会津八一(1881-1956)と書の評価
鄭道昭と王羲之に対する会津八一の評価についていえば、会津は、北魏の書家である鄭道昭(?―516)が非常に好きであるという。王羲之の字がいいという人は鄭道昭の字を見てもさほど感服しないが、王羲之は少し暗すぎていかんというような考えの人が鄭道昭を見ると、非常に喜ぶそうだ。ここがいわば分かれ目であるとみる。つまり、南方と北方の趣味の差があらわれる。一言でいえば、王羲之の字は不明瞭で陰鬱であるという。文字に明瞭を求めた会津らしい言説である。王羲之の書を万人の手本とするのは、大なる誤った態度であると会津は信じていた。
会津が北方の鄭道昭の書が好きである理由として、「実にいい気持で、何か気のふさぐやうな時にそれを出して見てゐると、大変心気朗かになつてくる」点を挙げている(会津、1967年[1983年版]、24頁~25頁、64頁~65頁)。
ついでに言えば、会津は中林梧竹(1827-1913)の書は好きだが、唐の欧陽詢の書を学び、端正で明快な書風である巻菱湖(1777-1843)の書は嫌いであるという。梧竹の字は「浮世ばなれのした字」で、竹箒で書いても味わいのある字だが、巻菱湖の字は、砂の上に書いても字にならないという。巻菱湖は字はうまいが、陰気な字で、どこか痛々しいというような感じがする。それに対して、梧竹の字は「何時も明るい大きい味はひが出て来る」という。
ただ、巻菱湖という人は日本一流の名家で、明治書道界の第一人者である日下部鳴鶴(1838-1922)などに影響を与えた。もっとも、その日下部鳴鶴が晩年のような字になったのは、中国から来た楊守敬の刺戟を受けて、日本風にかたまっていた頭を開いて、別天地をそこに展開し、中国の法帖を借りて手習したり、引き写したりしたのが、晩年大成する素因をなしたようだ。その結果、日下部の暗い字も明るくなってきたと会津はみている(会津、1967年[1983年版]、67頁~70頁)。
会津の書と絵についてのエピソード
書道の練磨のために、渦巻を内側から書いたり、外側から書いたりすることを会津は勧めている。こうして、いい線が書けるようにせよという。そうすれば、書道は無論のこと、絵も描けるようになるという。
そして、今日、画家の絵が軽薄であるのは、線を書くことを知らないからだと主張している。会津が鳩居堂で、絵を描いたのを出した時、帝室博物館の美術部長である溝口禎次郎がやって来て、次のような質問をした。会津の絵は実に不思議な絵である。溝口は美術学校にいた時から雪舟の画風を慕って、花木山水を描いてきたが、会津のような線はとても書けない。いつ絵を研究されたのかと問いかけた。
それに対して、会津は別に絵の稽古などしたことはないと答えた。線が書けないで画をかくの、字を書くのというのが、そもそも間違いであると諭し、会津の線かきの秘訣を教えたという(会津、1967年[1983年版]、39頁~41頁)。
三島由紀夫(1925-1970)の書について
三島由紀夫の書を、「温感の書」と石川九楊は評している。三島は、原稿や揮毫に楷書を多用した。行、草体の草稿の方が熟練していてよほどよいのに、原稿は生真面目に楷書で浄書した。揮毫も楷書の基本である起、送、収筆の三過折(いわゆるトン・スー・トン)を脱しようとはしなかった。
ところで、『金閣寺』の原稿は、烈しい筆致がところどころ見られるが、全体は、女性的と言ってよいほど、温かいやさしい顔立ちをしていると石川は評している。つまり、男性にありがちな職業的な歪みがなく、最も均整のとれた初唐代の楷書の基本に忠実であった。
三島にとって、書とは幼い日の懐しい習字体験の再現に他ならなかったであろうと石川はみている。三島は幼い日、母親の実家で、祖父の指導の下に快い書初めを強いられた。また、学校の習字の時間は、「昔流の、肱(ひじ)をきちんと立て、筆の頭に一銭銅貨をのせても落ちぬほど筆を垂直に保つてゐなければならぬといふ、固苦しい教へ方だから、退屈していろいろいたづらをした」と振り返っている。
その書の評価はまちまちである。三島の母は、「よくそんな下手な字を人様に上げられるわね」と眉を顰めて、三島の書を評したといわれる。毛筆に常時接してきた世代の遠慮会釈のない感想である。
一方、作家の野坂昭如(あきゆき)は、高く評価した。「三島さんの楷書、なかでも自らの姓名記す場合の筆致は、しごく鮮やかであって、書の原型といえるだろう」と記す。ただ、三島由紀夫の書を好む傾向は、書への素養を欠いた世代に多いと、石川は手厳しい。
ともあれ、周知のように、三島由紀夫は、1970年11月、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乱入し、割腹自殺し、衝撃的な死を遂げた。ただ、先述したように、『金閣寺』の原稿は、女性的な温感の書で、どこにも割腹自決を予感させる雰囲気はないと石川は解説している(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、79頁~83頁)。
川端康成(1899-1972)の書について
川端康成は、その生家は北条泰時の末裔であるようだ。幼くして父母が病没し、3歳で祖父母に養われた。作家としては、周知のように、『伊豆の踊子』『雪国』を発表し、横光利一とともに新感覚派の代表作家となった。そして、昭和43年(1968)、ノーベル文学賞を受賞した。
