歴史だより

東洋の歴史に関連したエッセイなどをまとめる

《冨田健次先生の著作を読んで》その18

2014-12-31 16:05:03 | 日記
褚遂良について
褚遂良は銭塘(浙江省)の人である。
褚遂良は、虞世南、鐘繇(151-230、三国魏の政治家で、伝統的な書法をよくした)、王羲之を学んで、一家をなした。ある時、太宗が「虞世南の死後、書を論ずる者がない」といわれたので、魏徴が「褚遂良があります。王羲之の筆法を得ています」と答えたので、太宗は即日召して侍書にし、太宗の手許にある多数の王羲之の書の真偽を鑑別せしめたが、少しの誤りもなかったというエピソードがある。褚遂良は欧陽詢に重んじられ、宮廷に入り、王羲之の法書の鑑識にすぐれていた。
褚遂良58歳の書として「雁塔聖教序」がある。「雁塔聖教序」は陝西省西安市の慈恩寺大雁塔にはめこまれている聖教序碑である。玄奘三蔵が、652年、寺内に雁塔を建て、翌年、塔上の石室にこの「聖教序」の碑を立てた。これは褚遂良の代表的な楷書で、細身でありながら、大ぶりの悠然とした書風である。用筆超妙、点画はすべて躍動していうべからざる妙趣があるといわれる。その一方で、勅命で書いた関係か、文字のふところが小さく、筆が割合に暢達していないと評する書家もいる(鈴木・伊東、1996年[2010年版]、56頁~59頁)。
褚遂良は官僚としては、尚書右僕射(うぼくや)にいたったが、後に愛州刺史に左遷され、不遇のうちに、愛州(北ベトナム)で客死した。つまり、太宗の遺命を受けて、高宗の政を助けていたが、晩年、高宗が武氏昭儀(後の則天武后)を皇后に冊立しようとしたのに反対し、帝の怒りを買い、潭州都督に左遷され、657年、桂州都督、さらに愛州刺史に貶され、その翌年658年、同地において窮死した。だから、初唐の三大家のうちで、褚遂良だけは、ベトナムと無縁ではない人物である(角井、1987年[2013年版]、10頁)。
ところで、俳人・加藤楸邨(しゅうそん、1905-1993)は、「雁塔聖教序」をその随筆の中で絶賛している。
その書は、のびのびとして、一つの流れとなった書美の世界が開かれてくるので、鬱屈を覚えるときに、机上にひろげてみていたという。心をのびやかにしてくれるというのである。つまり、虞世南や欧陽詢を見た目で改めて褚遂良に接すると、豊潤な味わいが満ちており、楸邨の鬱屈した思いを解きほぐしたという。一字一字の美しさは、ほとんど比類ない感じで恍惚とさせ、一つの流れの中にあり、抵抗を感じさせず、それでいて、一つ一つの文字は鞭のような撓(しな)いを感じさせ、悠容迫らぬもののなかに、精緻な用意がゆきとどいていることに惹きつけられたと述べている。
石川九楊も、この加藤楸邨の随筆内容に異論はなく、「離れ小島へ持参する一冊の本」は何かと問われたら、文句なしに「雁塔聖教序」という法帖を挙げると答えている(石川、1996年ⓐ、178頁)。
清の翁方綱は、「米芾は褚遂良を学ぶこと久しいといっているが、それでこそよく晋法を窺うことができたのだ」と批評している。
褚遂良の書は「房玄齢碑」や「雁塔聖教序」に見られるように、碑書でありながら、欧陽詢や虞世南の書とはちがって、微細な筆意をよくあらわしており、南朝人の技巧的に発達した書法を残しているといわれる。つまり欧・虞から南朝人の筆意を窺うことは難しいが、褚からならばそこへ遡る手がかりになる。
そして米芾の書には最後まで褚遂良の筆意が残っている。欧・虞・褚は楷書の完成者であるとされているが、その中で褚の書がもっとも前代の、ことに南朝の法を残していて、六朝へ通じやすいのは、あたかも蘇・黄・米がいずれも晋唐の書を学んで新意を出したが、古法をもっともよく伝えたのは米芾であるということになる(神田ほか、1966年、第15巻、26頁~27頁)。

