片倉先生の著作を読んで その2
第4章 花山李氏の族譜試論―朝鮮のなかのベトナム
韓国の国立中央図書館に所蔵されている李承哉編『花山李氏世譜』(以下『世譜』と略記)によると、ベトナムの李朝(1010-1225)末期、朝鮮の高麗王朝(918-1392)高宗(在位1214-59)のころ、李朝の王子だった李龍祥という人物が国外に脱出し、黄海道甕津郡北面花山洞里にたどり着いた。おりしもモンゴル軍の侵略があり、この王子はモンゴル軍の国土蹂躙に抗戦した。王子の功績に対して高宗は花山君の爵号と食邑を賜与した。これが花山李氏の始祖だという。
この花山李氏の始祖説話が史実に基づくのか否か、なぜ花山李氏の始祖がベトナムの王子なのかという問題を、伝承の類で根拠のない創作であると単純に切り捨ててしまうのではなく、朝鮮のなかのベトナムを考察する試みの一つとして、取り上げる価値があるとする。
この問題に日本で最初に注目したのは、金永鍵氏であった。氏は李朝の一王子・李龍祥なる人物がたどり着いた朝鮮の地を訪れ、長老から伝承を聞き取り調査をし、また当地には始祖から三代までの墓も残っていたという。一方、韓国の研究者としては崔常寿氏が重要で、花山李氏の族譜の原文と韓国語訳を紹介した。
その後、1992年に韓国とベトナムの国交が樹立し、李氏一族の先祖探しが展開され、1994年には、一族の代表が李朝創業の地、バクニン省ティエンソン県ディンバン村を訪れ、李朝の祠堂に参拝し、歓迎を受けた。近年、ベトナムの若者の間に起こっている韓国ブームにも、花山李氏の子孫をめぐる交流活動が一役買っているという。
2001年、韓国の金大中大統領は、韓越首脳会談でベトナム戦争への参加を謝罪し、両国は良好な関係を築いてきたが、この花山李氏の子孫を報じる論調およびマスコミの取り扱い方には両国で相違点があるという。つまり、韓国では花山李氏の主張を事実として扱い、歴史に価値を与えているのに対し、ベトナムのマスコミは、この歴史的出来事を契機に経済発展のための投資を期待しているというものである。ここには歴史認識の違いがあり、同じ族譜を有する文化であっても、その意味合いや親族的原理の相違が存在すると分析する韓国人による研究も現れている。
本稿では、花山李氏の『世譜』『実録』の成立事情の検討とその史料的価値、ベトナム李朝の王系・王号の正確性を中心に検討されている。
本論のテキストである『世譜』は、序の記載によると、1706年に最初の序が執筆され、1777年、1837年、1873年、1917年に修補を経たものである。さらに最新版の花山李氏の『族譜』は1987年、2004年にも修譜が施された。これらの序文で注目されることは、1番最初の序に、ベトナム王子・李龍祥のことが一言も触れられず、始祖がベトナム王朝の王族出身ということを記載していないが、1777年の第2修譜から第5修譜までの序では、始祖たる李龍祥の事蹟が強調されていることである。最初の序にベトナム李朝や李龍祥の名が見当らない理由は詳かでなく、1777年の重修で、初めて李龍祥を始祖とする世系が成立したと推測できる。もし花山李氏の始祖を李龍祥とする伝承を史実と解するならば、この『世譜』の序に、最重要な始祖についてなぜ記載されていないのか説明をする必要があるという。この『世譜』の重修の序に李龍祥が登場する18世紀後半は、偽譜を含む多くの族譜が編纂されたことであったが、この時期に花山李氏のような『世譜』を創出・編纂し得る環境が存在したことを考えてみる必要があるという。まだ第3章で紹介した済州島民がもたらしたベトナム情報とか済州島における琉球王子殺害、朝鮮人によるベトナム王子殺害という伝承も18世紀に相応していることから、これらの情報と『世譜』の成立・重修との関連も、時代状況の中で考えてみてはどうかという。