その川端の書について、保田與重郎(やすだ よじゅうろう、1910-1981)は興味深いことを記している。保田は、楊守敬の来日、碑板法帖13000点の舶載に象徴される近代書の出発点を、「歪」「弊」として否定的に評価した。一方、保田は、川端康成の書を「今の日本の書家の一人として、これほどの書は書けない」と、文人の書として絶讃した。一字もおろそかにせず、心がこもり、張っている文字の動作は、川端の可憐な文学の底にあったものと同じであるという。しかもひきしまった文字は、自然に生動していて、一見して痩硬(そうこう)の如くで、しかもなつかしいものにあふれていると述べている。その書にも、川端文学の真髄がここにあるというような気がするとし、文と書の一致した文人書の理想像が描かれているという(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、206頁~209頁)。
詩人でもあり、書道評論をも執筆した疋田寛吉(ひきた かんきち、1923-1998)も、川端康成の書について述べている。書に深く執心した作家は近代に少なくないが、生存中に自分の書の個展を催した作家は何人もいないそうだが、川端康成は死の前年、昭和46年(1971)に、日本橋の壺中居(こちゅうきょ)において個展を開いている。その時の図録に、川端は「今の私の書はまとめて人さまに見ていただく高さには達していない」とし、「五年、十年先の老後の書の道程として、力んでみたり、気負ってみたりのわざとさ」もある、いわば未完成の書を見てもらうのだということを述べている。
また、川端ぐらいおびただしい毛筆の手紙を書いた作家は、現代作家にはいないだろうといわれる。自身も「原稿はペンで書くので、原稿のほかの文字はペンで書くのがいやである。手紙など、ペンだと早くかたづくのはわかつてゐるけれども、ペンでは書く氣になれない」という。
川端は、1968年、ノーベル賞受賞の知らせのあった日に、思いがけないことに、幾つかの書を染筆した。それも川端の書業の頂点と見られる書、「秋の野に鈴鳴らしてゆく人見えず」や「秋空一鶴」を書き残している。当夜は千人ともいわれる来客で、川端家はごったがえしていたが、その寸暇を縫って揮毫したという。だからこその筆力の高揚と沈静との充実を疋田はその書に読み取っている。
自作原稿の書は、越後湯沢駅の文学碑をはじめ、『雪国』の冒頭を最も多く書いているそうだ。昭和46年(1971)に行われた生前の個展「川端康成書の個展」にも出された。その書は、ボテボテした墨の濃淡が今にも溶けてなくなりそうな雪質を偲ばせ、不思議にたどたどしい余韻を伝えている書であった。
また、「佛界易入、魔界難入」という書幅は、昭和43年(1968)7月、参議院選挙に立候補した今東光の応援演説のため京都に立ち寄った折り、「いつ死ぬかもわからぬから形見に」と保田與重郎に贈った書であるといわれる。この言葉は一休和尚の禅語である。川端はノーベル賞受賞記念講演でも、「意味はいろいろに読まれ、またむづかしく考へれば限りがないでせうが、<仏界入り易し>につづけて<魔界入り難し>と言い加へた、その禅の一休が私の胸に来ます」と触れている。また、未完の小説『たんぽぽ』でもその絵説きをしている(疋田寛吉『近代文人にみる書の素顔』二玄社、1995年、54頁~57頁)。
中村不折(なかむらふせつ、1866-1943)と書
中村不折は、洋画家で書道家であるが、昭和11年(1936)、自邸に書道博物館を開設したことで知られる。
その著書『六朝書道論』で、「美術家の最後の叫びは『自然に歸れ』の一語に在り、余は思ふ、書道に於て漢魏六朝碑に向つて所謂る自然の尋ぬべきもの多々なるを」と述べている。その結果、六朝風俳書ブームを全国に惹起させた。
中村不折は35歳(明治34年)で渡欧し、アカデミー・ジュリアンに学んだが、その外遊の旅行カバンの底に、「龍門二十品」「書譜」をしのばせ、小さな硯、筆墨をも携行していたといわれる。そして5年間、黙々と誰も訪れる者のない貧しいアパルトマンの夜の孤独を、一人習書にふけって、わずかに無聊の慰めとしたといわれている(疋田寛吉『近代文人にみる書の素顔』二玄社、1995年、172頁)。
内藤湖南(1866―1934)の書について
明治以降の人の筆跡は、高村光太郎のいうところの「余計な努力」をしているのが多く、なかなか「あたり前と見える」ものは少ないと疋田寛吉は述べている。だから、良い楷書を書いた人は数えるほどしかおらず、書家の楷書は平板か、もしくは流行の六朝振りであると嘆いている。
その点、中国人にも通用する楷書で、安心して見ていられるのは、先ず内藤湖南と長尾雨山だろうという。
のちに東洋史学者となった内藤湖南は、日本の毛筆常用時代の書を仕込まれた、最後の少年の一人であったといわれる。明治14年(1881)、明治天皇東北巡幸の奉迎文を、小学校の在校生を代表して書いている。
湖南の書の手解きは、儒者である父内藤調一(十湾)によって、懇切な指導を受けた。その手本はすべて十湾が書き下ろした手本であり、素読の四書五経の教本に至るまで、みんな父の手書きの写本だったそうだ。湖南にとって、習書は、小手先の練習として習ったのではなく、実用の学問の基礎として培ったといえよう(疋田寛吉『近代文人にみる書の素顔』二玄社、1995年、106頁~107頁)。
小林秀雄(1902-1983)の書について
また、石川九楊は『現代作家100人の字』(新潮社、1998年、209頁~211頁)において、小林秀雄の書について、次のように評している。
「小林秀雄のペン書きの色紙には丁寧な心づかいがある。<小林秀雄>のサイン部も美しくくずされているが、軽率・乱雑なところがない。丹念な筆蹟だ。」と。
また小林秀雄が一時期、憑かれたように骨董に狂ったことはよく知られている。入手した良寛の「地震後作」の軸を、吉野秀雄に贋作だと指摘されて、即座に名刀・一文字助光で斬り捨てたこともある。
