夕陽丘

時事問題とロースクールの日常など

◆立法時事 多選制限法案提出へ

2008年02月10日 23時03分49秒 | 日記・書評
2月10日付日経によると、同9日、自民党は、地方自治体首長の多選を制限する法案を議員立法のかたちで今回の通常国会に提出する方針を固めたという。

主たる内容は、以下の通り。
① 知事及び政令指定都市市長は、連続三選まで
② 一般の市区町村長は、条例で多選禁止規定を設ける事を可能とする

記事にもあるが、いわゆる多選制限に関しては、憲法上の問題がある。人権論の問題として立候補の自由の制限として合憲性を有するかということと、統治論の問題として、地方自治の本旨との関係で法律で制限することが許されるかということも問題となりうる。

総務省の研究会が必ずしも違憲とはいえないという結論を出したことは、裏を返せば、制限の仕方次第で違憲となりうる事を示している。

◆連結家計は縮まない,そうだ。

2006年06月23日 00時02分46秒 | 日記・書評
6月22日の日経朝刊1面のコラム,「消費をつかむ 第2部成熟時代の逆説1」が面白かった。サブタイトルは,「核家族は大家族」「連結家計は縮まない」。

少子高齢化時代にはすべてが縮小均衡を迫られて,家族も核家族以下の一人家族(ペットつき)が増えるのではないか。そんなことを考えていた。ところが,この記事によるとそうでもないらしい。

光が丘の団地に住むある66歳の男性は妻と三男と暮らしているが,独身の長男と既婚の次男が同じ棟の分譲住宅を購入し,近所に住むようになったという。1台のミニバンを共有し共に外出することも多いという。

また,ある不動産会社社長は,最近の売買の3割が家族の近居に関連したものだという。

こうした記事を読むと,最近は,同居という選択肢ではなく近居という選択肢を選ぶことで,自分たちの生活と親兄弟といった近しい家族との生活を両立させる人が増えているんだなと思わずにはいられない。記事は,消費者の行動をとらえて「拡家族」という言葉を使う。

面白いと感じたのは,「近居が各地で広がって,家計も企業会計のように単独から連結時代に移行し始めた。」という記事の見立てだ。

パラサイトシングルといった言葉で親世帯から独立しない子世帯が問題視されたこともあったが,見方を変えれば,家族という最小単位の社会における相互扶助ととらえることもできる。そう考えれば,単独で家計を考えるよりも連結された家族をトータルで考えた方がよい。なるほど,と思う。

もちろん,企業における会計とは異なるわけで,運用はなかなか大変ではあるだろうが,企業とは異なり利益の拡大が家族共同体の目的でもないだろうから,まあ赤が出てもそれはそれで問題ではないのかもしれない。

興味があるのは,「拡家族」がどこまで広がりを見せるのかだ。自分の息子や娘,親以外の親族にも広がるものだろうか。もしそうなったら,趣は多少異なるが戦前の大家族が復活したようなもので面白い。

◆日々のMBO

2006年05月07日 22時49分09秒 | 日記・書評
GWが終わり休暇疲れを体に残しつつ,また日常が始まる。

上司や指導教授,あるいはメンターといった人がいれば中長期の目標管理は比較的容易である。しかし,短期の目標管理は上司等がいてもなかなか難しいと思う。

とりあえず,PDCA的発想で一日のプロセスをいくつかに区分することで事前の計画,事後の確認はできるのだけれど,どうすればより効果的な時間の使い方ができるようになるか見えてこない。

まずは客観的データの積み重ね。そして目的や理念に基づく構造化。あとは実践という試行錯誤。

やはりこれしかないかな。



◆WILLCOM勝手応援団

2006年04月14日 12時53分08秒 | 日記・書評
DDI以来のPHS利用者としては,WILLCOMの破天荒な活動には溜飲を下げる思いを抱いております。

それにしても,またWILLCOMがやってしまいました。

ウィルコム国際電話サービス!!

