歴史だより

東洋の歴史に関連したエッセイなどをまとめる

《冨田健次先生の著作を読んで》その17

2014-12-31 16:01:44 | 日記
六朝代から初唐代への転移の構造について
六朝代から初唐代への転移の構造について図式的に言えば、六朝代の草書=王羲之=二折法=筆触=自然書法から、初唐代の楷書=三折法=筆蝕=基準書法へということになると石川九楊はいう(石川、1996年ⓑ、285頁~286頁)。
中国書史の750年、つまり六朝代から宋代までの書の歴史(350年頃から1100年頃まで)について、代表的な作品としては、次の8作品を挙げている。
1 王羲之の「喪乱帖」
2 智永の「真草千字文」
3 欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
4 褚遂良の「雁塔聖教序」
5 孫過庭の「書譜」
6 張旭の「古詩四帖」(狂草)
7 顔真卿の「顔勤礼碑」
8 黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」
とりわけ、初唐代楷書成立期の頂上劇としては、
632年 欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
646年 唐太宗の「晋祠銘」(草書[ママ])
653年 褚遂良の「雁塔聖教序」を挙げて、
646年頃(650年頃、649年に太宗の死)に頂上に達したものと考えている
石川の「書からみた中国史の時代区分への一考察」によれば、649年の太宗皇帝の死を境に、中国史は前史と後史に二分されると石川は考えている。この649年の太宗の死は、初唐代楷書のうち、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)と、褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)との間に位置する。この両者間の20年余りの間に書史の劇的な頂点が想定できるという。「九成宮醴泉銘」は頂上以前であり、「雁塔聖教序」は頂上以降であるとみる。
「雁塔聖教序」は「九成宮醴泉銘」と形態上は似ているが、筆蝕が動きを見せる点においては、むしろ顔真卿の楷書に近いものと捉えている。楷書の成立は「三過折の獲得」ではあるのだが、「九成宮醴泉銘」と「雁塔聖教序」は、その三過折の意味を極限まで減じることによって、成立させているという(石川、1996年ⓐ、102頁)。
書の表出で言えば、筆触時代と筆蝕時代の分岐点であり、歴史的にも匿名の時代と実名の時代の分岐であるともいう。
太宗の死が中国全史を以前と以後に分ける分水嶺を形成すると石川は試論している。昭陵に「蘭亭序」が眠るという伝説は、その意味においても興味深く、比喩的に言えば太宗の昭陵に中国の前半史は埋まっているという(石川、1996年ⓐ、98頁~100頁、196頁、403頁)。

また、宋代以降の書史としては、
1100年頃 黄庭堅の「松風閣詩巻」
1650年頃 傳山の明末連綿草
1750年頃 金農の「昔邪之盧詩」を挙げて、
1650年頃に頂上を求めている(石川、1996年ⓐ、99頁)。

二折法から三折法へ
このように、楷書、行書、草書がセットで存在するものだと考えられる書の構造は、西暦350年頃の中国六朝期から、宋代1100年頃までの750年くらいをかけてゆっくり出来上がったものと石川は考えている。350年頃から650年頃までが前期で、比喩的に名づければ、「王羲之の時代」である。650年頃から1100年頃までが後期で、「脱王羲之の時代」と名づけている。
350年頃から650年頃までが、いわゆる「古法」の時代である。「古法」とは王羲之書法と言ってもよい。書字について言えば、「トン」とおさえて「スー」と引くか、「スー」と入って「グー」とおさえる二折法である。この二折法が、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)などによって、三折法へと変わる。つまり、「トン・スー・トン」という方式で、起筆、送筆、終筆、転折、撥ね、はらいが構造的に変わる。唐代に入って、いわゆる「永字八法」が成立し、書法がやかましくなる。こうして「唐代の書は『法』である」と言われるようになる(石川、1996年ⓐ、98頁~100頁)。
「永字八法」の起源については、後漢代に蔡邕(さいよう)が創定したと言われるが、唐代あたりまで下ると考えるのが順当であろうと石川九楊は考えている(石川、1996年ⓐ、263頁)。
以下、この石川の持論を中心に中国書史について考察してみたい。