美術史は同時に贋作の歴史でもあるといわれる。王羲之の名品「蘭亭序」偽作説があり、良寛の書などは真贋が相当複雑に入り組んでいるという。本物より偽物の数の方が圧倒的に多いのが、良寛や富岡鉄斎だそうだ。美を専有し楽しむには、見識と学識と相応の覚悟が要求されると石川九楊は説いている。
星新一(1926-1997)と習字について
SF作家に、星新一という人がいた。この作家は、かの森鷗外の妹、小金井喜美子(1876-1956、翻訳家で小説家、島根県生まれ)を祖母に持つ人であった。
その星新一には、習字にまつわる面白いエピソードが伝わっている。学生時代、ノイローゼに陥り、精神科医から「毎日かかさず、習字をしなさい」と命じられ、その指示に従って症状を克服したという。
心の中のむりなスピードが、習字によって、本来あるべきスピードに落とされ、いらいらしたものが消え、雑念が払われる作用があると、星新一は証言している。
この点について、書家の石川九楊は、次のように解説している。星新一の言う「いらいらしたものが消え、雑念が払われる」習字のスピードとは、単に緩慢な速度を指すだけではなく、毛筆と紙=対象との関係に生じる筆蝕(力・深度・速度・角度の全体)を指す。暗示からではなく、習字によってノイローゼ症状が癒されたとすれば、それは、鋒の遊びに生じる、運動(筆蝕)と出現する形(筆痕)との二重性、つまり筆蝕による慰撫の効用だろうというのである。
ところで、星新一の自作ショート・ショートが千篇を超えた記念に、「先閃泉」と書いている。三文字ともに「千」の音に懸けてあるが、このクレヨンかパステルで書かれた文字について、石川九楊は「癖のない、嫌味のない文字」と評している(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、102頁~104頁)。
大石順教(1888-1968)と口書きについて
弘法大師空海のエピソードに左右の手、左右の足、それに口を使って五本の筆を同時に操ったという「五筆和尚」の話がある。
また、享和2年(1802)、歌川豊国筆の美人画「瀬川路考(せがわろこう)[三代目菊之丞]の葛の葉狐」には、片腕で子を抱きながら、硯箱を持ち、口に筆をくわえる女性の書き姿がある。
恋しくば尋ね来てみよ和泉なる 信太(しのだ)の森のうらみ葛の葉
という歌の「恋し」の箇所を障子に口書きしている。
このように、口で書くということで言えば、伝説や絵だけの世界だけのことではなく、大石順教という女性が、現実にも存在した。
明治21年(1888)、大阪道頓堀で生まれ、12歳の頃、芸妓となったが、17歳の時、養父が狂乱し、斬殺事件を起こした際に、巻き添えとなり、両腕を失ってしまう。その後数奇な運命のもと出家し、尼となり、口で筆をとり、絵画や書にはげみ、書を驚くほど細かな文字で美しく書いたという。
その気概と努力には敬服に値する。手が不自由になったから字が書けないなどと泣き言をいうのではなく、手で書けなければ足で書く、足で書けなければ口で書くというところまで、「書く」という行為は人間の大事な営みである。人間の営みと努力の可能性について考える際に、示唆的な話であろう(石川、2007年、150頁~152頁)。
ダウン症の女流書家・金澤翔子について
金澤翔子は1985年6月、母親泰子の42歳で授かった子であったが、誕生後、すぐにダウン症と診断される。娘の翔子が1000人に1人と言われているダウン症と母親の泰子に正式に伝えられたのは、出産後、約2ヶ月が経った頃であった。一方、父親は、翔子が生まれる際に、仮死状態で敗血症を起こしていたため、生まれてきた子はダウン症だから、交換輸血をしてまで助けるのはどうだろうかと、医師から冷静に説明されたそうだ。父親はクリスチャンで、「主よ、あなたの挑戦を受け入れます」と誓い、自ら交換輸血をして、我が子の命を助けた(その父親は、翔子が15歳のとき心臓発作で突然亡くなる)。父親から母親に娘がダウン症であることを告げると、母親は絶望感を味わい、3年間は辛い思いで、涙を流しながら娘を育てて、子どもを道連れに死のうかと悩んだという(金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年、6頁~8頁、10頁~11頁)
ところで母親の金澤泰子(1943年生まれで、明治大学政治経済学部卒業)は1990年、東京・大田区に「久が原書道教室」を開設し、翔子は5歳で、母親に師事し、書道を始める。
翔子が10歳の小学4年の時、難しい漢字ばかりの272文字(経題を含む)の『般若心経』を涙を流しながらも、ひたすら書き続けた。涙の跡が残るこの時の書は、「涙の般若心経」として知られている。複雑な漢字を楷書で繰り返し書いたこの経験が、技術的なベースにもなったと母親はみている。歌人の馬場あき子は、翔子が10歳で書いた『般若心経』や『観音経』のひしひしとした文字並びから、幼くしてすでに誠実な持続の意志の深さを感じ取っている。また馬場は、翔子の20歳の成人に達したのを記念して催された初の個展を鑑賞して、強く心打たれた。銀座書廊の入口を入るとすぐ正面に飾られていた「如是我聞」の大字四文字に、鮮やかな意志と力と、空の広さを得て躍る虚心坦懐の純粋さを感じた。
翔子の書は、2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」の題字も話題となった。
翔子は、ダウン症のため、競争や優劣比較とは無縁の世界を生き、優しい無垢な魂を奇跡的に保ち、それが書に反映され、見る人の心に響くのではないかと母親はみている。
書家の柳田泰雲・泰山に師事した母親の泰子は娘の翔子の書を「技術的にはそれほど優れてない」と冷静に見ているが、「人の心を揺さぶるエネルギーは、誰もかなわない」と言う。