褚遂良の「雁塔聖教序」について(補足)
日展評議員で、奈良教育大学教授であった天石東村は、褚遂良の「雁塔聖教序」について次のように評している。
「外には筆力を露さず、内に巧さを蔵しています。その線は極度に圧縮され、細く張りつめており、快よいリズムで左右に伸びた線は、刻々とその姿をかえ、息の長い、緊張した味わい深い充実したものになっています。また、弾力性のある線質のはしばしにその巧みさを示しています。」と。
つまり緊張した味わい深い充実した線で、しかも弾力性のある線質に巧みさがあるという。概して、外には筆力を露さず、内に巧さを蔵していると、天石も「雁塔聖教序」を高く評価している(天石東村『書道入門』保育社、1985年、71頁)。

褚遂良臨模本について
黄絹に書かれ、古くから褚遂良の臨模と伝えられている「蘭亭序」は、北宋の米芾の手に帰したことがあり、その跋がある。それには、
「右は唐の中書令河南公褚遂良字は登善の臨した晋の右将軍王羲之の蘭亭宴集序である。本朝の丞相王文恵公(王隨)の故物である。」とある。
そして米芾はこの蘭亭の書法を評して、次のように述べている。
「王の書を臨すと雖も全く是れ褚法である。(中略)永和の字に至ってはその雅韵を全うし、九・觴の字は備さにその真標を著わし、浪の字は書名に異るなく、由の字はますますその楷則を彰わす」とある。つまり褚臨が王羲之の書の雅韵、真標、楷則をよくあらわしているという。
ただ「浪字は書名に異るなし」というのは、浪の旁の良が、褚遂良の名を書すときの良の字と同じ書法であるという意味である。褚遂良の署名は、今日では「雁塔聖教序」に見られるのが一番確かなものであるらしく、その良字の第一画が隷書風にカギ形になっているところは、この蘭亭の良のそれと似ていると内藤乾吉は解説している。
また、褚遂良の「房玄齢碑」や「枯樹賦」には、一つの画から次の画へ筆をうつす時に、ことさらに遊絲を引いている文字が多く、それが褚遂良の書の一つの特徴であるとみられている。この「蘭亭序」の「和暢」の和字の禾偏や「萬殊」の萬字の草冠にも、それが認められることを内藤乾吉は指摘している。そして、この本が褚臨であることの一つの証拠になると考えている。
また、一般的に初唐人の筆意がこの本には認められるという。例えば、第4行の「峻」、第5行の「以」、第8行の「暢」、第9行の「觀」の各第一画の筆の入れ方、すなわち縦画を書く場合に、最初に入れた筆を少し右へ移して下す筆法は、褚遂良を含めて初唐人の筆法であるという。
なお、後に日本の斎藤董盦の有に帰し、博文堂が影印した際に、内藤乾吉の父である内藤湖南が跋を書いたという(神田喜一郎ほか『書道全集 第4巻』平凡社、1965年、158頁~159頁)。

初唐の三大家の書について
初唐の三大家が書いた楷書の絶品は、それぞれ均衡の美に迫っている。三者三様の味わいがあるが、鈴木史楼はその違いについて、次のような比喩で説明している。欧陽詢の「九成宮醴泉銘」は、ピラミッドの壮重な姿を連想させ、褚遂良の「雁塔聖教序」、とりわけ「有」という字の姿からはミロのヴィーナスの姿が浮かんでくるという。「有」の第一画の斜画は、しなやかでたおやかな曲線である。それでいて、力強い動的な均衡を見せている。そして虞世南の均衡は、欧陽詢と褚遂良の中間にあるという(鈴木、1997年[1998年版]、140頁)。