次に『世譜』のなかのベトナム李朝の王名・王号を検証している。『世譜』巻1の冒頭「分派図」に、「始祖[交趾郡王]李公蘊―徳政[交趾郡王]―日尊[南平王]―乾徳[交趾郡王]―陽煥[安南王]―天祚[安南王]―龍祥[花山君]」とあり、始祖の李公蘊から六世までのベトナム李朝の国王名と、宋朝の皇帝から冊封された各々の王号が記載されており、これらを李龍祥なる人物に繋げている。まだ同署巻1「安南国王世系」総論にやや詳しい経歴が表示されているので、これらとベトナム史書による「李朝王統表」の三者を比較している。第7世に当たる李龍翰の諱を『世譜』では翰(一作幹)と記すが、ベトナムの史書『大越史記全書』、『安南志略』、『欽定越史通鑑綱目』は異なる字を当てている(但し『大越史略』は幹)。一方、中国の史書では『宋会要輯稿』(翰)を当てている。このことから『世譜』は『大越史記全書』の用例を見なかったか、参照しなかったと推測できる。ただ、『世譜』「安南国王世系」総編の七世、子安南王諱龍翰の項に、「其婿陳日照襲主国事。按史記作陳京而日照為京之曽孫、未知孰是。」とあり、按文にみえる『史記』とは、『大越史記全書』を指すとしている。また「世系」総編の末尾には、「以上詳見綱目雑出伝記而云々」と記し、『欽定越史通鑑綱目』をも参照したことを記しているので、『世譜』や『族譜』作成過程でベトナムの基本的史書を参照したことがみられる。
ところで「世系」総編に登場する陳日照という人物は、陳朝を創建した第1代の太宗・陳煚のことである。ベトナムや中国の史書を反映すれば、陳煚あるいは陳日煚となるはずなのに、なぜ花山李氏の族譜では陳日照と表記したのであろうか。かつて『安南史研究1』において山本達郎氏は、宋の周密撰『斉東野語』巻19のなかに、「安南国王陳日照者本福州長楽邑人」とある陳日照は陳煚(陳日煚)の誤記と断定した。花山李氏はある族譜編纂時にこの史料の陳日照を採用し、踏襲してきたのであろうかと疑問を呈しつつ、今後も諸文献を渉猟し、その原因を探る要がある。ただ、朝鮮でベトナムの史書(『大越史略』は別として)が利用できたのは近代以降のことであるので、近代以前では中国の史書を基にして、李氏の族譜が編纂されたことはまちがいないとし、そして李氏の家に伝わる始祖にかかわる家伝類も、現時点では見当らないという。
次に『世譜』の「分派図」と「世系」総編に記された王号に関して説明する。宋の皇帝から李朝の王に叙授された王号には、初封・進封・追封が存在したが「分派図」では初封の交趾郡王のみ記し、南平王への進封を省略していたり、「分派図」、「世系」総編ともに、安南国王に冊封された王を、6世の天祚ではなく、5世の陽煥とするなど、整合性と正確性に欠ける点を指摘している。
その他、李龍祥の系譜に関しても、「花山君本伝」には「君姓李、詳龍祥、号小微子。其先隴西成紀人。系出於有唐之神堯」と記し、その祖先は隴西成紀(甘粛省)の人で唐の高祖・李淵にたどるという。この説は、唐朝の李氏が隴西出身だったことから同じ李姓という関係で李公蘊と唐を結びつけたのであろうとし、唐朝の李姓に淵源するという貴種・名家へのこだわりがあったからと解している。また李氏の族譜中の「墓碭銘」(1904年)にも「其遠祖有李公蘊、中朝人」とあり、李朝を創建した李公蘊が中国人であるという指摘もある。
ベトナムの史書では李公蘊は北江古法州(現バクニン省)の出身、あるいは交州の人と記すが、中国出身説は、宋の沈括の『夢渓筆談』巻25、雑誌2にある李公蘊を閩人(福建)
