歴史だより

東洋の歴史に関連したエッセイなどをまとめる

《冨田健次先生の著作を読んで》その24

2014-12-31 16:24:09 | 日記
石川九楊の中国書史と日本書史の基本的理解について
石川九楊は中国書史をどのように理解しているのだろうか。一言で要約すれば、中国書史は、自律的に0(ゼロ)→一→二→三→多→無限という見事な論理、つまりリズム法(折法)をもって展開をとげた姿を描いていると捉えている。
これに対して、日本書史は、中国のような見事な展開の姿を見ないという。その理由を、日本語の特質に求めている。すなわち、
「その理由は、日本語が、政治的・思想的な中国語(漢語)を核として、古くからある再編、再構築された孤島語である和語・テニヲハをこれに添え、漢語(音)の裏に和語(訓)を貼付し、和語の裏に漢語を貼りつけた構造からなる二つの異なる中心をもつ二重複線言語であるからです。日本の書史は自律的に展開しようとしても、絶えず日本語の一方の部分である漢語の国、中国からの書(言葉)の流入によってその自律的な展開が阻(さまた)げられ、乱流します。」と。
このように、その理由について、日本語の二重複線言語という特質から、日本書史は自律的展開を、漢語の国である中国からの書の流入によって阻げられたのだというのである(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、140頁、150頁)。

中国と日本の書について
楷、行、草のうち、中国では楷書を基本と考える捉え方であるのに対して、日本では行書を典型(中庸)として捉えている。書における「大陸的」=中国的とは楷書を標準にしている。それに対して「島国的」=日本的とは楷書をくずした行書的な書を基準にしている。このことは、『入木抄(じゅぼくしょう)』などで明らかである。楷書は構築性、直線性、動的、肥の傾向をもつとされ、行書は展開性、曲線性、静的、痩または肥痩の傾向をもち、柔軟、抒情的と表現される。
日本の書史を見た場合、擬似中国文化時代、遣唐使世代に属する三筆(空海、嵯峨天皇、橘逸勢)の書は中国書の吸収、消化期に位置し、中国の書に酷似している。空海の「灌頂記」が顔真卿の影響を受けているという説が流布されるのは、三筆の書が中国色をいまだ払拭しきれない事実を証明している。
ところが、漢語と和語からなる日本語が誕生し、日本が姿を見せはじめたポスト遣唐使世代である三蹟(894年に遣唐使廃止生まれの小野道風、藤原佐里、藤原行成)によって書風は一変した。運筆はなめらかで柔らかく、「S字型曲線」を描くようになり、文字形は円く均整がとれ、肥痩(ひそう)をバランスよく、ないまぜにした美しい和様の日本文字へと昇華した。
つまり、楷書の典型は中国初唐の欧陽詢、虞世南、褚遂良によって、和様・日本文字の典型は日本の三蹟によって完成した。僧寛建が道風の書を携えて入唐し、僧嘉因が佐理の書を宋の太宗に献上したというエピソードが、三蹟の書の中国風からの脱出を示している(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、199頁~200頁)。

漢字文化圏における書の担い手について
書の担い手という問題を考えてみた場合に、どのように要約できるのであろうか。漢字文化圏における書は、文化の中枢にある表現であるから、政治的・文化的中枢部に存在しつづけてきた。
甲骨文は、史官とでも言うべき存在によって亀甲や獣骨に刻りつけられていた。史官というのは、王、王と神との間の通訳である占人と並び、神政政治の中心を担っている存在であった。中国殷代の最初の文字・甲骨文は、王と占人と史官の三者の創製したものと考えられる。
秦の始皇帝時代の篆書を書き、刻りつけもした李斯も、この史官に相当する存在であった。漢代の隷書の書き手や刻者もまた、この史官に準じる存在である書記官であった。草書の時代になると、王羲之など高級貴族が書の書き手となる。
唐代には、皇帝をはじめ、欧陽詢、虞世南、褚遂良といった皇帝周辺の最高級官僚であった。宋代頃から、高級官僚やその挫折者である士大夫が書の表現を担うようになり、これは清代まで続く。
このように、中国において、書は史官、書記官、皇帝、高級官僚、士大夫という、いずれにしても高級政治家、官僚とその周辺に担われていた。
日本においても、同様で、基本的に天皇や皇后、貴族、あるいはその周辺の僧(知識人)によって書は担われてきた。江戸末期になると、新興町人階級の成熟とともに、この力を背景とした都市知識人(いわゆる日本的文人)もこれに加わり、幕末には儒学で武装した維新の革命家、明治の近代以降は、政府の書記官、さらに作家や詩人や学者によって書は担われた(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、69頁~70頁)。

