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先日、友人宅で昭和23年(1948)文部省検定済英語教科書 『JACK AND BETTY』 を偶然見つけた。1947年生まれの自分としては大変なつかしいという気持ちと同時に、この教科書に対して子供の頃から長年、「違和感」(odd feelings) というか何か心の中にモヤモヤしたもの(pent-up feelings) があったことを思い出した。教科書の第1ページ目の "I am a boy." そして "I am a girl."。 中学1年の時、先生に教えられるまま「何の疑いもなく」一生懸命に勉強し始めた。
ハリウッド映画好き (American moviegoer) だった自分としてはどうしても早くスクリーン (screen) に出てくるようなブロンド(blonde) や ブルーネット(brunette) の女性と会話 (conversation) が出来るようになりたかった。(大変ませたガキだった‼ I was a precocious child. / I was too advanced for my age.)それで中学校とは別に外国人が教える少人数制の英会話教室に頻繁に通った。そこで感じたのが学校教育の英語と英会話教室の英語の『差』 (difference) 。
そもそも "I am a boy." "I am a girl." 「僕は少年です。」「私は少女です。」とは何ぞや! (What the hell is it?) その人の職業(occupation) について言うなら分かるが、目の不自由な人に話す以外、あるいは最近、急増している性別不明確な人たち(?!)などと話す以外、一般常識としてはこのフレーズ phrase の会話はあり得ない。(その他の例外は夏目漱石著の『吾輩は猫である』 "I am a cat." の様な文学的な表現。)勿論、それは当時の文部省の偉い方々の判断で「英文法」「英語学の方則」を子供たちに習得させる為だったとは想像はできるが、英語教育の最も重要な very first step で「規則を最重要視」したことは最大のミスと言わざるを得ない。今、この1冊を速読して感じることは、これでは規則、規則でこの外国語を学ぶ意欲がなくなってしまうこと。
人間「おぎゃー」といって生まれてから最初に耳に入ってくるのが母親、父親の単語や短い会話。文法を習うのは小学校に入ってからずうっと先の話。英語も他の外国語もすべて同様である。教育者や文化人を目指して言葉に十二分に気をつけて勉強している人ならともかく、われわれがつね日頃使っている話し言葉は文法はメチャクチャ (The grammar is all screwed up.) で、それであってそれが「生きた会話」 (a living conversation) であり、「意思疎通」(real communication) ができている。中学校3年、高校3年、大学4年の10年間も英語を勉強しても話せない、理解できない人が多いのは、この文法重視型の教育 (grammar-oriented education) と大学受験の為の英語教育のせいであり、必須科目 required subjects (あるいは選択科目 elective subjects )としてせっかく長い間勉強するチャンスがあるのに習得できないのは非常に悲しいことである。現在、外国人教師を使ったり、日本人教師の英語能力を高めたり、英語教育を早めようとしたりして改善しつつあるように見えるが、真の効果的な方法を見いだすには至っていない。先人の賢者たちがこぞって一つの日本語の意味を一つの英単語で表し、欧米人でも知らない英語を使っていた時代もあった。現代では中学生でも知っているやさしい単語を使って慣用句 idiom (2語以上が結合し、その全体が特別な意味を表す句)で表現するのが主流になっており、日本人がこれを重視して勉強するのも改善策の一つかもしれない。
インターネットなどを駆使し現代の英知 (wisdom) を結集すれば、きっと日本中の若者が世界の人々と外国語を自由自在にこなしコミュニケーションが出来る日がやってくると確信する。それが日本の将来の発展につながることは言うまでもない。□YS
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先日、友人宅で昭和23年(1948)文部省検定済英語教科書 『JACK AND BETTY』 を偶然見つけた。1947年生まれの自分としては大変なつかしいという気持ちと同時に、この教科書に対して子供の頃から長年、「違和感」(odd feelings) というか何か心の中にモヤモヤしたもの(pent-up feelings) があったことを思い出した。教科書の第1ページ目の "I am a boy." そして "I am a girl."。 中学1年の時、先生に教えられるまま「何の疑いもなく」一生懸命に勉強し始めた。
ハリウッド映画好き (American moviegoer) だった自分としてはどうしても早くスクリーン (screen) に出てくるようなブロンド(blonde) や ブルーネット(brunette) の女性と会話 (conversation) が出来るようになりたかった。(大変ませたガキだった‼ I was a precocious child. / I was too advanced for my age.)それで中学校とは別に外国人が教える少人数制の英会話教室に頻繁に通った。そこで感じたのが学校教育の英語と英会話教室の英語の『差』 (difference) 。
そもそも "I am a boy." "I am a girl." 「僕は少年です。」「私は少女です。」とは何ぞや! (What the hell is it?) その人の職業(occupation) について言うなら分かるが、目の不自由な人に話す以外、あるいは最近、急増している性別不明確な人たち(?!)などと話す以外、一般常識としてはこのフレーズ phrase の会話はあり得ない。(その他の例外は夏目漱石著の『吾輩は猫である』 "I am a cat." の様な文学的な表現。)勿論、それは当時の文部省の偉い方々の判断で「英文法」「英語学の方則」を子供たちに習得させる為だったとは想像はできるが、英語教育の最も重要な very first step で「規則を最重要視」したことは最大のミスと言わざるを得ない。今、この1冊を速読して感じることは、これでは規則、規則でこの外国語を学ぶ意欲がなくなってしまうこと。
人間「おぎゃー」といって生まれてから最初に耳に入ってくるのが母親、父親の単語や短い会話。文法を習うのは小学校に入ってからずうっと先の話。英語も他の外国語もすべて同様である。教育者や文化人を目指して言葉に十二分に気をつけて勉強している人ならともかく、われわれがつね日頃使っている話し言葉は文法はメチャクチャ (The grammar is all screwed up.) で、それであってそれが「生きた会話」 (a living conversation) であり、「意思疎通」(real communication) ができている。中学校3年、高校3年、大学4年の10年間も英語を勉強しても話せない、理解できない人が多いのは、この文法重視型の教育 (grammar-oriented education) と大学受験の為の英語教育のせいであり、必須科目 required subjects (あるいは選択科目 elective subjects )としてせっかく長い間勉強するチャンスがあるのに習得できないのは非常に悲しいことである。現在、外国人教師を使ったり、日本人教師の英語能力を高めたり、英語教育を早めようとしたりして改善しつつあるように見えるが、真の効果的な方法を見いだすには至っていない。先人の賢者たちがこぞって一つの日本語の意味を一つの英単語で表し、欧米人でも知らない英語を使っていた時代もあった。現代では中学生でも知っているやさしい単語を使って慣用句 idiom (2語以上が結合し、その全体が特別な意味を表す句)で表現するのが主流になっており、日本人がこれを重視して勉強するのも改善策の一つかもしれない。
インターネットなどを駆使し現代の英知 (wisdom) を結集すれば、きっと日本中の若者が世界の人々と外国語を自由自在にこなしコミュニケーションが出来る日がやってくると確信する。それが日本の将来の発展につながることは言うまでもない。□YS
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