楷書について
文字造形の基礎はやはり楷書であるといわれる。一般に漢字の場合は楷書からはじめられるのが普通である。
楷書の手本でも唐代の楷書は非常に端正なものである。唐代の楷書、例えば、欧陽詢、虞世南、褚遂良あたりのものはそうである。楷書の力の均衡を極度に発揮して、みごとな安定さを持った巧みさがある。書家の天石東村は、楷書の典型と称せられる唐代のものをまず学ぶべきであると薦めている。つりあいの美を文字の上に極度に発揮したものが唐代の楷書であるから。
一方、仮名の場合では、藤原行成の「和漢朗詠集」あたりが、唐代の楷書に匹敵するものといえるとする(天石東村『書道入門』保育社、1985年、117頁~119頁)。
書家の榊莫山は、楷書について不満をもらしている。すなわち、
「そもそも書道の根幹は、楷書にある。およそ書法のレッスンは、まず楷書からはじまるほどだ。ところが、専門の書家ですら、惚れ惚れするような楷書のかける人は少ない。名だたる書の展覧会へでかけても、楷書の名作は、まず見あたらない。
楷書がなんとなく嬉しげにならぶのは、小学生の書道展だけである。誰もがいの一番に習ったはずの楷書が、大人になってみたらほとんどかけない――なんて、笑うに笑えぬ現実が、書の世界にひそんでいるのだ。」と榊莫山は記している(榊莫山『莫山書話』毎日新聞社、1994年、109頁~110頁)。
ダウン症の女流書家の金澤翔子の母である泰子は、世界で最も美しいと言われ、楷書のバイブルとされる「九成宮醴泉銘」を、中国まで見に行ったと述べている。そのとき「凄い」とは思ったが、涙は滲まなかったという。
ともあれ、翔子が20歳のときに個展を開いた際に、泰子は書で最も難しいと言われる「楷書」の世界に挑戦してみる気になったと記している(金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年、55頁~57頁)。
書家の柳田泰山も述べているように、楷書は書法では無二と言われる厳しさが求められる世界であり、真剣な眼差しで究極の楷書を学んでいる翔子の姿勢に、人間の純粋性を見出せるかもしれない。それはまるで沼という現世に対し、蓮の如く、時を過ごしているかのごとくである。
また、翔子の「十如是」を鑑賞して、石原慎太郎は次のように記している。「「十如是」は、お釈迦様が説かれた法華経の中の大切な教えです。お釈迦様は、書道に楽しんで打ち込んでいる翔子さんのように、自分で生きる喜びを見出した人の人生が、一番幸せな人生だと言われているのです。」と(金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年、60頁~61頁、72頁~73頁、76頁)。

初唐の三大家の書と筆について
書には、文房四宝、つまり筆、紙、墨、硯が欠かせない。日本語の筆の語源は、文手(ふみで)、ふむで、ふでとなまったものといわれているが、中国では毛筆の始まりについて、次のような話が伝えられている。
秦の始皇帝が万里の長城を築いている際、蒙恬(もうてん)という将軍が城壁にへばりついている羊毛を見て、これを取って枯れた枝の先へ束ねて作ったのが毛筆の始まりだという。このため、蒙恬のことを筆祖といい、その作り始めたという筆を湖筆(こっぴつ)といて名筆とされている。
「千字文」の中にも、「恬筆倫紙(てんぴつりんし)」、つまり「蒙恬の製筆、蔡倫の紙の発明」とあるように、中国では筆は蒙恬が発明したものとみなされた(吉丸、1976年[1980年版]、154頁。小野、1986年[1999年版]、239頁)
ところで、毛筆の材料には、羊以外にも、馬、鹿、兎、狸、山馬(やまうま)、猫、てん、いたち、鼠のひげが用いられた。右軍将軍だったので王右軍ともいわれた書聖王羲之は、好んで鼠のひげを用いたといわれ、また欧陽詢の子欧陽通(とう)は、狸の毛を多く用いたという。筆の形質からみると、真(楷書)は雀頭(じゃくとう)、行(行書)は鶏爪(けいそう)、仮名は柳葉(りゅうよう)といわれ、それぞれ形を表した名称である。
筆の質には剛毛、兼毫、羊毛とがあるが、初唐の三大家でいえば、欧陽詢=欧法は剛毛、虞世南=虞法は兼毫、褚遂良=褚法は羊毛が向いているといわれる。つまり、筆との関係でいえば、欧陽詢の字を臨書して字をまねて書く時には、この人の字は線が力強いので、硬い筆でなければ書けないといわれる。逆に褚遂良の字を書く時には、柔らかい筆でなければ、うまく情趣がでない。虞世南の温和な字には、兼毫(剛毛と羊毛の中間)が一番むいているという。つまり、筆というものは、「弘法筆を選ばず」ではなくて、「選ばなければならない」というのが正しいそうである(大日方・宮下、1987年、28頁、268頁~269頁)。


「永字八法」について
中国の唐代に「永字八法」の基本形が生まれたと考えられている。日本がやっと本格的に文字を学習し始めた奈良・平安時代ごろである。
最低限見積もっても2万にも及ぶ文字の複雑な点画を八つの基本単位にまで抽象したという意味で画期的であった。石川九楊も、現在でもなお通用する普遍性には舌を巻くと賞賛している。
「永字八法」は単なる基本点画書法にとどまるものではない。横画を三折法(トン・スー・トン)の横画・勒と、トン・スー二折法の横画・策とに区別している。また、左はらいの画も、三折法の「掠」と二折法の「啄」に区別している。
このように、点、横画、縦画、左はらい、右はらいのすべての画に、三折法と二折法の書法があることをふまえ、それが三折法によって統覚されているという思想をもっていると石川は説いている(石川、1997年、108頁~114頁)。

