歴史だより

東洋の歴史に関連したエッセイなどをまとめる

《新刊紹介 山本英史編『アジアの文人が見た民衆とその文化』その5》

2011-01-03 10:58:08 | 日記
《新刊紹介 山本英史編『アジアの文人が見た民衆とその文化』その5》

最後に文化・文明について、全体的な感想を記しておきたい。
文明は最も範囲の広い文化的まとまりであり、人を文化的に分類する最上位の範疇であるとハンチントン氏はいう。文明の輪郭を定めているのは、言語、歴史、宗教、生活習慣、社会制度のような共通した客観的な要素と、人びとの主観的な自己認識の両方であるとする(ハンチントン、1998年、55頁~56頁)。そして「最も危険な文化の衝突は、文明と文明の断層線にそって起こる」といみじくも指摘している(同上、31頁)。そして文明の衝突を抑えるためには、「あらゆる文明の住民は他の文明の住民と共通してもっている価値観や制度、生活習慣を模索し、それらを拡大しようとつとめる」努力が不可欠である(同上、492頁)。文明の衝突こそが、世界平和にとって最大の脅威であり、文明にもとづいた国際秩序こそが、世界戦争を防ぐ最も確実な安全装置であるという(同上、494頁)。
ハンチントン氏は民族紛争を異文明間の衝突としてとらえた。冷戦後の世界ではイデオロギーではなく、文明のアイデンティティによって、統合や分裂のパターンがつくられていると主張したと訳者鈴木主税氏はあとがきで解説している(同上、495頁)。
今回紹介した本書では儒教文明の影響を受けた中国、日本、ベトナム、そしてイスラーム文明の影響を受けたマグリブ、北アフリカが考察対象となっている。但し、ハンチントン氏は、儒教文明より中華文明と称する方が、より正確であるとする。中華文明には中国はもちろん、ベトナムや朝鮮、そして東南アジアの華僑の文化を含めている。また日本は別に日本文明を設定している(ハンチントン、1998年、59頁)。今回紹介した本書は、それぞれの文明の中で残された文献テクストに表現された民衆文化を丹念に抽出し、浮彫りにした点で、有意義な著作である。

最後になるが、今年2010年7月3日、フィールドワークで培われた文明の生態史観でその名が知られた梅棹忠夫氏が90歳で亡くなられた。梅棹氏は、京大理学部の動物学科を卒業し、今西錦司先生の弟子にあたる人類学者である。もともと歴史家ではなかったが、ユーラシア諸地方を探検し、実地調査を重ねるうちに、歴史を生態学的な観点から見ることを考えた。つまりユーラシア大陸を生態系をもとに文明圏の型を図示した。時系列に関係なく、ユーラシア諸文明を共時的・類型的に配列する文明史観を提唱した。日本の歴史家が通時性一点張りで、共時性に目を閉じていたのとは、対照的な文明論を梅棹氏は提示した。ユーラシア大陸を4つの文明圏(中国文明圏、インド文明圏、ロシア文明圏、イスラーム・地中海文明圏)に分類し、それらの文明圏の外側の西と東に、西欧と日本は位置するが、この二地域は同じような生態系の条件のもとに、文化と歴史を形成してきたという説である(神山、1995年、208頁~216頁)。ユーラシアの文明形成について、文明はそれが頻繁に通過しすぎる砂漠地帯では決して成熟しなかったが、その端に位置する日本とイギリスでは活着し、成熟していったと梅棹氏は、『文明の生態史観』において論じた(高谷、1993年、75頁~76頁)。
またトインビーが文明の発展の契機について「挑戦と応戦」(Challenge and Response)という理論を提起したことは良く知られている(トインビー1、1975年、114頁~144頁の第2篇第5章を主として、トインビー1、1975年、401頁、トインビー3、1975年、257頁~259頁など)。
文明間の攻撃と抵抗の対応は、一度限りの通時的なものではなく、各地に同時に起こる共時的なものである。例えば、7世紀の日本が、隋と唐の文明の挑戦を受けたとき、大和朝廷はこれを受けながらも日本の国情に合わせた律令制をつくり、仏教を入れて、東大寺・国分寺を中心にした政教一致のシステムで、中央集権の官僚制国家をつくった。一方、西洋では、5世紀末に滅亡した西ローマ帝国から文明の挑戦を受けたゲルマン民族は、ローマの法制を学び、キリスト教会と結び付いて国内を統一し、政教一致のフランク王国をつくった。この東西の歴史的事例は、通時的歴史観の盲点であり、大枠の形態の共時性を認めることができるという(神山、1995年、187頁~188頁)。このように、類型論を使って史実の解釈をシステム化できるという強みが文明史にはある。ベトナム史の場合も、土着の社会の上に中国式の律令制度がかぶさった点において、日本と共通性をもつ(石井、1991年、10頁)。そして8世紀の日本が中国の律令制を受容して国家形成を行ったように、古代の東南アジアはインド的国家編成原理を受容して古代国家を建設した点に着目して、「インド化」という視点から統一的に理解しようとしたセデス(G.Cœdès)は、『極東のインド化した諸国の古代史』(のちに『インドシナおよびインドネシアのインド化された諸国』に改題)という著作を公にした(石井、1991年、5頁~6頁、10頁)。この試みも文明史理解に大きな影響を与えた。但しその場合、「インド偏向」や「中国偏向」の大伝統重視の史観になりがちな点は注意を要する。そうした偏向を克服して歴史の実像にせまる「自律的な」東南アジア史を叙述することが求められる(石井、1991年、9頁~13頁。大木、1991年、146頁)。
ところで、文明論の日本での先駆者であり、慶応義塾大学の創始者である福沢諭吉の主著に『文明論之概略』がある。福沢は、その緒言において、「文明論とは、人の精神発達の議論なり」と述べている(岩波文庫、1995年、9頁。なおこの点、神山、1995年、159頁、164頁も参照のこと)。そして「その趣意は、一人の精神発達を論ずるにあらず、天下衆人の精神発達を一体に集めて、その一体の発達を論ずるものなり。故に文明論、あるいはこれを衆心発達論というも可なり。」と続けている。ただ、福沢が『文明論之概略』において文明史をテーマとした理由は、日本における国民国家の形成という課題を考える枠組みとして、それと不可分であったからである(松沢弘陽氏の解説、岩波文庫、1995年、380頁参照)。
一方、21世紀に生きる我々は、国際化・グローバリズム時代の中で、世界の平和と国際的協調を構築していくという目的のために、求められているといえよう。こうした世界史を視野に入れた大局的・総括的研究を模索し、より文明論・文化論の内容を豊かにするためにも、今回紹介した本書のように世界の各地域に根ざした民間文化をテクストに即して探究する姿勢が求められよう。
歴史家トレヴァー・ローパー氏の言葉に、「探求というものは古い水路にたえず新鮮なものを注ぎ込む新しい運河を掘ること」というのがある(神山、1995年、206頁)。共生のうちに人類の生き方を考える上でも、文明論という大きな枠組みで歴史を捉えることが求められよう。地域に根ざした文化論と、世界史的視野に立った文明論との統合をいかに構想し、地域個別史・部分史を世界史・全体史へ融合していくかは、その理論と方法においても今後に残された大きな課題であろう(神山、1995年、4頁。外村、1991年、1頁~6頁。大木、1991年、165頁~166頁も参照のこと)。個々の歴史家による専門化した個々の歴史研究が、より拾い視野から位置づけられ、新たな意味を与えられることを期したい。
福沢は、『文明論之概略』の緒言において、いみじくも後世の学者のために、次のように述べている。
「特に願くば後の学者、大に学ぶことありて、飽くまで西洋の諸書を読み、飽くまで日本の事情を詳にして、益所見を博くし益議論を密にして、真に文明の全大論と称すべきものを著述し、以て日本全国の面を一新せんことを企望するなり。」(岩波文庫、1995年、13頁)と記す。「真に文明の全大論」とは、今風に言えば、人類史・普遍史を見据えた文明史と称せよう。こうした歴史叙述を福沢は後世の学者に託したものといえよう。

《参考文献》
八尾隆生『黎初ヴェトナムの政治と社会』広島大学出版会、2009年
佐々木宏幹『シャーマニズム エクスタシーと憑霊の文化』中公新書、1980年[1993年版]
福井憲彦『「新しい歴史学」とは何か』日本エディタースクール出版部、1987年
井上幸治編『世界各国史2 フランス史』山川出版社、1968年[1995年版]
トインビー(長谷川松治訳)『歴史の研究 1 2 3』社会思想社、1975年[1994年版]
サミュエル・ハンチントン(鈴木主税訳)『文明の衝突』集英社、1998年
梅棹忠夫『文明の生態史観』中公文庫、1957年
高谷好一『新世界秩序を求めて 21世紀への生態史観』中公新書、1993年
高谷好一『多文明世界の構図』中公新書、1997年
石井米雄「総説 東南アジアの史的認識の歩み」(石井米雄編『講座東南アジア学 第4集 東南アジアの歴史』弘文堂、1991年所収)
大木昌「東南アジア 一つの世界」(石井米雄編『講座東南アジア学 第4集 東南アジアの歴史』弘文堂、1991年所収)
神山四郎『比較文明と歴史哲学』刀水書房、1995年
山本新編『トインビーの歴史観』第三文明社、1976年
外村直彦『多元文明史観』勁草書房、1991年
福沢諭吉『文明論之概略』岩波文庫、1995年



《新刊紹介 山本英史編『アジアの文人が見た民衆とその文化』その4》

2011-01-03 10:52:59 | 日記
《新刊紹介 山本英史編『アジアの文人が見た民衆とその文化』その4》
9.野元晋 「あるイスマーイール・シーア派思想家が見たキリスト教とキリスト教徒:ラーズィー(322/933-4歿)の『預言の表徴』から第4章第5節の解題と翻訳」
ラーズィーは、イスマーイール・シーア派の10世紀の思想家である。彼は、西北イラン地域の都市ライを中心とする宣教活動の指導者となり、著作活動も盛んに行った。その1つに『預言の表徴』がある。本稿は、イスマーイール派思想における知識人と民衆との関係を考察するための基礎作業として、この著作のうちでキリスト教の教義を扱った箇所を翻訳し、解題したものである。というのは、イスラームに先行する一神教であるキリスト教について、その教義の要素がイスラームの公式的教義と民間の信仰へ入っていったことが指摘されているので、その検証のための作業である。
ところで、アブー・バクル・ムハンマド・イブン・ザカリーヤー・ラーズィー(ラテン名ラーゼス、以下混同を避けるためにラーゼスと称する)が反預言・反啓示宗教論および懐疑思想を展開したのに対して、ラーズィーは『預言の表徴』においてラーゼスを反駁した。つまり、ラーズィーは、啓示的一神教徒、ことにムスリムを代表する立場で論陣を張り、イスラームを含む啓示的一神教を擁護し、預言が哲学に対しても知識の源泉としての妥当性を持つと主張した。あわせてイスラームとキリスト教との関係をも明らかにしている(235頁~236頁)。
『預言の表徴』第4章第5節は、ラーゼスの反預言論への反論の一部である。つまり哲学は、諸一神教に対して、理性によるため真理に近づく手段として優れているという主張への反論の一部である。その反批判の根幹をなす教説は次の2点である。すなわち、
①諸一神教の内的意味は同一である。
②真理を得るには啓示を受けた「教師」が必要である。なお、この主張は、最後の預言者であるムハマンドの後も人類の導き手が必要であるとするシーア派のイマーム論に結びつく。
①に基づき、ラーズィーは反批判を行う。ラーゼスのイエスに関する2点の諸宗教の矛盾点を指摘する。
ⓐイエスが神の子であるとするキリスト教の教義とそれに対するイスラームとユダヤ教側からの批判
ⓑユダヤ教徒とキリスト教徒のイエスの十字架上での刑死の主張にクルアーンは否定的にとらえられている。イスラームにおけるイエスの磔刑死の否定については、クルアーン第4章第157節とその解釈を基礎としている(244頁注8)。
この点に関して、ラーズィーによれば、イエスが神の子であると福音書にあるのは、文字通りでなく比喩として解釈すべきであるという。またイエスの磔刑死について、福音書中のイエスの言葉を引用して、刑死で肉体は滅びるが、魂は滅びないことを示唆したものであるとする。福音書では、殉教者は死んでおらず、神のもとに引き上げられたとし、クルアーンと意味が合うものと解釈する。このようにイエスの十字架上の磔刑について、福音書とクルアーンの記述は矛盾せず、その歴史性を肯定している(238頁)。
イスラームとキリスト教の関係について、思想史上、ラーズィーの論考は、2つの注目すべき点があると野元氏は指摘している。
①新約聖書の内容を論難することなしに、両宗教の聖典間の意味は一致するものとして扱った。つまりイスラームでは、ユダヤ教とキリスト教の聖書は、アッラーから啓示されたオリジナルの聖典を「改竄」したものと解釈されるのに対して、ラーズィーは福音書の内容に肯定的態度をとった点で独自的であった。ラーズィーは非論争的・融和的方法によって、キリスト教と共有できる教義的基礎を固めようとしたと野元氏は推測している。
②イエスの十字架上の磔刑死の問題について、10世紀前半にはクルアーン注釈では、その歴史性を否定することが主流となっていたのに対して、ラーズィーはあえて肯定する立場にたっていた。10世紀のイスマーイール派で、イエスの十字架上の磔刑死という教義に対する思想的な融和的態度はラーズィーをもって嚆矢とする(239頁~240頁)。
ただ、第4章第5節「基本信条については預言者たちの間に相違はない」において、ラーズィーは福音書でマスィーフ(「メシア」のアラビア語訳で、イエスのことをさす[260頁注2])は神の子であるといっているのは、キリスト教徒が迷いの道に入ったからであると記している。クルアーンとキリスト教の福音書とでは、神がマスィーフ(イエス)を天に召されたとする。双方は矛盾しないとし、ラーゼスのような異端者の主張は誤りであると反批判している。例えば、該当箇所については、次のように翻訳している。すなわち、
「かくしてクルアーンは福音書と、神が彼を召されて、お側へ引き上げられたこと、彼は神の御許で生きているということについて一致しているのである。この意味はクルアーンと福音書双方で真実なのであり、クルアーンは福音書とこの点でくい違うという異端者の主張は無効となる。」(260頁)とある。
10世紀のムスリム知識人には、ギリシア文化の伝統と、イスラームの一神教伝統との同一起源性を主張し、綜合しようとする試みをなす者がいたが、その試みの一つの好例が『預言の表徴』であった。ただ今回訳出したイスマーイール派のキリスト教論は、キリスト教のイエスの十字架上での磔刑死という教義に肯定的立場をとり、イスラームの主流派からは否定され、批判された内容である。その意味でも、ラーズィーの主張は、イスラーム内では例外的で、独自な立場を表している点は注意を要する(236頁~237頁)。
この『預言の表徴』に、キリスト教徒への宣教のメッセージがあったかどうかについては今後の課題である。またラーズィーがギリシアの諸学と思想をどのように位置づけ、評価したかに関しても将来考察してみたいという(240頁、244頁注7)。
以上が、本書の内容要約である。