24時間均一料金であるばかりか,かなり安い。

アメリカだと1分30円。イギリスでも60円。

こんな安値&新サービス開始,ちょっとどういうビジネスモデルで利益出そうとしているのか素人にはさっぱりわかりません。

しかし…最近自分のまわりではWILLCOMに乗り換えたり,2台目に購入したりする人が増加中。うれしい限りです。

月額2900円でPHS間通話無料&どこに対してもメール無料。当分はこれに対抗できる携帯キャリアは現れないでしょう。携帯への新規参入も話題ですが,コスト削減・場面毎の使い分けを考えると,PHSは負けませんよ~



◆内田貴教授の法科大学院論&行政改革論

2006年04月12日 06時02分32秒 | 日記・書評
前田先生の随筆があると聞いて東大マガジンクラブにアクセス。そこで,表記内容の内田先生の論考を発見しました。

論考の要旨は,90年代以降の一連の改革の中にある司法制度改革の一端である法科大学院の意義について,2年余の経験を踏まえて考察され,また,司法制度改革の背後にあって,一連の改革の骨子ともいうべき事後規制社会への移行について警鐘を鳴らされるというものだと思います。

法科大学院については,どの大学でも開校初年度の盛り上がりが冷め,今後の経営という難しい課題に取り組まざるを得ない状況にあるといわれています。まあ,一部のいわゆる上位校を除いてという話ですが。

法科大学院が資格試験を前提とした職業訓練機関という本質を有する以上,今年以降明らかになる「結果」がそれぞれの法科大学院の存在意義を規定することは明らかなわけです。

法科大学院について教授は次のように述べられています。

バブル経済崩壊後の一連の諸改革の「最後のかなめ」と位置づけられた司法制度改革の,そのまた中核的な制度改革として,2004年4月に法科大学院が導入された.この4月でまる2年が経過した法科大学院は,今年,最初の新司法試験を経験する.卒業者数が少ない初年度の合格率は比較的高くなるはずであるが,それでも,新司法試験の合格率が法科大学院の経営に直結しかねないだけに,戦々恐々としているところは少なくないだろう.

(略)

 二
しかし,制度としての法科大学院の成功・不成功は,個々の教室の中での教育の成功・不成功とは必ずしも連動しない.法科大学院制度の将来について,すでに様々な問題が指摘されているのも事実である.そのいくつかを挙げてみよう.
 
第一に,新司法試験の合格率は,現在の前提条件が変わらない限り,将来的には3割程度になると予想されている.現実には,相当程度高い合格率を達成する法科大学院が生ずる反面,ほとんど合格者を出せない法科大学院も出現するだろう.人的・物的設備への膨大な投資を伴って設置された法科大学院にとって,この事態が経営上重大な結果を招きうることは想像に難くない.それが巻き起こす混乱はいずれマスコミを賑わすであろうが,すでに以前から予想されていることである.
 
第二に,新司法試験は,対象となる領域も広く,難易度も決して低いとはいえない水準のものになることが予想される.このことは,第一の点とあいまって,「「点」のみによる選抜ではなく「プロセス」としての法曹養成制度を新たに整備する」という意見書の理念に反したインセンティブを法科大学院に与えかねない.いかに工夫された試験でも,必ず「傾向と対策」の探求をもたらし,受験対応の教育を生み出す.悪くすると,多くの法科大学院の受験予備校化を招き,全国に公認の受験予備校を量産することにもなりかねない.プロセスとしての法曹養成教育を重視するのであれば,合格者数を格段に拡大し,かつ,司法試験の難易度を下げるしかない.それでは質の低い法曹を量産してしまうという懸念が直ちに投ぜられるが,そのような懸念が,所定の水準を確保しているはずの法科大学院教育に対する不信感に基づいているなら,制度設計の思想と矛盾しているし,そもそも,一発勝負の試験の難易度を上げれば法曹の資質を確保できるなどという考えは幻想に過ぎない.これは現行司法試験の考査委員を長くつとめた者としての“voice of experience”である.
 