とみなす説が華人の経済活動などにより伝わったのではないかと推測している。
李朝第7代の李龍 の弟と称する李龍祥が出国して花山李氏となるまでの経緯に関しては、族譜に次のような叙述がある。李龍 が即位すると、嗣子は幼少であり、弟の龍祥は賢く、徳があったので、禅譲の意志があった。そこで幼い恵宗が立つと、叔父の龍祥、平海公君苾および陳日照を三公として国政を委ねることと遺教とした。ところが陳日照は王の姉の昭聖公主と結び、国政を専断したので、李龍祥は苾とともに殷の故事に倣い、祭器を抱えて東方に脱出し、朝鮮にたどり着いた。この李龍祥出国から朝鮮黄海道到着までの経緯については、史実か伝承か判然とせず、検討の余地があるとする。
以上の考察を踏まえて、現時点では、花山李氏の始祖・李龍祥が朝鮮に渡来したベトナム李朝の王子で歴史上実在したと解する材料はないと慎重な判断を下している。一般に、朝鮮の族譜は、輝かしい祖先をもつことを誇りとする傾向があり、これが偽作の作られる背景とされる。花山李氏の族譜のなかで、李朝の始祖・李公蘊を中国人あるいは閩人とみなしたり、李朝を唐の王室と同じ隴西出身と見立てたりしたのも、花山李氏を貴種集団として誇示するための一手段であったろう。花山李氏の族譜編纂当時の朝鮮に、ベトナム王子を始祖として仰ぐことに違和感がなく、誇りに思う意識があった点に著者は注目している。ベトナム王族出身という設定は、両班貴族たる李氏の名誉と誇りを高める重要な役割を演じたことは疑いない。第1章で言及した崔致遠の「補安南録異図記」でみられた華夷意識に支えられたベトナム蛮夷観とは異なる点は看過すべきではない。李龍祥がモンゴルの朝鮮侵略に抗して功績を上げ、花山君に爵封されたという点に目を向ければ、朝鮮もベトナムもモンゴル軍への抗戦という同じ歴史的体験を有し、その共感・親近感がこの始祖物語を創出させたのではないかと著者はみている。
また、済州島に外国人の漂着が多いという状況のなかで、なぜベトナムからの始祖が黄海道に到着し、設定されたのかという問題も未解決のままであり、東アジアの人的、物質的交流という観点から検討する必要があるという。
第5章 阮朝の文献にみえる高麗人参
高麗人参は、あらゆる疫病を治療し、不老長生をもたらす霊薬として知られてきた。朝鮮王朝などは、これを独占し、朝貢貿易や外交礼物として重用し、また王朝の財源として活用した。ベトナム阮朝(1802-1945)でもこの高麗人参は重宝がられ、王朝政治のなかで一定の役割を果たしていた。また、ベトナムの山地では、高麗人参と同じウコギ科に属するベトナム人参が生育していたが、その記録がベトナム文献に散見されるので、文献史学の立場からこれらにも言及している。ベトナムの高麗人参に関する研究は、未開拓の分野であるので、本章では、阮朝統治下における高麗人参の存在状況とその役割を検討している。
『大南寔録』の記載によると、阮朝の皇帝から臣下への賜与の事例は、1830年から1897年までの68年間のうちで、42年に及び、その対象者と理由と、人参の数量について調べている。その結果、対象者については、皇子、尊室、廷臣、文武官、各地に派遣された将士や軍士、功労者の老母、そして100歳に上った一般庶民の長寿者にまで及んでいた。理由としては、賞賜・恩賜、激励、慰問・慰労、病気見舞い、祝いなどが挙げられる。