それでは次に私なりのコメントと感想を述べてみたい。
この論文集は、慶応義塾大学言語文化研究所公募研究「アジアにおける知識人の著述と民間文化」の成果である。同研究所は、既に西洋精神史をテーマにして、4冊の単行本を刊行しているが、今回の本著は、アジア・北アフリカの歴史・思想・文学を研究対象としたものである。その地域の知識人の著したテクストと、その時代の民間文化の関係について検討している(あとがき、264頁)。
最初に断っておくが、本書は民衆文化そのものを研究したものではない。だから本書から民衆文化の内容と実態を知ろうとする読者には期待はずれになるかもしれない。本書で採られた学問的方法論は、繰り返しになるが、文人(ある意味では知識人・エリート)が残した文献テクストを通して、民衆観と民間文化を探ったものである。このことは本書のタイトルである『アジアの文人が見た民衆とその文化』に端的に表現されているし、要約でも叙述したように、山本英史氏が本書の序において、「中国のみならず日本、ベトナム、インド洋、西アジア、北アフリカ等の様々な地域において、それぞれの知識人である文人たちが書き遺した著述を取り上げ、それらの検討を通して各地域における民衆やその文化をいかなるものとして描いてきたか、さらにはどのようなものとして評価してきたかを分析し、その比較研究によって「文人」と総称される者たちの民衆観ないし民衆文化観を明らかにしようとするものである」と明記している(本書、iii~iv頁)。
ところで、民間文化・民衆文化そのものを歴史的に研究するには、各地域の史料的限界がつきまとう。その上、本書において取り上げられた文人の書き遺した著述の性格についても、必ずしも一様ではないように思われる。というのは、対象とする時代と地域により史料の残存状況が異なるからである。つまり、日本の17世紀~18世紀、中国の古代春秋・戦国期(紀元前8世紀~紀元前3世紀)、中国の清代康熙期の17世紀後半、ベトナムの17世紀~18世紀、北アフリカの13世紀、西アジアの10世紀、16世紀~17世紀というように、時代と地域が全く異なる。
そして著述文献の性格そのものも、かなり異なる。例えば、山本英史氏が利用した公牘『守禾日記』のように知府という地方官僚が記したテクストがある。そして嶋尾氏が主として利用した科挙官僚が残した家礼がある。これらの研究は、いわば政治的支配階級に属する文人が残した政治色の濃厚なテクストを史料として用いている。その一方で、石川氏が取り上げたように、江戸時代の民衆に近い存在である仮名草子作家浅井了意の残したテクストもある。政治とはかけ離れた存在であるインド洋を縦横に往還したアラブの船乗りスライマーンが残した航海技術書を栗山氏は取り上げている。浅井了意にしてもスライマーンにしても、政治支配とは無縁な人物で、その著述内容にしても政治色はほとんどない。このように、著述を残した文人の政治的・社会的地位も、その上下関係に幅がある。すなわち、文人が属した政治的・社会的位置が異なり、その文人が残したテクストの内容および性格は、対象とする時代と地域では相違している。
このように、本書は、知識人の著作に表れた民間文化を浮き彫りにしようとしているが、端的にいえば、知識人の眼というフィルターを通して、民間文化を捉えようとしたものである。このことは、先の序をみても明らかである。ただ、この方法論に問題がないわけではない。というのは、民間文化への歴史学的アプローチにかかわる問題がここに存在する。
資料・史料が現実に対して間接的、部分的であるのはやむをえないとしても、知識人という上からの抑圧者側、規範化し沈黙させる側の資料・史料を媒介とせざるをえないハンディキャップは、批判作業を必要とする。民衆の生活世界のありようとしての「民衆文化」「民間文化」の研究は、「民間文化」という対象と距離をおいた人びとの価値と先入見や強迫観念までも考察対象にする必要がある。この批判作業には、研究者自身のアプリオリを、自己対象化するという認識態度ももとめられる(福井、1987年、33頁~34頁)。
民衆文化を研究する際に、アジア史に限らず、西洋史においても同様の問題が存在し、福井氏は次のような意味のことを述べている。すなわち、歴史学における「民衆文化」ないし「民間文化」の捉え方、認識の問題があるというのである。伝統史学は、一般に、短期的な時間の枠組みで、表層的事件史としての政治史を中心に捉えてきた。つまり政治領域を、狭義の政界の動向や事件に狭隘化してしまった。政治と文化との関わりについては、政治支配が民衆の日常性を文化的に統御していくことによって実現されるメカニズムを明らかにしてきた。支配文化への統合や文化変容としてのベクトルで捉えてきた。「民衆文化」ないし「民間文化」についても、単に「エリート文化」に対して、二項対立的に対置された文化として捉えるだけでよいのかという問題がここに存在する。
歴史学は日常性を問題とし、支配的な文化とは異なる、民衆レベルでの文化を捉え直そうと、一定の進歩を遂げた。民衆の日常的現実としての生活世界を歴史的に問いかけ、現在的な意味をもたせた。その際に、歴史学は民族学ないし人類学、民俗学に接近し、学際的交流へと発展してきた。フランス史学では、心性(マンタリテ)に注目して、こうした民衆文化を理解する方向性があったという(福井、1987年、26頁~28頁)。
一方、アジアの「民衆文化」ないし「民間文化」についてはどうか。それに一定の成果をあげたのが本書であると思う。
先述したようにテクストを執筆した知識人の属する階級・階層という観点から見れば、史料面での問題点が存在しないわけではない。しかし比較史研究という視点から見れば、日本・中国・ベトナムにおいて、奇しくも17世紀ないし18世紀という同じ時代枠の中の支配階級に属する文人が民衆や民間文化をどのように捉えていたかがうまく浮き彫りにされている点は、大いに評価できよう。具体的に言えば、伊藤仁斎(1627-1705)、貝原益軒(1630-1714)であり(17頁~18頁)、公牘『守禾日紀』の著者である盧崇興も1675年から1678年まで浙江省嘉興府の知府を務めていたし(69頁)、胡士揚の生没年が1622年と1681年である(106頁)。だから図らずも中国と日本とベトナムの17世紀(ないし18世紀初頭)に活躍した政治家・思想家を取り上げていることになる。東アジアの政治と思想についての比較研究の素材となる人物を提示している点でも、本書は有意義な書であるといえよう。すなわち、本書は民間文化という視座から考察されたが、同時代をめぐる政治と思想へ切り込む際の素材を提供している点でも意義深い研究である。近世社会を探究する上で興味深い。近世儒者における知の位相について山本正身論文と嶋尾稔論文は、東アジアの儒学思想と習俗との関係を追究しており興味深い。ベトナムでは、朱子学の思惟様式を否定した仁斎のような思想家は何故現れなかったのか。両国の政治的社会的相違によるのか、今後の課題となる。

ちなみに西洋のフランスでは、「太陽王」ルイ14世(1638-1715、在位1643-1715)が君臨しており、ブルボン王朝の絶対王政の時代でもあり、こちらは民間文化ではなく宮廷文化が華やかな時代でもあった。ルイ14世が生きた時代は貝原益軒とほぼ同じであり、世界史的な規模で17世紀という時代と文化を考え直すきっかけともなりうる。ルイ14世の時代、とりわけ1660年から80年にいたるほぼ20年間は、古典主義文学の最盛期であった。モリエールやラシーヌの代表作や、ラ=フォンテーヌの『寓話詩』やセヴィニエ夫人の『書簡』が書かれたのもこの時代であった(井上編、1968年[1995年版]、226頁~228頁)。
パリ盆地の文化史的層序については次のように言われている。パリ盆地は、4世紀以降、ケルト文化・ラテン系文化・ゲルマン文化の混交的状態にあり、その中にフランス王家が、イタリア・ルネサンスのきらびやかな都市文化を導入した。それを最も華麗な形に太陽王ルイ14世が仕上げ、宮廷文化の理想型を作り上げた。パリはこの宮廷文化を通じてヨーロッパの中心となったというのである(高谷、1997年、154頁~155頁)。
また、フランスの民衆文化とエリート文化を研究した歴史学者は、15世紀に「民衆文化」の頂点を迎え、16世紀半ばから18世紀に至り、教会と国王に代表される聖俗双方の権力によって破壊され、従属化させられてゆく過程として捉えたという(福井、1987年、27頁参照)。民衆文化の起源探究という問題の立て方に関しては、批判がないわけではないが、西洋史にみられるようなダイナミックな視点で、東洋の民衆文化・民間文化を捉える試みはまだ現れていない。今後に期待したい。

