、特に夢窓派禅僧が幕府外交に関与し、外交文書起草や外交使節の任に就いた。その人選は、蔭涼職(将軍と僧禄の連絡役)が将軍の命を奉ずる形で行い、遣明使節行に関する幕府の命令は「将軍→奉行→蔭涼職→遣明使」で行われた。義満がこの夢窓派を外交に登用した背景には、伝統的対外観が根強い公家や顕密勢力に比べて、親中国的で明の外交秩序を受容しやすい存在であったことなどがあげられる(72頁)。

一方、遣明船に参入した地域権力である大内氏は、恒常的に遣明使を出した聖一派(京都五山の東福寺を拠点)、大覚派などの禅僧を重用した。水墨画で著名な雪舟が大内船によって入明した。
義満ののち、神国思想に根ざした伝統的対外観への回帰を図った義持によって一時的に断絶したが、義教期に遣明船は復活する。財政の悪化した幕府は勘合を大量に下賜したので、明側は遣明使の接待費増大を懸念し、十年一貢とする景泰約条が導入された(71頁)。

遣明使の経営権をめぐって大内氏と細川氏の間で勘合争奪戦が展開され、大内氏は遣明使の最終艤装地であった博多を支配したので、大内氏・博多商人VS細川氏・堺商人という通説的理解は、後期日明貿易の推移を説明する枠組みとして今なお影響力がある。しかし明応の政変(1493年)後の両氏の連合政権、大内氏と堺商人の再提携を考慮に入れると、この枠組みは超時代的な構図として成立しない点は注意を要する。

日明関係は寧波の乱で断絶した後、遣明使経営権の承認を足利義晴(在将軍職1521-1546)から受けた大内氏は、遣明使を復活する。16世紀に入り日本外交の主軸が幕府外交から九州地域に移ると、外交に携わる禅僧も京都五山から博多周辺の禅宗勢力に移り、特に博多聖福寺を拠点に展開した。その後、大内氏滅亡により正式な遣明船の歴史は終焉したが、非公式で遣明船活動は存続したという(72頁)。

第8章「日朝多元関係の展開」
明と日本との関係が、明皇帝――日本国王(足利氏)という一元的な関係なのに対し、朝鮮国王には、日本国王の他、守護大名、国人、商人が使者を派遣するという多元的な通交関係が成立し、外交の主体が複数存在した。この点に、当該期の日朝関係の特質がある。その理由は、朝鮮が倭寇禁圧のため諸勢力の通交を受容したからである。

朝鮮側が足利氏の使節を「日本国王」として扱うのに対し、室町幕府はこの称号ではなく、「日本国源某」という形式をとった。幕府内部での朝鮮蔑視観の存否には議論がある。また外交文書の作成や使節は、対明関係と同様に、京都五山などの禅僧が務めた。朝鮮が日本に派遣した使節に関しては、研究蓄積があり、その上、復命書や著作のかたちで日本観察記録を残しているので、日本社会の一端や日本観を知る手がかり・素材を提供している(77頁)。

日朝間の境界に位置する対馬は、重要な役割を果たした。対馬国守護の宗氏は、朝鮮から渡航証明書である文引を発給する権限を与えられ、通交者の資格をチェックし、島内支配を確立していった。そして対馬島民は朝鮮の三浦[さんぽ](朝鮮王朝が倭船の停泊地として指定した3つの港)に居留し、ここに日本からの使節が入港した。1510年の三浦の乱後、朝鮮に派遣された使節の大半は、偽使(名義人と実際の派遣者が異なる使節)であり、対馬の人々によるもので、実際上、対馬が通交権(貿易権)を独占していたのである。

近年、宗氏が架空名義の図書(銅製の私印で、通交者の実名が刻んであり、通交の際所持してくる書契に押させ、通交の証としたもの)などを所持していたことが確認された。そして16世紀末、豊臣秀吉が朝鮮を侵略する際にも、秀吉は朝鮮王朝に服属を要求したが、対馬の宗義智は、家臣を偽使として派遣し、その要求内容を通信使の派遣要請にすり替えたのである(78-79頁)。