唐の太宗と書
唐の太宗は唐王朝300年の礎を築いた英主である。その貞観の治といわれる治世には名臣がその左右に雲集するといった壮観を現出した。その結果唐代初期の文化は新鮮な光彩を放つようになった。この時期、花が咲き揃ったように、書の名手が輩出した。欧陽詢(557-641)、虞世南(558-638)、褚遂良(596-658)はこの時代の王朝の重臣であると同時に、書の名手であった。これら唐初の三大家は、揃いもそろって楷書に傑作を残している。六朝の乱離を収攬した新興王朝にふさわしい清新さが、爽やかな楷書という姿をかりて息づいているといわれる。たとえば、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)、虞世南の「孔子廟堂碑」(626年)、褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)がある。つまり六朝の混乱を治めて建てられた王朝が唐であるように、六朝書法の多様性を統一したのが初唐の書法であるといわれる。ただ、初唐は楷書の黄金時代を迎えたが、隋王朝が滅んだ時(618年)、隋王朝に仕えていた欧陽詢と虞世南はすでに60歳であったし、褚遂良は22歳になっていた。ことに欧陽詢と虞世南の30歳から60歳までは隋王朝で過ごしていた(青山、1982年、36頁、鈴木・伊東、1996年[2010年版]、44頁)。
さて、唐の太宗は、書を愛好し、歴代帝王中でも、第一の能書家といわれた。この唐の太宗の書としては「晋祠銘」(646年)がよく知られている。これは太宗が唐叔虞(とうしゅくぐ)を祭った祠に行幸した時、親ら文を撰び、それを碑に書いたものである。行書の碑刻としては最古のものといわれている。中国の天子の書としては第一等のもので、鷹揚さと品格をもっていると評される。北魏の書のように大きな規模があり、和潤な所もあってよいとされる。
文化を愛する太宗は書道が好きで、中でも史上最高の名手である王羲之の書に心酔していた。有名な「蘭亭序」入手の経緯については逸話が生まれるくらいで、太宗の王羲之への執心を物語っている。王羲之の書を広く天下から集め、苦心に苦心を重ねて、ようやく入手した「蘭亭序」は太宗の死とともに、昭陵に葬らしめたほどである。
また太宗自身、この王羲之の法に則った見事な作品である「温泉銘」(648年)を残している。
ところで、官吏登用試験である科挙の課目にも書を加えて有能の書家を重く用いたこともあって、書道の黄金時代を現出した。先の初唐の三大家がそうである。科挙では、楷書が正しく美しく書けなければ合格できなかった。だから、文字の外見は整った。しかし、その一方で、性情雅致は次第に失われ、その書写も機械的観念的になったとも評される。科挙の制は書を普及発達させる上には大きな力があったが、芸術的発展の上での影響については疑問視する書家もいる(鈴木・伊東、1996年[2010年版]、51頁~59頁)。

さて、唐の太宗の書として、「温泉銘」がよく知られている。この書は、全体を通じて、起筆して力を抜くだけの二折法の「トン・スー」の筆蝕に主律されていると石川九楊はいう。古法、アルカイック書法は、その二折法と同時に、「転折の不在の傾向」をもつとみる。
たとえば、「口」字の画数を考えてみればよい。この「口」字の画数が三画であると数えられるのは、横筆部と縦筆部が連続的に一画で書かれるべきものであるという古法(アルカイック)時代の名残りであると石川はいう。三折法が成立し、三折法に基づいて書かれるなら、「口」字は四画と数えられるべきものである。しかし、二折法は転折部を露わにせず、横筆から縦筆にまたがる一画がいっきに書かれようとし、結字的にはいわゆる向勢をもたらすことが多く(その典型例としては、鐘繇筆と伝えられる「薦季直表(せんきちょくひょう)」を想定できる)、率意の二折書法と相まってふくよかで穏やかな、アルカイックな姿を見せると石川は解説している(石川、1996年ⓐ、187頁)。
また、唐太宗の「晋祠銘」の飛白体の題額には、イスラム文字の影響が見られるとも言われ、また「大秦景教流行中国碑」(781年)などには下部にイスラム文字が刻されており、当時の大国際都市・長安の姿を彷彿とさせる(石川、1996年ⓐ、174頁)。