「千字文」について
千字文は中国、梁の武帝のとき、周興嗣(521年没)が帝の命をうけて王羲之の字を集めて韻文に排列して作ったものという。千字の異なった文字を集めて、四言二百五十句の韻文としてまとめ上げたものである。「天地玄黄、宇宙洪荒」に始まり、「謂語助者、焉哉呼也」にいたるまで、人間社会、森羅万象について述べたものである。ただ、千字文が文の終わりの方になると意味の流れが悪くなり、「謂語助者、焉哉呼也」(助辞とは焉・哉・呼である)と苦肉の策の句で唐突に終わる。
武帝の命をうけた周興嗣は、一夜にして韻文を作り、その文を上進したが、その苦心の結果、頭髪はすべて真白になったという伝説がある。
「千字文」は漢字による「いろは歌」ともいえる。
中国歴代の書家は、千字文をよく書き、今日書道史に残っているものには、隋代の王羲之7世の孫である智永が「真草千字文」を八百本を書いて浙東の諸寺に納めたという。また、唐代に欧陽詢の「草書千字文」、褚遂良の「楷書千字文」「行書千字文」、懐素の「草書千字文」がある。
日本へは、『古事記』によると、応神天皇16年に百済の王仁(わに)が伝えたという。王羲之の筆跡の模本が天平年間に渡来し、現存する(吉丸、1976年[1980年版]、140頁。小野、1986年[1999年版]、28頁~31頁、230頁~239頁。石川、1996年、161頁。石川、2007年、12頁~13頁)。

「書法流伝之図」について
李家正文は、「書法流伝之図」(元鄭杓作で、『古今図書集成字学典』第85巻)という書家の系譜を紹介している(李家、1974年、178頁~180頁)。
それは、蔡邕(さいよう)からはじまって、やがて王羲之を経て、崔紓(さいしょ)にいたるまでの書家の系譜である。 
この系図の中で、王羲之は次のように位置づけられている。
衛夫人(衛恒之従妹)―王曠―王羲之(曠之子)―王献之(羲之之子)―(省略)―釈智永(羲之九世孫)―虞世南―欧陽詢―褚遂良
また、欧陽詢の次に褚遂良のほかに、もう一人陸柬之(世南之甥)を挙げている。そして、次のような系図になる。
陸柬之(世南之甥)―陸彦遠(柬之之子)―張旭(彦遠之孫)―顔真卿としている。そして、この系図の中に、張旭の門下で顔真卿の兄弟子に李陽冰(りようひょう)という者がいる。李白の従叔にあたる。

顔真卿について
中唐の革新派に張旭(生没年不詳)がいる。彼は伝統の二王の書法の権威を認めることなしに、新しい書をかいた。こうした風潮が起こった理由はどこにあるのかという問題に関して、社会史的にみた場合に、次のように平山観月は解説している。つまり、そもそも王羲之の書を生み出した社会的基盤は中世の貴族社会である。しかし中唐という時代は、貴族が没落してゆく時代で、それとともに、王羲之のような妍美な書風がすたれるのも当然であるというのである。
これは書だけの問題ではなく、文章の問題でもあった。韓愈は駢儷体の文の改革を試みた。そしてその韓愈は、王羲之の書については姿媚を追う俗書だと罵っている。このように、王羲之の典型を破ろうとする革新の動きが詩文の改革とともに、当時発生しつつあった。その機運の先鋒に立ったのが張旭であり、その彼が玄宗の開元年間の末に没すると、そのあとをうけて大成した人物が顔真卿(709-785)であった(平山、1965年[1972年版]、206頁)。