「人に勝ちたいという競争心がないから、魂が世俗的なものにまみれておらず、うまく見せようという欲もなく、喜んでもらいたいという気持ちだけで、純度の高い魂が生み出す書だから、見る人を素直に感動させるのであろう」と、東京芸術大学評議員をも務める母親として分析している(金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年、1頁~2頁、20頁、50頁~55頁、86頁~87頁)。
青山杉雨(1912-1993)という書家
後述するように、大溪洗耳は青山杉雨を批判している。しかし、断っておかなければならないことは、大溪洗耳が批判する青山杉雨には『明清書道図説』(二玄社、1986年)というりっぱな仕事がある。
著者略歴によれば、青山杉雨は、明治45年(1912)に名古屋市に生まれた。西川寧に師事し、謙慎書道会理事長をへて、大東文化大学教授についた。また日展常務理事、日本芸術院会員になり、文部大臣賞、日本芸術院賞を受け、そして勲三等旭日中綬賞を受けた。
青山は、中国歴代の書を通観してみて、最も「うまい字」を書いたのは誰かと問われたら、宋代では米元章(米芾)、明代では王鐸、清代では趙之謙に躊躇なく指を屈すると答えている。青山杉雨は、明末のロマン派の中心的存在として、王鐸を捉えている。そして、
「王鐸の書は実にうまい。またいい素質にも恵まれている。そうでなければあの様に縦横に筆を駆け廻らせては紙面が破綻してしまう筈なのに、それにうまくけじめがつけれるのは、その豊かな資質の然らしむるところであると見ている。また実によく線が伸び且行きとどく。羲之書を連綿草で書いた作などを見ると、よくあれ丈逸気にまかせて情懐を発展させながら、停る部分ではちゃんとキマリがつけられるものだと感心させられる」と記している。
また、王鐸の書は「うまい字」であるが、しかし傅山の書は「いい字」であり、書におけるロマンチズムの精神を傅山は最高のレベルにまで高めたと結論している。生き方においても、王鐸が清王朝に再出仕して節度を非難されて、その名を埋没させたが、傅山は出仕を固辞し隠棲し、清名を後世にまで語りつがれた点も対蹠的であった(青山杉雨『明清書道図説』二玄社、1986年、16頁~20頁)。
紫舟という書家
紫舟という女流書家は、NHK大河ドラマの「龍馬伝」の題字、NHKの美術番組「美の壺」の題字でよく知られている。
「美の壺」は、風景や文物について、日本の伝統美を紹介する番組である。題字「美の壺」の「壺」という漢字を見ていると、華道で花を生ける壺がイメージできるし、題字「龍馬伝」の「馬」という漢字からは、逸る馬を思い浮かべる。それはフランスの宮廷画家ダヴィッド(1748-1825)が描いた「サン・ベルナール峠のボナパルト」に登場するような馬が想起される。もちろん、このアルプス越えは史実とは異なり、実際には馬ではなく、騾馬であったようだ。ともあれ、紫舟の書いた「馬」という漢字からは、逸る馬と、血気に逸り、勇み立つ龍馬のイメージが重なり合う。
紫舟『龍馬のことば』(朝日新聞出版、2010年)という本において、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の題字を書くにあたり、紫舟は苦労したことを記している。つまり、龍馬への想いを一番伝えられる書体を見つけるために、龍馬に関する伝記・小説を読み、主演の福山雅治の音楽を何度も聴き尽くしたという。そして、その題字について、自ら、次のように記している。
龍馬さんの「若い志」と福山さんの繊細なシャープ感に焦点を合わせ、激動の時代を生きた龍馬さんの人生を書にしたいと思いました。「龍」には、龍馬さんと福山さんの背の高い風貌と福山さんのシャープな繊細さ、「馬」には、時代と格闘し天空までもを駆け抜けた龍馬さんの動きを、そして「伝」には北辰一刀流の免許皆伝でありながら人をあやめなかった龍馬さんの太刀筋を表現しました」とある。こうして、紫舟は天空を激しく駆け巡った龍馬の人生を書に託したのである。
紫舟という女性書家は、文字にイメージ表現や表情をつけ、情報としての文字に意思を吹き込んでいる。彼女は、2010年には、第5回手島右卿賞を受賞している(紫舟、2010年、24頁~25頁、94頁~99頁)。
ところで、この題字の「馬」とは、対照的な字として「やじ馬」という書を書いている。この言葉は、慶応2年(1866)7月、木戸孝允(桂小五郎)あての書簡からの一節「どうぞ又やじ馬ハさしてく礼まいか」から、取り出している。紫舟自身、「こんな状況のなか(下関を長州対幕府の戦争がはじまり、長州が勝利した状況―筆者注―)、あえてやじ馬ということばを用いた気持ちを、今すぐにでも足をぐるぐる回して駆けつけたい動きで表現しました」と説明しているだけあって、「馬」という字の四つの点が、足跡のように表現されており、面白いが、その字がかもしだすイメージも品格も「龍馬伝」の「馬」の字よりも、劣る(紫舟、2010年、74頁~75頁)。
龍馬は、伏見より江戸へ旅立つときに、「又あふと思ふ心をしるべにて 道なき世にも出づる旅かな」と、『詠草 四 和歌』に詠んだ。また会うことができる、その気持ちだけを頼りに、志をまっとうするべく道なき世へ旅立つと、語りかけている。
書家の紫舟は、この一首から「道」という字を選び、書にしている。「辶」が特色的で、途中、筆を一周させて、収筆へと向かっている。紫舟は、「自分自身の行くべき道へ進もうとする行動と、しかし後ろ髪を引かれる感情、その相反する気持ちを書にしました」と説明している(紫舟、2010年、54頁~55頁)。