阮朝は、各種の人参を朝廷に集めたが、その方法としては、行政当局による購入、外国使臣や外国商人からの献上、国内の参戸からの徴収などがあった。そして人参の管理は、戸部ではなく、皇帝の御物と財貨を造り、蔵し、管理する機関である尚方もしくは内帑が担当した。いわば、人参は皇帝や皇室所有の財貨として扱われたのである。その尚方などには、高麗人参、関東人参、土木人参、山西人参、北人参などが貯蔵され、良質の人参は「正北上品人参」、「真正高麗人参」、「好項高麗赤肉参」、「上項人参」と、品種・品質が明示された。また人参の単位は、枝・両・斤や片が用いられ、両や斤は明・清の影響を受けて阮朝の度量衡と考え、1斤は約600グラム、1斤は16両という重さとする。ただ枝という語の解釈については、見解が分かれるようである。漢字文化圏では細長いもの、幹から分岐したものを数えるときに枝という数詞が用いられ、人参も、根に多くの枝根を付けるので、この枝という語が用いられたものと著者は推測していた。しかし今村鞆『人蔘史』を参照し、人参に付された枝という単位には、人参の本数を示す単なる数詞以外にも、人参を斤の目方に分けて、形状と品質により鑑別された人参の別を表す語であったと解釈し直した。例えば、ベトナム文献に「人参三枝」とあれば、重さ1斤になる本数が3根となる種類の人参を意味したとみる。同じ1斤の人参であっても、枝数が少ないほど人参の形状が大きく、良質の品種とみなされたというのである。
さて、阮朝と朝鮮王朝は、ともに漢字文化圏に属し、中国の冊封関係のもとにあったが、直接的な政治・経済関係を取り結ばなかった。ただ、高麗人参がベトナムの地にもたらされたので、偶発的ではあったものの、ひととものの接触・交流はあり、その到来は異文化接触の1つの機会であった。幸いをもたらす薬用品としての高麗人参といった品目をとおして、漢字文化圏の国として“遠い”朝鮮を思い描くベトナム人もいたであろうと想像している。つまりベトナムにとって、高麗人参は朝鮮観を形成するための一素材であり、異文化を意識し、体験できる産物だったと文章を結んでいる。
第4章 花山李氏の族譜試論―朝鮮のなかのベトナム
韓国の国立中央図書館に所蔵されている李承哉編『花山李氏世譜』(以下『世譜』と略記)によると、ベトナムの李朝(1010-1225)末期、朝鮮の高麗王朝(918-1392)高宗(在位1214-59)のころ、李朝の王子だった李龍祥という人物が国外に脱出し、黄海道甕津郡北面花山洞里にたどり着いた。おりしもモンゴル軍の侵略があり、この王子はモンゴル軍の国土蹂躙に抗戦した。王子の功績に対して高宗は花山君の爵号と食邑を賜与した。これが花山李氏の始祖だという。
この花山李氏の始祖説話が史実に基づくのか否か、なぜ花山李氏の始祖がベトナムの王子なのかという問題を、伝承の類で根拠のない創作であると単純に切り捨ててしまうのではなく、朝鮮のなかのベトナムを考察する試みの一つとして、取り上げる価値があるとする。
この問題に日本で最初に注目したのは、金永鍵氏であった。氏は李朝の一王子・李龍祥なる人物がたどり着いた朝鮮の地を訪れ、長老から伝承を聞き取り調査をし、また当地には始祖から三代までの墓も残っていたという。一方、韓国の研究者としては崔常寿氏が重要で、花山李氏の族譜の原文と韓国語訳を紹介した。
その後、1992年に韓国とベトナムの国交が樹立し、李氏一族の先祖探しが展開され、1994年には、一族の代表が李朝創業の地、バクニン省ティエンソン県ディンバン村を訪れ、李朝の祠堂に参拝し、歓迎を受けた。近年、ベトナムの若者の間に起こっている韓国ブームにも、花山李氏の子孫をめぐる交流活動が一役買っているという。