中国の書と日本の書の相違について
中国の書と日本の書の相違について、石川九楊は興味深い捉え方をしている。
中国では、紀元前千数百年から初唐代まで2000年近くをかけた前史があり、その歴史的蓄積が、書の美の基本部分を成立させた。このことを象徴的に言えば、石と紙との争闘史であったという。つまり刻ることと書くこととの争闘史であり、また鑿(のみ)と筆との
争闘史であった。
中国の書は、行書、草書を従えた楷書を中心に、楷・行・草の三書体セットで立体的に成立した。その楷書書字法の中心に来るのが、「トン・スー・トン」つまり起筆・送筆・終筆の三過折=三折法の構造である。
楷書は、三折法を運筆筆蝕の中心に据え、中国の陰陽二項対立思想から来る、左右対称の構成法の上に成立する構築的、政治的な書であると石川は定義している。
一方、日本の書は、紙と石との、鑿と毛筆との争闘という書史の前提を知ることがなかった。書くと刻ることの相関を知りえなかった日本の書は、三折法をなだらかな「起筆・送筆・終筆」の階調(グラデーション)と読みかえ、「真・行・草」の深い意味合いに目が届かなかった。
「先、行字可有御習候。行、中庸の故也(まず行書からお習いなさい。行書は中庸ですから)」(『入木抄(じゅぼくしょう)』)と言われる日本の書には、極論すれば、楷書がないと石川はいう。
日本の書、とりわけ和様の書は、「トン・スー・トン」ではなく、いわば「スイ・スー・スイ」というなだらかな連続法で、ひとつの字画が「S字型」を描き、かつ左右対称性を「くずした」構成を基本とする。日本書史においては、「和様」と「唐様(からよう)」と「墨蹟」しか成立しなかった。「和様」は、三蹟のひとり小野道風の「屏風土代」がその出発であり、三蹟の藤原行成の「白楽天詩巻」で完全に成立する。また、「唐様」は中国の書の輸入との関係で成立した「中国書くずし」であり、「墨蹟」は中国から輸入した書の「くずし」である唐様の書の、禅僧によるよりいっそうの「くずし」である。中国を含む書史の全体から言えば、日本書史はそれ自体豊穣な蓄積をもってはいるものの、「コップの中の嵐」程度のことにすぎないという(石川、1994年、140頁~147頁)。

ところで日本と中国の漢字の筆順について、書家の武田双雲は興味深いことを述べている。武田双雲は、東京理科大学を卒業後、NTT勤務を経て、書道家として独立するという独特の経歴を持つ。書家としては、吉永小百合主演の映画『北の零年』の題字などを手がけている。
その武田は、筆順(書き順)は日本と中国では違いが見られることを論じている。
たとえば、日本の学校では、「右」の筆順は縦が先であると教えられる。それに対して、中国では、横画から書くと統一されているという。また、「有」も日本では縦から、中国では横画が先である。
その他にも、日本と中国では筆順が大幅に異なっている。
①「王」は、日本では横画につづき縦画であるのに対して、中国では横画、横画そして縦画である。
②「必」は、日本ではカタカナの「ソ」に似た部分から書き始めるが、中国では左の点画から右へ順番に書いていく。
③「田」」の中の「十」は、日本では縦画が先だが、中国では横画が先である。
④「母」の中は、日本では二つの点画のあとに横画だが、中国では横画のあとに二つの点画を書く。
このように、日中では筆順が異なるのである。その理由について、武田は次のような推測を述べている。日本では筆順を統一する時に、「右」の筆順のように、古典から推測される筆順に従ったのに対して、中国では「横画が先」と、古典よりは覚え易さ、わかり易さを優先させたものであろうとする(武田、2004年[2006年版]、60頁~65頁)。
また、筆順に関して、「無」という漢字に関して、石川も言及している。文部省(ママ)推奨の筆順は、第二画目と第三画目の横画につづき、四つの縦画をかき、その後、横画をかく。しかし、この場合には、必然的に第三横筆の短い「無」型の不安定な字形になるという。
一方、歴史的に多数派の書き順は、第二、三、四画目の横筆をかいて、その後、四つの縦画をかくと、第三横筆が長く伸び、安定感のある「無」字となるというのである。
要は、筆順に従って字形も変化するから、字典で筆順を確認し、検討する必要がある。