鄭道昭と王羲之に対する会津八一の評価についていえば、会津は、北魏の書家である鄭道昭(?―516)が非常に好きであるという。王羲之の字がいいという人は鄭道昭の字を見てもさほど感服しないが、王羲之は少し暗すぎていかんというような考えの人が鄭道昭を見ると、非常に喜ぶそうだ。ここがいわば分かれ目であるとみる。つまり、南方と北方の趣味の差があらわれる。一言でいえば、王羲之の字は不明瞭で陰鬱であるという。文字に明瞭を求めた会津らしい言説である。王羲之の書を万人の手本とするのは、大なる誤った態度であると会津は信じていた。
会津が北方の鄭道昭の書が好きである理由として、「実にいい気持で、何か気のふさぐやうな時にそれを出して見てゐると、大変心気朗かになつてくる」点を挙げている(会津、1967年[1983年版]、24頁~25頁、64頁~65頁)。
ついでに言えば、会津は中林梧竹(1827-1913)の書は好きだが、唐の欧陽詢の書を学び、端正で明快な書風である巻菱湖(1777-1843)の書は嫌いであるという。梧竹の字は「浮世ばなれのした字」で、竹箒で書いても味わいのある字だが、巻菱湖の字は、砂の上に書いても字にならないという。巻菱湖は字はうまいが、陰気な字で、どこか痛々しいというような感じがする。それに対して、梧竹の字は「何時も明るい大きい味はひが出て来る」という。
ただ、巻菱湖という人は日本一流の名家で、明治書道界の第一人者である日下部鳴鶴(1838-1922)などに影響を与えた。もっとも、その日下部鳴鶴が晩年のような字になったのは、中国から来た楊守敬の刺戟を受けて、日本風にかたまっていた頭を開いて、別天地をそこに展開し、中国の法帖を借りて手習したり、引き写したりしたのが、晩年大成する素因をなしたようだ。その結果、日下部の暗い字も明るくなってきたと会津はみている(会津、1967年[1983年版]、67頁~70頁)。
会津の書と絵についてのエピソード
書道の練磨のために、渦巻を内側から書いたり、外側から書いたりすることを会津は勧めている。こうして、いい線が書けるようにせよという。そうすれば、書道は無論のこと、絵も描けるようになるという。
そして、今日、画家の絵が軽薄であるのは、線を書くことを知らないからだと主張している。会津が鳩居堂で、絵を描いたのを出した時、帝室博物館の美術部長である溝口禎次郎がやって来て、次のような質問をした。会津の絵は実に不思議な絵である。溝口は美術学校にいた時から雪舟の画風を慕って、花木山水を描いてきたが、会津のような線はとても書けない。いつ絵を研究されたのかと問いかけた。
それに対して、会津は別に絵の稽古などしたことはないと答えた。線が書けないで画をかくの、字を書くのというのが、そもそも間違いであると諭し、会津の線かきの秘訣を教えたという(会津、1967年[1983年版]、39頁~41頁)。
三島由紀夫(1925-1970)の書について
三島由紀夫の書を、「温感の書」と石川九楊は評している。三島は、原稿や揮毫に楷書を多用した。行、草体の草稿の方が熟練していてよほどよいのに、原稿は生真面目に楷書で浄書した。揮毫も楷書の基本である起、送、収筆の三過折(いわゆるトン・スー・トン)を脱しようとはしなかった。
ところで、『金閣寺』の原稿は、烈しい筆致がところどころ見られるが、全体は、女性的と言ってよいほど、温かいやさしい顔立ちをしていると石川は評している。つまり、男性にありがちな職業的な歪みがなく、最も均整のとれた初唐代の楷書の基本に忠実であった。
三島にとって、書とは幼い日の懐しい習字体験の再現に他ならなかったであろうと石川はみている。三島は幼い日、母親の実家で、祖父の指導の下に快い書初めを強いられた。また、学校の習字の時間は、「昔流の、肱(ひじ)をきちんと立て、筆の頭に一銭銅貨をのせても落ちぬほど筆を垂直に保つてゐなければならぬといふ、固苦しい教へ方だから、退屈していろいろいたづらをした」と振り返っている。
その書の評価はまちまちである。三島の母は、「よくそんな下手な字を人様に上げられるわね」と眉を顰めて、三島の書を評したといわれる。毛筆に常時接してきた世代の遠慮会釈のない感想である。
一方、作家の野坂昭如(あきゆき)は、高く評価した。「三島さんの楷書、なかでも自らの姓名記す場合の筆致は、しごく鮮やかであって、書の原型といえるだろう」と記す。ただ、三島由紀夫の書を好む傾向は、書への素養を欠いた世代に多いと、石川は手厳しい。
ともあれ、周知のように、三島由紀夫は、1970年11月、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乱入し、割腹自殺し、衝撃的な死を遂げた。ただ、先述したように、『金閣寺』の原稿は、女性的な温感の書で、どこにも割腹自決を予感させる雰囲気はないと石川は解説している(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、79頁~83頁)。
川端康成(1899-1972)の書について
川端康成は、その生家は北条泰時の末裔であるようだ。幼くして父母が病没し、3歳で祖父母に養われた。作家としては、周知のように、『伊豆の踊子』『雪国』を発表し、横光利一とともに新感覚派の代表作家となった。そして、昭和43年(1968)、ノーベル文学賞を受賞した。
