歴史だより

東洋の歴史に関連したエッセイなどをまとめる

《井上光貞氏の自叙伝を読んで》その4

2009-06-25 19:31:02 | 日記
《井上光貞氏の自叙伝を読んで》その4


井上にとって、1960年代と1970年代は、試練の時代であった。
井上は、評議員として、大学紛争と対決し、その善後処置をとった。大学がマンモス化し、その機能が麻痺していることが大学紛争の改革問題の一つであったのである。
また学問的にも、大化改新や古代日朝関係について挑戦をうけ、応戦し反駁した。
例えば、大化改新の問題については、こうである。井上は、「大化改新詔の信憑性」(1951年)という発表において、詔の信憑性に疑問をかかげた。ただ、この時は、詔がフィクションで造作されたものであるとも、原詔を後に修飾したものであるとも井上は明言しなかった。その後「大化改新の詔の研究」(1964年)では、原詔に対して、現行法(大宝令)による修飾をほどこしたのが書紀の詔文であるとした。

これに対して、原秀三郎と門脇禎二から大化改新否定論が提起されたのである。原秀三郎「大化改新論批判序説」(1966年)、門脇禎二「大化改新は存在したのか」(1967年)がそれである。両氏は、クーデターの事実は否定しないが、詔にあるような政治改革は、日本書紀の編纂者が造作したとする。その理由は、藤原不比等におもねて、その父の中臣鎌足を律令国家の創始者にみせかけるためだという。
しかし、その後、1976年に木簡が発見され、大化年間の政治改革がフィクションでなかった有力な証拠となったと井上は見ている。

次に古代日朝関係については、こうである。井上の古代朝鮮への関心は、1961年~1962年のハーヴァード大学への赴任時代に端を発する。つまり、日本古代史を、中国・朝鮮・日本といった東アジア全体の動きの中で探究する大きな視野を痛感したのである。そこで朝鮮の三国史記の職官志を読んだり、朝鮮語の授業をうけたりしたという。
そして帰国後、7世紀の国制研究を進め、位階制や仏教統制機関の発達において、朝鮮の国制の影響が強かったことを井上は論じた。また、井上は通説『日本国家の起源』(1960年)において、大和政権は広開土王碑にみるように4世紀末には、朝鮮南部に進出し、武の上表文もこの地に版図が及んでいたと記した。

これに対して、金錫亨は『古代朝日関係史―大和政権と任那』(1966年/1969年翻訳)が出版され、井上の通説を批判し、“分国論”を展開した。それは百済、任那、新羅の移住者が西日本の各地に朝鮮の“分国”をつくったという説である。井上は、この“分国論”を実証的手続きが全く無謀であると、反批判した。

もう1つの朝鮮古代史家の挑戦として、広開土王碑に関する批判があった。この碑は、5世紀初めに亡くなった高句麗の大王の功績をたたえ、倭が392年以降、百済、新羅を侵したのに対して、大王が反撃したことを伝えたものである。
在日朝鮮人の考古学者、李進熙は、碑文改竄説を唱えた。つまり、碑の字面に石灰が施してある事実に着目し、碑文の文面には明治時代の軍部が朝鮮支配の史的根拠をつくるために改竄したもので、信用できないとした。

これに対して井上は、碑文の表面に石灰を塗布したのは、腐蝕のはげしい石面をきれいに拓出するためであり、軍部の作為的作業でなかったこと、また李が文字を書きかえたとする文字は総計1802字の10字にも満たず、その他にも倭の進攻に関わる記載の分量はかなりあると、井上は反批判した(その後、今日では、中国で墨本が発見されたことにより、日本陸軍の改竄説が成立せず、当時、倭が朝鮮半島に勢力を伸ばしていたことが証明された)。

このように、1960年代と70年代は、井上にとって、学問上でも、試練の時代であった。
また1968年に勃発した東大紛争から数年の間に、井上の私生活の上でも、大きな出来事が起こっている。そのうちの1つが、心筋梗塞のため、心臓の大手術をうけたことである。

心臓発作のきっかけは、冒頭にも記した岩波書店の日本思想体系『律令』の編集であったという。思想体系の編集は、1968年から、吉川幸次郎、丸山眞男、家永三郎と井上が編集委員の中心となって進められてきた。井上が日本古代の政治思想史の1つとして『律令』を加えることを主張し、青木和夫、吉田孝などとともに、1969年5月から進めていた。この『律令』は、1976年12月に刊行されるにいたるのだが、その途中の1976年2月の編集会議の直後に、井上は心臓発作に倒れてしまう。夕食後、急に寒い街路に出たのが直接のきっかけとなった。
その真の原因について、井上は大学運営面で東大紛争に対処するとともに、文学部長という要職にあったこと、また学問上では、大化改新否定論や古代日朝関係の論争、そして娘の家庭生活上の悩みなど、“ストレス”が積み重なったためと述べている。

以上のように、井上は、戦前から戦後への激動期に生きた歴史学者であった。
そのような人物の自伝を読むことは、“生きた現代史”を学ぶに等しいことがわかる。
とりわけ、井上のようなリベラルな価値観のもとに人生を送った学者が叙述した著作には学ぶべき点が多々ある。

出自、生い立ちからして、あの明治の外交史では必ず登場する井上馨を祖父にもち、交流した人物も、当時の超一流の学者ばかりである。
師と仰いだ坂本太郎、和辻哲郎をはじめ、駐日大使であったライシャワー、丸山眞男、石母田正など興味深い逸話に満ちている。
とりわけ、『風土』や『古寺巡礼』といった名著で知られる和辻が寡黙な人柄であり、その文章から受けるイメージと異なるのは、意外であった。恩師として身近にいた井上だからこそ知りえたことである。
こうした多彩な人間模様を描き出し、井上の人生を織り上げて完成したこの自叙伝は、内容的に充実している。そして、われわれ学問、とりわけ歴史学を志す者にとって、知的刺激を大いに満足させてくれるという意味において、この自叙伝は、成功であったといえよう。

最後にお断りしておきたいことは、私は日本史を専門としたことのない門外漢であるので、井上光貞の研究業績が現在の研究史整理において、いかなる位置づけになるのかを、正確に論じることはできない。記して、自らの課題とする。本書の内容をできるだけ忠実に紹介することを心がけたにすぎない。後学のアジア史研究者に、何らかの刺激と指針になれば、筆者の目的は達成されたことになる。

