歴史だより

東洋の歴史に関連したエッセイなどをまとめる

《冨田健次先生の著作を読んで》その23

2014-12-31 16:21:43 | 日記
日本人、中国人の国民性の相違と書に対する評価について
日本では、とくに禅僧の書を「墨跡」と称して、これを珍重する風習がある。鎌倉時代は禅林様書道の栄えた時代であるといわれる。芸術と人間との相関性を自覚して、その深まりを求めるところに、道におけるきびしい鍛錬、稽古を行なうのが、禅林様の書道精神である。そこには、男性的、個性的、意力的な書風が成立したと理解されている。
鎌倉時代の禅僧で中国に入国した者は、8、90人にのぼり、その墨跡が将来され、無準師範(1177~1249)などの墨跡は今日なお伝存している。
禅僧の墨跡の特色は一般に中国の古い書道の伝統から離れた破格の書であるといわれる。中国のように、根強い文化的伝統を持つ国では、その伝統に反するものは、これを異端として拒否する傾きがつよい。したがって、中国では禅僧の墨跡はむろん疎外されたという。一方、日本においては、書道の一派をなすものとしてその価値を認めている。ここに書に対する両国の相違を平山観月はみている(平山、1965年[1972年版]、296頁)。

書の見方・鑑賞について
絵画を言葉で表現するのが難しいように、書を言葉で形容するのも困難である。その際に大いに参考となるのが、平山観月『書の芸術学』(有朋堂、1965年[1973年版])という著作である。
東晋時代の王羲之の「蘭亭序」は典雅(端正で上品)、唐時代の顔真卿の「自書告身帖」は雄渾(雄大でとどこうりない)、一方、日本の平安時代の空海の「風信帖」は淳和(てあつくやわらぐ)、同じく平安時代の伝小野道風の「三体白楽天詩巻」は優婉(やさしくしとやか)と形容している。この点について詳述してみたい。
書道における美的範疇は、主範疇と従範疇に分ける。主範疇に属するものは雄勁・優婉・飄逸の三者であり、これは基本的範疇の崇高(壮美)・純美・フモールに当たるものとする。語義的にいえば、雄勁は雄々しく強いことを意味し、優婉はやさしくしとやかなことであり、飄逸は形にとらわれず、自由無礙、放逸の態を意味し、また明るくのんきなことである。これらの三範疇はそれぞれ書の「強さ」「優しさ」「面白さ」を示す美的賓辞である。芸術書のあり方の基本的な三方向を示すものとして、これを主範疇と平山はしている。
次に従範疇として、主範疇の雄勁に所属するものとしては、蒼古・雄渾・曠達の三者をあげる。蒼古は古色を帯び、さびのあることであり、雄渾は雄大で、滞りない姿であり、曠達は度量ひろく、悠々として物事にこだわらぬ態である。
次に、主範疇の優婉に所属するものとして、淳和・典雅・流麗がある。淳和は手厚く、やわらぐ意味があり、典雅は正しく、上品なこと、みやびていることであり、流麗はなだらかで、麗しい意味がある。
次に主範疇の飄逸に所属するものに、斬新・素朴・雅拙がある。斬新は趣向の新奇なこと、素朴は人為なく、自然のままなるをいい、雅拙は一見子供じみて下手らしくはあるが、よく見れば素朴で純粋美があふれていることを意味する。
このように、主従あわせて、12の範疇に分けている。
ただし、平山は範疇の相互関係について、次の点を指摘している。
①これらのうち、ただ一つの範疇だけでは、複雑な書作品の美の様式を律しきれないことが多い。たとえば、雄勁と見るべきものの中にも、優婉味を帯びたものものあり、飄逸味を含むものもないわけではないという。
②これらの範疇は書の美的体質に名づけられる賛辞であると同時に、書者の精神、生命の動きに対する美的賓辞であることを意味する。というのも、書とはつまり、書者の内部生命の動きが筆墨紙をとおして律動的に表現されたものと平山は考えているからである。そして主範疇である雄勁・優婉・飄逸は、より精神美の方向を端的にあらわし、これに対して従範疇である蒼古以下の諸範疇は、より体感的美の方向を端的にあらわしている。
③これら従範疇のうち、蒼古・淳和・斬新は時間的契機のもとに捉えた範疇であり、雄渾・典雅・素朴は素質的契機のもとに捉えた範疇であり、曠達・流麗・雅拙はリズム的契機のもとに捉えた範疇として観察し得ることである。
なお、雄勁・蒼古・雄渾・曠達と、飄逸・斬新・素朴・雅拙とは、それぞれ対照的賓辞であり、優婉・淳和・典雅・流麗は中和的契機をもつ賓辞であるとする。
このように、平山は、書道における美的範疇の概念を捉え、中国の書の史的流れにそって、画期的な書人の作品を取り上げ、その美的賓辞について検討している。
たとえば、秦の始皇帝はいわゆる「小篆」を作ったが、その代表的な書跡である「石鼓文」(帝の頌徳の石文)は、蒼然たる色を帯び、かつ荘重、雄勁の点も見受けられるが、まず蒼古にはいるべきであろうとする。
東晋の王羲之、王献之父子は楷行草三体をよくし、「楽毅論」はその細楷として第一位に推されるもので、筆力秀勁、筆法の妙をきわむといわれ、行書の「蘭亭序」、「孔侍中帖」、草書の「喪乱帖」など用筆、結体ともに精妙で、毛筆の極致を示すものといわれている。