第三に,法科大学院制度は,その教育の質を確保するため,設置基準と外部評価基準を通じて,過度の「標準化」を強いている.科目,単位数から,教育方法,クラス規模等々が標準化され,教育用教材から授業内容,試験方法に至るまで標準化への圧力がある.しかし,いくら専門職大学院とはいえ,高等教育に標準化は馴染まない.もちろん,標準化は水準を引き上げる方向では意味があろう.しかし,水準を遙かに超える教育を行なえる教師や,そのような教育に対応できる学生にとって,標準化は何のメリットも生まない.法曹養成制度の改革の目標のひとつは,世界に通用するエリート法律家の養成であったはずである.高度な教育を実施できる質を備えた法科大学院には,自由な創意工夫の余地を拡大し,本当に能力のある教師が意欲を持って力量を発揮できる環境を提供すべきである.独創的才能を育てる教育を阻んできた戦後日本教育における標準化,画一化が,法科大学院においてまで再生産されることは,決して望ましいこととは思えない.

 三
以上のような問題点は,もちろん深刻である.しかし,今後の試行錯誤の中で改善の可能性も十分ある.むしろ,制度創設時の混乱がもたらした問題に過ぎず,将来的には解消の方向に向かうと楽観的に考えることもできようし,そのように期待したい.(出所:東京大学出版会 東大マガジンクラブ 2006年4月10日 - 13:46 内田貴「法科大学院は何をもたらすのか または 法知識の分布モデルについて」

読みながら抱いた感想は,やはり当初からいわれていた問題点が噴出してきているというものでした。

もともと事後規制社会への移行を前提として法曹人口の大幅増員が計画され,その方法論として法科大学院が構想されてきたと記憶しています。そこでは,受験技術の氾濫がもたらした従来の司法試験による「点」の選抜の限界,及び大幅増員に司法研修所が(物理的に)対応できないという理由が挙げられていました。

ただ,大幅増員については,日弁連を含め法曹界から大きな反対が起き,年間3000人という数にどうにか落ち着いたという経緯があり,一年間にこれを上回る数の法曹を誕生させるという計画は事実上不可能になりました。

一方で大学院の数も問題でした。当初は,全国で4校から12校程度といった少ない数の法科大学院を設置し,学部教育プラス前期修習の教育内容を2年ないし3年で修得させ,そのうえで厳格な卒業審査をするというプロセスを経て新しい司法試験を受けさせる,という計画で話が進んでいたと思います。既修・未修合計して一校あたり300から500を一学年として計算し,毎年3000人から4000人程度が司法試験を受験する。それで大体合格率が7割程度。大雑把に言えばそういう話だったと思います。

ところが,法科大学院に関しては設置基準を充足すれば設置が自由にできることになり,現在のような乱立を招くこととなりました。この時点で,合格率7割という話は不可能となったのですが,世間的にはそれが認知されず,多くの社会人が会社を辞めてまで法科大学院に入学するという事態が生まれました。

その結果,2つの事態が生じることが当然予想されてきました。1つは,内田教授が指摘されている法科大学院教育の理想に反するインセンティブが法科大学院よりも前に学生に働くということ,つまり,結局受験技術を指導する予備校が繁盛するということです。今1つは,多方面から多様な人材を法曹とするため社会人を多く受け入れるはずが,その社会人にとって法科大学院に入るメリットが大幅に減殺されてしまったということです。その結果,学部からそのままあがってくる学生と従来の司法試験を受験してきた学生が大多数を占める結果を生み出すことになってきました。

こうなると何のために法科大学院を作ったのかよくわからなくなります。それで,法科大学院制度を廃止すべきという意見を出される先生が現れたりします。

今から目指そうとしている人間からすると,早速に改革に取り組んでいただきたいと切に願うわけですが,どうなるんでしょうね。今年はともかく,来年の新司法試験の結果,及びその後の法科大学院の第三者機関による評価が1つのポイントではあると思いますが…