本書の初版本が出版されてから、随分と時が既に過ぎているが、日本古代史の一里塚を築いた一流の歴史学者が辿った軌跡を知っておくことは、歴史を志す者に、様々な示唆を与え、有意義なことと考え、多少詳細に内容を紹介した次第である。




《井上光貞氏の自叙伝を読んで》その3

2009-06-25 19:24:15 | 日記
《井上光貞氏の自叙伝を読んで》その3

アメリカから帰国した井上にとって、研究テーマとして、2つの焦点が絞り込めてきたらしい。
①「令集解の研究」に象徴される律令研究
1958年末にインドから帰国後、1959年から令集解の注釈研究を思い立った。そして1962年アメリカから帰国後、大学院で「令集解の研究」という演習を17年間続け、1978年3月に停年退官したことを回顧している。停年の少し前、1976年に共同製作された岩波思想体系の『律令』は、こうした律令研究の成果であった。ここで井上は「日本律令の成立とその注釈書」という解説を寄稿している。

②インドやアメリカの滞在など国外の空気を吸ったことにより、日本古代史を東アジアという広い視野から研究すること
井上が帰国した1962年には、東アジアと古代日本をテーマとした2つの論文が学界に問われた。石母田正「日本古代における国際的意識について」(『思想』454号)と、西嶋定生「6―8世紀の東アジア」(『岩波講座 日本歴史 古代2』)がそれである。両論文は、中国を宗主国、古代朝鮮と日本とを朝貢国とする東アジアの国際的政治構造の実在を想定した。そしてその枠組の中で日本古代の王権や国家が推移していく経緯を把握しようとしたのである。この問題提起をうけて、東アジアの会というサークルができ、井上も参加した。

こうして井上は、「令集解の研究」の演習と、東アジアの会という2つの研究の場を通じて、「7世紀を軸とする古代国家の形成過程において、固有法的世界がどのようにして、中国大陸の律令法をとりいれていったか」というテーマが熟してきたという。つまりここで、“固有法から律令法へ”という井上の研究にとって重要な観点が打ち出されることになった。

1963年に書かれた2つの論文「冠位十二階とその史的意義」と「日本における仏教統制機関の確立過程」(1965年の論文集に収録)は、その最初のトレンチだった。これらは、7世紀初頭の推古朝に確認される国制の歴史が、中葉の大化改新を経て、末期の天武・持統期にいたる1世紀間に、固有法から律令法へと、どのように展開したのかを辿っている。

前者は、選叙令、考課令に考察を進めた結果、中国の官品制は官を九品に、人もまた門地・才能によって九品にわかち、両者を相い照らして人材登用をはかったが、推古朝の冠位十二階は、これとは系統を異にし、人そのものを門地を主として階等づける古代朝鮮三国(ここでは百済)の官位制の影響を受けたことを明らかにした。日本の冠位制は、大化を転機として唐の官品制の影響を受けはするが、大宝・養老令の位階制においても、固有法が深く内在し、本質を変えることはなかったという。

また後者は、僧尼令にみえる仏教統制機構を分析した結果、次の2点の特質を解明した。
①推古朝に定まった機関は、ⓐ僧正・僧都制(僧侶の半自治的機関)とⓑ法頭制(寺院財産の国家的管理機関)の二元的であった。ⓐは百済を介して中国南朝に学んだものであり、ⓑは北斉にうまれた鴻臚寺所管の寺院財産の管理機関、典寺曹をおそらく隋から学んだものとする。そして大化改新の時点では、ⓐをやめて、唐の十大徳をまねた十師制にかえたが、ⓑの法頭制は存続し、機関が二元制であることに変わりはなかった。

②大宝・養老令では、全く唐制にきりかえて、俗官が監督することになった。つまり中央の僧尼・寺院は、治部省玄蕃寮、地方のそれは国司のもとにおく。しかし細かくみると、中央は玄蕃寮の下の、僧正・僧都・律師からなる僧綱の所管であり、地方も、国師とよぶ僧官が担当している。このように、日本律令法の深部にみられる僧尼の自治を尊重する僧伽の精神は、唐以前、特に南朝以来の伝統と井上はみる。

また、7世紀の国制の展開で、“固有法から律令法へ”という観点でみていくと、興味深い問題があるという。7世紀は女帝(推古、皇極、斉明、持統)や皇太子(聖徳太子、中大兄皇子[なかのおおえのみこ])が活躍した時代である。その背後には、古代の皇位継承に固有法上の2つの要素があるとみる。つまり①兄弟相続、②大兄(おおえ)制である。大兄とは、天皇の長子で、兄弟相続とは原則的に異なる長子相続的観念である。天皇のあとは兄弟がつぎ、その世代が終わると天皇の大兄に皇統はかえっていくという。①、②の2要素をあわせた固有法上の継承法であった。

このような皇位継承の慣習であると、天皇の兄弟、その嫡妻ないし庶妻の大兄などが皇位を競いあうことになり、天皇が生前に皇嗣(ひつぎのみこ)を選定する必要性から、皇太子制が誕生したのだという。固有法上の皇太子には、6世紀以後、天皇の政治補佐の役割が期待されたが、推古女帝の皇太子である厩戸皇子や、大化改新を断行した中大兄皇子は、この法制から理解できる。

しかし律令法が継承されると、これらの皇位継承法と皇太子制が変容する。近江令をつくった天智は、一人で国政を総攬する太政大臣を設置し、皇太子はあとつぎ(皇嗣)とし、中国的な嫡子相続を皇位継承の原則とした。そして皇太弟大海人皇子(おおあまのみこ)を嫌って、新置した太政大臣に寵愛の大友皇子をたてた結果、天智の崩御後、壬申の乱が起こったのだという。

天武は、高市皇子(たけちのみこ)を太政大臣にし、寵愛する草壁皇子を皇太子に選び、その嫡系(→文武→聖武)に皇位を伝えようとした。こうして8世紀半ばまでには、固有の皇位継承法も皇太子制も終ったのだと理解する。