王羲之の書体は各体とも貴族的であり、その人間性から発散する縹渺たる仙気は、一種の悠然たる風格が備わっている。この風格は、優婉・淳和・典雅とも呼ばれるべきものであるとする。
続く南北朝時代では、北朝は北方人の雄勁な書風で、南朝は流麗な書風で、互いに対立的であった。しかしその南北の対立は、隋唐において融和し、初唐の三大家といわれる欧陽詢、虞世南、褚遂良の均斉のとれた書風になった。そして盛唐には顔真卿の豊かな生命感にあふれた書が生まれてくる。唐代の書道の盛大をなしたゆえんは、太宗の力に負うところが大きく、その太宗は帝王中第一の能書家といわれ、王羲之の書を敬愛した。初唐の三大家も王羲之に源を求めているが、虞世南の書は典雅においてまさり、欧陽詢の書は雄勁の趣を加え、褚遂良の書は蒼古の風神を湛えている点に特色があると平山は評している。
一方、顔真卿は唐王朝に忠勤をぬきんでた正義感の強い剛直の士で、妍美なものに激しく反発し、男性的な重みと、剛気とに満ちあふれた主体的なものの表現を求めたといわれる。その書そのものが「自書告身帖」にみられるように、壮重雄渾であった。剛毅であり、野逸でさえあるその書風は、まさに「書は人なり」の感を深くする(平山、1965年[1973年版]、182頁~190頁)。
その書風は、当時一般に行なわれていた王羲之風の優雅な書風に刺激を与え、書表現の思想や技術が大きく転向した。当時の楷書が隷書に源を求めていたのに対し、顔真卿はさらにさかのぼって篆書にその根底を求めた。だから、顔真卿の楷書は従来のそれに比して、文字の姿態は丸く、線はほぼ楕円形をなし、千金の量感を呈し、雄渾曠達にして度量も広く悠々たる風情があると評せられる。これが顔真卿の楷書の大きな特色である。
次に、宋代の四大家である蔡襄・蘇軾・黄庭堅・米芾は、それぞれ個性を発揮して清新な書風を開く。蔡襄の「万安橋記」の書法は顔真卿の型で雄偉、遒麗にして堂々たるものがあり、雄渾といわれる。
蘇軾の「黄州寒食詩巻」の書について、黄庭堅は「疏々密々、意のまま緩急して、文字の間に妍媚な美しさが百出するもの」と絶賛している。それは、現存する蘇書の中では神品
第一と称せられる。平山は、趣向斬新、流麗な筆致をもって鳴るものと評している。
蘇軾は、顔真卿の書を学び、その上古人の書をよく消化し、独創的な個性を表現しようとした。
黄庭堅も、蘇軾と同じく、顔法を学んだ。彼はとくに魏晋の書に見られる逸気を重んじ、晩年には唐の張旭・懐素に草書の妙をうかがい、さらに秦漢の篆隷にさかのぼって、古人の用筆と筆意を学んだ。草書の「李白詩憶旧遊」は、超妙脱塵の境地に達した書といわれ、平山は、瓢逸を主として曠達を兼ねるところの逸品と称賛している。
また米芾は晋人の高古の風を尊び、奔放な宋人らしい主観的な書をかいた。「方円庵記」は行書のうちでとくに著名で、その朗暢な書風は宋代随一と称せられている。その書風の淵源するところは、王羲之、褚遂良にあるが、流麗なリズムの中に、斬新な趣向があるといわれる。
このように宋代の書表現は、自由と個性とを中心としたものであった。
それに対して、元代の書は復古主義に戻ったといわれる。元代の趙子昴は典雅な書をかいた。彼は古人の筆跡を慕い、王羲之の書の伝統が唐の中葉以降かき乱され、宋人の書が放縦にして弊が多いのを見て、晋唐への復古を志した。その代表作「行書千字文」は温雅寛博、円熟に達した書であるといわれている。日下部鳴鶴は、「規矩を自然にし、雄奇を清穆に寓す」と評した。平山は、「まさに典雅の賓辞にふさわしい手跡というべきである」と称賛している。
さて、明代にはいっても、書流としては晋唐を目標にし、そこから脱するところまでは行かなかった。その中で董其昌は軽妙で円熟した書をかいた「項元汴墓誌銘」は、行書を交えた楷書で、遒媚にして暢達、当代第一の大家たる気品があるといわれる。
彼は、元の趙孟頫の一派がもっぱら王羲之の形似を得ることに努めた行き方を退けた。そして晋人の書法に造詣の深い米芾や、晋人の精神を得た顔真卿に共感を示したようだ。概して董其昌の書は、枯淡、秀潤、率意の妙においてすぐれているといわれる。平山は、その範疇により、枯淡は蒼古、秀潤は流麗、率意は素朴の賓辞に近いものと理解している。
清代にはいっては、金石学の興起により、再び北朝の書風が復興される。とくに劉石庵と石如が名高い。劉の「砂金箋」は豊潤でしかも気骨を内に蔵し、静かな情趣をたたえた典雅な書風は品格が高いと評される。の「漢崔子玉坐右銘」は、篆隷を当世に生かしたもので、蒼古、渾厚の気がみなぎっていると平山は解説している(平山、1965年[1973年版]、182頁~192頁)。
「楷書は立てるがごとく、行書は歩むがごとく、草書は走るがごとし」といわれるが、楷書・行書・草書の相違、特質について、言いえて妙である(平山、1965年[1973年版]、264頁)。