ここで私の研究対象と同じ嶋尾論文に限って、若干の感想を付記しておきたい。
すべての歴史記述は仮説であるといわれる。たとえ資料が豊富に存在しても、人間の活動総体からみれば、断片的な情報にすぎない。その際に、歴史家がどのような視角・視点から何を記述するかに関する方法論が重要となるが、これは歴史家の構想力とか分析枠組の問題である。また歴史について短期的視点をとるか、もしくは長期的視点をとるかによって、叙述対象の領域も相違することが多い。例えば、特定の政治事件を扱う政治史は多くの場合、前者であり、住民の社会生活の変化を扱う社会史は後者である(大木、1991年、145頁~146頁)。今回本書のテーマである「民衆文化」を研究対象とする場合も、社会史と同様に、長期的視点が採用される。この点、嶋尾論文も例外ではない。
また、東南アジア史においても、「アナール学派」的社会史の研究が、リード(Anthony Reid)氏によって進められ、『交易の時代における東南アジア 1450年―1680年』という著作に結実した。リード氏の基本的姿勢は、支配者よりは一般大衆に焦点をあて、歴史の背後に押しやられてしまう生活のさまざまな諸領域である生活様式(life-styles)を記述することである。リード氏の方法も、「アナール学派」の問題意識や方法に強く影響され、短期の政治的「事件史」よりは一般住民の生活史をできる限り多方面から長期的展望のもとで明らかにしようとする方法である。だからその問題意識は、ブローデルの『物質文明、経済、資本主義』のうちの「物質文明」の部分と重なるところがあるといわれている(大木、1991年、152頁~155頁)。
さて、今回の嶋尾氏の論稿は、「ベトナムの霊魂観と葬礼における招魂」(第2回研究会、2006年7月19日)および「現代北部ベトナムの葬礼[ビデオ紹介]」(第5回研究会、2007年10月26日)の発表に基づいて執筆された(あとがき、264頁~265頁)。
嶋尾氏は、家礼の問題を科挙官僚が残した著述から論述しているが、それだけではない。取り上げる史料・テクストに工夫をこらし、民衆に近い存在で、当時の宗教観念および習俗にも関心をもっていた外国商人・宣教師の残した記録から、17世紀ベトナム人の死生観などの心性(マンタリテ)の領域にまで考察対象を押し広げている。ベトナム前近代史研究において、こうした民衆の心性というテーマに取り組んだ研究者は皆無に等しかった。単なる儀礼規定の検討にとどまるのではなく、「3つのホン(魂)と7つ(9つ)のヴィア(生気)」というベトナム独自の霊魂観が当時持たれており、それが家礼に反映されたのではないかと推察している(嶋尾、2010年、126頁)。
また嶋尾氏が主な研究対象とする時代は17世紀~18世紀ではあるが、その前後の時代を含めると、15世紀から20世紀まで言及して、家礼の問題を考察している。このように長期的な時間枠を採用し、包括的なアプローチを試みている点も、今後の研究に与える影響力も強いであろう。
ところで、西洋のフランス史においては、こうした心性の歴史研究が発展した。このことは福井氏の著作に詳しい。簡潔に述べると、こうである。フランスはキリスト教、とりわけカトリックが支配的な社会であり、フランス史を考える際に、キリスト教の問題をぬきにすることはありえない。ただ従来のように、聖書解釈や神学者の教義や、組織としての教会を問題とするにとどまらず、民衆にとって生きられていたキリスト教とは何だったのかが問われるようになってきた。すなわち、宗教的感性の問題として問われている。つまり、民衆の日常性にとっての「聖なる領域」とは、どのように構成され、また構想されていたのかが焦点となっているという(福井、1987年、52頁~88頁、とくに84頁)。
さらに言えば、人間は死を認識し対象化した唯一の存在である。死に対する人間の行為と言説は古いにもかかわらず、歴史家が死を歴史の中に問うことは従来少なかった。人と社会は死をまぬかれえないので、ある文化なり文明なりは、死についての表出(しぐさ、言説)の中に凝集的に現われる。死のテーマがもちうる凝集性は、「新しい歴史学」の核心に位置するテーマのひとつとして存在する。
フランスの「新しい歴史学」の中で「死」を研究対象とした際に、視点ないしアプローチの点から、3つのレヴェルで、考察が可能であると福井氏はいう。すなわち、
①現実態としての死、つまり歴史人口学の次元
②人びとが死をいかに生きたか、つまり現実の死を前にしての人びとの態度と行為、そこに示される共通的な心性、意識あるいは無意識という次元
③死について明確に表現された言説という次元
である(福井、1987年、52頁~54頁、77頁)。
嶋尾氏が検討された家礼の中に見える葬礼や、17世紀~18世紀のベトナム人の死生観の問題は、この整理に従えば、③を中心にして、②まで論及したテーマであろう。また当該期のベトナム史研究で、①の研究は寡聞にして知らない。
ただ、17世紀ないし18世紀のベトナムの人々の死生観、心性(マンタリテ)を探るには、史料的限界があることも否めない。フランス史の場合、膨大な遺書が残っていたので、信仰告白、葬儀、遺贈の内容を分析することにより、宗教的、精神的表象や感性の痕跡を読み取り、トレースすることが可能であったという(福井、1987年、56頁~57頁)。
一方、その種の史料がベトナム前近代史において発掘できるかどうか、未知数のところがある。ベトナム前近代史においても、遺書に類する史料が皆無というわけではない。遺書に相当するものは、「嘱書」と呼ばれる文書である。つまり「嘱書」とは、死者が生前自己の死後のことに関して意志表示の汎称である遺言を文書形式にして残したものをさす。八尾氏は、15世紀を主とする嘱書を利用して、功臣に賜与された土地の所有状況を分析し、黎朝前期の政治史・社会経済史研究に、多大な貢献を果たした(八尾、2009年、281頁~286頁、316頁~372頁)。
ただ現存する嘱書には、財産、主に不動産に関する記述は詳しいが、当事者の死生観などはなかなか浮かび上がってこないのが現状である。そして史料の発掘状況についても、その八尾氏をして、「(黎朝前期の)ヴェトナム北部村落社会の実情を生き生きと感じさせてくれる史料に著者は巡り会えていない」と嘆かしめる状況である(八尾、2009頁、415頁)。
また嶋尾氏の論稿では、「3つのホンと7つ(9つ)のヴィア」というベトナム独自の霊魂観について言及されていた。ベトナムのキン族の霊魂観と、少数民族のそれとはどのように歴史的に関連づけられるのであろうかという疑問も浮かんでくる。例えば、北ベトナムの紅河から黒河流域やラオス北部に分布する黒タイ族、西南中国から北部タイにかけて分布するミャオ族(メオ族)の霊魂観や世界観については、文化人類学の分野において、比較的明らかになっている(佐々木、1980年[1993年版]、90頁~94頁)。こうした少数民族の霊魂観が、キン族のそれの基層文化になり、その祖型となっているのであろうか。
今後、史料・資料の発掘とともに、どのような視点とアプローチ方法により、宗教思想史にかかわる問題を探究していくかは、研究者に課された課題であろう。

《新刊紹介 山本英史編『アジアの文人が見た民衆とその文化』その3》

2011-01-03 10:48:58 | 日記
《新刊紹介 山本英史編『アジアの文人が見た民衆とその文化』その3》
一方、民間に流布していた『寿梅家礼』は、墓の位置が悪いために子孫が不幸になっている場合は、改葬すべきであるという考え方で、この家礼は阮朝期を通じて出版され続けた。このことから、阮朝側の見解は民間では等閑視されたと推測している(123頁~124頁)。
次に臨終前後の作法である「招呼」と「魂帛」に関して、そのベトナムの独自的規定を検討している。「魂帛」とは、白絹を用いてつくった「神」のよりしろのことであるが、その用法が中国のそれとは異なっている。本来の中国の家礼では棺を準備し、死体の身繕いを終えてから、それを設けることになっているのに対して、『胡尚書家礼』『寿梅家礼』といったベトナムの家礼では息が絶える前に設けるとされた。ここに生命観・霊魂観の違いが反映されているとみる。当時のベトナム人は、白い絹を人の「娘竜 nuong long」(胸部、腹)」の上に置く。彼らは人の息が絶えるときに、人の気が腹部から抜け出すという観念をもっていたものとみる。そうした観念を前提とした儀礼が民間文化の中に根づいていたから、ベトナムの家礼に独自の規定が残ったものと推察している。
『胡尚書家礼』の作者は、「招呼」の位置づけに困っているが、絶命したときに気を受け止めることにもなりうるという。つまり絶命前に絹を用意できず、抜け出す気を受け止められなかった時に、「招呼」で気を呼び戻し、生き返る場合もあったことを記している。
一方、『寿梅家礼』は「招呼」と「魂帛」についての記述はあるが、両者の関係を説明していない。ただ『寿梅家礼』の現代ベトナム語訳者は、20世紀の「招呼」の実践事例を勘案して、テクストを改変して訳している。身体に魂魄を呼び戻すために招魂を行う際に、「3つのホン(魂)」と7つ(女性の場合は9つ)のヴィア」を呼びかけの対象としている点はベトナム独自の霊魂観を反映しているとみる(126頁)。この「3つのホンと7つ(9つ)のヴィア」という観念の起源は、少なくとも17世紀に遡れることを外国人の記録から実証している。例えば、17世紀のサミュエル・バロンは、男性が死んだ時には最良の上着を7枚、女性の場合は9枚着せると記している。また1651年に刊行されたアレクサンドル・ド・ロードの辞書には、「男子に3つのホンと7つのヴィア、女性は3つのホンと9つのヴィアがある」という例文を紹介し、ホンとは「魂 anima」を指し、ヴィアとは「生きている気の流れ(spiritus vitals, vel animales)、息(respiratio)」の意味とする。
このように17世紀のベトナム人は、人の生死に関して、3種の根源的要素が存在すると考えていたと嶋尾氏はみている。すなわち、①肉体と離れても存在し続けるホン(魂)、②肉体の死とともに消えてしまうヴィア(生気)、③陰宅風水の実践に見られるような墓の中の骨に残る何かの3つである。
中国の家礼では「神」のよりしろとして「魂帛」が用いられたのに対して、ベトナムの家礼の作者は、それを抜け出そうとするヴィア(生気)を受け止めるものと考えた。ただこの家礼の改変が、民間の霊魂観の反映なのか、家礼編纂者の創意なのかは不明だとしている。
ともあれ、20世紀初頭のベトナムの民間では、家礼に規定された「招呼」と、17世紀には遡りうる霊魂観を結びつけて、新たな招魂儀礼が行われていた(128頁)。
ベトナムでは中国の家礼に記された「招呼」、「魂帛」に触発され、17世紀の知識人や民間一般人が創意をこらし、独自の家礼を作った。また中国の家礼とベトナムの『寿梅家礼』では、死後に口に米や銭などを含ませる飯含という儀礼規定にも相違が見られ、17世紀のサミュエル・バロンによると、実際に上流階級と貧しい人々の間では、その飯含の実践内容をも異なっていたという(141頁注xxxi.)。
ベトナムの家礼である『捷径家礼』や『寿梅家礼』は、五服の配列の仕方を彭濱『家礼正衡』に倣った。ただし漢字のみでなく、字喃表記もなされている点に形式面の特徴が認められる。さらに内容面でも、ベトナム固有の社会関係を踏まえた独自の規定が見られる。例えば、母親の服喪規定である。彭濱の家礼とベトナムの先の2つの家礼には、父親の服喪は斬衰3年、母親のそれは斉衰3年といずれも規定しているが、父親が先に死亡し、後で母親が死亡した場合は、ベトナムの家礼では母親の服喪も斬衰にするという補足規定が見られる。
前近代のベトナム人女性、とりわけ妻で子持ちの母の地位は財産相続や管理において高かったことが従来指摘されている。この点を考慮に入れると、服喪においても、母の地位を一段格上げがなされたのではないかと推察している(128頁~129頁)。
また妻の父母に対する服喪に関しても、独自性が認められる。中国では、緦麻(3月)という最も軽い喪であるが、『寿梅家礼』では期年すなわち斉衰1年と規定し、上位の喪に引き上げている。ベトナムの女子とその実家の父母の関係は中国の場合より尊重されていたものと推測している。また夫も妻と同様に、妻の父母に対して斉衰1年の喪に服するよう規定している。
このようにベトナムの家礼の編纂者は、中国の家礼を踏まえて独自に改変し、ベトナム社会への儒礼の普及に寄与した。しかしベトナムの知識人の中には厳格な儒者も存在し、一枚岩ではなく、改変に不満を覚える者も存在した。次にこの家礼を改変した『寿梅家礼』に対する批判について検討している。范廷琥(1766-1832)の著した『雨中随筆』の異本には、その改変・批判が見られる(ただし通行本には見られず、その異本の記す内容が本当に范廷琥自身が記したものかは再検討の余地があるという)。
例えば、『寿梅家礼』は家礼とは関係のない年中行事や祭礼をも浅薄に寄せ集めて、よろず儀礼マニュアルのような本であると批判されている。そして『文公家礼存真』の作者杜輝琬もそこに記された祝文・対句が下品であり、儒教と仏教をまぜこぜにして礼を失していると批判している(130頁~131頁)。
このように18世紀後半から19世紀にかけて、ベトナムの家礼をめぐる状況について、地方の知識人の間にはわかりやすい家礼のマニュアルへの需要があり、その需要に応えて『寿梅家礼』が出版されたが、厳格な儒教的知識人から厳しく批判された。ベトナムの家礼において、中元儀節に対する見解には幅がある。片や『捷径家礼』『寿梅家礼』は積極的に民間の習俗を取り入れようとするが、反対に『文公家礼存真』のように儒礼に執着するもの、その中間の『胡尚書家礼』は躊躇しつつも容認しようとする。つまり、17世紀~18世紀の儒教・仏教といったいわゆる宗教思想史において“知の位相”の多様性を示すことに嶋尾氏は成功している。