2001年、韓国の金大中大統領は、韓越首脳会談でベトナム戦争への参加を謝罪し、両国は良好な関係を築いてきたが、この花山李氏の子孫を報じる論調およびマスコミの取り扱い方には両国で相違点があるという。つまり、韓国では花山李氏の主張を事実として扱い、歴史に価値を与えているのに対し、ベトナムのマスコミは、この歴史的出来事を契機に経済発展のための投資を期待しているというものである。ここには歴史認識の違いがあり、同じ族譜を有する文化であっても、その意味合いや親族的原理の相違が存在すると分析する韓国人による研究も現れている。
本稿では、花山李氏の『世譜』『実録』の成立事情の検討とその史料的価値、ベトナム李朝の王系・王号の正確性を中心に検討されている。
本論のテキストである『世譜』は、序の記載によると、1706年に最初の序が執筆され、1777年、1837年、1873年、1917年に修補を経たものである。さらに最新版の花山李氏の『族譜』は1987年、2004年にも修譜が施された。これらの序文で注目されることは、1番最初の序に、ベトナム王子・李龍祥のことが一言も触れられず、始祖がベトナム王朝の王族出身ということを記載していないが、1777年の第2修譜から第5修譜までの序では、始祖たる李龍祥の事蹟が強調されていることである。最初の序にベトナム李朝や李龍祥の名が見当らない理由は詳かでなく、1777年の重修で、初めて李龍祥を始祖とする世系が成立したと推測できる。もし花山李氏の始祖を李龍祥とする伝承を史実と解するならば、この『世譜』の序に、最重要な始祖についてなぜ記載されていないのか説明をする必要があるという。この『世譜』の重修の序に李龍祥が登場する18世紀後半は、偽譜を含む多くの族譜が編纂されたことであったが、この時期に花山李氏のような『世譜』を創出・編纂し得る環境が存在したことを考えてみる必要があるという。まだ第3章で紹介した済州島民がもたらしたベトナム情報とか済州島における琉球王子殺害、朝鮮人によるベトナム王子殺害という伝承も18世紀に相応していることから、これらの情報と『世譜』の成立・重修との関連も、時代状況の中で考えてみてはどうかという。
次に『世譜』のなかのベトナム李朝の王名・王号を検証している。『世譜』巻1の冒頭「分派図」に、「始祖[交趾郡王]李公蘊―徳政[交趾郡王]―日尊[南平王]―乾徳[交趾郡王]―陽煥[安南王]―天祚[安南王]―龍祥[花山君]」とあり、始祖の李公蘊から六世までのベトナム李朝の国王名と、宋朝の皇帝から冊封された各々の王号が記載されており、これらを李龍祥なる人物に繋げている。まだ同署巻1「安南国王世系」総論にやや詳しい経歴が表示されているので、これらとベトナム史書による「李朝王統表」の三者を比較している。第7世に当たる李龍翰の諱を『世譜』では翰(一作幹)と記すが、ベトナムの史書『大越史記全書』、『安南志略』、『欽定越史通鑑綱目』は異なる字を当てている(但し『大越史略』は幹)。一方、中国の史書では『宋会要輯稿』(翰)を当てている。このことから『世譜』は『大越史記全書』の用例を見なかったか、参照しなかったと推測できる。ただ、『世譜』「安南国王世系」総編の七世、子安南王諱龍翰の項に、「其婿陳日照襲主国事。按史記作陳京而日照為京之曽孫、未知孰是。」とあり、按文にみえる『史記』とは、『大越史記全書』を指すとしている。また「世系」総編の末尾には、「以上詳見綱目雑出伝記而云々」と記し、『欽定越史通鑑綱目』をも参照したことを記しているので、『世譜』や『族譜』作成過程でベトナムの基本的史書を参照したことがみられる。