古代の女帝についても、“固有法から律令法へ”という観点からみて、井上は3つの時期区分を提唱する。
① シャーマン的存在~倭人伝の卑弥呼
② 前帝または先帝の皇后が即位~推古(敏達皇后)、皇極=斉明(舒明皇后)、倭姫(天智皇后)、持統(天武皇后)
これらの女帝が即位したのは、皇位継承の争いがおこるのを防ぐためであり、①シャーマンとみるのは誤りである。
③ 律令法的女帝~元明、元正、孝謙=称徳
元明、元正は、文武の嫡子の聖武がまだ年が幼いので、長ずるまで、天皇の位についた。また孝謙は聖武の唯一の嫡系であったので、女子であるのに即位した。③には、律令法的な嫡系相続の観念が貫かれているとみる。

そして井上は、固有法から律令法へ”という観点から、統治機構の変遷についても具体的に跡づけた。つまり大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)が政治をした固有法の統治機構から、近江令、浄御原令を経て、唐の三省制を学んで、太政官―八省という大宝・養老令にみられる律令的統治形態に変わってゆく過程を探究したのである(「固有法と律令制―太政官制の成立―」[1965年]、「太政官成立過程における唐制と固有法との交渉」[1967年])。

天智朝にできた近江令の政治機構については、次のように井上は考えた。太政官は、太政大臣、左右大臣、御史大夫からなる一種の合議体である。太政大臣は皇太子執政を制度化したもの、左右大臣は大臣・大連制を唐の尚書省の左右僕射に模して左右にわかったもの、御史大夫は大臣・大連を助けて国事を議してきた大夫(だいふ)を中国風にあらわしたものである。また大弁官は、太政官と六官の間にあるもので、唐の尚書省内に事務局にあたる。その大弁官のもとに唐の尚書省の六部を模して、六官を置いた。
尚書省の六部→近江令の六官(→浄御原令の八省)の具体的な対応関係は次のようになる。
① 吏部→法官(→式部省)
② 礼部→理官(→治部省)
③ 工部→大蔵(→大蔵省)
④ 兵部→兵政官(→兵部省)
⑤ 刑部→刑官(→刑部省)
⑥ 戸部→民官(民部省)
といった具合いである(ただし法官は百済の制が加味され、大蔵は固有法が根強いという)
このように近江令は、唐の中央行政機関である尚書省を全面的に学んで大きな行政機構を作ろうとした。

そして持統朝にできた浄御原令では、尚書系の太政官に、唐の門下省の系統も加味し充実させた。つまり、近江令の御史大夫は、国政参議官にすぎなかったが、壬申の乱の直後、納言と改め、浄御原令では、その納言を、大(中)納言と少納言とした。大(中)納言の職掌は、①国政参議官、②侍奉官(天皇に近侍してその意志を下にくだし、大臣の意志を天皇に伝える)である。少納言は、大(中)納言の②の役割を補佐した。大(中)納言の役割は、唐の門下省の侍中、少納言のそれは、その下の給事中に相当した。付言すれば、唐の門下省は、門閥貴族の意志を代表して皇帝の詔勅と下からの上奏をチェックする機関であった。門下省の侍中は納言とよばれたこともあるから、日本の納言も、その官名にならったものである。

また、浄御原令では、近江令の六官に、中務(なかつかさ)・宮内の2つを加えて八省とした。その中務省は、詔勅の起草機関である唐の中書省を模したものである。この機関を新設した理由は、古来、口頭で伝えられた天皇の命令が律令制により、詔勅という文書行政の形態に変わったからだという。天皇の家政機関については、固有法や近江令では、国政機関の外に置かれていたが、浄御原令では宮内省として国家機関に包摂された。
このようにして、大宝令・養老令の統治機構の骨組みは、浄御原令で定まったと井上は見ている。

律令研究のうちで、律に関した井上の研究も、1960年代に存在する。律令の律は刑法であるが、古代史家は令に関してはよく論じるが、この律を扱うことは少ない。もっとも日本の律は、令とちがって、唐律の直訳に近い。しかもどれだけ実施されたか疑わしいところもある。

しかし日本の古代国家の形成という問題をとりあげる際に、国家の刑罰権の成立と様態の考察も欠かせない。そこで井上は、帰国後、「古典における罪と制裁」(1964年)を書いた。ここでは、律の継受の前提としての固有法的な刑罰と裁判を扱った。法制史家は、“神法から俗法へ”という観念のもとに、7世紀以前の国制はまだ神法の時代と見る。つまり7世紀以前の国制はまだ神意によって裁判をおこない、制裁も宗教的贖罪であるような時代として捉えていた。

ここに井上は疑問を投じた。神法の時代の設定についての可否は保留するとしても、6世紀には、国家的刑罰が成立しており、神法的な裁判や宗教的贖罪は刑罰に随伴するものにすぎないと井上はする。6世紀中葉に原型ができていたと考えられる国家神話の中に公的団体に対する犯罪と刑罰が見られるという。例えば、記紀神話の天岩戸の段には、スサノヲが高天原で犯した犯罪内容と制裁が描かれている。つまり、犯罪内容は、公共的な灌漑施設に対する妨害等であり、これらは公共団体の利益損害である。そして刑罰は、祓物(はらえつもの)の貢進と、神夜良比(かむやらひ)、すなわち追放である。前者は附加刑であり、後者は俗刑とみなすことができる。
一般的に神判的な裁判とみなされる盟神探湯(くがたち)は、5世紀中葉に在位した允恭朝の氏姓の裁判にも、6世紀中葉の継体朝の記載にも、また7世紀初頭をえがいた隋書倭国伝にもみえる。井上は、この盟神探湯を裁判そのものではなく、世俗的裁判にともなう一種の証拠法と推測する。

さて、この論文の続篇として「隋書倭国伝と古代刑罰」(1976年)を発表した。隋書倭国伝にある「其俗殺人、強盗及姦皆死。盗者計贓酬物、無財者没身為奴。自余軽重、或流或杖」という刑罰の記載をもとにして、“固有法から律令法へ”という観点から、推古朝ごろの刑罰体系の位相を考えてみたものである。石母田正は、この一節により中国律の五刑(死、流、徒[ず]、杖、笞)が推古朝には知られていたとするが、井上もこの石母田説に賛成する。この記述に見えない労役刑の徒は、天武ごろに取り入れられたと解している。