6.佐藤健太郎「13世紀マグリブの知識人と聖者崇敬――アブー・アッバース・アザフィーによる聖者伝を通して――」
イスラームの民衆の信仰実践として聖者崇敬がある。聖者は有徳の人物で、超自然的な力を持ち、奇蹟を起こすものと信じられた。民衆は無病息災や子授けなどの現世利益を期待して、聖者ないしその墓廟を訪れた。聖者崇敬は、神学や法学などの難解なイスラーム学問に通じていなくても実践可能であったので、民衆的なイスラームとして理解されてきた。
一方、イスラームの知識人たちは、民衆が崇敬する聖者に対して全く冷淡であったわけではなかった。彼らの間には、9~10世紀頃から発展してきたスーフィズムのワリーと、民衆が崇敬する聖者とを重ね合わせて、理解する者もいた。つまり聖者の存在を容認し、崇敬するのは、民衆のみならず、知識人も共有していった(145頁~146頁)。
北アフリカのマグリブ地域では、聖者崇敬現象はイスラーム到来以前の7世紀の事例も存在するが、12~13世紀頃から盛んになり、聖者の存在がイスラーム到来後の聖者伝史料に確認できるようになる。7世紀から12世紀までの間に聖者崇敬現象が消え去ったと考えるのではなく、12世紀頃から盛んになったように見えるのは、イスラーム以前から存在し続けた聖者の存在が、スーフィズムの影響を受けた知識人により再解釈され、聖者伝の中にイスラーム的な聖者という装いをまとって現れるようになったと解釈すべきであるとする(146頁)。
近年ではイスラーム聖者を構成する要素として、①イスラームに内在化された要素、②スーフィズムの発展から出現する要素、③イスラームとは関係のない要素といった3要素が挙げられ、イスラーム以前の信仰が聖者崇敬の形成に果たした役割を考慮する研究傾向が見られるという(168頁注2)。
聖者崇敬に対して、批判的な知識人もいたが、概して知識人たちは民衆間に広まったこの聖者崇敬という新たな信仰実践をイスラームの枠内に取り込もうとした。一方、民衆の側も自分が行なう聖者崇敬を知識人から正当化されることを望んだ。こうして知識人と民衆の双方が直面していた課題に対応して、知識人は聖者伝を執筆するようになっていったとみる。
そこで佐藤氏は、マグリブの聖者アブー・イアッザー(1177年没)の奇蹟譚を収録した聖者伝『神を畏怖する者たちを導くことについての確信の支柱』(以下『確信の支柱』)を取り上げ、ムワッヒド朝末期のイスラーム知識人による聖者崇敬現象の捉え方について探っている。この聖者伝の著者は、アブー・アッバース・アザフィー(1162-1236年)であり、彼は預言者ムハンマドの生誕祭をマグリブに導入した人物である。この預言者生誕祭も聖者崇敬も初期イスラームには見られなかった新しい信仰実践であり、それらを知識人にも受容可能なように位置づけて、いかにイスラーム的に正当化しようとしたかを考える上で、このアザフィーという人物は興味深い格好の人物である。アザフィーの生涯について述べ、先の著作を通して、民衆の信仰実践に対する知識人の対応を明らかにしようとする(147頁)。
アブー・アッバース・アザフィーは、1162年にジブラルタル海峡に面した海港都市セウタに生まれた。その一族はイスラーム以前にさかのぼる古くからのアラブ部族であるラフム族に連なる系譜を有していた。長じて学問修行を積み、ウラマーの学ぶ学問として最も一般的なイスラーム法学(とりわけマーリク派法学)やハディース学などを修得した。聖者アブー・イアッザーの伝記『確信の支柱』を著していることからも推測できるように、アザフィーは聖者の存在をイスラーム的に理論化する上で不可欠のスーフィズムにも大きな関心を抱いていたし、スーフィーと交流を持っていた。そしてムワッヒド朝支配下の有力スーフィーの娘とアザフィー自らの息子との間に姻戚関係を結んだ。
学問修行を終えると、故郷セウタの大モスクで、終生、講義を行い、聖者アブー・イアッザーの奇蹟を収録した書である『確信の支柱』などの著作を残すとともに、父から受け継いだカーディー職を世襲的につとめ、アザフィーはセウタ社会の中でも指折りの名士となった。また13世紀半ばのアザフィー家の人的ネットワークは、ウラマー社会のみならず、スーフィーや港湾都市セウタの海軍提督の間にまで張り巡らされた。こうして、のちのアザフィー家はセウタの支配権まで掌握するまでに至った(147頁~153頁)。
ところで、聖者伝『確信の支柱』はアブー・イアッザーの奇蹟譚を収録した書といっても、それは第2部に30ページが当てられ、分量的には3割程度にすぎず、残りはハディース学の方法論などが占めている。例えば、ハディース学は預言者ムハンマドの言行を伝える際の真偽判定の手段として発展してきたが、その方法論を援用して、聖者アブー・イアッザーの奇蹟を記述しようとした。つまり伝承を、誠実な伝承者に伝えられ信頼性の高い「タワートゥル」と、憶測によってしか認められない「アーハード」という2つのカテゴリーに分け、アブー・イアッザーの奇蹟譚が前者に属することをハディース学に関連する「緒言」で述べている。また、アザフィーは、預言者の奇蹟(ムウジザ)以外にも、聖者の奇蹟(カラーマ)が存在しうることを認め、両者の峻別に留意しつつも、聖者の奇蹟も有効であると「序論」において議論し、聖者崇敬をイスラームの枠内で正当化しようとした。このように、『確信の支柱』は、単に聖者の奇蹟譚を収集した書ではなく、聖者の奇蹟を認める立場をとり、奇蹟を語るときの方法論まで気を配って、全体の章を構成し、叙述している(155頁~157頁)。
アザフィーの聖者伝『確信の支柱』に記された聖者アブー・イアッザーは読み書きを知らず、アラビア語も話せない民衆的な聖者であった。アブー・イアッザーは病気治癒や神への祈願(ドゥアー)などにより民衆から崇敬された。また知識人や王族も新たに信仰実践のあり方を模索して、この聖者のもとを訪れた。アザフィーはこうした民衆的な信仰実践をイスラーム的に正当化しようと試みると同時に、聖者崇敬や預言者生誕祭といった新たな信仰実践を提唱し擁護し、民衆の慣行を知識人にとっても理解可能で受容可能な論理で位置づけ直そうとしたという(161頁~163頁)。
『確信の支柱』とムワッヒド朝とは関係があったものと推測されている。ただ、『確信の支柱』に現れる聖者アブー・イアッザーとムワッヒド朝権力との関係は良好ではなく、初代カリフは人の秘密を暴露したという告発により彼を召喚し、軟禁状態においたりした。
アザフィーが『確信の支柱』を執筆した直接の契機は2人の高貴な人物から勧められたことによる。その2人とはムワッヒド朝の第2代カリフの息子といった王族と考えられており、政治的・軍事的というよりはむしろ宗教的・学問的に特長を持つ人物であり、2人ともアブー・イアッザーに関する奇蹟について知識を持ち、伝記作者アザフィーの情報源と想定されている(163頁~168頁)。

7.栗山保之「前近代のインド洋におけるアラブの航海技術――スライマーン・アルマフリーの航海技術書より――」
16世紀初頭の航海技術者であるスライマーン(生没年代不明)は、アラビア海に面したマフラ地方出身と推測されている。この地はラクダと乳香が財産とみなされる貧しい地域である。その首邑シフルは商人が集散する海上貿易港として繁栄していた。傑出した航海技術者スライマーンは5点の著作を残しているが、それらは①実践的技術や知識、②技術理論、③注釈や解説書といった3類型の著作に分類できる。栗山氏は、そのうち②のタイプに属する『諸原理の簡易化について精力的な人びとの贈物』を主要史料として、前近代のインド洋を往還したアラブの船乗りたちが培った民間文化としての航海技術を検討している。その書によれば、航海技術の根源は知力と経験であり、航路や航海時期は純粋な経験で、天球における星の運動や計算の諸規則、水深測定は純粋な知力で、緯度計測や距離は経験と知力であると記す。つまりこの航海技術理論は、天文学をはじめとする深遠な知力と多年にわたり培われてきた豊富な経験にもとづいて形成されてきたものである(175頁~181頁)。
さて、インド洋の航海技術書『諸原理の簡易化について精力的な人びとの贈物』の章構成は次の通りである。
1天球・天体
2羅針方位
3ザーム(航行距離、距離に関する記述)
4ディーラ(航路に関する記述)
5キヤース(天体の高度計測にもとづく自船緯度の測定)
6マサーファ(東西距)
7風の原理
といった7項目に関する航海技術理論を提示し、その内容を簡略に紹介し、解説を加えている。例えば、羅針方位について次のように説明している。
船上において、羅針方位を示す際には、点数式分割が採用された。地中海の船乗りの間では全方位を16に、中国では24に区分していたのに対して、インド洋の船乗りの間では、32に細分化していた。その羅針方位を示す際には、16の天体の名称が利用された。すなわち、①ジャーフ(北極星)、②ファルカダーン(こぐま座βγ星)、③ナアシュ(北斗七星)、④ナーカ(カシオペア座β星とアンドロメダ座)、⑤アイユーク(カペラ)、⑥ワーキウ(ベガ)、⑦シマーク(おとめ座α星)、⑧スライヤ(すばる)、⑨ターイル(アルタイル)、⑩ジャウザー(オリオン)、⑪ティール(シリウス)、⑫イクリール(さそり座βδπ星)、⑬アクラブ(さそり座)、⑭ヒマーライン(ケンタウルス座αβ星)、⑮スルバール(エリダヌス座α星)、⑯スハイル(カノープス)である。
これら16の天体を北極星が位置する北から東西対称に各々南までの羅針方位に順番にあてはめ、各天体の前に「昇ること」を付して16方位を示し、そして南から西を経て北にまでの西側半分に先の16の羅針方位には「沈むこと」を付して、合計32の羅針方位を表記したという。例えば、北北東は「昇ること、ナアシュ」となり、西北西は「沈むこと、シマーク」となる。
このように16の天体名を援用して、32に区分された羅針方位も天体運動によって天球上の見せかけの位置が変わるので、必ずしも正確ではなかったようで、コンパス・ローズ(海図上の羅針図)を用いて、より正確に方位を把握しようと努めた(183頁~186頁)。
また『贈物』には、風の生成や性質について記されてもいる。風の根源は空気であり、空気の波の動きが風である。風は冷気から産み出され、陸風は夜以外に陸からは吹いてこず、海風は昼以外に海から吹いてこない。これは夜の冷気と夜の海の熱気のためであると説明している(199頁~200頁)。
スライマーンの『航海科学の精密なる知識におけるマフラの支柱』などの航海技術書は、マウシム mawsim(季節風を意味する英語のモンスーン monsoonの語源で、アラビア語で季節を意味する)を利用した航海について詳述されている。しかし『贈物』には、風の生成要因以外に、風に関わる記事が見られない。それはこの書物が航海技術理論のみを記しているからであるという(200頁~201頁)。
スライマーンの記した航海技術理論は、彼一人のみによって構築されたのではなく、先達の積み重ねてきた航海技術が土台となっている。この意味でその理論技術は、インド洋の船乗りの民間文化としての航海技術の精華と位置づけられるとする。
栗山氏は今後の課題として、①アラブのインド洋航海技術書を系統立てて整理し、②前近代から現代に繋がるアラブのインド洋航海技術の変容について考えることにより、前近代のインド洋を媒介として展開した国際貿易、交流の諸相を具体的に考察する点を挙げている(201頁~202頁)。