唐の太宗と書家たち
唐の太宗は、貞観元年(627)、中央政府の文官武官の子弟を弘文館に集めて、もう70歳という虞世南と欧陽詢に書法の教授を開始させた。若い褚遂良は館長に任じられ、カリキュラムの作成に励んだ。
太宗は王羲之の書へ心酔し、その書を勅命により手もとに集めたが、貞観13年(639)、勅命を下して集めた王羲之の書を分類整理した。3000点にも及ぶ王羲之の書を類別し、真偽の鑑定をしたのが、編集長の褚遂良であった。その結果、楷書50点が8巻、行書240点が40巻、草書2000点が80巻にまとめられたという。
編集された王羲之の書は、弘文館の子弟に、習字の手本として与えられた。巻末には、太宗の筆になる「勅」の一字を大きくおいて、その下に「臣・褚遂良校シテ失無シ」と奥付た。この奥付けのある法帖は館本とよばれて、書的権威の象徴とされた。
ともあれ、虞世南は638年に、欧陽詢は641年にこの世を去ったので、二人なきあと、褚遂良はひとり書の第一人者としてたたねばならなかった(榊、1970年[1995年版]、56頁~57頁)。
さて、このようにして、虞世南、欧陽詢、褚遂良が華やかに楷書の名作を残しながら、その楷法はまたたくうちに、影を潜めてしまう。それはなぜだろうか。この興味ある問題について、榊莫山は次のように推察している。
初唐の名家が生みだした楷法は、太宗と弘文館をぬきにして、つまり唐王朝のバックアップを背景にしなければ考えることができないという点に注目している。すなわち、唐王朝という偉大な組織の中にあってはじめて楷法の爛熟と名家の誕生がもたらされたと考えている。そして、彼ら王朝人の自我の自覚が感受性の解放となって、絢爛とした黄金期を迎えたというよりも、初唐の三大家は、王朝のシステムにどのように迎合し、いかにして有能な書の指導者として立つかという、きわめて普遍的な意志の信奉者であったとして理解できるのではないかと主張している。彼らの書をみたとき、そのことがよりはっきりとうなづけるという。
その姿態は王朝貴族の趣味ともいうべき、一種の冷徹さにおおわれて、人間的なにおいが息をひそめているのではないかとみる。その厳格な様式を通過するのは、結構の斉正さと筆法の精緻さからもたらされるつめたい気韻であっても、人間の精神の豊かさや官能の表象は決して顔を出さず、非情の様式であると榊は評している(榊、1970年[1995年版]、57頁~58頁)。

この唐初と、日本の明治初年の書道事情について、書家の青山杉雨は面白いことを述べている。すなわち、
「このような唐初の書道事情を見ていると、私はいつも日本の明治初年の書道事情を思い浮べます。江戸末期―いわゆる御家流という堕落しきった幕府のご用文字の氾濫を、見事に払拭して新鮮な官用文字として登場したのが、巻菱湖(まきりょうこ)や中沢雪城(なかざわせつじょう)などの書いた、欧陽詢を主とした唐初様式の端正な楷書です。まさに明治政府が志向する新時代を象徴するかの如き感じを、当時の人々はこの楷書に発見したことでしょう。歴史の循環がこんな所にも現われていることに、私はいつも深い興味を感じております。」(青山、1982年、37頁~38頁)。
つまり中国の六朝から唐初へという時代と、日本の江戸末期から明治初年という時代は、政治的には、混乱期から統一期へと収攬した時代であったが、書道事情から見た場合、唐初に三大家の楷書の傑作が出たように、日本の明治初年、欧陽詢を主とした唐初様式の端正な楷書を巻菱湖や中沢雪城が書いたということである。いわゆる御家流という江戸末期の堕落した幕府のご用文字を払拭して、新鮮な官用文字の端正な楷書が登場したという。それはまさに明治政府が志向する新時代を象徴するかのような事であったという(青山、1982年、36頁~38頁、44頁。榊、1970年[1995年版]、55頁。鈴木・伊東、1996年[2010年版]、51頁~59頁)。

