歴史だより

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《冨田健次先生の著作を読んで》その25

2014-12-31 16:25:47 | 日記
現代日本書壇とその批判について
大溪洗耳の著作として、先述したように、『戦後日本の書をダメにした七人』(日貿出版社、1985年)がある。そこで、西川寧、青山杉雨など7人の書家を批判し、真に実力ある書家は、手島右卿、日比野五鳳、小坂奇石、殿村藍田、堀桂琴、田辺古邨、石橋犀水、伊東参州らであると主張している。
西川寧、青山杉雨が主導する日展および書道界の体質について批判している。西川寧は、1902年東京生まれで、書家の西川春洞の三男で、慶応大学文学部支那文学科を卒業し、文学博士で芸術院会員で、北京留学の経験があり、慶応大学名誉教授であった。つまり「慶応ボーイのスマートボーイ」「学者でインテリで、文章がうまく、いわば痩せたソクラテス」、そして“書道界の天皇”であるという。清代の趙之謙(ちょうしけん、1829-1884)に傾倒し、昭和の三筆の一人とされ、1989年に没した。
大溪は、西川に対する尊敬できる点として、次の2点を指摘している。
①結果的に実らなかったが、会津八一を日展に持ってこようとしたこと。
②西川の若い頃の「倉琅先生詩」は、趙之謙ばりで、すばらしい作品である。
ただ、西川が、書は「用」のために在るべきでないと主張し、「用」の無用論を唱え、その弟子青山杉雨(さんう、1912-1993、大東文化大学教授、生涯一度も個展を開くことがなかった)が、「うまい書だけが書ではない」と認識している点に関しては、疑問を呈し、大溪は持論を展開している。つまり、「用」を否定することは書の技術を否定することでもあると大溪は考え、書の技術は絶対に必要であるという立場をとっている。
例えば、青山は「書家はたんにうまい字を書けばいいのではない。書とは文字を介してさまざまな文化的現象を集約して再表現することであり、そのためには哲学、宗教、絵画などの幅広い教養が必要になってくる。作品とはそうした教養、生活の象徴である。」(『読売新聞』昭和58年12月19日付)と主張している。
この青山の議論に関して、大溪は次のように批判している。「書は究極、たんにうまい字のみを目指すものではない」というのも、一つの考え方であるが、文字を介してさまざまな文化的現象を集約して再表現するには、表現する技術の「うまさ」がなければならないと大溪は主張している。
また技術の「うまさ」だけでは再表現はすべてが可能とも言えないが、しかし最低技術による「うまさ」は作家である以上避けて通過することはできないという。技術を馬鹿にする作家はすでに自ら作家であることを放棄しているのと変わらないとする。
かつての芸術院会員であった豊道春海、鈴木翠軒、日比野五鳳といった書家は、その作品のすばらしさで人の心を揺さぶり、感動・驚嘆させた。これらの書家には技術という背景があり、その技術は「うまさ」の根底を作っていたと大溪はみる。そしてその「うまさ」の上に、「うまさ」を超えた「すばらしさ」がある。またこの「すばらしさ」をもひっくるめて「うまさ」とすることもある。
しかし、青山杉雨の作品をみても、書家が最低避けて通れない前段階における技術の「うまさ」すらないと、大溪は批評している。
日展は、いくつかの書道団体が集まってやっている連合社中展であると大溪は規定している。日本の書壇、とりわけ西川寧と青山杉雨の書壇は、展覧会をやることによって支えられてきたという。そして西川、青山は二人とも社団法人の日展の謙慎書道会という最大会派に所属していた。青山が日本の書道界に“理念なき展覧会至上主義”を確立したと大溪はみている。また、書道界には師匠がいて、師匠の言う通り勉強して師匠の手本を貰って入選すれば、礼金がいるという構造で、その悪しき金権的体質を大溪は批判している(大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、48頁~70頁、大溪洗耳『続・戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、7頁~55頁)。
大溪と同じく、榊莫山も、日本の書壇のセクト主義を批判している。日本の書は、中国の漢字・漢詩の流れの系譜と、平安の仮名・和歌の流れの系譜がある。書壇は、漢字作家と仮名作家の二つに分断され、書家のえらぶ言葉(詩、成語、熟語)も、宿命的に決まってしまう。書という芸術を、漢字・仮名・篆刻・現代詩・少字数・刻書・墨象など、小刻みのジャンルに分類していて、展覧会になるとジャンルの旗をなびかせて、セクト主義が横行する。このセクショナリズムこそ、書壇の閉鎖的な体質を生む病巣であると榊は考えている。そのセクト主義が、書の新しい造形的発想を閉じこめ、枯渇させ、若い人たちの想像力や創造性を萎靡(いび)していると批判している(榊莫山『中国見聞記―書の源流をたずねて―』人文書院、1982年、229頁~232頁)。
ところで、書作の実質的批判点としては、独立書人団の作品展では、空間章法の悪い作品が多い点を大溪は挙げている。字を書いて作品を書いていないのだという。つまり、字を書くことに腐心するあまり、字以外が見えず、空間が見れていないと批判している。「字は書けても空間が書けない」というのである。この空間が書けるということが現代書の一つの大きな命題であるとする。
例えば、村上三島は、王鐸に没頭しながら、王鐸(1592-1652)の一番すごいところの、行間の章法、行のうねりを学ぼうとしなかったと批判している。王鐸は、明・清二朝に仕えた能書家で、明末ロマンチズムの中心的な存在で、長条幅連綿草の書表現を確立した。