8.長谷部史彦「『夜話の優美』にみえるダマスクスのマジュズーブ型聖者」
16世紀~17世紀のオスマン帝国治下のダマスクスにおいて、ムスリムの学者ガッズィーが著した伝記集『夜話の優美』に収録された聖者のうちマジュズーブに焦点をあて、その実像を具体的に解明しようとした(213頁~214頁)。
ガッズィーは1570年に、オスマン帝国のアラブ地域支配の要であるダマスクスにおいて、シャーフィイー学派のウラマー名家に生まれた。ガッズィーは幼くして父を亡くしたが、恵まれた学問的環境の中で育った。クルアーン解釈学、ハディース学などのイスラーム諸学を学び、アーリム(学者)となった。ハディース学や法学の教授職につき、ダマスクスのシャーフィイー学派ムフティー(法勧告者)の重責を担うとともに、スーフィー教団の活動にも関わっていた。ガッズィーは、ダマスクスの中心部に生涯住み続けたが、聖地メッカへのハッジ巡礼は12回にも及んだ。そして3人の女性と結婚し、3人の息子をもち、1651年に80歳すぎでその生涯を閉じた(214頁~216頁)。
彼の著作は多岐にわたるが、よく知られたものの1つが、伝記集『夜話の優美』で、これは1592年から1624年の間に死去した283人の名士録である。その中に登場する12人のうち6人を取り上げて、マジュズーブを検討対象にしている。「(唯一神に)引き寄せられた人」、「(唯一神に)魅惑された人」を意味するマジュズーブと呼ばれる聖者は、中世・近世アラブの民衆の生活世界と文化において重要な役割を演じたといわれる。
マジュズーブは神と人との間を媒介し、神への執り成しの能力をもつものとされ、降雨の不足の際に雨乞いの儀礼といった社会的機能をも果たしたものと推測されている(216頁~218頁)。
伝記集には、スーフィズムの重要語である「カシュフ」という言葉がよく出てくるという。これは「ヴェールを取り払うこと」を意味し、神と人とを隔てる帳を取り払うことによって神の知識を得ることを表す。修行階梯を経ずに、一足飛びに高い霊的境地に達したが、その際に、マジュズーブにしばしば観察される行動形態、つまり服を脱ぎ、裸体を曝す状態が見られたという。ミウサラーニーという胡麻油の圧搾業者であった者について、毎年約3~4か月断続的にこのジャズブの異常体験が繰り返し起こった事例を記している(218頁~224頁)。
ところで、スーフィーに飼い猫を殺され、その報復としてスーフィーを殺害した事件を州総督が罪に問うことなく釈放した処断事例を記している。たとえ殺人という重罪であっても、「神に引き寄せられた者」つまりマジュズーブであった行為は処罰できないという論理をこの殺人事件の中に読み取っている。今日的にみれば、この殺害者は事理弁識能力や行動制御能力が失われた心神喪失の状態にあったから無罪とされたということになろう(226頁)。
ダマスクスの西北に聳え立つカシオン山(ユダヤ教、キリスト教、イスラームという中東起源の3つの一神教の聖地)には、聖所・聖跡が多く存在し、中でもその麓の「血の洞窟」は旧約聖書にも登場するカインがアベルを殺害したとされる場所である。その近くのシャイヤーフ洞窟に、マジュズーブの聖者ハサンが隠棲した。このマジュズーブ型聖者は、特に女性の崇敬を集め、女性たちは顔からヴェールを外して触れてもらい、バラカ(神の恩寵)を受けたとガッズィーは記している。これにより「男女の空間的分離」というイスラームの一般的原則を無視して、非日常的で脱領域的に、女性の間で民間宗教が実践されていた様子が確認できるという。しかしこの聖者は1609年洪水により死亡し、カシオン山の麓に埋葬された。
そして12人のうちの1人のこのマジュズーブ型聖者の特徴として、移動性、女性の信者を集めた点、そしてカシオン山に定着し、そこで死去・埋葬され、この山の聖性の増大に寄与したとみられる点を指摘している(228頁~229頁)。
このように、異様な言動や行動を特徴とするマジュズーブ型聖者が、供物の贈与対象者となり、貧民救済の担い手となり、社会的役割を果たす。得られた富を死者に再分配することを慣行としていた場合が確認された。オスマン帝国期のダマスクスがマジュズーブ型聖者を集めた都市であった。人口が多く、貨幣経済の中心であった都市の方が喜捨や貨幣の贈与を受けやすかったと考えれば、納得がいくという。
12人の中の6人のマジュズーブには、ウラマー家系の出身者もいたが、多くは庶民の出身であった。こうしたジャズブ体験者に対して、伝記作者のガッズィーの態度は柔軟的で、決して差別的・排除的ではなかった。ガッズィーにとって、マジュズーブは社会内に生息する人々でありながら、「名士」でもあった。ウラマー社会の頂上的部分に位置した法学者ガッズィーが、庶民的な異常行動者であったマジュズーブに対して寛容的な姿勢と筆致を示した。そこには、オスマン帝国期のムスリム学者が共有していた「非純化主義」的な思想傾向が見られたと指摘している。当時の「人々によって生きられたイスラーム」の大らかな一面が映し出されている(230頁)。

《新刊紹介 山本英史編『アジアの文人が見た民衆とその文化』その2》

2011-01-03 10:41:36 | 日記
《新刊紹介 山本英史編『アジアの文人が見た民衆とその文化』その2》
告示は地方官僚が「民」に対する方針を伝える性格の公文書であったのに対して、詳文は地方官僚が上司に向けた報告書であった。すなわち地域で起きた問題を報告し、その処理方法の可否について上司の判断を仰ぐための公文書であった。その詳文においては、観念的な内容は避けて、みずからの意見を明確に主張し地方官僚としての力量を示す必要があった。この点で「民」に対する訓示的な告示とは対照的な内容であった。例えば、盧崇興の『守禾日紀』に載せられた詳文には、やみ塩の捜査に名を借りて商人・地主から金品を強奪する非公認の捕役である棍徒の凶状を伝え、その弊害の実情を探り当て、除こうとしている。理想の地方官僚とは銭穀と刑名(税糧の確保と治安の維持)にあったので、それらに支障をきたす“悪しき民”に対して断乎たる措置を取ると、上司への報告書である詳文は、讞語とともに謳っていた。また詳文の中には、1660年代~90年代に山西省太原府交城県の知県を務めた趙吉士の詳文のように、“悪しき民”を「害虫」「癰(よう)」にたとえ、地方統治において除外すべき対象とみなす詳文まで存在した。
しかし、その一方で、地方官僚の「民の父母」としての主張を詳文に記したものもないわけではなかった。1680年代~90年代に湖南省長沙府荼陵州知州を務めた宜思恭の詳文は、勧懲の実行を厳格にする必要性など6項目を上官に提示したが、その中には告示に散見された「教えずして誅するは民の父母でない」という常套句を引用して、郷約を講釈し、頑民を勧化している旨が述べられ、地方官僚としての理念を上官に訴えた。ただ同時に、教化を阻む悪人に対しては、寛容であってはならないといい、懲罰の必要を強調している(86頁~88頁)。
州県官はその職務では救済が優先されるが、勤務評価では徴税が重視され、両者はあい矛盾する行為である。牧民の官である州県官は、徴税を確保すると勤務評価は上がるが、しかしいたずらに朴責が人民に加えられることになる。だから父母の民として慈しみの心を抱くことが求められる。ただ逆に17世紀後半の地方官僚は、民の父母たろうとして馴れ合うことも罪として告発されることも多かったらしく、そこにも地方官僚の葛藤があったという(88頁)。
そして山本氏は、詳文と告示との性格の類似点と相違点について、詳文は地方官僚の理想と現実とが入り混じっている内容の公文書という点で、告示と共通しているが、しかし詳文は上官への報告書である公文書であるという性格上、“悪しき民”への処断を強調している点が相異なるという(89頁)。
以上、盧崇興の公牘『守禾日紀』を史料として、地方官僚の「民」についての認識のあり方を山本氏は検討した。公牘に掲載された3つの公文書である讞語、告示、詳文の特徴を明らかにした。すなわち、讞語には、地方社会の“悪しき民”への呵責なき対応が示され、最も現実的に「民」が描かれている。次に、告示は、“悪しき民”への警告と勧化からなり、“悪しき民”を「民」への範疇に取り込もうとするが、「民」にならない者の処罰を正当化したものである。つまり、そこでは「民」の中に“悪しき民”がいるという矛盾を理念に近づけた姿として「民」が描かれた。第3番目に詳文は“悪しき民”への理念的な余地を残しながらも、「民」に対して現実的な対応をとろうとしたものである。「民」の中に“悪しき民”がいるという矛盾を現実に近づけた姿として「民」が描かれているとする。
官僚として地域統治をした知識人が書き残した公文書である公牘には、理念と現実との狭間で揺れ動く葛藤と逡巡の心情を垣間見ることができる。だから、公牘は“民衆を描く史料”としての価値があり、清朝の国家支配の本質を読み取る情報源ともなりうるとする(89頁)。
最後に盧崇興の地方官僚としての評価について触れている。地域住民が連名で出した請願書である「士民公呈」では、知府としての盧崇興を統治された住民の立場から称え、徴税に温情を加え、訴訟を抑制したことなど、その治政を賛美している。清代の地方官僚の理想的離任の情景としては、『後漢書』の故事に基づいて、民衆が車の轅にすがり、車の轍に臥して地方官の留任を求める姿が描かれた。そこに「父母の官」としての地方官の理想的心情が存したといわれる。しかし、地域住民の中には、それを逆手に取り、より現実的に媚を売って、自らの要望をかなえようとした者もいたようである。この視点から『守禾日紀』に収録された「士民公呈」を読み解くとすると、士民の意図は盧崇興の徳政を称賛するよりはむしろ、その称賛を借りて、後任人事について地域の希望を伝えることにあったと山本氏は看取している。つまり地方官僚が理念として語る「父母の官」のあり方に、民衆の側は冷めた目で見ていたのではないかという(89頁~92頁)。

5.嶋尾稔 「ベトナムの家礼と民間文化」
冠婚葬祭のマニュアルであり、宗族の規範である『朱子家礼』がベトナムの社会・文化で、どのような歴史過程を経て、受容されてきたかについて、従来研究されておらず、『寿梅家礼』の作者と執筆年代に関する考察はあるものの、『朱子家礼』の受容について具体的に研究した者はいなかった。そこで嶋尾氏は、ベトナムで編纂された諸家礼のうち、ベトナムと中国における家礼の関係を解明し、国家の道徳的教化と家礼との関係、民間文化と家礼の関係に注目しつつ、ベトナム家礼の独自の展開を探究している。嶋尾氏の論稿の目的は、ベトナム家礼の作者が、慣行に適応させるために中国から受容された家礼をどのように改変してきたかを示すことにある。その際に、①15世紀以降、儒教的教化を推進した王朝、②在野で家礼を著述した儒教的知識人、③民間の日常的実践者といった三者の関係に注目している(101頁~103頁)。
はじめに、ベトナムに現存する3種の家礼、すなわち
①『捷径家礼』
②『胡尚書家礼』
③『寿梅家礼』
に関して、版本・抄本の書誌情報、内容、撰者、編纂年、編纂の背景について検討している。以下、簡潔に記しておきたい。
①『捷径家礼』
この書名は、『寿梅家礼』などの中に見え、永盛3(1707)年に呉士評が刊行したと記されている。しかしベトナムの漢喃研究院や国家図書館の目録に書名は見当たらない。ただ前者の目録中にある『家礼』という表題のついた版本が、これに相当するものという。喪礼を中心に扱った内容であり、九族五服に関する規定や図を掲載し、喪が明けるまでの作法を解説している。撰者については、「小尹阮公」と『雨中随筆』異本にある以外にわからず、編纂年、編纂の背景も不明である。ただのちの書物に引用されている点を考慮に入れると、それなりに普及した家礼本であろうと推測している(104頁)。
②『胡尚書家礼』
まず刊本の所蔵状況に関しては、漢喃研究院には永祐5(1739)年刊本と景興28(1767)年刊本、慶応義塾大学には景興24(1763)年刊本が所蔵され、フランス極東学院から将来された東洋文庫のマイクロフィルムにはこの家礼の抄本があるという。内容としては、臨終から喪が明けるまでの喪礼について記すとともに、喪礼の諸問題を漢文の問答形式で解説している(103頁~105頁)。
編纂年は18世紀前半で、世紀の後半に版を重ねており、『寿梅家礼』や『雨中随筆』異本にも引用・言及がある。だからそれなりに需要があった家礼本であると推測している。フランス極東学院所蔵の抄本の序文によれば、刑部尚書兼東閣大学士胡士揚(1622-1681)が喪礼に関して実践しやすいように、文公家礼の儀註に創意を加えてベトナム語に訳すとともに、儀礼の意味について解説した問答を付したものが『胡尚書家礼』である(105頁)。
胡士揚自身はこれを刊行できず、朱伯璫が代わりに永祐5(1739)年に初めて刊行した。胡士揚は1622年に乂安鎮瓊瑠県完厚社(のち瓊堆社)に生まれ、1663年に東閣大学士となり、その後朝貢正使として中国に赴き、帰国後、工部尚書、刑部尚書、参従を歴任し、1681年に没した(106頁)。なおこの出身地は、阮朝期に55人の挙人合格者を出し、全国2位であるほど、科挙合格者・官僚を多く輩出する文化的先進村であった。また女流詩人胡春香や、『大南国史演歌』の校訂者范廷倅の出身地でもある(138頁注viii)。そして17~18世紀には、胡士揚のみでなく、胡丕績(1675-1744)、胡士棟(1739-1785)も同族であり、進士に合格し、追贈を含めると尚書にまで到達した。3人とも朝貢使節として中国に赴き、その交流・交渉を通じて、中国文化の知識がこの村に蓄積されたと推測している。すなわち祠堂・族譜・家礼・家訓といった中国エリート社会の基本要素がこの17~18世紀にこの村にもたされたと考えられ、実際に胡士揚は『胡尚書家礼』を著し、祠堂を建設した。家礼の執筆動機として、服喪中に見解が錯綜していることに鑑み、識者だけでなく、庶民や後学の人のために読みやすくすることを挙げ、家礼をベトナム語に訳すことにしたという。
また胡士揚は、風水によって祖先の墓の位置を再検討し、遷葬した。そして胡士揚の友人である胡丕績の父である監生胡士英も中国人風水師により吉地を得ている。風水をこの村に積極的に導入したのは、胡士揚の世代であったと推測している。そして胡士英に関しては次のようなエピソードが伝わっている。彼が乂安の奇花県の知県をしている時、中国商船を略奪する事件が起こったが、商品を取り戻してやった。中国人はお礼にその商品の半分を渡そうとしたが、固辞されたので、ことに風水師を連れてきて吉地を選定してもらったというのである。このエピソードの真偽の程は不明としながらも、中国の商船が風水師を連れてやってきたとする点に注目し、中国との海上交易と風水師の渡来との関連性を指摘している。すなわち乂安と中国の文化的交流は、朝貢という陸路による政治的なつながりだけでなく、海路による交易ルートも関係していたことが考えられる。そして近年の研究によれば、18~19世紀のベトナムの漢文小説等にも陰宅風水の話に北人の風水師が登場している(このような動向がベトナムの家礼の内容に与えた影響については後述)。
また胡士揚の出身地の文化的環境の特色として、乂安は古くからキリスト教布教の拠点であり、瓊瑠県にはキリスト教の学校も建設され、決して儒教一色の土地ではなかったともいう(107頁~108頁)。