ギリシャ美術と書
西川寧編『書道』(毎日新聞社、1976年)において、美術史家の守屋謙二は「書の芸術性」という評論で、ギリシャ美術と書との関係を見た場合、西洋と東洋の書の相違が明確に浮き上がることを述べている。
西洋美術の本源とも見なされるギリシャ彫刻であるが、その一例として、紀元前400年ごろの製作と推定される「ヘーゲーソーの墓碑(アテナイ、国立美術館蔵)を挙げることができる。墓碑の上部なる破風形の下辺には、ギリシャ文字の銘文「プロクセノスの娘ヘーゲーソー」と刻まれている。この浮き彫りは、ヘーゲーソーが下婢のさし出した小筥(こばこ)から宝石の首飾りを取り出している場面である。その端正な横顔や、豊潤な体躯の表現はパルテノン神殿の彫刻作品にも比肩するほどである。
こうしたすばらしい彫刻的表現にもかかわらず、碑銘の文字は、字画がきわめて簡単であり、多様な雅致に富む表現をとり得ない。文字の描線は、雅拙でたどたどしく、その組み立ては均衡がとれず、不安定である。つまり書の表現は貧弱をきわめる。このことを「あたかも美人に筆を持たせると、みみずのような拙字を書くのに似ている」と守屋は表現している。
彫刻の領域において卓越したギリシャ民族は、必ずしも書道の方面でりっぱなものを生み出すとはかぎらず、二つの美術のジャンル、すなわち彫刻と書道とは実際の製作にあたって、同じ水準に達することなく、全く異なった現われ方をしているとみている(西川編、1976年、64頁~67頁)。