初唐の三大家について
ここで、初唐の三大家について紹介しておきたい。
虞世南は、会稽余姚(よよう)の名門の出で、幼時、同郡の智永(王羲之七世の孫)に学び、長じて一家をなした。博覧強記で、太宗に仕えて重用された。
「孔子廟堂碑」(626年)は虞世南70歳頃の書である。その書は平正温雅、沈着悠遠、しかもふっくらとした感触的快味があって少しの厭味もなく、品位においては古来唐朝第一といわれている。初唐のものでは最も優れたもので、智永の千字文の楷書の面影もあり、おだやかであると評される(鈴木・伊東、1996年[2010年版]、54頁~55頁)。

欧陽詢は潭州臨湘(湖南省長沙県の南)の人で、その父は陳の広州刺史であったが、謀反をもって誅された。欧陽詢が13歳のときのことである。欧陽詢は年少のために罪をまぬかれ、父の友人江総(519-594)に養育された。彼ははじめ王羲之を学び、のちに北派の書(たとえば晋の敦煌の人である索靖の碑)に心を寄せたと推測されている。つまり、欧陽詢は、ある時、索靖(さくせい)の碑を見てその巧妙さに感じ、そこを立ち去りかねて三日間碑の傍に宿ったというエピソードがある。王羲之を学び北碑の長をとり、一家をなした。70歳頃の書として「皇甫府君碑(こうほふくんひ)」があるが、この書は北魏の余韻もあって、険勁痛快な書とされる。

ところで、欧陽詢については、面白いエピソードがある。欧陽詢は容貌のひどく醜い大男であったようだ。高麗からの使者がその書を求めたとき、唐の高祖は「その書を観たなら、もとより形貌の魁梧を想像できまい」と言ったという話が伝えられている。
また、636年に文徳皇后の葬儀の際、欧陽詢の喪服姿があまりに醜かったので、許敬宗という人物が思わず笑ったため、御史に弾劾され、洪州都督府司馬に左遷されたという(『旧唐書』許敬宗伝による)。
この容貌の醜さと、少年時代の不幸の境遇とは欧陽詢の芸術に影響するところが多かったと真田は想像している。そもそも宋代の蘇軾もすでに、「率更(率更令の欧陽詢のこと)の貌寒寝(貧相で醜いこと)、いまその書を観るに、勁険刻(けいけんこくれい、つよくけわしい)、まさにその貌に称(かな)うのみ」とも言っている。
欧陽詢の書に見えるきびしいけわしさと非情とも言える美しさは、彼の人間性に深く根ざしたものと見るべきであろうと真田は述べている。つまり、境遇のけわしさが勁さを求め、容貌の醜さが逆に整った美しさを追求させ、楷書の規範といわれる完成がなされたのではないかというのである。これら二つの要因が新時代の風気とともに大きな素因となったと考えている。
「九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)」(632年)は、唐の太宗が632年の夏、九成宮(隋の仁寿宮を修理したもの)に避暑に行き、その一隅に甘美な泉を発見したのを記念するために建てた碑である。銘文は侍中の魏徴、書は率更令の欧陽詢である。欧陽詢が数え年76歳のときの書である。これは欧陽詢の代表作であるばかりでなく、楷書の典型の一頂点を示すものである(真田、1967年[1972年版]、166頁~172頁)。
そして、先述したように、欧陽詢の代表作として「九成宮醴泉銘」がある。76歳の書で、勅命によって書かれたこともあり、一種の荘厳の感がある。晩年の円熟の書であるだけに、点画精妙、意欲精密、間然するところがなく、「皇甫府君碑」より上品であると評される(鈴木・伊東、1996年[2010年版]、55頁~56頁)。
書家の鈴木史楼も、「端整な姿の楷書と言えば、欧陽詢の絶品として知られる九成宮醴泉銘の右に出るものはない」と絶賛している(鈴木、1997年[1998年版]、132頁)。
ただし、書家のすべての人が、初唐の三大家の楷書を楷書作品の最高峰と高く評価しているわけではない。たとえば、松井如流は、北魏の鄭道昭、王遠あたりの書は、初唐の三大家の書より高く評価し、親しみを感じていると明言している。偏食もはなはだしいといわれそうだが、今さら自分の宗旨をかえようとは思わないという(松井、1977年、220頁)。