第9章「倭寇論のゆくえ」
前期倭寇は、明の海禁―朝貢体制および朝鮮王朝の懐柔政策により、息を潜めていたが、その統制も16世紀に入ると、石見銀山の再開発を最大の原因として破綻を見せ始めた(石見銀山歴史文献調査団編、2002年)。石見銀山は16世紀前半に灰吹法という朝鮮式精錬技術を直接的前提として再開発された。この灰吹法は、村井章介氏の研究によれば、1526年に石見銀山を発見した堺商人神谷寿禎が、1533年、博多から宗丹・桂寿という朝鮮系技術者を連れてきて導入された方法である。こうして銀の生産量が増大し、一時期は銅銭に代わる通貨の役割を担ったが、16世紀末には米などが代替一般通貨になった。むしろ日本銀は、明での税の銀納化により、その需要が拡大したので、日本銀と中国生糸を交易する中国民間船が日本へ来航したが、これが「後期倭寇」の母胎であった。そして1551年周防大内氏の滅亡により、正式な遣明船が絶えて、日本が明の朝貢体制から脱落したことも後期倭寇発生の原因と考えられている。この後期倭寇の構成員は多民族的で、一般的には日本人よりも中国人の方が多くを占めていたが、それでも「倭寇」と呼ばれた理由は、倭語を使い月代(さかやき)風に髪を剃って倭服を着ていたからであり、こうした<しるし><コード>の存在が東アジア海域世界において、「倭寇図巻」といった絵画資料等から看取・確認できるという(84-85頁)。

後期倭寇が終息に向かうのは、1587年以後、豊臣政権が海賊禁止令を発してからである。この政権の誕生は倭寇に苦しめられてきた中朝両国にとって本来なら歓迎すべき「吉報」であったが、秀吉は海賊禁遏を実現したのに両国から謝礼すらないので、1592年に朝鮮侵略といった未曾有の「倭寇(=日本の侵略)」を惹起したのは、歴史の皮肉というより、むしろ必然であったかもしれないという。倭寇という歴史対象を実証的に理解するには、複眼的な視点が求められると説く(89頁)。

第10章「交易の時代」の東・東南アジア
アンソニー・リードは、15世紀なかばから17世紀後半までの時代を、「交易の時代」と称して、従来東南アジア史の画期として絶対視されてきたヨーロッパ人の進出をアジア海上交易の発展の結果として相対化し、東南アジアと東アジアとの関係とその意義を詳述した。また『岩波講座世界歴史』も16世紀から18世紀の両地域をひとまとめに扱った。この時期の特徴は、海禁――朝貢体制という国際秩序が崩れ、中華帝国が主役的王座を下り、これまで脇役に甘んじていた日本、朝鮮、東南アジア、インド、ヨーロッパが参入し、東アジア海域では「倭寇的状況」になったことである(90頁)。換言すれば、15世紀の海域アジア交易が、明朝との朝貢貿易、マラッカに代表される港市国家、琉球の中継貿易などを基軸に展開したのに対し、16世紀以降には、中日混在の倭寇的勢力(第9章参照)、ヨーロッパ勢力(第11章で詳述)が進出し、そして中国の民間海商、日本の朱印船(第11章参照)も参入して、「交易の時代」の主役になってゆく(95頁)。

ところで香辛料・生糸・陶磁器・火器などのモノ、新大陸銀と日本銀を中心とする銀および銅銭というカネ、そして造船・航海をはじめとする技術の流通と移動が進み、経済は活況を呈した。この中で銀は3つのルートを通じて(➀日本銀は16世紀にはポルトガルのマカオ―長崎貿易、17世紀には朱印船、オランダ東インド会社によって、②新大陸銀はマニラ経由で、スペインのガレオン船によって、③ヨーロッパに運ばれた新大陸銀は、インド航路経由で、ポルトガルとオランダによって)中国に流入した(93頁)。こうした銀はほとんどが銀納入化された租税として政府に吸収され、軍事費として北辺の軍事地帯に投下された(94頁)。ただ中華帝国像の刷新とも結びついた銅銭の研究で明らかになったように、大航海時代も中国は銀経済に一本化されなかった。ここに銅銭を介する東・東南アジア経済の複雑さと面白さが端的に現れているという(94頁)。