ところで、中国法制史の仁井田陞は「東アジア古刑法の発達と賠償制」という論文で、中国周辺諸民族が、中国律を継受していく経緯を大観した。中国では、国家的刑罰を定めた刑法典は周代末期には成立し、そこでは血讐――賠償制は、ほとんどその影をとどめていない。しかし公権力が充分確立されていない中国周辺諸民族の習俗の中には、その血讐――賠償制が色濃く存在していると説く。

この観点から、先の倭国伝をみると、「盗者計贓酬物」とあり、盗犯の場合は、贓(盗んだもの)の量に随って被害者に物をあがなうという形で賠償制の習俗が記されており、またこの習俗は、履中紀の類例と対応している。したがって、日本でも6世紀から7世紀前半にかけて賠償制が残っていたことがわかる。しかし大化2年3月の詔では、この習俗を禁止していることから、7世紀中葉には、中国の律の定める国家的刑罰が根づき、賠償制が後退していったことが確認できるという。

また倭国伝に「無財者没身為奴」(犯人が贓をかえす財がない時、身を没して奴とする)とあるのは、債権者が債務を返済できないとき、として労役を提供されるという債務奴隷制の法的慣習をさす。これは浄御原令時代の持統紀の詔にみえる「負債に因りて強いて財に充てられる」という習俗と一致し、この詔により、唐律を全面的に摂取して、債務奴隷の旧習を禁じた。倭国伝にみえる法的習俗は、この持統紀の詔によって禁止されるにいたる。律令では役身折酬(えきしんせっしゅう)(負債を返し得ない者が自由民の身柄のまま、労役に従事すること)は認められたが、自由民が債務によって身分におとされることは認めないという様に変わっていった。

このように隋書倭国伝の記述から、7世紀前半の倭国は、中国律の五刑をもう継受していたが、賠償制や債務奴隷の習俗は色濃く残っていたことが知られる。しかし大化以後、特に浄御原令時代になると、中国律の全面的施行によって禁止されるにいたった(ただし、これらの旧習は後に復活するという)。

《井上光貞氏の自叙伝を読んで》その2

2009-06-25 19:19:27 | 日記
《井上光貞氏の自叙伝を読んで》その2

さて『日本浄土教成立史の研究』を学位論文として、東大文学部に提出して、1957年にインドに旅立ち、1年間滞在した。その理由は、仏教の発祥地への憧憬のほかに、講和条約の発効(1952年)した以上、世界の空気を吸いたかったこと、および15年間追究してきた浄土教のテーマを完成した後の空虚感を埋めることであったという。
そして、ニューデリーの国際問題研究所(Indian School of International Studies)の極東科の講師として日本の文化・歴史を教えた。インド人は、明治維新や、日本の近代国家形成について興味を示したらしい。

1年間の滞在により、インドの文化・社会を内から体験でき、3つの収穫があった。次の3つは「自分史」の上に、血肉と化したものという。
① 新興独立国としてのインドのあふれる熱気を実感できたこと。
井上は、ムガール帝国の王城、レッド・フォートの前の広場で行なわれた第10回目の独立記念式典に招待された。白服に身をまとったネルーは、観衆の歓呼の声に迎えられ、民衆もインドの独立のよろこびにあふれていた。
井上が訪印する2年前の1955年、ネルーは国際平和運動のリーダーとして活躍し、周恩来、スカルノらとともに、アジア・アフリカ会議をバンドンで開き、パンチ・シーラ(平和5原則)を世界に訴えた。また井上がインド滞在中に、ヴェトナム民主共和国建国の父、ホー・チ・ミンがインドに迎えられた時、歓迎式典に参列する機会を得たという。インド国民は、ネルーを尊敬し、誇りにしていた。
そのネルーの人気の秘密は、どこにあるのかについて、井上は次のようにいう。ネルーは第一のカースト、ブラーミン中の最高のブラーミンの血統をうけ、ケンブリッジ大学のキングス・カレッジにも学んだ。それにもかかわらず、ガンディーの独立運動に身を投じ、通算10年も獄中ですごした。そのような境遇の人がアジア・アフリカの新興独立国の指導者と組んで、国際外交を推し進めている点が民衆の共感をよんだのだと分析している。井上は、実際にネルーの演説を傍聴するために、国民会議派の党大会と国会に出かけていった。その演説は、家族会議に臨む父親のようなおもむきがあったという。
そのネルーも、1964年に、会議派の右旋回や中印国境紛争にさいなまれて世を去る。
しかし、ネルーによる国際平和運動が盛り上がっていた時期にインドを訪れ、そのあふれる熱気を肌で感じたことは、歴史を学ぶ者にとって貴重な体験であったと井上は述べている。そしてネルーとゆかりの深い学校に奉職したことは、井上にとって、大きな幸福であった。

② 時間の観念の相違を実感できたこと。
インドの日常生活でも、「オンリー・ア・ミィニット」と言われても、10分~20分は手間取ることを覚悟する必要があるし、事務手続きで明日できると言ったのに、10日~20日もかかることが普通であるほど、時間にルーズである。インド社会で、日本式に計画を立てると、はぐらかされて、無駄にエネルギーを浪費する。井上は、こういう社会では、歴史記述はうまれにくく、インドには“歴史”がないといわれるのも納得がいくと述べている。
それでは、日本式の時間感覚が全く良いかというとそうとは限らない。反省すべき点のあることに井上は気づいた。日本人は物事すべてを短期で片付けないと気がすまないが、一方、インド人は時間幅を数倍かけて仕事を完成する。つまり速戦即決の日本式の時間では、お金にもならない学問の場合、スケールの大きな仕事は遂げにくいのではないかと反省もしている。インドでは雄大なガンジス川が悠々と流れるように、「百年の計」のように、大きな時の流れの中で、物事を考えるという長所もあることに気づかされたというのである。