顔真卿は名門の生まれではあるが、幼時家が貧しかったので、紙筆にとぼしく、黄土で牆(へい)に習字したといわれる。
また家が破れて雨が漏り、その雨痕(あと)の色々な形を見て大いに書法をさとったといわれ、「顔の屋漏痕(おくろうこん)」という。
文に長じ、書に巧みなばかりでなく、一身すべて忠節の権化ともいうべき大人物である。洛陽にのりこんだ安禄山に、義勇軍をあげて立ち向かった。
玄宗から帝位をゆずられた肅宗は、そんな顔真卿を法務大臣に任命して、綱紀の粛清をはかった。「争座位文稿」はそんな時に書かれた56歳の時の書である。それは座位を争って郭僕射に送った文稿である。「祭姪稿」「祭伯稿」とともに顔真卿の三稿として有名である。不用意に書いたといわれる「率意の書」であるために、顔真卿の性情がみられるといわれる。古来、「蘭亭序」とともに行書の二大双璧といわれ、また顔真卿の書として第一位に推されてきたが、「祭姪稿」の方が格調が高いとされる。
ともあれ、「争座位文稿」は「蘭亭序」の媚に対して、率意のうちに醸し出された渾樸の妙趣があるといわれる。顔真卿の楷書を大いにけなした宋代の米芾も、この「争座位文稿」だけは顔書の第一として推称した。
「千福寺多宝塔感応碑」(752年)は、唐の天宝11年(752年)、長安の平福寺に勅建したもので、僧楚金(698-759)の舎利塔碑である。43歳という最もはやい頃の書で、もっぱら欧陽詢・虞世南などの書を学んだと思われる時代のものであるようだ。だから、後半の顔法すなわち風骨遒峻、風稜人を射るごとき趣はいまだみられないといわれる。この多宝塔の拓本は、楷書の手本を適するところから、ひろく書学者の間で愛翫されてきた(平山、1965年[1972年版]、228頁~229頁、245頁~246頁。鈴木・伊東、1996年[2010年版]、63頁~65頁。榊、1970年[1995年版]、62頁~63頁)。

「麻姑仙壇記(まこせんだんき)」は63歳の時の書である。麻姑とは仙人のこと、仙壇とは仙人のいる山のことであり、筆力深遠円熟の作であると評される。しかし、脂ぎっている書であるために、日本人の性情に合わないせいか、あまり日本人には迎えられないという。この点、褚遂良の方は日本的情趣が豊かであるために、受け入れやすい(鈴木・伊東、1996年[2010年版]、64頁)。
顔真卿は、唐王朝に忠勤をぬきんでた正義感のつよい剛直の士で、王羲之のような貴族的な書は全く意に満たなかった。顔真卿が求めた書風は、妍美なものに反撥し、男性的な重みと、剛気とにみち溢れた主体的なものの表現であったと平山はみている。革新派の流れをくむ宋の蘇軾は、顔真卿の書に、最上級の讃辞を贈っている。ともあれ、顔真卿の書は、王羲之の書と対蹠的な関係に立ち、中国書道史上、王羲之と並んで二大宗師と謳われる(平山、1965年[1972年版]、206頁~207頁)。
中唐の顔真卿の「祭姪稿(さいてつこう)」は、「争座位稿」「祭伯稿」と共に、三稿として有名である。「祭姪稿」は、明快、ズバズバと書きおろし、独特なふくらみのある逞しい線で書かれている。数多く残されている碑文も、碑ごとに書相を異にしていたので、「真卿の一碑一面貌」といわれている。空海は顔真卿没後に入唐したが、空海の名蹟「灌頂記」はこの「祭姪稿」の影響が多いといわれている(鈴木小江、1987年、121頁)。
顔真卿の個性的な我侭は、書法上に大きく投影していた王羲之を乗り越えて、一格を形成することに成功したと理解されている。この顔真卿あたりから、書は技術的内容から、人間的、精神的内容へと比重が移行しかけ、やがて宋代の書のごとき時代思想の影響を受けた作品が産出されるにいたる。書作上における思想的傾向は、唐代においては顔真卿ばかりでなく、張旭(ちょうきょく)や懐素(かいそ)にも見られる現象だが、宋代に入って蔡襄、蘇軾、黄庭堅、米芾の四家が輩出するにいたる(青山、1971年[1980年版]、117頁)。
顔真卿の楷書の姿は「蚕頭燕尾」と言われる。起筆は蚕の頭のように角を失って丸く大きくなり、燕の尾っぽのように、はらいの先が細く長く伸びている。この形は起筆を送筆気味に紙の奥深くへ打ち込み、その反撥する力にのっかりながら終筆へ向かい、終筆で再び紙の奥深くへ抑えこむ筆蝕によって描き出される。
ところで、高村光太郎は「美について」の中で、顔真卿について次のように書いた。「顔真卿はまつたくその書のやうに人生の造型機構に通達した偉人である」と。
石川九楊はこの説に必ずしも同意していない。その石川は、顔真卿の書について、「筆蝕」つまり「書くこと」の姿を字画の外部に露出させることによって、初唐代とは異なった新しい段階(ステージ)に立ったと語っている(石川、1996年ⓑ、178頁~179頁)。