王鐸の技術の三大特徴として、
①行書の各字の線の組立に見える接筆に気を配っている。この点は、米芾や顔真卿や王羲之を超えるところがあると大溪はみている。
②長条幅に見られる各字に亘る因果関係が、直感力だけで布置されていながら、王鐸独特のつっかかりのリズムを出している。
③長条幅における空間は瞠目に値し、天才王鐸の動物的直感からくる呼吸と間のすごさを大溪は賞賛している。
こうした王鐸の書の技術的側面に加えて、明末清初の動乱の中で生きた王鐸の人間性の豊かさを挙げている(大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、34頁~37頁、163頁~164頁。『王羲之大好きオジさんの憂鬱』日貿出版社、1995年、8頁)。
王羲之と王鐸とを対比させながら、その相違について、わかりやすく対話形式で述べた書物として、大溪洗耳は『王羲之大好きオジさんの憂鬱』(日貿出版社、1995年)という著作を出版している。
書家の大溪洗耳自身、10代から20代前半までは、書聖王羲之を尊敬し、「蘭亭序」をすばらしいと思い、「張金界奴本蘭亭序」といった法帖を臨書していた。しかし、大学生時代から、王羲之の書の「かったるさ」が嫌いになり、その体験を踏まえて、この本を書いたようだ。王鐸大好きオジサンが、王羲之大好きオジサンを目の前に座らせて、説教をする形式で、書の極意を伝授していくといった内容である。
例えば、書で重要なのは章法であると、王鐸大好きオジサンは説いている。董其昌も「書は章法を以て一大事となす。行間茂密これなり」と言っている。空間章法は即応力で、本を読んでも会得できない。書がうまくなるのは生活神経で、情念を培うことが大切であるという(大溪洗耳『王羲之大好きオジさんの憂鬱』日貿出版社、1995年、1頁~24頁、209頁~210頁)。
そもそも大溪の基本認識は、こうである。
書家が書作品を評する時に用いる「うまさ」とは、書作の表現技術が勝れていることを意味すると大溪はいっている。例えば、筆がよく使えているとか、紙と筆との関係がよいとか、緩急もよいとか、潤渇のバランスが自然であるとか、線質が生でない、字形が自然な表情で、連綿に合理性がある。太細接筆によく神経がゆきとどいていて、文字章法もよい。天地左右行間字間と全体章法もゆるぎなく、リズムと間のとり方もよいなどを挙げている。
このような書作の表現技術の勝れた「うまさ」だけでは職業書家・プロの「うまさ」の条件には到達せず、「うまさ」の中に背景を持たなければならないと説く。背景とは、本物を身につけることであるという。本物とは、中国の碑帖をさす。例えば、鳴鶴を祖として秋鶴、尚亭に近い作家は、漢魏六朝を至上のものとして学んだ。唐代でも、宋代以降でもいいが、本場の本物を洞察しなければならないという。臨書をし、くり返し書くことで、見るは観るになり、観るは洞察になり、よいものとは何かを認識するという(大溪、1985年、23頁~25頁)。
良寛の言い分を大溪洗耳が解説すると、こうである。つまり、書家で「うまい」書を作る人はたくさんいるが、勝れた「おもしろい」書ということになると、さっぱりであるという。その理由としては、書家は書の勉強しかしないから、書の世界に埋没して周囲と関わらないから、視野が狭いというのである。
現代の書家でいえば、一年中、あっちの展覧会、こっちの展覧会、そうでなければ書の研究会、書家の集まり、と飛び走り、書が頭から離れない。だから、他の世界に首をつっこんでいる暇がなく、つまらない、いかにも書家らしい書になってしまうのではないかと、説明している。
良寛が字書きの字が嫌だといった所以もそのへんにあるのだろうと推測している(大溪、続、1985年、174頁~175頁)。
また絵画の世界を見ても、アブストラクトは本来、具象をやって導き出されたものであり、根幹はすべて具象(フィギュラテイフ)からの出発であるとみる。ピカソのキュビズムは、バルセロナ時代の6000枚のデッサンが基盤になっているという(大溪、1985年、137頁~139頁)。
そして、大溪は、書における線質が重要で、それは書作の生命であることを、次のように強調している。
「書における線質は、書作の生命である。線質が悪ければ、どんなに形が勝れていても、見れたものではない。書における線質は絵でいうマチエルである。大方の絵はマチエルを見ればその技術の程度は解かる。書における線質も、大方の場合、その基本技術の、程度がどれくらいか直ぐ解かる。線はくり返し書作をすることで練られてきて、いわゆる「なま」でなくなる。この「なま」でない状態を何時で発揮出来る技術を持ってはじめてプロといえる。書の批評は実作者でないと基本的な部分で見誤ることがあるというのは、この線質如何の見分においてである。実作をして線が「なま」でなくなる過程を十年単位で認識しないと、ほんとうの批評は出来ない。線質は多様で、同一作品中でも、人によったら千変万化する。線質を正しく見極めて、後に造形性云々を言わなければ、書の批評をしたことにはならない。線質が解らないから、形だけの話になる。形だけで作風を言ったり、見た目で言辞を弄する。」(大溪、続、1985年、130頁~131頁)。
「書において線質は生命である。書の線質だけは、書作家でないと解らないという、東洋の墨の美術の最大の特性でもある。」とも言っている(大溪、続、1985年、132頁)。
このように大溪洗耳は書において線質は生命であると考えている。