③ インドで実地に諸宗教にふれられたこと。
井上にとっての第3の収穫は、宗教史に関心をよせる彼にとって、書物ではなく、実地に諸宗教にふれて、「インドは宗教の博物館」ということを実感できたことである。
インドの正統宗教は、ヒンドゥー教である。太古から民俗信仰で、多神教という性格上、山川草木、天体、動植物などすべてのものが信仰の対象となる。そして生殖器崇拝もインド各地でみられる。
9世紀を盛期とするエローラの石窟は、13が仏教、14がヒンドゥー教、5つがジャイナ教のケイブである。そしてヒンドゥー窟の本殿には、台の上に盤をおき、その上にリンガムが立つ。ヒンドゥーの聖地ベナーレスの黄金寺院の本堂の真ん中にも、リンガムが立っている。ヒンドゥー教の最高神の1つのシヴァ神は、「踊るシヴァ神」のような芸術品からは直接には思いもよらないが、もとはリンガムであったといわれる。このことは、リンガムの腹部からシヴァ神が顔をだしたものもあるので納得がいく。

ところで、前6~5世紀、東北インドではバラモンの宗教に対して、自由思想がおこったが、その代表的なものが仏教とジャイナ教である。訪印の目的の1つは、仏教遺跡をめぐることであった。釈尊成道の地のブッダガヤ、初転法輪の地のサルナート、アショーカ王時代のサンチ仏塔、玄奘が5年間修行したナーランダの僧院などを井上は訪れた。しかし、こうした仏教遺跡を残したものの、仏教は、日本で鎌倉仏教が起こった頃、すなわち12世紀にはインドでは衰亡した。

一方、ジャイナ教は仏教とちがい、今日でも盛んである。井上は、インド中部バンガロールを訪ねた時に、ジャイナ教の聖者に会って話を聞いている。その聖者は、わずかの本と衣服、ステッキをもち、無一物同然でわたり歩く一所不在の徒であった。その人柄と戒律厳守の厳しさ、とりわけ、虫さえも殺さないアヒンサ精神は、井上の胸をうった。ジャイナ教が口にガーゼのマスクをつけている理由は、人の吸う息で微生物を吸い込み、殺生戒をおかすおそれがあるからだと聞かされた。

また、パキスタンのタキシーラを訪れ、ジュンディアル寺院阯と称する拝火教(ゾロアスター教)の神殿遺跡を井上は見学している。そのタキシーラの都市遺跡の1つに、シルカップ遺跡があるが、これは東西交渉の焦点ともいえるものである。この遺跡の末期には、パルティア系王朝の支配があり、そのゴンドファレースの宮廷には、イエスの使徒、セント・トマスが訪れたといわれる。このようにキリスト教の波及は古いが、16世紀にもカトリック教の別の波があった。しかしインドのカトリック布教は、カースト制度の壁にぶつかり伸びなかった。

その他の宗教としてイスラム教の歴史がインドにはある。13世紀以後、王朝がイスラム教を信奉するが、特に16世紀からはムガール帝国の支配によって、その信者は全土に及んだ。インドの独立とともに、ヒンドゥー教のインドと、イスラム教のパキスタンに分かれたが、イスラム文化の遺跡はインド領内の各地に残っている。
ムガール帝国の王城レッド・フォート、シャージャハン帝が皇妃のために建てた霊廟のタージ・マハル、アクバル帝の栄光を伝えるファーテプル・シークリといったデリーとその付近のイスラム遺跡を井上は見学している。
また、パキスタンにも旅して、イスラム信仰を実際に目にふれている。20軒にも満たない農村でもりっぱなモスクがあり、偶像1つない礼拝堂の中で敬虔にぬかずき、祈りをささげる光景があざやかに脳裏に刻みつけられたと記している。

このように井上は「宗教の博物館」ともいえるインドで1年近くすごして、日本の宗教を外から見ることができるようになったことにより、日本の古代宗教史研究も大きく展開したという。
第1に、インドで諸宗教にふれているうちに、宗教の背後にある社会制度および古代民俗宗教に強く関心をもちはじめた。
第2に、インドの諸宗教の中で、“沙漠”の宗教であるイスラム教が最も印象深かったようで、この宗教との対比で、日本の民俗宗教の実態がイメージを結んでくるようになった。ヒンドゥーの多神教とイスラムの一神教を比較すると、多神教である日本の宗教はヒンドゥーの方に似ている。ヒンドゥー教は多神教なので、頼れる神が多く、自我を徹底的に否定する契機がなく、それゆえに個我が成立しないという点は、日本の宗教にもいえることに気づく。このことをインド体験で実感し、像としてむすべるようになったというのである。

さて井上の自伝に登場する当時の一流の学者たちとの交流は、興味深い。学問の深さと幅広さとともに、人格的にも尊敬しうる恩師坂本太郎と和辻哲郎については、先に記したので、ここではライシャワー等との交流について記しておこう。
ところで、1960年は安保闘争の年であったが、井上の出身の東大国史学科と深い関わりがあった。全学連が国会突入をはかって警官隊と衝突した際に、亡くなった樺美智子が国史学科の学生だった。この事件を井上は、歴史の大きな転換の中で踏みにじられた心いたましい事件であったとし、危機的状況において、自分の正しいと信ずる道に殉じた精神は、やはり尊敬に値し、国史学科の歴史の上でも1ページをかざったものと述べている。
さて、その翌年1961年、民主党のジョン・F・ケネディが大統領になると、安保闘争後の日本の反日感情を緩和するためもあって、エドウィン・ライシャワー教授を駐日大使に選んだ。彼はハーヴァード大学で日本史を担当していたので、その空席に井上が招かれた。
そもそもライシャワー教授の父は宣教師として日本に滞在し、明治学院で教鞭をとり、東京女子大学の創立に参加した。ライシャワー教授は1910年に東京で生まれ、少年時代まで日本ですごした。その後、ハーヴァード大学でマスターを得、1933年から6年間、燕京研究所から派遣されて、ヨーロッパと日本で、日本史学を学ぶ。第2次世界大戦から占領期にかけて国務省に属して対日関係にとりくんだ。その後ハーヴァード大学の教授となった。
アメリカにおける日本史研究は、1930年代に始まった。学問的出発点をなしたのは、ハーヴァードではロシア貴族出身のエリセーエフ、コロンビア大学ではイギリス外交官出身のジョージ・サンソム、エール大学では入来院文書研究で名高い朝河貫一であった。そして第2世代に属したのが、ハーヴァード大学長のヒュー・ボートン、ミシガン大学のジョン・ホールとともに、ライシャワーがいた。すでにライシャワーはアメリカ日本史学の大御所ともいうべき存在であった。ライシャワーは日本でおいたち、戦前日本の大学で国史学を学んだので、日本史の基礎的学殖は一般のアメリカ人日本史家の追随をゆるさぬところがあった。また対日政策にかかわっていたので、日本の各方面のリーダーとのつきあいも深く、現実の日本を熟知しており、たいていの日本人日本史家も及ぶところでなかった。