ただ,不遜ながら教授の言われる問題点については,東大法科での議論のみを前提としているように思えて,外から眺めている人間としてはクエスチョンマークが点灯する部分があります。

法科大学院教育の標準化という第三点目の問題点についてです。

おそらく東大法科に関していえば,標準的教育内容を規定されれば,かえって高度な教育を行えなくなるというデメリットが生まれるのだと思います。教授される先生方の質も学生の質も随一なわけですから,ある意味当然というべきでしょうか。

ただ,いわゆる中堅以下の法科大学院においては,標準的内容を充足することさえ困難なところが多数あるように思えます。学生の側からすれば,その最低限のラインはせめて充たしてくれと思うわけですから,標準ラインの存在は功罪両面あるというべきなんじゃないでしょうか。

…閑話休題

だが,私が論じようとする問題は,これらの問題点がすべて解決したあとにある.すなわち,質の高い教育が法科大学院で実施され,受験準備に忙殺されることなく幅広い勉学の機会を与えられた法曹が順調に養成されるようになった暁に,日本の社会に何がもたらされるかである.

(略)
 
中央省庁の再編をもたらした行政改革会議の最終報告は,すでに1997年に,「『法の支配』こそ,わが国が,規制緩和を推進し,行政の不透明な事前規制を廃して事後監視・救済型社会への転換を図り,国際社会の信頼を得て繁栄を追求していく上でも,欠かすことのできない基盤をなすものである.政府においても,司法の人的及び制度的基盤の整備に向けての本格的検討を早急に開始する必要がある」と述べていた.意見書も,「事前規制の廃止・緩和等に伴って,弱い立場の人が不当な不利益を受けることのないよう,国民の間で起きる様々な紛争が公正かつ透明な法的ルールの下で適正かつ迅速に解決される仕組みが整備されなければならない.21世紀社会の司法は,紛争の解決を通じて,予測可能で透明性が高く公正なルールを設定し,ルール違反を的確にチェックするとともに,権利・自由を侵害された者に対し適切かつ迅速な救済をもたらすものでなければならない」と述べている.
 
つまり,事前規制から事後監視・救済型社会への転換のためには,司法サービスをサポートするための十分な数の法曹が必要とされる,というわけである.ここにひとつの重大な政治的選択がある.国家の事前規制によって権利の侵害を防止するのではなく,事後の司法的救済によって権利侵害に対する保護を与える社会というイメージは,アメリカ型の社会をモデルとしたひとつの社会像であるが,それだけが唯一の可能な未来というわけではない.昨今,建築基準法違反事件を契機に,規制緩和の「影」の部分が語られているが,小泉構造改革を支持した日本の国民は,本当に,事後救済型の社会を選択したのだろうか.

 四
法科大学院が導入されるまで,日本には全国に100に近い数の法学部があり,約4万5千人の卒業生が毎年生み出されていた.卒業生は,中央,地方の官公庁のほか,幅広い領域の民間企業に就職してきた.法曹になったのは毎年1~2パーセントに過ぎない.無論,4万5千人の法学部卒業生の多くが,十分な法的素養を身につけていたかどうかはわからない.しかし,契約書その他の法的文書を見せられたとき,多少なりとも意味を解することのできる人材が,毎年4万人以上生産され,その中の優秀な人材が中央や地方の官公庁に大量に入っていった.民間企業でも,現在の法務部員の多くは,法曹資格のない法学部卒業生によって占められている.日々,生きた法務に接している彼らから,若い弁護士は使い物にならないという話も聞く.

(略)
 
アメリカには,約100万人の法律家がいる.このように法律専門家の数は多いが,他方で,法律専門家ではない人々には法知識はまったく分布していない.つまり,アメリカの法律家は,日本でいえば医者と同じで,法知識(医学知識)を独占しており,素人とプロの間の壁がはっきりしている.これを法知識の集中型モデルと呼ぼう.他方で,これまでの日本社会には,法知識が拡散して存在し,法曹ではない「法律家」が多数存在していた.これを法知識の拡散型モデルと呼ぶことにする.
 