ところで「世系」総編に登場する陳日照という人物は、陳朝を創建した第1代の太宗・陳煚のことである。ベトナムや中国の史書を反映すれば、陳煚あるいは陳日煚となるはずなのに、なぜ花山李氏の族譜では陳日照と表記したのであろうか。かつて『安南史研究1』において山本達郎氏は、宋の周密撰『斉東野語』巻19のなかに、「安南国王陳日照者本福州長楽邑人」とある陳日照は陳煚(陳日煚)の誤記と断定した。花山李氏はある族譜編纂時にこの史料の陳日照を採用し、踏襲してきたのであろうかと疑問を呈しつつ、今後も諸文献を渉猟し、その原因を探る要がある。ただ、朝鮮でベトナムの史書(『大越史略』は別として)が利用できたのは近代以降のことであるので、近代以前では中国の史書を基にして、李氏の族譜が編纂されたことはまちがいないとし、そして李氏の家に伝わる始祖にかかわる家伝類も、現時点では見当らないという。
次に『世譜』の「分派図」と「世系」総編に記された王号に関して説明する。宋の皇帝から李朝の王に叙授された王号には、初封・進封・追封が存在したが「分派図」では初封の交趾郡王のみ記し、南平王への進封を省略していたり、「分派図」、「世系」総編ともに、安南国王に冊封された王を、6世の天祚ではなく、5世の陽煥とするなど、整合性と正確性に欠ける点を指摘している。
その他、李龍祥の系譜に関しても、「花山君本伝」には「君姓李、詳龍祥、号小微子。其先隴西成紀人。系出於有唐之神堯」と記し、その祖先は隴西成紀(甘粛省)の人で唐の高祖・李淵にたどるという。この説は、唐朝の李氏が隴西出身だったことから同じ李姓という関係で李公蘊と唐を結びつけたのであろうとし、唐朝の李姓に淵源するという貴種・名家へのこだわりがあったからと解している。また李氏の族譜中の「墓碭銘」(1904年)にも「其遠祖有李公蘊、中朝人」とあり、李朝を創建した李公蘊が中国人であるという指摘もある。
ベトナムの史書では李公蘊は北江古法州(現バクニン省)の出身、あるいは交州の人と記すが、中国出身説は、宋の沈括の『夢渓筆談』巻25、雑誌2にある李公蘊を閩人(福建)
とみなす説が華人の経済活動などにより伝わったのではないかと推測している。
李朝第7代の李龍 の弟と称する李龍祥が出国して花山李氏となるまでの経緯に関しては、族譜に次のような叙述がある。李龍 が即位すると、嗣子は幼少であり、弟の龍祥は賢く、徳があったので、禅譲の意志があった。そこで幼い恵宗が立つと、叔父の龍祥、平海公君苾および陳日照を三公として国政を委ねることと遺教とした。ところが陳日照は王の姉の昭聖公主と結び、国政を専断したので、李龍祥は苾とともに殷の故事に倣い、祭器を抱えて東方に脱出し、朝鮮にたどり着いた。この李龍祥出国から朝鮮黄海道到着までの経緯については、史実か伝承か判然とせず、検討の余地があるとする。
以上の考察を踏まえて、現時点では、花山李氏の始祖・李龍祥が朝鮮に渡来したベトナム李朝の王子で歴史上実在したと解する材料はないと慎重な判断を下している。一般に、朝鮮の族譜は、輝かしい祖先をもつことを誇りとする傾向があり、これが偽作の作られる背景とされる。花山李氏の族譜のなかで、李朝の始祖・李公蘊を中国人あるいは閩人とみなしたり、李朝を唐の王室と同じ隴西出身と見立てたりしたのも、花山李氏を貴種集団として誇示するための一手段であったろう。花山李氏の族譜編纂当時の朝鮮に、ベトナム王子を始祖として仰ぐことに違和感がなく、誇りに思う意識があった点に著者は注目している。ベトナム王族出身という設定は、両班貴族たる李氏の名誉と誇りを高める重要な役割を演じたことは疑いない。第1章で言及した崔致遠の「補安南録異図記」でみられた華夷意識に支えられたベトナム蛮夷観とは異なる点は看過すべきではない。李龍祥がモンゴルの朝鮮侵略に抗して功績を上げ、花山君に爵封されたという点に目を向ければ、朝鮮もベトナムもモンゴル軍への抗戦という同じ歴史的体験を有し、その共感・親近感がこの始祖物語を創出させたのではないかと著者はみている。