③『寿梅家礼』
まず漢喃研究院で実見した『寿梅家礼』の13種類16冊のテクストについて、その書誌情報(刊行年、版本の大きさと体裁、請求記号など)を逐一掲載している。18世紀段階の版本は所蔵されておらず、最も古いのは嘉隆11(1812)年重刊のものである。13種類のうち10種類が植民地化以降のものであり、20世紀に入ってからのものも7種類に及び、日本の「仏印進駐」前夜の1939年に出版されたものまである。
『寿梅家礼』の撰者については、従来の通説では、乂安鎮瓊瑠県完厚社(のちの瓊堆社)の胡士賓とされてきたが、海陽省上洪府唐豪県中立社の胡嘉賓という新説を紹介している。すなわち従来は、「海上唐中鴻臚寺序班寿梅居士胡嘉賓集撰」と『寿梅家礼』の序の末尾にあることから、『胡尚書家礼』の撰者胡士揚と同族で孫の代に当たる、乂安鎮の胡士賓がその撰者とされてきた。
しかし序に見える「海上」とは「海陽・上洪」の省略形を意味し、乂安を指すのではない。また『瓊堆古今事跡郷編』という史料によれば、胡士賓の経験した官職として、「鴻臚寺序班」を挙げていない。『雨中随筆』の異本の中に現れる『寿梅家礼』に関連する記事内容により、この家礼の撰者が海陽省上洪府唐豪県中立社の出身であることを示した。家礼の序の「海陽唐中」はその省略形であるとし、その出版時期は、陳功燦の陪従在任期間(1784-86年)であると推測した。そして胡嘉賓は胡士賓という別名を持っていたために、同一名の別人物である完厚社の胡士賓が従来撰者とされてきた。乂安出身の後者は、同族の祖父の代に『胡尚書家礼』を著した胡士揚や家礼に精通した父の胡士尊がいたので、こうした誤解を助長したのであろうとする。
ところで、『寿梅家礼』の執筆目的はその序にあるように、煩雑な喪礼を手軽に実践できるように簡約版の家礼を作成することにあった。その構成は喪礼に関する「家礼祭儀集」と「家礼服制記」を記す本編および附録からなる。
「家礼祭儀集」は、大筋は『朱子家礼』「喪礼」に倣っているが、「夏節・中元・歳除・終七・百日等礼」などの儀礼解説は、独自の再編集の痕跡が認められる。そして「家礼服制記」は九族五服の制を解説したもので、服すべき喪と人物との対応関係を箇条書きに列挙している。記述スタイルの特徴として、『寿梅家礼』は字喃表記のベトナム語と漢文を自在に組み合わせた混交文である点が挙げられる。家礼のスタイルとしては、新趣向で独特のスタイルである。
一方、『捷径家礼』は字喃表記を中心として漢文も若干交えて書かれ、『胡尚書家礼』では上巻は字喃、下巻は漢文と使い分けていた(111頁~112頁)。
『文公家礼存真』は、杜輝琬と璙の父子による共著である。この父子は南定省大安県羅岸社の出身で父輝琬は1840年に挙人、1841年に進士に合格し、息子璙も1879年の進士で、官僚的知識人であった。『文公家礼存真』は、1894年に杜輝琬が序文を記し、簡潔な文公家礼正本に帰るべきであると主張し、後代の中国の家礼書や『寿梅家礼』を批判するとともに、本書の編纂の経緯を述べている。内容は、文公家礼の喪礼と祭礼を実践しやすいように、修正を加えて再編集したものであり、この父子のような知識人には余りにも大衆化した家礼は受け入れがたく、俗に惑わされないことが編纂の目的の1つであった。すべて漢文で書かれており、刊行はせず、子孫にのみ伝えた私家版の家礼である点に特徴がある。
上記の家礼以外にも、ベトナムで編纂された家礼が存在するという。というのは『大南正編列伝第二集』には陳秀顕が家礼を著したという記事が見られるし、嶋尾氏がフィールド調査した旧家には、『朱子公家礼四大補正演義国語』という書物が所蔵されていたと報告している(113頁)。
17~18世紀のベトナムの家礼は、『朱子家礼』だけではなく、明代の家礼注釈書も参照している。例えば、『胡尚書家礼』には「王世貞補遺」や「正衡」、『寿梅家礼』も「「正衡増補」を引用・言及しており、『文公家礼存真』は、明代の楊升庵や申閣老の名を挙げ、楊慎(=楊升庵)撰『文公家礼儀節』を引用している。「王世貞補遺」とは『家礼或問須知』、「正衡」および申閣老の家礼とは、彭濱『重刻申閣老校正朱子家礼正衡』を指すものと推測している。そして受容された家礼のテクストについて書誌学的に検討している。この推論の上に立って、17世紀から19世紀にいたるまで、ベトナムにおいても、彭濱の家礼が広く読まれ、大きな影響を及ぼしていたとする。
そして中国とベトナムの家礼の影響関係に関して考察を加えている。例えば、「七七日百日」の儀式については、既に彭濱、明代中国の家礼に見られる内容であったが、ベトナムにおいて『胡尚書家礼』では採用していないが、『捷径家礼』では採用され、『寿梅家礼』ではそれを踏襲していた。また「焚黄儀節」の祝文は、オリジナルの『朱子家礼』には見られないが、明代の彭濱の家礼には見られ、17世紀のベトナムの『胡尚書家礼』、そして『寿梅家礼』にも見られたという(115頁)。
また服喪の等級である「五服」の記述の仕方に関しても、『捷径家礼』や『寿梅家礼』は、『朱子家礼』ではなく、明代の彭濱の家礼の影響を受けている点を明らかにしている。すなわち『朱子家礼』は斬衰(3年)、斉衰(1年、5月、3月)、大功(9月)、小功(5月)、緦麻(3月)といった等級の喪に服すべき服喪者と服喪対象の組み合わせを記述している(明代の『明令』、『孝慈録』もこの記述方法である)。一方、彭濱やベトナムの家礼では、服喪者と服喪対象の関係を範疇に分類し、その具体的な組み合わせ毎に服喪の等級を示している。ただし、彭濱の家礼とベトナムのそれとでは、細かな服喪規定には相違が見られるという。
ところでベトナムにおける儒教的教化は、15世紀初頭の属明期に始まり、「易俗移風」のために「教化榜文」が発布された。黎朝聖宗期には訓条24条が制定され、聖宗期の死後、景統2(1499)年には申明されているが、この訓条は家礼に直接的に言及していない。黎朝中興後の17世紀後半になり、王朝の条例が家礼について述べるようになる。つまり景治元(1663)年に鄭氏政権は、儒教的な道徳教化を推進するために、范公著が撰した教化47条を頒布し、仏教やシャーマニズムの民間信仰を批判した。景興12(1751)年にも再度頒布されたが、民間ではこの条例は等閑視されたようである。この教条の41条には「喪家の中元節については家礼に従うべきである。柩を引くときに歌い騒いではいけない」とあり、家礼に言及がなされている。ただそもそも朱子家礼の喪礼には中元節の規定はなく、この教化条例が出された当時のベトナムには、家礼と中元節の関係が議論されている時代であった。
1663年7月に教化47条が申明されているが、胡士揚はこの年2月に東閣大学士に昇進しているので、これに関与していたものと推測している。時に41歳である。ただ『胡尚書家礼』を編んだのは、この1663年より先か後かは未確定である。
その家礼に記された「中元儀節」(中元節の祠堂での儀式と祭文)についての問答を検討している。喪礼における中元節の作法規定がある彭濱の『家礼正衡』がベトナムに普及し、ベトナムの儒者もその作法を認めざるを得なくなった。仏教行事として民間で実践されていた中元節を統制する手段として、儒式の中元儀節が国家に採用され、教化条例に組み込まれたものと推察している。
現在のベトナムでは、仏教行事の死者供養の日として認識されている。歴史的に見れば、李朝において、死去した皇帝や皇后の盂蘭盆を行った事例が見られ、陳朝期に盂蘭盆会は一般化し、黎朝の15世紀後半には、中元節の行事が社会的に深く浸透したが、儒教的王朝の黎朝国家はこの仏教行事を統制しようとした。15世紀には、喪に服している家が仏教行事として中元節を行うことが問題となっていた。17世紀にも、儒者の中には、喪に服している家がたとえ儒式の中元節であっても、その種の儀式を行うことを好ましくないとする者もいた。しかし明代の習俗も考慮に入れ、中元節を儒式で祭ることを容認し、国家の統制手段とした。すなわち教化47条の規定は、中元節を家礼に採用はするものの、仏教行事としてではなく、儒礼の一環としてその祭祀を行わせることを目指したものと考える(117頁~118頁)。
『胡尚書家礼』には中元儀節に躊躇が見られたが、その後のベトナムの家礼『捷径家礼』『寿梅家礼』にはそれがみられず、中元儀節の祝文・祭文を載せている。それに対して、『文公家礼存真』は、朱子家礼の本来の意図を回復することを重視し、仏事を行わないのが当然であるとする。民間で中元節の祭礼を行う際に、仏にお供えをし、僧に食事を供しているのは地獄の説に惑わされたものであり、礼を失しているとこの仏教行事を批判している。ただ祠堂でお供えをして祭ること(奠祭)を認めているだけである(119頁)。
ところで、1804年に「北河諸社民郷党条例」が頒布されたが、その目的はベトナム北部村落の風俗を道徳的に統制することにあった。その中に葬式に関する規定として、富者は身分を越えて華美にならないようにし、貧者は葬儀の飲食を揃えるために家産を傾け、雇われ者となることのないようにせよという規定が見られる。1856年の規定条文には、葬祭に際しては、村の者同士が相互扶助し、俗例・郷例をより所にして、飲食を過度に葬家に要求してはならないという規定がある。
19世紀の儒教的知識人范廷琥(1766-1832)はその著作『雨中随筆』で同様の葬礼批判、つまり奠祭の後に葬家でほしいままに飲食をするのがならわし(郷例)となり、そのために葬家が田畑を売っているとか、死者に対する儀礼の中には本来の礼制にはなく仏教に由来するものが行われているといった具合である(120頁)。
『文公家礼存真』「考正」の酒殽の項でも、親族の葬式を宴席とし、酒やご馳走を飲食し、哀悼の意を失っていると批判している。このように葬式における飲食の供応の強制はベトナム村落の根強い文化であった。王朝は家礼により規制しようとしたがその政策は貫徹しなかった。1910年代に近代的知識人によっても、旧俗が批判された際に口債の問題と取り上げているという。
ベトナムの家礼は、明代の中国の家礼の影響を受けたが、中国の家礼の全くの引き写しではなく、ベトナムの文化・社会の動向を踏まえて、作り替えていた。この点を検証している。
まずベトナムの家礼と風水の関係について検討している。埋葬地の選択に関して、中国の家礼の1つの『朱子家礼』では朱子は習俗に従って選択してもよいという柔軟な立場を示している。また風水説を批判する司馬光の見解などを紹介している。
またベトナムに大きな影響を与えた彭濱『家礼正衡』は、風水説・堪輿説を正面から取り上げていないが、術士の言うことを信じて惑わされて、いつまでも埋葬しないことを批判している。ベトナムの家礼は風水に肯定的で、家礼の中にその規定が現れ、それらについて分析を進めている。
17世紀のベトナムで風水師が盛んに活動していた。このことはイギリスの東インド会社のサミュエル・バロンや、フランス人宣教師アレクサンドル・ド・ロードも記録に留めており、陰宅風水の思想と実践が一般化していたことがわかる。例えば、財産・名声・健康などの幸福がもたらされるには、死者を最良の埋葬場所に葬ることが重要で、その墓地の選定には地理先生(風水師)に頼っていたことを述べている。なお、嶋尾氏は、陰宅風水の実践がいつ一般化したのかは不明としながらも、年代記史料から、科挙官僚制度が拡充した黎朝聖宗の15世紀段階で、墓の良し悪しと幸福が関係している観念が民間に存在したのではないかと推察している(139頁注xviii)。
また、時代はくだるが、胡士揚は『胡尚書家礼』巻之上国語解において、「相地」先生に頼んで埋葬場所を選定する方法や棺を墓穴に下ろした後の指示を記している。しかし『寿梅家礼』『捷径家礼』『文公家礼存真』は埋葬場所に関して「相地」先生には触れていない点で、先の『胡尚書家礼』と異なる。このようにベトナム版の家礼のすべてが風水に関心を示したわけではないが、風水師が登場しない家礼の中でも少なくとも風水否定論は展開されていない。
それにとどまらず、『寿梅家礼』に風水に基づく改葬規定を含んでいる点はこの家礼の新趣向である。例えば改葬すべきか否かの判断方法について、自然に崩壊した場合以外にも、家に淫乱の悪評がたてられたり、身内に夭逝する人や孤児・寡婦が出たり、殺人・傷害などの災難があった場合を挙げ、墓が子孫にどのような影響を及ぼしているかが、改葬の判断基準とされた。
ただ、この基準は王朝の公式見解とは相容れないものであった。嘉隆3(1804)年の「北河諸社民郷党条例」は、風水説を軽々しく信じて、改葬する風潮を批判している。よい土地を選んで墓を作ることは子の親孝行の第一義だが、乾燥した高いさわやかな土地を選び、「五患」を避ければ十分であるとしている。つまり風水に対する阮朝の公式の立場は、墓そのものの安寧が脅かされた場合にのみ改葬を認めるにすぎないものであった。