「気韻生動」について
絵画では六朝の後半期、5世紀頃には、六法論があらわれて、絵画への自覚に根拠が与えられた。六法の第一に「気韻生動」の一条があげられている。精神性の表現を第一とする所に中国人の美意識の特色がある。書論でもこの頃「生気」ということが第一に考えられていた。雄逸・洞達といった風な人格的なものの味得となり、その中枢にはいつも神気があった。
六朝の後半期は、書でも主知的な傾向が動き出して大きな転換をする。一画が三つの構造を確立して、新しい楷書を生み出したのもこの時期である。その挙句は、隋・唐、6世紀終わりから7世紀にかけて、楷書の典型の成立となる。平行線の統一と力の均衡による正しい構成(間架結構法)に飽和された精神、これがこの時期の特色である。そして、欧陽詢はその中心的な存在である。
しかし、典型が成立すると、反典型的な運動、つまり主観の表現を第一とするようになる。北宋の後半、11世紀に蘇東坡があらわれて、この面に新しい世界を大きく開いた。ここで書における神気の充実ということが強く自覚されてくる。書の鑑賞にも、瓢逸とか、疏宕とか瀟洒あるいは雄麗、渾摯、雅醇、婉秀などと、人格的な、性格的な、または情趣的な面が注意されてくるようになる。この視点が、大体後世の鑑賞の標準となる(西川、1960年[1973年版]、56頁~58頁)。

参差(しんし)について
構成は、書の歴史的展開の中で、まず文字の誕生とともに、整斉(せいせい)つまり対称(シンメトリー)と均等(イクオール)を知る。やがて筆で書きつける姿を文字に定着した書字(書くこと=筆蝕)の発見とともに、参差(しんし)を知ることになるという。
参差とは、字画の長短や出入りのことである。これは音楽に喩えれば音階、絵画に喩えれば色彩ということになると石川は説明している。
書論には「整斉中参差あらしむべし」という言葉がある。「整っていると言うことは画一的とは違い、音階の美をもつべきである」という意味らしい。
もともとの甲骨文、金文、篆書の時代には、同じ長さの三本の線で書き表されていた「三」の字が、隷書の時代に入って以降、三つの字画の長さが異なるように書き表されるようになったのは、この参差=音階の美の成立ゆえであるというのである。
書道家が、「作品に変化をつける」と言っているのが、参差に相当する(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、52頁)。

章法とは
一幅の字配りを「章法」、もしくは配字法、布置ともいう。扁額、条幅、扇面などの揮毫にいては、文字の巧拙よりも、むしろ、この章法に留意しなければならないといわれる。
文字を上手に書くというのは平素の練習にあるが、章法はその場合に臨んで、大いに工夫を練る必要がある。
①長い字と、短い字とがある場合に、その釣合いをどうするか、
②何十字という文字を、一幅に収める場合に、それを何行に書けばよいか、
③また書体は何が適すかというように、種々考慮しなければならない。
もっとも簡単に会得できるものではなく、「書くより慣れろ」といわれ、昔から「扇子千本(せんすせんぼん)」という言葉がある。これは扇子の揮毫はなかなかむずかしいもので、千本も書けば初めて上手に書けるようになるという意味である(小野鵞堂『三体千字文』秀峰堂、1986年[1999年版]、222頁)。

