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■「日本人と英語」を考えてゆくブログ

英語教育論争勃発!

2006年03月09日 | 記事
■外国語(英語)教育の目的は何であったのか?

外国語教育の目的や意義については、実用としての側面と教養としての側面がある、ということはしばしば言われます。他者とのコミュニケーションの道具としての実用と、文化理解や視点の多様化などの知的発達の役割を持つという教養であります。
開国以後始まる学校での英語教育ですが、初めは「実用」としての側面が強かったのだそうです。開国当初は安全保障(国防)のために外国人との意志伝達の道具として英語が必要だった、そしてその後、西欧に追いつけ、追い越せの掛け声の下、英語は外国の書物を読んで外国の思想や文化を吸収し、日本が近代化を図るために必要であったのでしょう。しかし、一応の近代化を遂げた後はどうなったのでしょうか。伊村(2003)には次のようにあります。

明治も後半になって日本の近代化が一通り完成してしまうと、英学は初期の役割を終える。英語はもはや文明開化の手段でもなければ、高等教育を受けるための不可欠の資格でもなくなる。


■「平泉・渡部論争」を振り返る

戦後になり、実用なのか、それとも教養なのか、という英語教育の目的をめぐって争われた大論争があったそうです。1975年(昭和50年)、当時自民党参議院議員であった平泉渉氏と上智大学の教授であった渡部昇一氏との間でその論争は起き、現在では「平泉・渡部論争」と呼ばれているようです。私は当時生まれておりませんから、論争の内容は『英語教育大論争』という本から知ることとなりました。少し内容をまとめてみます。

1974年(昭和49年)4月、自民党の政務調査会に「外国語教育の現状と改革の方向」と題するひとつの試案が、同党の政調審議委員平泉渉氏(参議院議員)によって提出されました。
平泉氏の意見は「これまでの日本の外国語教育は学習にかけている時間の割には実際における活用の域にまでは達していない。事実上、日本の子どもたちのほとんどが6年にわたって毎週数時間の英語の授業を受けながらその成果は全くあがっていない」というものでありました。もうすこし細かく見てみたいと思います。(箇条書き)

【実状】
◆高校・大学のいずれもその入試科目として英語が課せられない例はほとんどない。事実上、全国民に英語の授業が義務的に課せられている。(※2002年までは中学の英語は法規上は選択科目)
◆義務的に課せられているにもかかわらず、その学習した英語はほとんど、読めず、書けず、わからないというのが実状である。
◆その理由の第一は、英語ができなくても日本の社会では困ることはなく、英語は受験のための必要悪に過ぎないため、学習意欲が欠如しているからである。第二は、「受験英語」の程度が高すぎるので、学習意欲を失わしているためである。第三に、日本語とは語系の異なる英語に対して欧米と同様の非効率な教授法が用いられているためである。

【検討すべき点】
◆外国語教育を事実上全国民すべてに対して義務的に課すことは妥当か。
◆外国語としてほぼ独占的に英語を選んでいる現状は妥当か。
◆より成果を高める方法はないか。

そしてこの試案は次のような提案をしています。

【提案】
◆中学校の英語教育は実用上の知識として中学1年終了程度にとどめる
◆高校においては志望者のみに外国語教育を課し集中訓練を行う

そして平泉氏は外国語(英語)教育の目的を次のようにしました。

【目的】
我が国の国際的地位、国情にかんがみ、わが国民の約5%が外国語、主として英語の実用的能力をもつことが望ましい。

平泉氏が受験英語を「必要悪」であるとしたのに対して渡部氏は受験英語は日本人の知的訓練に役立っていると主張し、「教養」としての英語教育と言う立場で真っ向から反論を行いました。

渡部氏の反論の論文のタイトルをみると面白いのですが、そこでは「亡国」や「廃仏毀釈」という言葉が使われています。渡部氏の気合の入れようが見てとれます。それはよいとしまして、渡部氏の主張を見ていきたいと思います。ここではその主張をわかりやすくまとめられている山田(2005)を引用します。(カッコ内のページ数は『英語教育段論争』のもの』)

◆異質の言語で書かれた内容ある文章の文脈を、限りなく追うことは極めて高い知力を要する(41ページ)。母国語との格闘の重要性(35ページ)
◆「学習した外国語は、ほとんど読めず、書けず、わからない」からと言って、その成果は全くあがっていないというのは甚だしい短見(38ページ)。学校における英語教育は、その運用能力の顕在量ではなく、潜在力ではからなければならない(39ページ)。実用になるほどの外国語能力が普通の学校の授業で養成しうるという迷信(88ページ)。
◆5%のエリート養成をめざす教育は、国民を混乱させ、義務教育の構造をこわす「亡国の案」であり、英語漬けの教育は、それによって育つ5%のエリートをも歪める(48~49ページ)


次の記述は渡部氏の考え方を代表するような主張です。

英米の知識階級相手の知的散文、あるいはトマス・ハーディ程度の小説を、一ページ三十分かかろうが、一時間かかろうが、正確に読めること。和英を頼りでもよいから筋の通った英文を書けること。ごくごく初歩の会話ができること(96ページ)


そして渡部氏は学校英語教育の目的を「アメリカに行って3ヶ月、半年後になって着実に伸びる土台を与えること」とします。

鈴木孝夫氏はこの議論について「十分にかみ合った議論がなかった」といっています。両者の議論はどこか少しずつ焦点がずれていた感があります。
私自身はどちらかと言えば、平泉氏の主張にうなずく場面が多かったように思います。しかし、渡部氏が英語教育の目的を「顕在量ではなく潜在力」としていることや「実用になるほどの外国語能力が普通の学校で養成しうるという迷信」という主張には同意する部分もあります。

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