《新刊紹介 山本英史編『アジアの文人が見た民衆とその文化』その1》

2011-01-03 10:32:48 | 日記
《新刊紹介 山本英史編『アジアの文人が見た民衆とその文化』その1》

山本英史編『アジアの文人が見た民衆とその文化』(慶応義塾大学言語文化研究所、2010年)が出版され、本書に論文を投稿された嶋尾稔先生から本書を寄贈されるという光栄に浴した。今回のブログでは、お礼の意味もこめて、本書の内容紹介をしてみたいと思う。
序文にも記してあるように、本書は慶応義塾大学言語文化研究所公募研究「アジアにおける知識人の著述と民間文化」(2006年4月~2008年3月)で行った研究プロジェクトの成果である。9人の研究者が、中国、日本、ベトナム、インド洋、西アジア、北アフリカを対象地域として、「文人」(文事に携わる者の意)が書き遺したものの中に、民衆とその文化がどのように描かれたのかについて探究している。そしてその評価を分析し、比較研究により、「文人」の民衆観・民衆文化観を明らかにしようとしている(p.iii~iv)。まことに壮大で刺激的なテーマを追究した論文集である。

まず、本書の構成は次のようである。
序 山本英史
1.石川透「浅井了意の仕事と著述」
2.山本正身「仁斎と益軒――近世儒者における知の位相――」
3.桐本東太「「移風易俗」原始」
4.山本英史「公牘の中の“良き民”と“悪しき民”――清代康熙朝の事例を中心にしてー」
5.嶋尾稔 「ベトナムの家礼と民間文化」
6.佐藤健太郎「13世紀マグリブの知識人と聖者崇敬――アブー・アッバース・アザフィーによる聖者伝を通して――」
7.栗山保之「前近代のインド洋におけるアラブの航海技術――スライマーン・アルマフリーの航海技術書より――」
8.長谷部史彦「『夜話の優美』にみえるダマスクスのマジュズーブ型聖者」
9.野元晋 「あるイスマーイール・シーア派思想家が見たキリスト教とキリスト教徒:ラーズィー(322/933-4歿)の『預言の表徴』
から第4章第5節の解題と翻訳」

最初に内容を要約しておこう。
1.石川透「浅井了意の仕事と著述」
17世紀、江戸時代前期の仮名草子の作者である浅井了意という知識人が、どのような仕事をして、知識を身につけ、大作家となったかという軌跡を辿るとともに、あわせてその著述に表された民間文化に関わる内容について述べている。
日本文学史上では、仮名草子というジャンルは、室町時代を中心に作られた御伽草子と、江戸中期の浮世草子とのはざまに位置づけられる。だから、浅井了意は、浮世草子作者として名高い井原西鶴の一つ前の世代である。
ところで、江戸時代以前の日本の物語(小説)は、『源氏物語』の紫式部を例外として、誰が作者であるか不明であることが多い。その理由は、物語作品には署名をしないという伝統が日本にあったからである。唯一作者が判明している『源氏物語』もこの点で例外ではなく、紫式部も署名はしていないが、『紫式部日記』などの資料からその物語の作者であると判明できるという。作者名が必ず記されている和歌(短歌)とは対照的な文学ジャンルが物語である。今日では、物語と和歌とが、文学作品として並ぶ存在のように扱われる。そればかりか、マスコミの力によって、小説が文学の代名詞的存在となり、ベストセラー小説を書いた流行作家ともなれば、時代の寵児ですらある。しかし江戸時代以前では、文学といえば、和歌や漢詩のことであった。時の帝の命令によって勅撰和歌集が編纂されることはあっても、勅撰物語集が国家事業として作られたことは一度もなかった。これが当時の物語の扱われ方であった。このように物語には、作者名が存在しなかったので、筆写段階で、物語の中身は改編されていった。作者不明で、今日のような著作権も存在しない時代であったから、才能さえあれば、内容は自由に変えることができた。だから日本の物語作品には同じ題名でも内容が異なる異本が多く存在するのである。
日本の物語作品において、署名に近いものが出てくるのは江戸時代であるが、江戸時代前期はまだ本格的な署名ではなく、室町時代に作られた御伽草子と、江戸時代の仮名草子の区別がつきにくいという問題がある。つまり室町時代と江戸時代前期に作られた作品については、御伽草子と仮名草子のどちらのジャンルに入れるか、判明しないものが多い。現在の作品の区分けおよび翻刻・集成作業は偶然的要因が作用している。署名のないことが作品のジャンル区分けを曖昧にしている。具体的には、現在、御伽草子に区分されている作品には、仮名草子作家の浅井了意の作品も存在しうるという(1頁~5頁)。
次に浅井了意の人物像について論じている。浅井は仮名草子という作品を創作した人物で当代随一の知識人である。『堪忍記』(1659年刊行)によってその名を高め、怪談作品や地誌、注釈、仏書などの作品を書いた。1691年に没したが、享年は未詳で、70歳過ぎとみられている。
浅井の生きた時代は、本が本格的に出版され始めた時代であった。浅井の著作物は基本的には印刷刊行されたものがほとんどだが、平仮名の自筆資料も存在していることが近年明らかとなった。つまり『狗張子』といった自作は、浅井自らが版下(版画式に彫る場合の下書き)を書いたといわれる。
江戸時代の出版の仕方は、西洋のように活字印刷ではなく、版画と同じ制作方法で、清書した紙を裏返しにして板に貼り、白い部分を削り、墨を塗って紙を載せて刷り上げていた。その場合、作家が書いた原稿をきれいに清書する人間(筆耕)が必要であった。浅井は字がうまかったので、原稿がそのまま版下となり、筆耕は必要でなかった。
浅井の筆跡と酷似した奈良絵本・絵巻が存在することがわかり、筆跡の比較研究により、浅井は作家となる以前に、若い頃、写本の筆耕の仕事をし、それを通して知識を身につけ、それが昂じて、作家となったことが明らかにされてきた。もともと筆耕の仕事をしていたから、字がうまいのは当然で、自筆版下が残るのも納得がいく(6頁~10頁)。
浅井が自筆した写本として、1655年書写の『源平盛衰記』や、軍記物語の大作『太平記』があることが近年の研究でわかってきた。石川氏は浅井の作品一覧を作成している。
繰り返しになるが、浅井は作家として無名であった頃、書物を写す筆耕の仕事を重ねつつ、知識を身につけ、仮名草子作家として作品を創作していったと石川氏は推察している。今後は浅井の作品のうちで、まだ出版されていない創作物を、筆跡確認のみならず、その内容まで含めて検討することが課題であるという(10頁~15頁)。

2.山本正身「仁斎と益軒――近世儒者における知の位相――」
江戸前期において、林羅山、山崎闇斎、中江藤樹といった儒者は、経学(経書の註釈・解釈学)が学問の中心であった。そして伊藤仁斎(1627-1705)も経学という学問的通念の中に身を置き、『論語』『孟子』といった経書を文献実証的に研究し、経書註釈学の一つの頂点をなした。ただ仁斎は生前に自著を1冊も刊行しなかった。
それに対して、貝原益軒(1630-1714)は「儒林第一の耆宿」として江戸前期の大儒であったが、その学問活動は特異であった。益軒は近世儒者の中で最も膨大な著作群を残した。経書註釈に関する著作はそれほどなく、通俗的な実用書や朱子学入門者向けの学習書の類を多く残したといわれる。『養生訓』など晩年に著された「益軒十訓」と総称される教訓書は大衆読者層から歓迎され、ロングセラーとなった(17頁~18頁)。
益軒はなぜ経学的著述活動から距離を置き、そうした通俗的教訓書を執筆したのであろうか。『大学』註釈書については出版しようとしたが、出版書肆の営業上の判断が働き、実現しなかった。加えて経学において益軒は、仁斎や荻生徂徠(1666-1728)のように独創的な儒者ではなかった。ただ、出版書肆の情報を通して、急増する大衆読者層のニーズを感知し、自らの学問活動を展開しようとした。ここに儒者益軒の特異性があった。つまり「出版というメディアを利用して、現実の出版文化にあわせる形で、みずからの学問を活かす可能性に気付いた」点にある。益軒が仁斎を閉鎖的な儒者とみた理由はここにある。
益軒は大衆読者層のために教訓書や学習書を編纂することに自らの役割を見出したのに対して、仁斎はたとえ門下生を「3000余人」を擁し、その出身地もほぼ全国に及んでいたとしても、学問世界の知識人だけを相手として経書註釈学に勤しんでいたからである。益軒は学問塾をもたず、門人が少なかったといわれるが、それでも仁斎の学問的閉鎖性を「一人の私の言」と評した。比類なき博学を誇った益軒は、平易な和文で書き、不特定多数の大衆読書人層を学問の世界に誘うことを、「学問の道は、天下の公道なり」(『大疑録』巻之下)というように、学問を意味づけた。学問的立場の意義として、「衆庶と童穉」の教導をもって民生日用に資することを企図する点に求めている。
益軒による仁斎批判は、①思想内容の相違、②学問的態度の相違という2つの視点から捉えられる。
①「朱子学者益軒による反朱子学者仁斎に対する批判」
②「いわば啓蒙学者益軒による専門学者仁斎に対する批判」、あるいは「博学者益軒による経学者仁斎に対する批判」
学問的営為を大衆読者層に普及させるという自負心をもっていた益軒は、仁斎が学問を専門知識人の閉鎖的な私的占有の次元に押し留めていることに対して、「刻薄僭率」「偏見曲学」「僭率自矜」といった辛辣な言葉で批判した。その社会的・歴史的背景として、読書人口の急増、商業出版書肆や出版メディアの普及など、民間文化の発展が存在した。民間文化との関連において、仁斎と益軒といった近世前期の二大儒の「知の位相」についてコントラストを鮮明に浮彫りにしており、読み応えのある論文である(34頁~43頁、49頁註63)。