加えて、明るく誠実な人柄であった。アメリカの年輩の大学教授は、日曜になると、一家で教会を訪れ、午後はドライブを楽しむのが一般的であった。井上は、ライシャワー教授の車に同乗して紅葉の美しいニューイングランドの秋を満喫し、彼の一家の明るく温かい感触は終生忘れ得ぬものとなったという。
それから3年後の1961年に、彼は駐日大使としてアメリカを去ることになったので、彼の担当していたハーヴァード大学に奉職することになったのである。

このハーヴァード大学では、Visiting Professorとして、丸山眞男や宮崎市定が滞在していた。名著『日本政治思想史研究』で、井上は丸山を敬愛していたが、2人のつきあいはここで始まったと述懐している。



《井上光貞氏の自叙伝を読んで》その1

2009-06-25 19:16:50 | 日記
《井上光貞氏の自叙伝を読んで》その1

井上光貞(いのうえみつさだ、1917-1983)氏は、いわずと知れた日本古代史研究の碩学である(以下、敬称略)。
彼の偉大な業績は数多くある。例えば、井上光貞ほか編『日本思想体系3 律令』(岩波書店、1976年[1982年版])もその1つである。私は東アジアの律令制について関心があるので、井上光貞の研究には魅かれるものがある。


その偉大な業績がどのようにして生まれたのかについては、以前から興味があった。だからこの歴史学者の自伝『わたくしの古代史学』(文芸春秋、1982年[1983年版])を読んでみた。

井上の生い立ちは、その父は桂太郎の次男、母は井上馨の娘という華麗なる一族の出である。父は陸大を卒業した軍人であったが、井上家を継ぎ侯爵であったので、貴族院議員となった。
日本の古代史を専攻するに至った経緯・動機となったのは、旧制高校時代の18歳のときに、腎臓炎を患ったことが関係する。この大病のために、吉祥寺の成蹊高等学校の理科乙類から文科乙類に移った。二・二六事件が起こった1936年の翌年のことであった。

この大病のため高校在学は6年に及んだが、この時期に、広く浅くよく本を読んだという。最初は歴史書よりも、文学書、とくにトルストイやドストエフスキーといったロシア文学、そしてゲーテやヘルマン・ヘッセといったドイツ文学に親しんだ。史学に関心をもつきっかけは、成蹊の西洋史の藤原音松という先生の影響が大きかった。この先生をキャップに歴史同好会をつくり、その教え子の児玉幸多などの講演を聞いた。こうして史学への関心が深まり、日本史の本を読むようになったものの、近代史の本が当初は多かった。深い影響をうけたものの1つに『日本資本主義発達史講座』がある。また服部之総の『明治維新史』は歴史を総体として捉え、方法論をふまえて分析していく鮮やかさは、本来理系の井上に合い、社会矛盾に眼が開かれる思いがしたらしい。

そして藤原から、歴史を学ぶなら一度は読んでおくように、勧められた本が、津田左右吉の記紀批判の一連の研究書であった。例えば、『神代史の研究』(1924年)、『古事記及び日本書紀の研究』(1924年)、『日本上代史の研究』(1930年)、『上代日本の社会及び思想』(1933年)の4冊であった。井上は、津田の本に忘れることのできない感激を覚えた。
津田はこれらの研究により、古事記や日本書紀の神話や皇室の事蹟は、皇室の由来と王権としての正統性を根拠づけるために述作したものであることを実証した。日本神話の構成とモティーフの追究に井上は感服している。また三木清『歴史哲学』(1932年)も井上はノートをとって耽読し、大きな影響をうけた。

大病の体験は井上の性格を変えた。以前は、家庭に従順で“優等生”であったが、大病後は家にひきこもり、“煩悶”が深まり、挫折感からものごとに批判的になり、特権的な身分や階級に対する憎悪も増してきたらしい。

さて井上は、1940年4月、東京帝国大学文学部の国史学科に入学した。家族は、法学部か経済学部に進んでほしかったようだが、健康に自信がなく安易な道を選んだと述懐している。年代的に卒業生としては、1936年に井上清、1937年に家永三郎、石母田正、松本新八郎、1938年に遠山茂樹といった、戦後の日本史を代表する学者がいた。

スタッフとしては、古代史の坂本太郎、中世思想史の平泉澄がいた。平泉は、皇国史観の代表的な主唱者である。東大きっての秀才で、『中世における社寺と社会との関係』では、戦前の中世史研究のトップクラスの業績を残したにもかかわらず、海外留学してから、ファナティックに右翼化したという。井上が入学した1940年は、その皇国史観がひとり幅をきかせていた時期であった。平泉が若き日の学問的姿勢を堅持していたら、歴史学の色合いは異なっていたかもしれないと井上は残念がる。近代日本が国立大学国史学科に課した重荷は大きく、歴史を教学の柱とした時代であった。

井上が史学に求めていた課題は、現代の国家構造とか、天皇制の形成過程とか、日本における儒教や仏教の役割とかいった問題であった。しかし、講義や演習に参加して、実証主義的学風が東大の史学の基礎を作っていることに気づいた。古文書が読めないと日本史の研究はできないといわれ、真剣に演習をうけた。

井上の卒論は「仏教と社会」をテーマとしていたので、マックス・ウェーバーの『宗教社会学論集』などをかじったりもした。ウェーバーがマルクスの発展的段階説を、発展の「理念型」として捉えている点は、井上の膚にあったという。有効な認識手段としてみるならば、実証科学である歴史学にとって、マルクスの発展段階説も導きの1つであると考えた。

大学時代、日本史以外で傾倒した先生として、魏晋時代を専門とする東洋史の浜口重国先生がいた。一字一句ゆるがせにしない考証と、課題の中核に切り込んでいく気魄と切れ味に圧倒されたという。そもそも当時の東大史学の中で抜きん出ていたのは、東洋史だったらしく、中国古代史の西嶋定生、インド史の荒松雄などすぐれた学者が輩出した。