その川端の書について、保田與重郎(やすだ よじゅうろう、1910-1981)は興味深いことを記している。保田は、楊守敬の来日、碑板法帖13000点の舶載に象徴される近代書の出発点を、「歪」「弊」として否定的に評価した。一方、保田は、川端康成の書を「今の日本の書家の一人として、これほどの書は書けない」と、文人の書として絶讃した。一字もおろそかにせず、心がこもり、張っている文字の動作は、川端の可憐な文学の底にあったものと同じであるという。しかもひきしまった文字は、自然に生動していて、一見して痩硬(そうこう)の如くで、しかもなつかしいものにあふれていると述べている。その書にも、川端文学の真髄がここにあるというような気がするとし、文と書の一致した文人書の理想像が描かれているという(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、206頁~209頁)。
詩人でもあり、書道評論をも執筆した疋田寛吉(ひきた かんきち、1923-1998)も、川端康成の書について述べている。書に深く執心した作家は近代に少なくないが、生存中に自分の書の個展を催した作家は何人もいないそうだが、川端康成は死の前年、昭和46年(1971)に、日本橋の壺中居(こちゅうきょ)において個展を開いている。その時の図録に、川端は「今の私の書はまとめて人さまに見ていただく高さには達していない」とし、「五年、十年先の老後の書の道程として、力んでみたり、気負ってみたりのわざとさ」もある、いわば未完成の書を見てもらうのだということを述べている。
また、川端ぐらいおびただしい毛筆の手紙を書いた作家は、現代作家にはいないだろうといわれる。自身も「原稿はペンで書くので、原稿のほかの文字はペンで書くのがいやである。手紙など、ペンだと早くかたづくのはわかつてゐるけれども、ペンでは書く氣になれない」という。
川端は、1968年、ノーベル賞受賞の知らせのあった日に、思いがけないことに、幾つかの書を染筆した。それも川端の書業の頂点と見られる書、「秋の野に鈴鳴らしてゆく人見えず」や「秋空一鶴」を書き残している。当夜は千人ともいわれる来客で、川端家はごったがえしていたが、その寸暇を縫って揮毫したという。だからこその筆力の高揚と沈静との充実を疋田はその書に読み取っている。
自作原稿の書は、越後湯沢駅の文学碑をはじめ、『雪国』の冒頭を最も多く書いているそうだ。昭和46年(1971)に行われた生前の個展「川端康成書の個展」にも出された。その書は、ボテボテした墨の濃淡が今にも溶けてなくなりそうな雪質を偲ばせ、不思議にたどたどしい余韻を伝えている書であった。
また、「佛界易入、魔界難入」という書幅は、昭和43年(1968)7月、参議院選挙に立候補した今東光の応援演説のため京都に立ち寄った折り、「いつ死ぬかもわからぬから形見に」と保田與重郎に贈った書であるといわれる。この言葉は一休和尚の禅語である。川端はノーベル賞受賞記念講演でも、「意味はいろいろに読まれ、またむづかしく考へれば限りがないでせうが、<仏界入り易し>につづけて<魔界入り難し>と言い加へた、その禅の一休が私の胸に来ます」と触れている。また、未完の小説『たんぽぽ』でもその絵説きをしている(疋田寛吉『近代文人にみる書の素顔』二玄社、1995年、54頁~57頁)。
中村不折(なかむらふせつ、1866-1943)と書
中村不折は、洋画家で書道家であるが、昭和11年(1936)、自邸に書道博物館を開設したことで知られる。
その著書『六朝書道論』で、「美術家の最後の叫びは『自然に歸れ』の一語に在り、余は思ふ、書道に於て漢魏六朝碑に向つて所謂る自然の尋ぬべきもの多々なるを」と述べている。その結果、六朝風俳書ブームを全国に惹起させた。
中村不折は35歳(明治34年)で渡欧し、アカデミー・ジュリアンに学んだが、その外遊の旅行カバンの底に、「龍門二十品」「書譜」をしのばせ、小さな硯、筆墨をも携行していたといわれる。そして5年間、黙々と誰も訪れる者のない貧しいアパルトマンの夜の孤独を、一人習書にふけって、わずかに無聊の慰めとしたといわれている(疋田寛吉『近代文人にみる書の素顔』二玄社、1995年、172頁)。
内藤湖南(1866―1934)の書について
明治以降の人の筆跡は、高村光太郎のいうところの「余計な努力」をしているのが多く、なかなか「あたり前と見える」ものは少ないと疋田寛吉は述べている。だから、良い楷書を書いた人は数えるほどしかおらず、書家の楷書は平板か、もしくは流行の六朝振りであると嘆いている。
その点、中国人にも通用する楷書で、安心して見ていられるのは、先ず内藤湖南と長尾雨山だろうという。
のちに東洋史学者となった内藤湖南は、日本の毛筆常用時代の書を仕込まれた、最後の少年の一人であったといわれる。明治14年(1881)、明治天皇東北巡幸の奉迎文を、小学校の在校生を代表して書いている。
湖南の書の手解きは、儒者である父内藤調一(十湾)によって、懇切な指導を受けた。その手本はすべて十湾が書き下ろした手本であり、素読の四書五経の教本に至るまで、みんな父の手書きの写本だったそうだ。湖南にとって、習書は、小手先の練習として習ったのではなく、実用の学問の基礎として培ったといえよう(疋田寛吉『近代文人にみる書の素顔』二玄社、1995年、106頁~107頁)。
小林秀雄(1902-1983)の書について
また、石川九楊は『現代作家100人の字』(新潮社、1998年、209頁~211頁)において、小林秀雄の書について、次のように評している。
「小林秀雄のペン書きの色紙には丁寧な心づかいがある。<小林秀雄>のサイン部も美しくくずされているが、軽率・乱雑なところがない。丹念な筆蹟だ。」と。
また小林秀雄が一時期、憑かれたように骨董に狂ったことはよく知られている。入手した良寛の「地震後作」の軸を、吉野秀雄に贋作だと指摘されて、即座に名刀・一文字助光で斬り捨てたこともある。