向勢と背勢について
書に向勢(向きあう)と背勢(背中合わせになる)という二種の文字結構(構成)法がある。書の歴史も向勢と背勢、そして直勢の織りなすドラマであると石川は捉えている。
「楷法の極則」と呼称される、初唐代、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」は、「皇甫誕碑」や「温彦博碑」の背勢を内に含んだ、直勢や背勢によって成立している。起筆を強めることによって生じる直勢や背勢によって楷書の文字の構成美は完成し、頂点を極めたという。この後、顔真卿はあからさまな向勢のなまなましい線によって、表現美へと書の歴史的ステージを押し上げた。
ところで、一般的に、向勢は膨張形と受感され、暖かさ、温(ぬく)み、軟らかさ、鈍さ、安定、解放に馴染むようだ。一方、抑圧に耐える姿を連想するところから、背勢は冷たさ、寒さ、強さ、硬さ、厳しさ、鋭さ、屹立(きつりつ)、閉鎖の雰囲気を醸し出すといわれる(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、109頁~110頁)。

則天武后(623~705)の書について
則天武后は、中国史上まれにみる女傑である。并州文水(山西省)の人で、第3代高宗の皇后であった。はじめ太宗の後宮に入って才人に選ばれて、太宗の崩じたとき、剃髪して尼となったが、高宗に望まれて髪をたくわえ、再び後宮に入り、その寵を得て、655年皇后となった。武后33歳の時である。
則天武后の書は太宗の影響をうけて、堂々たるものがあり、同じく太宗を学んだ高宗の書よりも勁いといわれる(平山、1965年[1972年版]、254頁~255頁)。
高宗が崩じてからは、形式的には実子である中宗・睿宗を立てたが、実権を握り、690年、国号を周と改め、自ら聖神皇帝と号した。その業績については、政治家としてみるべきものがあったとする説と、唐の宗室をほとんど傾けさせたことに対する非難とが相半ばしている。
則天武后は書にも精通しており、「昇仙太子碑(しょうせんたいしひ)」(699年)は今に残っている。この碑は河南省偃師県の東南の緱山(こうざん)の昇仙太子廟にある。昇仙太子というのは、周の霊王の太子晋のことで、王子晋といわれ、仙道をおさめ、白鶴に乗って緱氏山上から昇天したと伝えられている。
則天武后は国号を周と改め、河南の嵩岳(すうがく)に行幸して封禅の礼を行なった。行幸の際、廟の修築を命じ、碑を建立させたのである。
唐の王室は老子をその祖としたのに対して、武氏は周王室の姫姓(きせい)の出であるとして、その宗室の仙人を尊んで、アピールしたのである。
この碑の書は草書で、石刻では最初の例とされ、また女性の書碑として珍しいものとされている。武后の書は太宗の影響をうけ、王羲之の書をよく学んでいる。同じく太宗を学んだ高宗にくらべると、強く豊かであると真田は評している。また、この碑文の中には、武后の時代に作られたいわゆる則天文字(たとえば、○(星)など)が用いられている(真田、1967年[1972年版]、201頁~204頁)。

懐素の「自叙帖」について
書は音楽にも親しい表現であるといわれる。哲学者・西田幾多郎は、「書の美」というエッセイの中で、「音楽と書とは絵画や彫刻の如く対象に捕らはれることなく、直にリズムそのものを表現する」と書いた。
書にかぎらず、中国には春秋戦国時代から同質であって長短等しくないさまを参差(しんし)と言い、「参差不斉」なる言葉があって、参差が美を構成する上で不可欠と考えられていた。ちなみに参差とは竹の管を束ねた簫(笛)のことであるという。書は参差、つまり音階の芸術でもあった。書は強弱を基盤とする書字の律動(筆蝕)の上に成立する。
唐代の懐素の「自叙帖」(777年)は劇的性格を秘めた畏るべき書であるといわれる。石川はその筆蝕をひとつの交響曲として理解している。西欧古典(クラシック)音楽のような規模で現れる書は、この懐素の「自叙帖」を嚆矢とすると捉えている。古法=歴史的書法=二折法は、書史上においては懐素の「自叙帖」によって、完膚なきまでに粉砕されたとみる(石川、1996年ⓐ、205頁、216頁)。

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