井上光貞の研究を基本的に決定したのは、恩師坂本太郎による大学院での講義であった。それは日本書紀および律令の成立をテーマとするものだった。官学アカデミズムの精神を一身にあつめた坂本から教えをうけたことは、井上の学問的研究生活のプロローグとして決定的であったと回顧している。

井上は坂本の講義と演習から2つの重要なことを学んだ。
その1つは、文献に対する厳正な姿勢。言い換えれば、史料によって研究するのではなく、史料を研究するということ。すなわち、ある史料の記事によって何かを論ずる前に、その史料記事が何をいおうとし、どのように成立したのかを知る必要があるということである。

もう1つは、坂本の史料解釈には深読みがないということ。
史料のある箇所や古代史学上の問題について、研究史を顧み、全体との関連を考慮して、“ディスタンス”を置いて解釈し、自説を展開する。これが坂本の学問の特長であり、一種の学風であるという。つまり坂本の考証(史実の確定)は、結論の手前の、確実なところでとどめ、あとは学界の後学の研究を待つといった風である。そこに、確かさと発展性があり、坂本の学問の魅力が見られると井上はいう。井上は、坂本のこの教えをうけたことに真の幸福を感じている。

井上は、思想史の指導教官を望んだ。日本中世思想史の平泉澄は、皇国史観でついていけないので、学科以外の倫理学の和辻哲郎を選んだ。あの『古寺巡礼』(1919年)とか『日本精神史研究』(1926年)、『風土』(1935年)といった数々の名著がある日本倫理思想史の大家である。井上は以前から和辻のファンであったと告白している。井上自身が記しているように、和辻の文章はみずみずしい感受性と、深くすんだ洞察力に富んでいる。その文章に広く深く魅了されたのである。

ただ和辻は、文章の絢爛さとは違って、寡黙の人であったらしい。二人で対座していると、なかなかしゃべって下さらないので、冷や汗がたびたび出たと記している。
戦後は和辻批判の風潮が、歴史学界や思想界にひろがったからであろう、心なしか淋しそうであったという。正月には年賀にうかがう関係であっただけに、井上は和辻の心境を敏感に感じとっていたにちがいない。1955年には和辻の『日本芸術史研究』が発行され、文化勲章を受章した。しかし、戦後の時流にあわず、孤影悄然のおもかげが深かったという。

その和辻は、奇しくも安保の年である1960年71歳でなくなっている。前年の1959年には、井上は学位論文「日本浄土教成立史の研究」を提出し、学位をうけたことを報告して恩返しができたと思っていた父井上三郎も73歳で他界している。連年、井上にとって心の支えであった人物を失っている。

ところで、先生からの教えとして次のことを述べている。坂本太郎からは歴史を学ぶ技術の手ほどきをうけた。一方、児島喜久雄(西洋美術史)と、和辻哲郎からは、歴史を見る眼を教わったという。3人の先生を想い起こすとき、ひたむきの頃の自分が甦り、わが襟を正す気になるというのである。

ところで井上は日本古代史についてどのような見解をもったのであろうか。
例えば、3世紀中葉の魏を相手にした邪馬台国は、北九州の国家連合と考えた。
4世紀後半に大和朝廷が九州を支配下におさめたが、それ以前の3世紀末から4世紀中葉までの間、邪馬台国が東遷して、畿内勢力の主人となったのか、あるいは畿内ヤマトが北九州を征圧したのかは保留している。ただ、日本の統一国家の誕生は、東アジアの国際情勢のダイナミズムの中で捉えることを力説している。
この3世紀中葉にはまだ統一国家はなく、邪馬台国連合も北九州の政治的統一体にすぎないとする。邪馬台国連合には、①部族同盟的な側面、②原始王国的側面との二面性があり、倭人伝には北九州の政治勢力が①より小さな部族同盟から、②より大きな原始国家へと移る推移の状態を記述しているという。

これに対して、上田正昭は、大和説をとり、畿内ヤマトを中心に九州から関東に及ぶ統一国家をえがく。つまり、邪馬台国の王権は、共同体のアジア的形態を基礎とする初期専制君主の権力と規定する。

また井上の課題は日本仏教の歴史を社会史的に追究することであった。例えば、平安時代に貴族が広く浄土教に帰依し、鎌倉時代に庶民に法を説く法然、親鸞の宗教がうみだされた社会的要因を考える際に、石母田正の『中世的世界の形成』は、デッサンの作成上大きな影響を与えたという。石母田は、在地領主=武士の成長によって中世的な世界がどのように形成されてゆくのかに関して、東大寺領の伊賀国黒田庄に焦点をあてて描き出したのであった。井上はこの名著を触媒として、「藤原時代の浄土教」等の論文に結晶化した。

律令時代の阿弥陀信仰の特長は、他者が極楽浄土に往生することをねがう追善的信仰であったことにある。律令時代には確かに立派な都城や律令法典が作られ、合理的な行政が運営されたが、貴族階級の間ではまだ部族的、呪術宗教の世界が残存していたと推測される。そしてその律令国家が変質し、平安京が都市化し、王朝国家が発達して、はじめて旧来の氏族的靭帯が解体し、個人の魂の救済という思想がうまれてくる。この見方は、先の石母田の名著が提示した仮説であるが、井上はこれを正しいものと信じている。
律令国家はいわゆる個別人身支配の国家ではなく、部族制的要素を残した国家であったとみる。自己がこの世を厭土と観じて極楽浄土にうまれることをねがう浄土教は、平安時代に入って叡山の常行三昧を母胎としておこってくるというのである。



《パリ一人旅》その3

2009-06-16 19:07:33 | 日記
《パリ一人旅》その3

さて、再び旅行記に戻ろう。モンマルトルの丘(la butte Montmartre=la Butte)とサクレ・クール寺院は良かった。寺院に着くまでは、ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883-1955)が描いた詩情ゆたかな「コタン小路 」(Passage de Cottin, 1911)のような風景があった。白壁の建物やアパルトマンを横目に見つつ、石畳の坂道と石段の多い小路を通り、辻公園を抜け、また階段を上って、やっと寺院に到達した。すると、海抜 130メートルしかないものの、そこから見えるパリのパノラマの素晴らしさには感動する。白亜の寺院と空の青さのコントラストの美しさに胸を打たれた。