美術史は同時に贋作の歴史でもあるといわれる。王羲之の名品「蘭亭序」偽作説があり、良寛の書などは真贋が相当複雑に入り組んでいるという。本物より偽物の数の方が圧倒的に多いのが、良寛や富岡鉄斎だそうだ。美を専有し楽しむには、見識と学識と相応の覚悟が要求されると石川九楊は説いている。
星新一(1926-1997)と習字について
SF作家に、星新一という人がいた。この作家は、かの森鷗外の妹、小金井喜美子(1876-1956、翻訳家で小説家、島根県生まれ)を祖母に持つ人であった。
その星新一には、習字にまつわる面白いエピソードが伝わっている。学生時代、ノイローゼに陥り、精神科医から「毎日かかさず、習字をしなさい」と命じられ、その指示に従って症状を克服したという。
心の中のむりなスピードが、習字によって、本来あるべきスピードに落とされ、いらいらしたものが消え、雑念が払われる作用があると、星新一は証言している。
この点について、書家の石川九楊は、次のように解説している。星新一の言う「いらいらしたものが消え、雑念が払われる」習字のスピードとは、単に緩慢な速度を指すだけではなく、毛筆と紙=対象との関係に生じる筆蝕(力・深度・速度・角度の全体)を指す。暗示からではなく、習字によってノイローゼ症状が癒されたとすれば、それは、鋒の遊びに生じる、運動(筆蝕)と出現する形(筆痕)との二重性、つまり筆蝕による慰撫の効用だろうというのである。
ところで、星新一の自作ショート・ショートが千篇を超えた記念に、「先閃泉」と書いている。三文字ともに「千」の音に懸けてあるが、このクレヨンかパステルで書かれた文字について、石川九楊は「癖のない、嫌味のない文字」と評している(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、102頁~104頁)。
大石順教(1888-1968)と口書きについて
弘法大師空海のエピソードに左右の手、左右の足、それに口を使って五本の筆を同時に操ったという「五筆和尚」の話がある。
また、享和2年(1802)、歌川豊国筆の美人画「瀬川路考(せがわろこう)[三代目菊之丞]の葛の葉狐」には、片腕で子を抱きながら、硯箱を持ち、口に筆をくわえる女性の書き姿がある。
恋しくば尋ね来てみよ和泉なる 信太(しのだ)の森のうらみ葛の葉
という歌の「恋し」の箇所を障子に口書きしている。
このように、口で書くということで言えば、伝説や絵だけの世界だけのことではなく、大石順教という女性が、現実にも存在した。
明治21年(1888)、大阪道頓堀で生まれ、12歳の頃、芸妓となったが、17歳の時、養父が狂乱し、斬殺事件を起こした際に、巻き添えとなり、両腕を失ってしまう。その後数奇な運命のもと出家し、尼となり、口で筆をとり、絵画や書にはげみ、書を驚くほど細かな文字で美しく書いたという。
その気概と努力には敬服に値する。手が不自由になったから字が書けないなどと泣き言をいうのではなく、手で書けなければ足で書く、足で書けなければ口で書くというところまで、「書く」という行為は人間の大事な営みである。人間の営みと努力の可能性について考える際に、示唆的な話であろう(石川、2007年、150頁~152頁)。
ダウン症の女流書家・金澤翔子について
金澤翔子は1985年6月、母親泰子の42歳で授かった子であったが、誕生後、すぐにダウン症と診断される。娘の翔子が1000人に1人と言われているダウン症と母親の泰子に正式に伝えられたのは、出産後、約2ヶ月が経った頃であった。一方、父親は、翔子が生まれる際に、仮死状態で敗血症を起こしていたため、生まれてきた子はダウン症だから、交換輸血をしてまで助けるのはどうだろうかと、医師から冷静に説明されたそうだ。父親はクリスチャンで、「主よ、あなたの挑戦を受け入れます」と誓い、自ら交換輸血をして、我が子の命を助けた(その父親は、翔子が15歳のとき心臓発作で突然亡くなる)。父親から母親に娘がダウン症であることを告げると、母親は絶望感を味わい、3年間は辛い思いで、涙を流しながら娘を育てて、子どもを道連れに死のうかと悩んだという(金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年、6頁~8頁、10頁~11頁)
ところで母親の金澤泰子(1943年生まれで、明治大学政治経済学部卒業)は1990年、東京・大田区に「久が原書道教室」を開設し、翔子は5歳で、母親に師事し、書道を始める。
翔子が10歳の小学4年の時、難しい漢字ばかりの272文字(経題を含む)の『般若心経』を涙を流しながらも、ひたすら書き続けた。涙の跡が残るこの時の書は、「涙の般若心経」として知られている。複雑な漢字を楷書で繰り返し書いたこの経験が、技術的なベースにもなったと母親はみている。歌人の馬場あき子は、翔子が10歳で書いた『般若心経』や『観音経』のひしひしとした文字並びから、幼くしてすでに誠実な持続の意志の深さを感じ取っている。また馬場は、翔子の20歳の成人に達したのを記念して催された初の個展を鑑賞して、強く心打たれた。銀座書廊の入口を入るとすぐ正面に飾られていた「如是我聞」の大字四文字に、鮮やかな意志と力と、空の広さを得て躍る虚心坦懐の純粋さを感じた。
翔子の書は、2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」の題字も話題となった。
翔子は、ダウン症のため、競争や優劣比較とは無縁の世界を生き、優しい無垢な魂を奇跡的に保ち、それが書に反映され、見る人の心に響くのではないかと母親はみている。
書家の柳田泰雲・泰山に師事した母親の泰子は娘の翔子の書を「技術的にはそれほど優れてない」と冷静に見ているが、「人の心を揺さぶるエネルギーは、誰もかなわない」と言う。