学部レベルで法学教育をし,その卒業生が法曹以外の職業に多数流れていくヨーロッパ大陸の国も,拡散型モデルに属する.日本は典型的な拡散型モデルの社会であり,とりわけ法知識を備えた優秀な人材を中央省庁が多数擁するという社会であった.その人材が,その知識を活用して法律や精緻な政省令を整備し,事前規制型の社会を築いていたのである.規制を受ける社会の側にも,企業を中心に,法知識を備えた法的リテラシーの高い人材が豊富に存在し,それが戦後日本社会の制度運用を支えていた.ときに日本社会は,アメリカとの対比で法律的ではないと言われるが,それは紛争解決に司法が利用されないだけで,実は,法的リテラシーの極めて高い社会であった.新たな事態に対応するための政策は官により直ちに法令化され,民もそれに柔軟に対応できるという特質は,一朝一夕に備わるものではない.法科万能とも言われ,法学部が文科系エリートを集める明治以降の日本の伝統が一世紀をかけて築き上げてきたものであり,戦後の官主導による経済成長を支えた知的インフラでもあった.
 
その社会が,グローバリズムと市場化の流れの中で適応能力の限界を露呈することになった.しかし,どこに限界があったのかは精密に見定める必要がある.法知識の拡散型社会における高度な法的リテラシーは,ひとたび失われると,もはや容易に回復しうるものではない.本当にそれが弊害をもたらしたのかどうかは,十分な検証を要する.

 五
司法制度改革は,日本社会を法知識についての集中型社会へと転換する選択をした.現在はまだ社会に多数拡散している法知識は,今後,法科大学院が定着するなら,次第にその質を低下させていくだろう.そして,法知識を法曹が独占する社会へと向かう.その影響は,やがて,じわじわと社会の様々な面に現れるに違いない.真っ先に直面しなければならないのが,中央・地方の公務員における法的リテラシーの低下だろう.とりわけ中央の官僚たちの法的資質が低下したとき,どのような影響が生ずるか.近い将来,その影響ははっきり観察できるに違いない.
 
もし日本が,司法制度改革がめざしたとおり,アメリカ的な法知識集中型社会に向かうとすれば,紛争の発生を未然に防ぐための事前規制の質は低下し,また法知識の欠如は社会の紛争解決能力を低下させ,紛争解決をもっぱら司法的手続に頼るようになるだろう.まさに事後救済型社会の到来である.しかし,紛争解決に要するリーガル・コストが極めて高いアメリカでは,必ずしも大多数の人々がそれを是としているわけではない.日本の将来についてブループリントを描く際には,もう少しあるべき社会像の多様性を考慮に入れてもよいように思う.
 
建築基準法違反が見過ごされたためにマイホームを失った被害者は,自ら訴訟を提起することによって自分の権利を守り,ひいては法の支配の貫徹を図るというのが事後救済型社会である.耐震強度の偽装問題をめぐり,いつものようにすぐに政府の政治的責任を云々する人々を見るに付け,本当に国民は,自分達が行なった(はずの)将来の社会像についての選択に気がついているのだろうか,と考え込んでしまうのである.(出所:東京大学出版会 東大マガジンクラブ 2006年4月10日 - 13:46 内田貴「法科大学院は何をもたらすのか または 法知識の分布モデルについて」

法的リテラシーという文脈で考えてみると,内田教授の言われることはもっともなことで,アメリカ型の事後規制社会が到達モデルだとすると危うい気がします。

法曹人口という点にしても,司法書士や行政書士といったパラリーガルを含めた数で計算すれば,日本の法曹人口は少なくないという議論もあります(アメリカには司法書士といった資格はありません。詳しくは知りませんがイギリスも法廷弁護士(バリスタ)と事務弁護士(ソリシタ)を合わせた数でしょうし)。

とはいえ,教授の指摘される望ましからぬ未来像の到来は杞憂ではないかと思います。もちろん,法科大学院制度が今後どのように展開していくかにかかっているのかもしれませんが,事後規制社会を目指すことによって,必然的に日本がアメリカのような集中型になり,従って,一般の法的資質が著しく低下することはないのではないでしょうか。