3.桐本東太「「移風易俗」原始」
中国の歴史の底流を貫通し、古代から現代まで継続してきた思考のあり方として、「移風易俗」を取り上げて論じている。この主題を論じた日本人研究者は皆無に近く、問題提起の意味もこめられている。
中国人は統治術の天才であり、在地の習慣を一変することは民を治めるすべとしては下策とし、中国古代の知識人はそれに対して周到な配慮をしてきた。しかし、この「移風易俗」の思想に、とりわけ中国古代の為政者・知識人は支配されていたとみる。つまり、彼らは現地の習慣を熟知し、それを一変させることを至上の責務とした。例えば、『呂氏春秋』君守篇に、「至聖は習を変え俗を移し、その従る所を知る莫からしむ。」とある。この行為が「移風易俗」と表現されるが、それには2つの側面がある。すなわち
①「民は日に善に遷り、之を為す者を知らず。」(『孟子』尽心・上)とあるように、民衆をおのずと教化しようとする側面、
②専制権力によって暴力的に在地の習俗を変える方法である(64頁注1)。
「移風易俗」という発想は中国の歴史上、いつの時代から生まれたのかという問題に関して、桐本氏は仮説を提示している。すなわち、邑制国家から、人民への直接的な支配の度合いが強まる領域国家への転換期である春秋末期がそれに相当するとみている。郷俗に対する素朴な共感の念は、「郷人は儺し、(孔子は)朝服して阼階に立つ」(『論語』郷党篇)にもみられるという。「儺の祭りは一種の馬鹿騒ぎであるが、孔子はインテリとしてそれを侮蔑せず礼服を着て、家廟の前に立ち、そうすることによって、村人に協力したのだ」という吉川幸次郎氏の解釈にもとづき、そこに民衆の風俗習慣を等閑視しない知識人の姿が描かれている(56頁)。
春秋期には、在地の習俗に対して一定の敬意が払われたが、同時に風俗を変化させようという「移風易俗」の考え方も胚胎したという仮説を提示している。『史記』に登場する晏子は富国強兵に務め、「移風易俗」が臣下を登用する目安の1つとしたし、臨終の間際においても「移風易俗」のことに思いを巡らせた。
戦国期には、「民の父子兄弟の室を同じくし、内息する者は禁と為さしむ。」(『史記』「商君列伝」とあり、大家族を破砕し、小家族を創出する分異令という法律についても、桐本氏は、商鞅による「移風易俗」の事例として解釈している(57頁~58頁)。
このことは「孝公は商鞅の法を用い、移風易俗し、民は以て殷盛に、国は以て富強たり。」(『史記』李斯列伝)とあることからも確認しうるという。戦国時代の呉起も楚において「移風易俗」の色合いの強い変法を行い、「楚国の俗を一にす。」(『戦国策』秦策)と記されている。
このように当時の知識人は、民衆の習俗を改変ないし画一化することに情熱を燃やしていたとみる。そして商鞅も呉起も、自分の出身国とは違う国において変法を行った点に留意すべきであるという。中原の習俗と秦や楚のそれとは全く異なり、それが為政者の国家支配に支障をきたすと考えて、習俗の統一を挙行したと推察している(58頁)。
また戦国期の「移風易俗」の事例として魏の西門豹の物語を検討している。『史記』滑稽列伝によれば、鄴の長官西門豹は「三老」と「祝巫」が結託して、「河伯娶婦」という人身供犠にかこつけて、金品を収奪する悪習を改めるために、彼ら自身を黄河に放り込んだ。すると在地有力者は恐れおののき、人身供犠と金品収奪の悪習は途絶えたという内容である。
この物語は、村落の秩序構造を崩すものとして、戦後の歴史学界では専制国家論の立場から論じられてきた経緯がある。桐本氏は、国家権力が村落の末端まで浸透しえた事例として、この物語を理解することに反対ではなく、先の商鞅の変法の事例とともに、権力の下降によって、こうした「移風易俗」を引き起こしえたと捉えている(59頁)。
宰相の能力の有無を問う時も、「移風易俗」が引き合いに出され、そしてそれは神話の世界まで敷衍されたといい、「舜は苗民を却け、更にその俗を易う。」(『呂氏春秋』召類篇)という史料を引用する。この記載は「苗民」という非漢族に対する漢化を示唆しているとする(60頁)。
次に秦の始皇帝が5度にわたる全国巡行を挙行した目的を検討している。従来の学説としては、①中国古代の慣習との関連、②民間信仰の公認と、皇帝と人民の精神的一体感の樹立、③統一権力の正統化の主張と、「剛」ではなく「柔」の支配の実践が指摘されているが、桐本氏はこれらだけでは不十分と批判し、巡狩の目的として、「観風俗」と「移風易俗」を加えるべきであると主張している。例えば、「異俗を匡飾す。」(『史記』秦始皇本紀所載の琅邪台刻石)の一句の解釈をめぐって独自の見解を提示する。従来は、秦代の習俗が多岐にわたっていたことを強調し、始皇帝の奢り高ぶった心の投影にすぎないと解釈されてきたが、桐本氏は、秦内部の風俗を正そうとした点に目を向ける。秦の風俗のモザイク模様がどの程度、実際に統一されたかは明らかでないし、たとえ建前上ではあっても、始皇帝が領域内の習俗は一枚岩であると認識せざるをえないような、古代的な思考回路をもっていたことをこの一句から読み取ろうとする。
また『史記』に「遠方を周覧し、遂に会稽にのぼり、習俗を宣省するに、黔首は斎荘たり。(中略)皇帝は家の内外を防ぎ、隔てて淫泆を禁止せり。よって、男女間の道は清潔にして誠実なるものとなれり。」(『史記』秦始皇本紀所載の会稽刻石)とあり、始皇帝は会稽地方の男女間の習俗に不満をもち、それを改変したという。
ただ秦は短命に終わり、続く漢王朝については、「太僕王等八人は使いして風俗を行ない、(中略)万国斉同すべし。」(『漢書』平帝紀)とあり、「万国斉同」という点に注意を要する。
ここに記してある「万国斉同」の解釈については、桐本氏は異論を想定している。すなわち、「移風易俗」ないし「万国斉同」は特定の学派の手により誕生した特殊な思想であると思想史家は疑問を提出するのではないかという。それに対して、桐本氏は「移風易俗」は決して特定の学派の思想ではなく、法家、儒家、道家とともに主張しているとする。法家は、始皇帝に信奉されたので説明するまでもないが、儒家については、「民のその間に生ずる者は、俗を異にす。(中略)以て民の徳を興し、(中略)道徳を一にして以て俗を同じくす。」(『礼記』王制篇)を史料的根拠として明示する。
そして道家については、道家の色彩が強い『列子』湯問篇を引用している。湯王が夏革に中国を取り巻く周囲の国の状況を尋ねたところ、東方では営州もその先も、西方では豳の地もその先も中国と変わりがないと答えた記事がある。「万国斉同」は老荘家流には「万物斉同」という表現になるが、それを地理的に説明すると、「俗を一」にした世界となると桐本氏はいう。このように思想の流派を問わず、中国古代の為政者・知識人は、「移風易俗」の思想に支配されていたとみる(63頁~64頁)。
この考え方は現代にまで引き継がれて、文化大革命の時期における「破四旧」も例外ではない。「移風易俗」は中国史の底流を貫通し、古代から現代まで継続してきた思考のあり方であると主張し、今後このテーマが議論されることを促している(64頁)。
「移風易俗」は従来、日本人研究者が見落としてきたテーマである。中国史全体を通じて、社会史・思想史にまたがる大胆かつ本質的なテーマを問題提起しており、紙幅の関係のためか、立論が古代に限定されたのが残念であるが、今後、議論が古代以外でも深まることを期待したい。

4.山本英史「公牘の中の“良き民”と“悪しき民”――清代康熙朝の事例を中心にしてー」
山本氏は、地方官僚という中国の知識人が統治対象である「民」を、公牘とよばれる公文書集において、どのように描いたかを検証し、それにより、清朝の地域支配の本質を探ろうとしている(67頁)。
地方官僚の民衆認識としては、一般には、人民は「赤子」であり、皇帝は「民の父母」と観念されていた。地方官僚は、皇帝に代わり人民支配を体現する代官であったので、「父母の官」であり、「民の父母」でもあるとされた。つまり実際の父母が子供に愛情を注ぐように、地方官僚は「民」に慈悲をもって治めることが求められた。
ただ人民支配の対象となる「民」とは、体制を従順に受け入れる一般の民、すなわち“良き民”を意味していた。現実の世界には、従順でない「刁民」とよばれる“悪しき民”も存在していた。地方統治の指南書である官箴の1つの『福恵全書』において、黄六鴻はこうした“悪しき民”への対応のあり方を説いている。すなわち盗賊もまた「民」の範疇であるので、地方官僚は本来は”良き民“であった「民」にも父母の慈しみをかけるべきという理想主義的な主張をしている。しかしこうした建前や理想とはかけ離れた“悪しき民”も現実には存在した。地方官僚は現実の「民」に対してどのように認識し、建前と現実との落差をどのような論理で埋めようとしたのかを明らかにしようとしている(68頁~69頁)。
その際に、史料としては、盧崇興が著した公牘『守禾日紀』を用いる。盧崇興は江南デルタの浙江省嘉興府といった統治困難な土地で、1675年から1678年まで知府を務めた人物である。『守禾日紀』は、1739年の刊本で、1670年代といった康煕10年代中頃の嘉興府の地域社会の状況を詳細に伝えている。
まずこの史料を用いて、地方裁判の判決や上司への報告書である讞語の中に現れた“悪しき民”である「刁民」「者」「徒」「棍」について検討している。彼らは売った土地の租税を強奪し、誣告したり、妻を妾として嫁がせたのに、姦通と誣告したりした「民」である(69頁~74頁)。
次に士民に訓示を与えるために官署の門前に貼り出した公文書である告示の中に現れた“悪しき民”と“良き民”について検討し、ここから讞語と告示の特徴の相違を導き出す。すなわち讞語は“悪しき民”を一方的に処断したものであったが、告示はある程度の斟酌が加えられている。そして盧崇興以外の地方官僚経験者の告示をも検討している。例えば、李鐸(紹興府知府)の告示は、賭博・恐喝といった悪事を働く紹興府の無頼棍徒に対して、
「本来ならば、ただちに爾らを逮捕し重法に処すべきである。しかし教えずして誅するのは心に忍びない。不肖の子孫でも必ず父や師の厳しい訓戒によってなお改心する希望があるものだが、頑が朴に変わるのであれば、つまりは良民である。しばらく猶予を与えよう。このため示諭にて関係する地方人等に知らしめる。」とか、
「余は爾らの父母である。教えずして殺すのは忍びない。そこでまず、勧諭を示し、このため爾らに知らしめる。」という内容を含んでいた。ここにおいては、“悪しき民”に対しても、『論語』(堯曰篇)の「教えずして誅するのは之を虐と謂う」(岩波文庫、1963年[1994年版]、275頁)という常套句を持ち出して、訓戒によって反省・改心するように促す。
この傾向は、李鐸と同時代の戴兆佳(浙江の台州府天台県知県)の告示にも、「眼前にいるのはみな赤子であり、教えずして殺すには忍びない。そこで堯諭し、特別自新の路を開かせるべく、このため告示にて、すべての賊を匿う者たちに知らしめる。」とか、「余は民の父母であるからには、積悪を駆除して民害を消し去ることを誓う。ただ教戒を施さずして遽かに国法を正すは『法外に仁を施す』の意ではない。そこで特別に堯諭を行う。」という論法を持ち出す。つまり教えずして殺すのは忍びないとして、説諭、堯諭して、地棍(賊を匿うことを主とする)といった“悪しき民”を「民」へ取り込もうとしている。「頑が朴に変わるのであれば、つまりは良民である」として、条件によっては、「民」の範疇に入れることを示している。よく分を守れば良民であるが、分を守らなければ敗類であるとする。
また、張我観(紹興府会稽県知県)も、「若輩どもが果して已往の非を悟り、自新の念を芽生えさせ、悪を去って善に向かうなら、これは良民である。以後自戒して悪に染まらないようにせよ。」という。
山本氏は、李鐸、戴兆佳、張我観もともに、地方官僚の温情とも取れる訓告や説諭に実効力があったとは思わず、告示が頻繁に出されたことから考えれば、前非を悔い改めて新しい路を開いた“悪しき民”もほとんどいなかったと推測している。そして告示の主目的について、“悪しき民”もまた「民」であることを示し、「万民の父母」の立場を貫きながら、他方で積悪を取り除くために、“悪しき民”を処分する大義名分を得ることであったと山本氏は考えている。そして告示について、地方官僚が「父母の官」の立場から、「民」に対して方針を伝えるという性格をもった公文書であり、そしてその内容には理想と現実が入り混じっていたと捉えている。つまり、教えずして殺すのは忍びなかったにせよ、教えた後にでもなお「民」にならない者たちを誅するのは、心に迷いを生じないという認識傾向があった(74頁~83頁)。