「モンマルトルの丘 Complainte de la Butte 」をうたうコラ・ヴォケール(Cora Vaucaire)の歌声が妙に胸にしっくりと響くことを 帰国後CDを聴いていて実感した。この女性歌手は庶民の魂とポエジーを結びつけることのできる歌手であるといわれる。「桜んぼの実る頃 Le Temps des Cerises 」などを聴いてもそう思える。

「モンマルトルの丘」の歌詞の中に、「Les escaliers de la Butte sont durs aux miséreux ; Les ailes des moulins protègent les amoureux.(貧しい者には丘への石段は険しいが、愛する者には風車の羽は格好の隠れ場だ)

とある。もちろん私にとって、モンマルトルの丘は前者の方であった。この年齢になると、この石段はキツかった(歩数計を身につけておいたら、1日に27,000歩も歩いた日もあったのだから)。そんな修行にも似た苦労をして階段を上ったから、余計に、丘の頂上から見えるパノラマの美しさに感動したのかもしれない。
 
また、メトロの9号線のイエナ(IÉNA)駅を出た所にあるギメ美術館(Musée National des
Arts Asiatiques-Guimet)も勉強になった。ここには、東洋美術が展示されており、今回のパリ旅行の目的の一つであった。フランスはベトナム史研究が盛んな国なので、ベトナムの銅鼓など日本ではなかなか見ることのできない東洋の美術品が大切に保存されているのである。フランス人の美術品に対する執着と情熱には感心させられた。このギメ美術館や
ロダン美術館では、小学校の先生が子供達に丁寧に熱心に美術教育を行なっておられる姿には、感銘を受けた。芸術大国のフランスの真髄を垣間見たような気がした。小さい頃から本物を見て育つから、美術に対する見識と理解が培われるのだなと思う。羨ましい。

1週間も滞在すると、スーパーマーケットで一人で買物もできるようになり、随分と安く暮らせ、快適な生活を送ることができた。根っからお金とは縁のない人生なので、こういう生活の知恵は長けてきて、それがパリでも発揮できた。             

また、ルーヴル美術館内のカフェで、バゲットのサンドイッチ・ジャンボンを食べたり、街角のクレープ屋さんでクレープをテイクアウトしたり、それから、サン・ルイ島にある人気のアイス屋さんベルティヨン(Berthillon)のカシス(黒すぐり cassis)のアイスクリー ムを食べたりと、ミーハー的(?)な食事もしてみたりして、それなりに楽しかった。

帰国後は、フランスに関する本を読んだり、CDを聴いたり、映画・ビデオを見たりして、追体験した。本では、杉本淑彦『ナポレオン伝説とパリ』(山川出版社)が面白かった。専門的用語で言えば「記憶の歴史学」の立場から、凱旋門(Arc de Triomphe)のレリーフ、ヴァンドーム広場(Place Vendôme)などのナポレオン像の意味を解説してあり、単なる観光の域をこえて、歴史モニュメントを面白く解き明かしてある本である。

CDでは、『シャンソン~奇跡のシャンソン名曲集』(東芝EMI株式会社)を聴いた。ピアフ(Édith Piaf, 1915-1963)の「バラ色の人生(La Vie En Rose)」、「愛の讃歌(Hymne À L’Amour)」やトレネ(Charles Trénet, 1913-2001)の「ラ・メール(La Mer))といった、往年の名歌手のシャンソンがこの1枚でカバーされている珠玉のCDである。

また、レンタル・ビデオでは、『男と女 Un Homme et Une Femme』『レ・ミゼラブル Les Misérables』、『赤と黒 Le Rouge et Le Noir』、『王妃マルゴ La Reine Margot』、『マリー・アントワネットの首飾り The Affaire of the Necklace』などを借りて、フランスやその歴史について理解を深めようとした。西洋の歴史って、ドロドロとしているという印象をまぬかれないが・・・。

『ポン・ヌフの恋人 Les Amants du Pont-Neuf』というビデオを見ていたら、パリのフランス人の運転の乱暴さのシーンがあったが、あれはパリを旅行した人なら、実感できると思う。パリっ子というのは頑固でわがままで、自己主張の強い人々だということを、車の運転から知った。ほんとにスゴイ。今回のパリ旅行でも、パトカーや救急車も何度か目撃した。パリの街は車に注意して歩かないといけないという教訓も得た。

パリに1週間ほど留まり暮らしてみて言葉の壁があった。フランス語の会話は、やはり聞き取りが難しかった。こちらが言いたいことは、辞書をひいて文章を作り、それを口にすれば、相手に伝わる。しかし、早口で相手がまくしたてると、何を言ったのだろうと戸惑うことがあった。
今回、パリの名所を一通り訪れることができたが、まだ訪れてみたい地もある。だから次回は、フランス語を鍛えて、フランス人とコミュニケーションを図りながら、旅してみたいという願望がある。

ともあれ、わずか1週間であったが、天候にも人にも恵まれたパリ旅行ができ、今後の精神的な糧となるとともに、新たな課題ができた。この旅行の成果が、いつ、いかなる形で結実するか今のところ、わからないが、今後の指針・目標を与えてくれたことは確かである。その意味で、有意義な旅であった。

今回、日本人には、あまり会わなかった。最初のマイ・バス社の半日観光ではハネムーン風の若いカップルがほとんどであった。他には、ルーヴル美術館で会った姫路市の母と娘さん(帰国まで数時間しかないので、30分で見て回りたいと言っておられた)、オルセー美術館では父と娘さん、それとノートル・ダム寺院では、かなり年配の夫婦を見かけたくらいである。気品のある小柄な奥さんをいたわるように連れておられた夫の姿が印象的であった。時が遡れて、20代の時にパリを訪れていたら、私も随分と違った人生が歩めたであろう。それは叶わないが、いつか、またパリを訪れてみたい。
シャンソンにたとえれば、やはり「C'est Si Bon」の心境である!
  
パリに魅せられた男としては、次回以降のブログで、パリの街、歴史と文化、美術館等について、もう少し詳しく紹介してみたい。