欧陽詢の貧相醜顔について
欧陽詢の伝は、『唐書』巻198、『旧唐書』巻189に見える。また、唐代伝奇によると、欧陽詢の父紇(ごち)が奥地に妻を伴った。ここには木簡を読む老いた白猿がいて、美人の紇の妻をさらったが、やがて猿顔の欧陽詢を生んだという奇怪事を紹介している。そのため貧相醜顔であったということになっているようだ(李家正文『書の詩』木耳社、1974年、133頁)。

欧陽詢の影響
ところで、唐の欧陽詢の書は、日本の書道にどのような影響を与えたのであろうか。
「宇治橋断碑(うじばしだんぴ)」は、大化2年(646)の建碑で、日本に現存する最古の石碑である。現在は宇治川の東畔、常光寺放生院(俗称、橋寺)の境内に保管されている。碑文の内容は、僧の道登の宇治橋架設の功を讃えたものである。全文は24句、96字から成っていたが、現在は6句24字を残すのみとなり、断碑と呼ばれている。
その書風は、一字一字の丈が低い隋風の楷書である。大化2年といえば、中国ではすでに初唐時代に入っており、丈高な楷書が成立していた。たとえば、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」の成ったのは貞観6年(632)である。しかし、日本へはまだ、その新様式の楷書の影響は及んでいないことがわかる(堀江、1991年、38頁~39頁)。
ところが、伝嵯峨天皇宸筆として「李嶠(りきょう)雑詠断簡」には、その影響が認められる。
伝嵯峨天皇宸筆としての「李嶠雑詠断簡」(陽明文庫蔵)は、唐代の詩人李嶠(644-713)の五言律詩を書写したものである。春名好重によれば、字形は縦長にして、結体は緊密である。点画は雄健峻抜にして、筆力が充実しており、用筆は自在で、運筆に緩急抑揚の変化があり、独特の奇癖偏習があるという。しかし、巧秀にして脱俗超妙であり、格調が高い。
この「李嶠雑詠断簡」の書風は、唐の初めの欧陽詢の書風であるといわれる。欧陽詢の書風は白鳳時代から平安時代の初めまで、王羲之の書風の次に愛好されていた(春名、1984年、136頁~137頁)。