さて「交易の時代」に世界規模で流通した銀は、中国に流入したが、代わりに生糸と絹といった中国産品が輸出された。だからこの時代におけるカネの源泉が新大陸と日本、モノの輸出の主役が中国であったのに対し、技術移転の中心はヨーロッパ式の造船・軍事技術であったといえる(95頁)。

リードは、この時代、交易を基盤として、東南アジア伝統のゆるやかな統合や重層的な宗教に代わり、国家統合の強化、都市化、正統派世界宗教の前進が進行したが、「17世紀の危機」とともに交易が衰退したため、自給自足的で国家は脆弱な状態が出現したという見取り図を示した(批判と論争は第15章)。この点では、1630-40年代には、東アジア・東南アジアにおいても気候変動による飢饉や、銀流通の混乱などの経済危機(17世紀の危機)が深刻化し、明朝滅亡の要因となったとする説もある。

その一方で、東アジア史では、明代前期的秩序の衰退による変動を重視し、16世紀後半―17世紀前半に「新興商業=軍事勢力」として、日本の統一政権、東南アジアの交易国家群、清朝、鄭氏勢力の軍閥集団をあげている。例えば、1610年代から平戸・長崎を拠点に、台湾・福建にネットワークをひろげ、東アジア海域の華人海商のリーダーとなったのが李旦であった。その部下の鄭芝龍は交易網を受け継ぎ、明朝の海防体制も傘下におさめて、厦門を拠点に東・東南アジア海域に商業=軍事勢力を確立する。鄭芝龍が海外銀の流入地である東南沿海の商業ブームの中で台頭したのに対し、軍事費として巨額の銀が投下された北方軍事地帯の諸勢力の角逐の中で成長したのが清朝であった。清朝が中国内地の征服を進めると、鄭氏勢力は福建・台湾を拠点として対峙したのである。この点、17世紀の台湾の発展や鄭氏の軍事・貿易活動は、海域アジア史の重要なテーマであり、研究蓄積は厚い。ただ、中国の漢籍史料とヨーロッパや日本の史料を総合的に検討し、異なる学界間の交流を深めることによって、海域アジアの全体像を描き出すことが今後の課題である(96-97頁)。

第11章「ヨーロッパ勢力の台頭と日本人のアジア進出」
16-17世紀を従来のように「大航海時代」とか「ヨーロッパ拡張の歴史」といったヨーロッパ中心の世界観で語るのではなく、世界規模での「商業ネットワーク」が出現する「交易時代」として捉え、新たな世界観を構築しようとする立場である(98頁)。
通交証と倭寇と区別するための船籍証明書である将軍からの朱印状を携行した朱印船は、海禁下の中国ではなく、生糸、金、鹿皮、蘇木を入手できる東南アジアの港市へと渡った。将軍の威信により朱印船は安全を保障されてはいたが、実際には外国人との間でトラブルも少なくなく、そのうちの一つ、1628年にアユタヤでのスペイン船による襲撃事件により、その威信が傷つけられ、朱印船制度の廃止と奉書船制度への移行をもたらしたという(103頁)。

16世紀、新大陸と日本で銀鉱山が開発され、世界規模でその流通量が劇的に変化した。ガレオン貿易によって、新大陸の銀がメキシコからマニラへと運ばれ、日本銀はポルトガル人の手でマカオ、朱印船で東南アジアへと流れたが、新大陸銀と同様、そのほとんどは生糸と引き換えに中国に吸収された。この時期の南シナ海一帯には世界中の銀が集積された。この銀の流入により中国の産業発達が促進され、アジア間貿易に変革をもたらした(104頁)。

日本の「鎖国」が幕府による統一政権初期の政治・外交上の転換点であったが、ポルトガル船の追放(1639年)以後も、長崎・対馬・松前・薩摩を通じて、外国との接触が続けられた。「国を鎖す」という解釈に反発し、新たな視点から近世の対外関係を論じ、ヨーロッパ中心主義史観、東アジア世界史観に偏重しない研究方法が望まれるという今後の課題を記す(106頁)。


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