石川九楊にとって書のうまさとは何か
一方、石川九楊にとって書のうまさとは何か。このテーマでは、石川は『書と文字は面白い』(新潮文庫、1996年ⓑ、256頁~257頁)で言及している。
意外に思われるかもしれないと断りつつ、大正9年(1920)に、俳人・河東碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873~1937)が揮毫した「蘭亭序」を「うまいなあ」と感じるとして挙げている。
 その書の書き出し部分「蘭亭序 永和九年」の写真が掲載されているが、王羲之の書風とは全く異にした文字である。その書は、一見、不自然に文字を歪めたかのように見え、抵抗を感じるかもしれない。しかし、「うまい」と言い切れる理由として、次の3点を指摘している。
①文字を紙面に配する構成。
②字画構成法。
③安定した字画運筆律の中に隠された強弱、転調、飛躍の演出法。
これら三者の組み合わせの上に見事な劇(ドラマ)が進行していると石川はみている。書き出しの先の7字について、次のように分析している。
・「蘭」の字の草冠の二つの点の強弱の様子
・「亭」の第一画の長さと傾き
・「序」の第三画のごく細い形状への転調過程
・水紋の広がりを思わせるような「永」字の形状
・「和」の偏と旁の寸法の落差
・扁平な造形と化した「九」字
・四つの横画があって三つめまでは諧調をもって漸減しながら最後に異常なまでに伸長される「年」の姿態
これらの字があいまって、劇的(ドラマチック)な展開をしているという。
また、縦画は下から、横画は右から起筆されており(いわゆる逆筆)、それにつづく次の字画も適切な位置に書かれ、どの字画も納得がゆき、どの文字も見事にきまっていると称賛している(石川、1996年ⓑ、256頁~257頁)。

書のうまさとは?
古典作品は、うまいから残ってきたとは決していえないと武田双雲は明言している。均整がとれている、バランスがいい、線がきれいというだけの話なら、他にもたくさんある。百年、千年の時を経て生き残ってきた書の古典は、素晴らしいものだが、ほとんどの作品は「うまい」とは感じられないというのである。
王羲之の「蘭亭序」といえでも、決して完璧なうまさとはいえず、余白や字形等をみても、すべてが完璧ではないという。
本当にうまい字ということであれば、近代の書家が書いた書作品の方がうまいと武田は思うと述べている。例えば、近代の書を代表する一人でもある日下部鳴鶴(くさかべめいかく、1838-1922)の「楷書千字文」は無駄がなく、「うまい」という。日下部は六朝書道を学び、清国に渡って書学を研究した明治書道界の第一人者である。
それでは、なぜ、古典は人々を魅了するのかという点については、「書は人なり」というのが一つの答えであると武田は理解している。
例えば、良寛の書は決してうまいとはいえないが、絶大なる人気を保っている。その書は、細かくて頼りない線質で、たっぷりと余白があり、丸みのある書で、人々の心を癒してきた。見ているだけで、ほっとする気がする書である。その書は単に手先の問題だけでは書けず、その書には良寛の生き様、人生観がそのままにじみ出ているというのである。
先ほどの王羲之にしても、その書に対する姿勢、練習量はすさまじいものであったといわれる。また彼の生きた時代は、書が単なる記号としての文字から、美意識を持った芸術の域にまで達し始めた頃であった。つまり、王羲之は書が芸術としての価値を高めていった時代の波を創り出した人であったと歴史的に位置づけられる。
「うまい書」ではなく、本当に「よい書」とは、このように時代性と人間性・個性という要素があらわれた書であると武田は捉えている(武田双雲『「書」を書く愉しみ』光文社新書、2004年[2006年版]、35頁~44頁)。

「永字八法」について
右はらいは、ペン字においても、やはり難しく注意を要する。書家の金田石城も次のように解説している。
右へのはらいは、タテの線と45度の角度で、ナナメ右下へスーッとペンをおろしてきて、一度ペンをとめ、筆記具を持った手の力を抜きながら、そっと右側へずらす感じで手をすべらせると、自然な終筆になるというのである。つまり、永、東、京などの右へのはらいは、一度ペンをとめたのち、そのペンを引きずるようにのばして、終わらせる形が良いとする。右へのはらいは、終筆が昆虫の足のように、ひと関節分多いのが特徴で、形としては、ちょうどバッタやカマキリが足をふんばった形のようになると説明している(金田、1985年、39頁~40頁、48頁)。

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