「人に勝ちたいという競争心がないから、魂が世俗的なものにまみれておらず、うまく見せようという欲もなく、喜んでもらいたいという気持ちだけで、純度の高い魂が生み出す書だから、見る人を素直に感動させるのであろう」と、東京芸術大学評議員をも務める母親として分析している(金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年、1頁~2頁、20頁、50頁~55頁、86頁~87頁)。
青山杉雨(1912-1993)という書家
後述するように、大溪洗耳は青山杉雨を批判している。しかし、断っておかなければならないことは、大溪洗耳が批判する青山杉雨には『明清書道図説』(二玄社、1986年)というりっぱな仕事がある。
著者略歴によれば、青山杉雨は、明治45年(1912)に名古屋市に生まれた。西川寧に師事し、謙慎書道会理事長をへて、大東文化大学教授についた。また日展常務理事、日本芸術院会員になり、文部大臣賞、日本芸術院賞を受け、そして勲三等旭日中綬賞を受けた。
青山は、中国歴代の書を通観してみて、最も「うまい字」を書いたのは誰かと問われたら、宋代では米元章(米芾)、明代では王鐸、清代では趙之謙に躊躇なく指を屈すると答えている。青山杉雨は、明末のロマン派の中心的存在として、王鐸を捉えている。そして、
「王鐸の書は実にうまい。またいい素質にも恵まれている。そうでなければあの様に縦横に筆を駆け廻らせては紙面が破綻してしまう筈なのに、それにうまくけじめがつけれるのは、その豊かな資質の然らしむるところであると見ている。また実によく線が伸び且行きとどく。羲之書を連綿草で書いた作などを見ると、よくあれ丈逸気にまかせて情懐を発展させながら、停る部分ではちゃんとキマリがつけられるものだと感心させられる」と記している。
また、王鐸の書は「うまい字」であるが、しかし傅山の書は「いい字」であり、書におけるロマンチズムの精神を傅山は最高のレベルにまで高めたと結論している。生き方においても、王鐸が清王朝に再出仕して節度を非難されて、その名を埋没させたが、傅山は出仕を固辞し隠棲し、清名を後世にまで語りつがれた点も対蹠的であった(青山杉雨『明清書道図説』二玄社、1986年、16頁~20頁)。
紫舟という書家
紫舟という女流書家は、NHK大河ドラマの「龍馬伝」の題字、NHKの美術番組「美の壺」の題字でよく知られている。
「美の壺」は、風景や文物について、日本の伝統美を紹介する番組である。題字「美の壺」の「壺」という漢字を見ていると、華道で花を生ける壺がイメージできるし、題字「龍馬伝」の「馬」という漢字からは、逸る馬を思い浮かべる。それはフランスの宮廷画家ダヴィッド(1748-1825)が描いた「サン・ベルナール峠のボナパルト」に登場するような馬が想起される。もちろん、このアルプス越えは史実とは異なり、実際には馬ではなく、騾馬であったようだ。ともあれ、紫舟の書いた「馬」という漢字からは、逸る馬と、血気に逸り、勇み立つ龍馬のイメージが重なり合う。
紫舟『龍馬のことば』(朝日新聞出版、2010年)という本において、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の題字を書くにあたり、紫舟は苦労したことを記している。つまり、龍馬への想いを一番伝えられる書体を見つけるために、龍馬に関する伝記・小説を読み、主演の福山雅治の音楽を何度も聴き尽くしたという。そして、その題字について、自ら、次のように記している。
龍馬さんの「若い志」と福山さんの繊細なシャープ感に焦点を合わせ、激動の時代を生きた龍馬さんの人生を書にしたいと思いました。「龍」には、龍馬さんと福山さんの背の高い風貌と福山さんのシャープな繊細さ、「馬」には、時代と格闘し天空までもを駆け抜けた龍馬さんの動きを、そして「伝」には北辰一刀流の免許皆伝でありながら人をあやめなかった龍馬さんの太刀筋を表現しました」とある。こうして、紫舟は天空を激しく駆け巡った龍馬の人生を書に託したのである。
紫舟という女性書家は、文字にイメージ表現や表情をつけ、情報としての文字に意思を吹き込んでいる。彼女は、2010年には、第5回手島右卿賞を受賞している(紫舟、2010年、24頁~25頁、94頁~99頁)。
ところで、この題字の「馬」とは、対照的な字として「やじ馬」という書を書いている。この言葉は、慶応2年(1866)7月、木戸孝允(桂小五郎)あての書簡からの一節「どうぞ又やじ馬ハさしてく礼まいか」から、取り出している。紫舟自身、「こんな状況のなか(下関を長州対幕府の戦争がはじまり、長州が勝利した状況―筆者注―)、あえてやじ馬ということばを用いた気持ちを、今すぐにでも足をぐるぐる回して駆けつけたい動きで表現しました」と説明しているだけあって、「馬」という字の四つの点が、足跡のように表現されており、面白いが、その字がかもしだすイメージも品格も「龍馬伝」の「馬」の字よりも、劣る(紫舟、2010年、74頁~75頁)。
龍馬は、伏見より江戸へ旅立つときに、「又あふと思ふ心をしるべにて 道なき世にも出づる旅かな」と、『詠草 四 和歌』に詠んだ。また会うことができる、その気持ちだけを頼りに、志をまっとうするべく道なき世へ旅立つと、語りかけている。
書家の紫舟は、この一首から「道」という字を選び、書にしている。「辶」が特色的で、途中、筆を一周させて、収筆へと向かっている。紫舟は、「自分自身の行くべき道へ進もうとする行動と、しかし後ろ髪を引かれる感情、その相反する気持ちを書にしました」と説明している(紫舟、2010年、54頁~55頁)。
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