読者カードから実務法曹や法学部生以外の多様な人が法を学んでいるという指摘にみられるように,日本人そのものに法的リテラシーの吸収を好む資質があるようにも思えますし,そうだとすれば,事後規制社会になれば一般への法的リテラシーの拡散はより一層進むようにも思えます。それは,公務員の法的リテラシーという文脈でいっても同様で,かえって法的リテラシーの向上という好ましい事態が招来するようにも思えます,

ただ,リーガルコストの上昇は必然的に起こる望ましからぬ事態でしょう。それがよい事態かと問われればよい事態などといえないわけです。また,事後規制社会は,一言で言えば,自己主張しなければ損をする社会です。しかし,日本人は伝統的に自己主張を控える文化様式の下で生きてきました。そう考えると,事後規制社会となる今後の日本は,かなりの不正義がまかり通る可能性があるというべきでしょうか。

論考を読み進めて行くと,教授は,法科大学院の現状を明らかにしつつ事後規制社会の到来を疑問視しているように思えます。確かに,明治の開闢以来百数十年の経験がある事前規制の安定的システムを大転換するわけですから,相当の混乱があることは当然でしょう。それにしても,もう少し考えるべきことはあったのではないか。論考の終局において,内田教授は,今次改革を「拙速なり」と痛烈に批判しているようにも思えます。



◆県庁の星 

2006年02月26日 01時14分42秒 | 日記・書評
某シネコンにて「県庁の星」を見てきた。封切り日ということもあり,レイトショーでもかなり混雑。

かなり面白かった。ストーリー的にベタな部分もあるが,ストーリー・演技はもちろん演出・編集も満足の域に達している。何回か見ても飽きる作品ではないと思う。

あ,うまいなあと思った点をひとつ。

織田裕二演じる県庁の生抜きエリートがスーパーで高級弁当を作ろうとして店長から「それではうちは倒産してしまう」といわれて,こんなことを言う。

「採算は二の次でしょう」

うーん,税金という安定的財源がある役人の発想を端的に表現していてグー。

それにしても,柴咲コウの上目づかいはちょっと犯罪的なんじゃないか?

男的にはとてもズルい気がする。この映画でまたファンが増えたことでしょう。

◆まんがの効用

2006年02月25日 16時44分06秒 | 日記・書評
漫画の方が小説を読むより脳の機能をより広く使っているそうな。養老先生がテレビで言っていた。何やらどこかの大学の先生が実験で証明もしていた。

確かに,小説のように文字だけを情報として取り込むことと,文字だけでなく絵,さらにはコマの構成といった情報も同時に取り込む必要が生じる漫画とでは,漫画のほうが小説などより情報量が多いのかもしれない。

漫画ばかりよんでいると…というのは,大人の思い込みだったということか。

◆読後感:WEBを食い物にする検索エンジン

2006年01月18日 23時00分10秒 | 日記・書評
 興味深いレポートを見つけた。検索エンジンがWEB上の諸価値を独り占めしているという内容だ(Jakob Nielsen博士のAlertbox 2006年1月9日 Webを食い物にする検索エンジン)

 思いっきり要約すれば,「検索エンジンが登場して以来,WEB上の諸価値を提供しているのは個々のサイトであるにもかかわらず,その価値を検索エンジンが奪い,本来得られるはずの利益を検索エンジンが得て個々のサイトは損害を被っている。検索エンジンの集客機能は益々強化され,利益の集中は加速している。ここは,発想を転換して検索エンジンを頼らないサイト運営を考えるべきである。そのための手段も複数存在している。」というものだ。

 確かに,グーグルが提供する様々な機能の充実ぶりと,その結果としての膨大な利益を考えると,論旨は正しいと思える。ただ,脱検索エンジンを選択するか,あえて検索エンジンに乗っかるかは,極端にいえば,農協を通して流通させるか独自に流通させるかといったレベルの選択であって,どちらが望ましいかは個々の企業によって異なると思われる。であれば,食い物にする云々はある種の理想論を背景にした批判で現実的には意味はないようにも思える。