また、済州島に外国人の漂着が多いという状況のなかで、なぜベトナムからの始祖が黄海道に到着し、設定されたのかという問題も未解決のままであり、東アジアの人的、物質的交流という観点から検討する必要があるという。
第5章 阮朝の文献にみえる高麗人参
高麗人参は、あらゆる疫病を治療し、不老長生をもたらす霊薬として知られてきた。朝鮮王朝などは、これを独占し、朝貢貿易や外交礼物として重用し、また王朝の財源として活用した。ベトナム阮朝(1802-1945)でもこの高麗人参は重宝がられ、王朝政治のなかで一定の役割を果たしていた。また、ベトナムの山地では、高麗人参と同じウコギ科に属するベトナム人参が生育していたが、その記録がベトナム文献に散見されるので、文献史学の立場からこれらにも言及している。ベトナムの高麗人参に関する研究は、未開拓の分野であるので、本章では、阮朝統治下における高麗人参の存在状況とその役割を検討している。
『大南寔録』の記載によると、阮朝の皇帝から臣下への賜与の事例は、1830年から1897年までの68年間のうちで、42年に及び、その対象者と理由と、人参の数量について調べている。その結果、対象者については、皇子、尊室、廷臣、文武官、各地に派遣された将士や軍士、功労者の老母、そして100歳に上った一般庶民の長寿者にまで及んでいた。理由としては、賞賜・恩賜、激励、慰問・慰労、病気見舞い、祝いなどが挙げられる。
阮朝は、各種の人参を朝廷に集めたが、その方法としては、行政当局による購入、外国使臣や外国商人からの献上、国内の参戸からの徴収などがあった。そして人参の管理は、戸部ではなく、皇帝の御物と財貨を造り、蔵し、管理する機関である尚方もしくは内帑が担当した。いわば、人参は皇帝や皇室所有の財貨として扱われたのである。その尚方などには、高麗人参、関東人参、土木人参、山西人参、北人参などが貯蔵され、良質の人参は「正北上品人参」、「真正高麗人参」、「好項高麗赤肉参」、「上項人参」と、品種・品質が明示された。また人参の単位は、枝・両・斤や片が用いられ、両や斤は明・清の影響を受けて阮朝の度量衡と考え、1斤は約600グラム、1斤は16両という重さとする。ただ枝という語の解釈については、見解が分かれるようである。漢字文化圏では細長いもの、幹から分岐したものを数えるときに枝という数詞が用いられ、人参も、根に多くの枝根を付けるので、この枝という語が用いられたものと著者は推測していた。しかし今村鞆『人蔘史』を参照し、人参に付された枝という単位には、人参の本数を示す単なる数詞以外にも、人参を斤の目方に分けて、形状と品質により鑑別された人参の別を表す語であったと解釈し直した。例えば、ベトナム文献に「人参三枝」とあれば、重さ1斤になる本数が3根となる種類の人参を意味したとみる。同じ1斤の人参であっても、枝数が少ないほど人参の形状が大きく、良質の品種とみなされたというのである。
さて、阮朝と朝鮮王朝は、ともに漢字文化圏に属し、中国の冊封関係のもとにあったが、直接的な政治・経済関係を取り結ばなかった。ただ、高麗人参がベトナムの地にもたらされたので、偶発的ではあったものの、ひととものの接触・交流はあり、その到来は異文化接触の1つの機会であった。幸いをもたらす薬用品としての高麗人参といった品目をとおして、漢字文化圏の国として“遠い”朝鮮を思い描くベトナム人もいたであろうと想像している。つまりベトナムにとって、高麗人参は朝鮮観を形成するための一素材であり、異文化を意識し、体験できる産物だったと文章を結んでいる。
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