書は線の美か
ただ「書は線の美」であるというと、不十分であることを石川九楊は論じている。書は線の芸術であるという考えは、文字を構成する「点と画」を「点と線」と言ってしまったところが間違いであるという。
例えば、「大」と書いた時の一点一画は、決して野放図な点と線ではない。「大」の字を三本の線からなると言っても、実際には、第一画の横画は右上がりに書かれるのが基準であり、そこには起筆と送筆と終筆という三つの単位をもって書かれる。
また第二画は「左はらい」と言われるような先端に行くにしたがって尖る形状をもつ。そして第三画は「右はらい」と呼ばれる先端に三角形の力のためとはらいからなる形状を備えている。「大」の字は、「左はらい」と「右はらい」とでは形状が異なり、厳密には決して左右対称ではない。
そして、石川はいう。「大」という「文字」を書くのではなく、作者はなにか切実な理由があって、「大」という「言葉」を書くのであると。その「言葉であるところの文字」は点と画を積み重ねるところから生まれてくる。点と画は決して一般的な点や線ではなく、すでに言葉の一部である文字、否、言葉そのものをすでに微粒子的に含んでいる存在なのだと述べている(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、23頁~24頁)。

国際的な書とは
石川は戦後前衛書を紹介した後に、字句の判読性に書の本質はないと主張している。「書を読む」「書が読める」とは、書として表現された世界を解読することであるというのである。筆蝕と構成と角度の芸術である書は、それらの歴史的蓄積の理解の上に立って、正確に読み解かれるべきであるという。
字句が読めず、理解できなくても、書を読むことは可能であるともいう。この書にまつわりつく謎について、高村光太郎は字句が何と書かれているかわからないのに、その表現を感じとることのできるのはなぜだろうと考え、書の美の要素として、「筆触の生理的心理的統整」の存在を発見していることを石川は紹介している(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、250頁)。
そして石川は次のように述べている。
「現在は、たとえ書とはとうてい思えない形にまで歪んだ形であっても、書の本質と美質を核とし、そこに東アジアを超え、西欧をも含み込んだ世界の姿を写し込む実験と、演習をしなければなりません。現在はそのような時代であると私は考えています。」と(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、254頁)。
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ(わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか)」(1972年)などの前衛書をものしている石川の書に対する理解には深いものがあろう。


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