◆詩篇 鎮守の森

2006年01月16日 18時55分52秒 | 日記・書評
空を行き 鎮守の森を真下に見る

森の真ん中 ひときわ大きな木がそびえる

森の真ん中 周りの木々を包み込む様な 大きな木がそびえる

私はその木を見守ってきた

大地から芽生え 若木となり 力強く枝を伸ばして行く様を

幹から枝が 枝から小枝が 小枝から瑞々しい葉が

四方に 八方に その木は翼を広げるように 育ってゆく様を

その木から言霊は生まれた

その木から世界が生まれた

私は大地を知る

私は幹を知る

私は広がり行く枝を知る

私はひとつひとつの葉を知る



◆思索メモ 1月16日

2006年01月16日 12時46分18秒 | 日記・書評
 宗教的にはカトリックとプロテスタントという二大潮流が存在しているにもかかわらず,西欧がひとつの文明として統一されているのは,カトリック教会が世俗権力を放棄するという合意ができていることにより,宗教的差異を近代国家システムから捨象することができたからに他ならない。

 そうすることで,西欧は,国家という枠組みと宗教的組織という枠組みの衝突を避けることができている。


 

◆書評 再読:文明の衝突(サミュエル・ハンチントン)

2006年01月16日 01時30分44秒 | 日記・書評
文明の衝突

集英社

このアイテムの詳細を見る

 全世界に大ブームを巻き起こしたサミュエル・P・ハンチントンの「文明の衝突」を読み返している。この本が発表されて以後,世界はまさに文明の衝突かと思えるような激動の時代の入った。アメリカに対する繰り返されるテロ,そしてそれに対する報復としてのアフガニスタン攻撃,イラク戦争。

 マスメディアもイラク戦争を批判する文脈で,文明の衝突に至るような道は避けるべきだと繰り返し主張していた。アメリカ対タリバン,アメリカ対アルカイダがキリスト教対イスラム教の対決へと拡大しかねないというのだ。

 しかしそうかな? と私は違和感を抱いていた。対テロ戦争,対イスラム原理主義という構図を表面的に見れば,確かにキリスト教対イスラム教という文明間の争いに見える。でも,実質を見れば,それは誤りではないかと思っていた。

 私には,むしろビンラディンのようなテロリストが目指しているのは,近代の秩序を否定して中世的な秩序をアラブ世界に築いていくことのように思えた。

 そしてそうであるなら,キリスト教あるいは欧米対イスラム教あるいはアラブ諸国という構図を描くことに意味はないのではないか。そうではなく,近代の秩序の中では富や権力を手にできない層の不満がイスラム原理主義という理屈をまとって,近代秩序の担い手であるアメリカを攻撃していると考えるべきなんじゃないか。

 閑話休題。

 「文明の衝突」を読んで最も興味を引かれたのは,もちろん我が日本の将来について。まず,日本文明の位置づけについて,ひとつの独立した文明圏とされている点については「日本は中国文明から派生した特異な存在のように扱われるのが普通なのに,独自性を認めるなんてすごいね」などと思っていた。

 もっとも,今後に関しては暗い。独自性を有するが故に孤立して,アメリカと中国の間を右往左往,最後は中国に飲み込まれるように書かれていた。

 読んだ当初はなかなかショックだった。しかし,今現在の米中の存在感を考えると日本の衰退は否めないし,米中を両睨みしながら立ち回るしかないという予測は徐々に現実になりつつあるように思える。

 やはり,ハンチントンの予測はなかなかに的を射ているというべきなのだろう。

 そうすると問題は,諸文明の優勝劣敗をかけた衝突という構図の中,日本はどうすればハンチントンの予測を回避できるかということになる。

 これを考える上で,諸文明の相関関係を理解することは欠かせない。そのためにも,文明の衝突を今一度精読して見ることにしよう。


◆書評 再読:マキアヴェッリ語録(塩野七生)