中国と日本の書の相違点
中国と日本の書の相違点として、西川寧は次の諸点を指摘している。
①中国の書には根底に建築的な強い骨組があるが、日本の書はそれよりも装飾的なあるいは図案的な平面の調和ということに進みやすい。
②中国の書には深い瞑想的なものが表われているが、日本の書はむしろ叙情的な面に特色を出している。
③中国の書には個性的な体臭というものが強く表われているが、日本の書では、ものやわらかい感覚的な味を求めていく。
④華やかな面をとっても、中国の書には重厚で荘重なものがあるが、日本のは軽い優美さが目立っている。
⑤叙情的な面をとっても、中国の書は強い骨格と重厚な精神とに根ざす複雑なものがあるが、日本の書は軽妙な流れに乗った純粋さが目立つ。
料理に例をとると、中国料理は油っこいが、日本料理は淡白である。日本のは淡白の裏に材料の自然を生かして鋭い味覚に訴えるが、中国の料理は手のこんだ作り方で、色々の材料を綜合的にあつかって、その複雑な味は人間の味覚全体を包んでしまうという。これは、中国の芸術の特色と全く同じであると西川寧は考えている。
もう一歩進めて考えた場合、中国の書は広い意味での論理主義を基礎とし、日本のは直観主義に立っていると西川はいう。これは民族性の違いや風土的な特色でもあり、書のみならず、絵画でも文学でも、この違いがある。
また、日本の優美さや純粋さにはいい所があるが、骨格の弱さや構成力の弱さ、あるいは人間的な深い心がとかく忘れがちになって、味や情緒におぼれやすい所は大きな弱点であると指摘している。西川は、作家の立場としては、この点に注意して、常に中国の書の研究につとめていると述べている(西川、1960年[1973年版]、227頁~228頁)。

日本と中国の書道展の相違について
中国の書道展は、日本のそれとはだいぶ様子がちがっていると榊莫山はいう。書に対する考えも、取り組み方もちがうようだ。
中国のそれの方が伝統的で日常的であるという。日本のように書家集団があって、作品を公募し審査し、肩書をつくって段階的に出世してゆくシステムがない。だから、大美術館で膨大な数をならべる必要もなく、たいがいは、街の人々がよく集まる公園や名所の古風な堂楼を会場にして、いわゆる書の作品と、篆刻の作品をならべる形をとっている。作品にはアマチュアリズムがあふれていると榊はみている。
中国の方が伝統的であるというのは、作風に冒険がなく、伝承性を重んじているという意味で、そのために作風の振幅は単調であるという。篆・隷・行・草・楷という書体の多様性はみられても、今一つ今日的な生々の気に乏しい。
日本の書は、漢字・仮名・篆刻・近代詩文・墨象等々、不必要なまでに細分化して、展覧会づけされているのが、現状である。そして、古典的な伝承性のつよい作風から、抽象絵画に接する新しい作風まで視野を広めつづけているという(榊莫山『中国見聞記―書の源流をたずねて―』人文書院、1982年、43頁~49頁)。