明朝体という活字と欧陽詢について
一般に、現在の活字には、漢字の字体に宋朝体、教科書体(楷書体)、清朝体、明朝体の四活字がある。
宋朝体は中国宋代の版本にならって模刻したのがはじめである。教科書体は楷書をそのまま活字としたものが戦後整えられた。戦前から用いられた楷書体は、名刺などに使用されている清朝体であった。明朝体は印刷体としてもっとも多く用いられており、新聞など出版物の活字はすべてこの字体を主とする。
明朝体と呼ばれるように、中国明時代に用いられている。ただし、それは活字印刷ではなく、木版本(明版)で、一枚の板全面を字面として彫った「整版」という印刷である。
明朝体活字が近代の洋式活版印刷に用いられるようになったのは、明治初年に本木昌造(もときしょうぞう)などが上海にいた米人ウィリアム・ガンブルを長崎に招いて、その指導によって明朝体の鋳造活字を製作したのがはじまりであるという。
明朝体の源流を探った場合、万暦年間の木版本の字体に辿りつくが、中国書道史の上から類型を求めると、初唐の三大家(欧陽詢、虞世南、褚遂良)の一人の欧陽詢の筆法(欧法)に似た結体であるといわれる。洗練されて整った書体はきびしさがあって、難をいえば、懐の狭い感じがなくもない。しかし古来楷法の極致といわれて、学書者必修とさえ称されている書である。他の二家もやはり楷書の規範であるが、欧法を版下の手本としたのは彫りやすいこともあったであろうと推測されている。このように、明朝体は欧法より出ているとされる。また「ハネ(趯法)」の筆法は、顔真卿の筆法の影響が見られるともいう(財津、1967年[1977年版]、139頁~142頁)。

欧陽詢に関連して
書道博物館には、敦煌出土のもので、他に見られない珍しい唐人の細字の練習の肉筆があることを、日展審査員で帝塚山大学教授であった田中塊堂(1896―1976)は紹介している。
それには、1字を70~80字ぐらいずつ習っている。「覺」や「壽」の字を見ると、欧陽詢の筆法を学んだことがわかるという。例えば、「覺」の下の見の最後のハネ上げるところ、頭が比較的大きいことや、「壽」の結体、横画の長いところなどに、いちじるしくその特徴が見られると解説している(田中塊堂『写経入門』創元社、1971年[1984年版]、144頁~145頁)。

写経体と中国の書家(智永、欧陽詢、虞世南)について
中国で楷書の典型的なものは初唐の欧陽詢、虞世南のものがよいとされる。田中塊堂はあえて、その一時代前の智永の「真草千字文」を推している。
智永は、書聖王羲之七世の孫で、陳から隋にかけて生存し、呉興の永欣寺に住して、書名が高かった。智永千字文の楷書は遒麗(しゅうれい)秀潤で、豊かな肉があって、見るからに温か味が感じられる。
そして、中国では、隋・唐の7世紀初め頃に楷書の典型ができた。唐の貞観元年には弘文館内で、文武職事五品以上の者は書道を学んでもよいと令が出て、その時の教授の任に当たったのが、欧陽詢と虞世南であった。
虞世南の書は平静温雅で、欧陽詢の書は峻厳端正で、共に初唐における楷書の典型を造り上げた人である。ことに欧陽詢は理想を強く表現し、力感と安定感を具備した建築性の形態を確立したので、古来これを欧法といって、楷書の極則と評された。
この欧・虞の筆法が混然一致して精彩ある唐の写経体はできあがった。日本の天平時代は、この写経体で風靡(ふうび)されている。
そして、このように解説して、田中塊堂は、お薦めの写経体として、次のように述べている。「写経の基礎となる大字の手本には欧・虞の先駆をなす智永の千字文を推し、進んで実際の写経には、虞・欧の混合体である唐代の写経体をお薦めするわけであります。」と。(田中塊堂『写経入門』創元社、1971年[1984年版]、128頁~130頁、135頁~136頁)。

結構法と欧陽詢、顔真卿の書
画を組み合わせて文字ができあがるのだが、その組み立て方には約束がある。それを結構法といっている。譬えていえば、建築のようなものである。
縦画には、背法と向法がある。例えば、「國」という字を見ると、左右に2本の縦画がある。これは向法、背法のどちらを使ったらよいかというのに、どちらでもよい。つまりどちらも筆法にかなっており、どちらが好きかということになる。
歴史的に見れば、初唐の欧陽詢は背法の結構法で、中唐の顔真卿は向法の結構法で、この漢字を書いている。結構法は大切で、手本の字の見方、習い方の「こつ」はここにあるといわれる(田中塊堂『写経入門』創元社、1971年[1984年版]、151頁~153頁)。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