2006年01月13日 23時55分27秒 | 日記・書評
 何年か前に読んで以来書棚に放置していた,塩野七生さんの「マキアヴェッリ語録」を再読した。

 この本は,著者が記すように完訳でもなく要約でもなく解説でもない,マキャベリの著作の抜粋というスタイルをとっている。この点は「ドラッカー 365の金言」と同様,著者の思想のエッセンスを容易に理解することができるのでありがたい。

 いうまでもなくマキャベリは,ルネサンス期の著名な政治思想家であって,彼の思想は,時としてマキャベリズムとして批判の対象となる。曰く,卑劣な権謀術数であるとして。しかし,そうだろうか? マキャベリの思想は優れて現実的であって,生の人間の有り様から政治思想を見出したに過ぎない。もしそれが卑劣だというならば,人間そのものの有り様が卑劣ということになりうる。

 マキャベリ自身が言っている。「わたしがここに書く目的が,このようなことに関心をもち理解したいと思う人にとって,実際に役立つものを書くことにある以上,想像の世界のことよりも現実に存在する事柄を論ずるほうが,断じて有益であると信ずる。」「人間いかに生きるべきか,ばかりを論じて現実の人間の生きざまを直視しようとしない者は,現に所有するものを保持するどころか,すべてを失い破滅に向かうしかなくなるのだ。」

 マキャベリの思想は,多くの人がそれぞれの目的に向かって活動し交渉する現実の中から形作られた普遍的な人間の技と理解すべきだろう。つまりそれは,客観的な技術としての思想であり,倫理や道徳といった価値に対しては中立的であると理解できるのではないだろうか。そうだとすれば,マキャベリが倫理や道徳を軽視していたと考えることは誤りだとわかる。

 そこから一歩進めれば,むしろ倫理や道徳を重んじる者は,進んでマキャベリの思想を客観的に,つまり技術として会得するべきかも知れない。なぜならば,技術そのものに善悪は無く,善悪はそれを用いる人の心にあるからだ。マキャベリはいう。「善を行おうとしか考えない者は,悪しき者の間にあって破滅せざるを得ない場合が多い」と。もしあなたが善を行いたいと思うならば,マキャベリを通して人間の生の姿を知るべきだ。そうすることで,あなたは善の意思を保持しつつ人の技を知ることができる。


 などと思索に耽ってしまうほど,奥の深い本である。いい本は何度読み返しても意味がある。そのことを実感させてくれる1冊でありました。

塩野七生 著
マキアヴェッリ語録


新潮社

このアイテムの詳細を見る



◆書評:ドラッカー 365の金言

2006年01月11日 01時17分18秒 | 日記・書評
 昨年11月11日,経営学の泰斗であり,日本の名立たる経営者に多大なる影響を与えたドラッカーが亡くなった。追悼の意味も込めて出版されたのが「ドラッカー 365の金言」だ。1日1ページで構成され,従って,365の金言が日めくりで読めるようになっている。

 初めてドラッカーの本を読んだのは法学部1年生か2年生のことだったと記憶している。読む以前は,小難しい文章なんだろうなと思いつつタイトルに引かれて手に取った。翻訳者の功績もあるかと思うが,これが読みやすいのだ。おかげで,頭に残ったかは別にして,すごい勢いで読破したことを覚えている。

 ドラッカーの本は,何度も読み返すのがいい。読めば読むほど,そのエッセンスが,言い換えれば応用可能な一般論が明確に理解できるようになり,体系的理解が進む。

 その意味で,この本は便利だ。数多くの本の中から,ドラッカーを理解するうえで重要な文章を抽出してくれている。デザインもいい。

 考え方を変えてみれば,これは入門書としても使える。この本を基礎として,原典に当たっていける。これは効率がいい。

 さて,今日の一言はなんだろうか?


ドラッカー 365の金言

ダイヤモンド社

このアイテムの詳細を見る