書はどこまで国際的に理解できるか
書はどこまで国際的に理解できるか。この問いに、完全に否定的であるのは、大溪洗耳(おおたに せんじ)である。大溪洗耳は、1932年に新潟県に生まれ、1958年に東京学芸大学書道科を卒業した書家である。1979年、1982年には東京新聞後援の個展を開催し、1985年当時、日本教育書道芸術院理事長および東京書作展審査委員を務めていたが、2003年に没した。
『戦後日本の書をダメにした七人』(日貿出版社、1985年、162頁、172頁~174頁)において、次のように述べている。
「書は国際的理解の中で花は咲かないのである。咲いたと思ってもそれは錯覚である。国際的な書を目指すのは、「小字数作品」だなどと、かつて言った馬鹿がいたが、この頃はもう余り聞かない」(大溪、1985年、162頁)
「二つ目は、外国人は書としては何も理解してないという事実である。確然たる理解を得なくてもいい、書は難しく考えて見るものではない、ましてや初めて見る書である、楽しく見てくれればそれでいい、ということをふまえての話ならけっこうである。外国人に解るようになったから、いよいよ書も国際的になったなどとニコニコしないのなら納得する。外国人は書を理解しようがないのである」(大溪、1985年、172頁)。
「何度もくり返すが書は国際的にはなり得ない。なったと思ってもそれは錯覚である。手前味噌である」(大溪、1985年、172頁~174頁)と述べている。
そして、具体的には、国際美術家連盟とかの偉い外人さんが、手島右卿の「崩壊」という作品を見て、読めないのにその印象だけで「崩壊」を感じたというエピソードがあるが、これなど錯覚であると大溪洗耳はいう(大溪、1985年、170頁)。
これに対して、書家の岡安千尋(おかやす ちひろ)は異なる見解を示している。岡安には、『書の交差点―脱日本型思考・書の場合』(日貿出版社、1987年)という著作がある。
その著者略歴によれば、岡安千尋は1951年東京に生まれ、慶応義塾中等部、女子高校に学び、慶應義塾大学理工学部応用化学科を卒業し、そして日本書道専門学校に学び、大田区書道連盟会長の中平南海、専修大学講師の田中常貴に師事したという。そして外国人に書を教え始める一方で、1980年代半ばから後半にかけて、東京の六本木、銀座およびパリにて個展を開いたりした。
その岡安によれば、書において用いられる文字は、ひとつの象徴という大切な意味があるという。書家というのは、モチーフの文字を選ぶ場合、自分が無意識領域の中に抱き暖めている何かを、明確な一つの意を持った文字として意識に還元する作業をやっているのだと述べている。心の中にしまい込んだ文字が、作品になるようだ。自分に内在するものの象徴としての文字を、自分の中にかかえ込んでいて、多くは技術的な種々の問題によって、つっかかっている状態のものらしい。自分の内在するものにくっつく象徴を探し、自己葛藤の中で貯えられた蓄積の文字を自分の中に持つことが書における最も大切なポイントである。ここに書が書たる由縁があり、お習字とは画然とした一本の線が引かれるところがあるという。
こうしたことを、はじめから西洋人にやれというのは無理だが、こうした自覚の下、西洋人が漢字を見て、それに自分に響くものを感じ、象徴として採用するなら、そこに書は成り立つと岡安はみている。それが、漢字の形象面からのもので、よしんばその意味や読みがわからなくとも、要は、それが自分の内在部分の象徴として、どれだけ意味があるかということが大切なのであるという(岡安、1987年、205頁~206頁)。
外国人に書を教えてきた岡安だからこその持論であり、書の国際的な理解はありえないと否定する大溪洗耳と異なる点である。
また、多くの外国人に書を教えてきた経験から、空間に対する意識の違いに注目していることは興味深い論点である。書ではないが、中近東イスラム圏では、その建築物は平面を装飾意匠で埋め尽くしている。執拗なまでに、文様でびっしりおおわれている。イスラム教の偶像崇拝禁止が影響しているかどうかは不明だが、そこには余白の美などという感覚は全くない点を岡安は指摘している。書は、空間のある一点から来る力が平面の上で仕事をし、又そのもとの一点に収束して戻っていくというような仕事であるという(岡安、1987年、184頁~186頁)。
中国や日本の書には、余白の美が重視される。とりわけ、日本の書である「かな」の作品の特性として、最も特徴的なのが「余白美」である。書家の武田双雲はその「余白美」に、日本独自の芸術観を見いだしている(武田、2004年[2006年版]、110頁~112頁)。
青山杉雨について

「書は人なり」という言葉について
この「書は人なり」という言葉はよく使われる。あの松本清張も「書道教授」という推理小説でも用いている。
勝村久子の人柄について、東京の良家の老婦人で、残光のような静かな気品があるとほめた後、その書について次のように記す。
「それに、彼女の書だ。ひとを教えるくらいだから、うまいにきまっているが、書にも気品というものがあって、これは上手とは別ものである。勝村久子の字には確かにその気品がある。書は人なりというが、まったく彼女の人柄と合致している。」(宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション 中』文春文庫、2004年、153頁)。
ところで、石川九楊は「書は人なり」という言葉について、次のように述べている。
「「書は人なり」と言うのは、書に表現世界なんて存在しないという認識と、個人は固有の性格を具有するという認識とが重なり合った場に生ずる、きわめて現代的な思想である」と(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、95頁)。
また、石川九楊は、中国宋代の蘇軾の説を紹介している。つまり、蘇軾は、「書は人なり」という説に対して、顔でさえその人を表わすと言いきることができぬのに、書が人を表わすというようなことはないよと、作者と表現の関係のとても深いところから書について語っているという。
これに対して、日本では「書は人を表わす」という説は人口に膾炙され、書についての評価は、すぐに「書は人なり」に帰着してしまう傾向が強いと指摘し、その理由として、5つ挙げている。そのうちの2つを紹介しておこう。
一、日本の書史は中国の書の流入によって左右されるため、その自律的展開が少なく、また真に評価する書が少ないため、書の価値を評することが、作者の違いを言上げすることに転化されたと主張している。日本人が作品の真贋問題を大きくとり上げるのはそのためという。
二、このため、日本では中国のような書評や書論の厚みがなく、評価法が育っていないという。
「書は人なり」という言説に対して、日本と中国とでは受け止め方が異なるのは、その背景にある書の歴史の厚みや、書論などの評価法といった文化史的蓄積の違いなどに由来することを石川が指摘しているのは興味深い(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、192頁~194頁)。

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