photo : Kosuke Kawamura (ZAIDE)
あたりまえでありたまえ
─ 福山市立美術館「緩やかな登り坂」展、そして尾道でのアフターパーティー(Text: 黒パイプスターダスト)
面白くて当たり前のことこそ体験できないように仕組まれた世界の中に閉じ込められているように感じながら生きている人間は少なくない。この世が提示する「当たり前の面白さ」と個々人が目指す「面白くて当たり前」の間には、まるで真っ赤な“満”の字が横たわっているかのようだ。
だからこそ、無垢の表現が生まれないことへのあきらめと嘆きの声があらゆる現場から漏れ伝わってくる2000年代後半の東京において、SEX -Virgin Killer-というバンドがビジュアル系の原始─すなわちVISUAL SHOCKを本気で体現しようとする度にいちいち心を打たれたり、或いは、突如リリースされた吉野公佳のアダルトイメージビデオの中に最新かつ超前衛な表現を見い出してしまったりする、私たちのようなひょうきん族が生まれるのである。兎に角おかしなことがよくおこるものだ。いつもは大抵、頭の中で。
そう、大抵のことはいつも頭の中で終わってしまう。情報量と経験回数が釣り合わないからであろうか。しかし、周囲の一気コールに煽られて飲み干す「情報」の類いってのは、所詮、翌朝に駅のホームでカピカピに乾涸びたGEROとして駅員に発見される程度のものなのだ。そんなことを繰り返していて駅員が可哀想だと思わないのか。いったい誰が実際の世の中でその駅員の役割を演じているのか、あんた達は考えたことないのか。
この悪循環から抜け出すためには、自らの脳内で合成された上質なネタの一つ一つを現実の中にぶち込む、キメる、流し込むという行為を、地道に実践していくより他ないのである。
映画「ジプシー・キャラバン」の大ヒットにより、日本のワールドミュージックファンの間でも一躍人気者となった、クイーン・ハリシュというインドの女形ジプシーダンサーがいる。私はつい最近、彼とイベントを共にする機会を得た。イベント当日に挨拶をしようと楽屋の戸を開けると、ちょうど着替え中だった上半身裸のハリシュは、すぐさま両手をクロスさせて胸元を隠し「いや~ん」という表情をしたのであった。流石だな、と思った。
所謂“出来る奴”というのは、自らの役割を熟知しそれを演じ切ることの出来る者のことをいう。この世という、文字通り世界最大規模の演劇空間に身を投じることが出来るか否か、これに総てがかかっているのだ。
因みにイベント終了後、ハリシュたっての希望で渋谷のインドカレー屋「サムラート」で遅めの夕食を摂ったのだが、この場合の彼の振る舞い(インド人がベタなカレー屋に日本人を誘うという行為)は演技ではなく“素”なのである。この絶妙な温度差は、同じ“芝居”を共演しなければ見極められないが、逆にこれこそがこの道を往く上での醍醐味であるといえよう。
以上のこと─この世の在り方、この道の歩き方を念頭において考えると、2008年9月、私たちは随分浮かれていたんだと思う。クララが立った時─成り立たないと思い込んでいることが成り立ってしまった時、人はどうあっても浮かれてしまうものなのだろう。つまり、福山市の立派な美術館と、瀬戸内海に浮かぶ向島の洋らんセンターに役者が揃ってしまったのだ。そして役者たちのその手には、それぞれにとっての最高のネタが握りしめられていたのだった。
私は予てよりハードコアパンクバンド「GAUZE」のドラマー・HIKO氏と族車のセッションというネタを頭の中で暖め続けており、これを録音し、作品化することが自分の役割だと考えていた。そしてこれを実行する機会をじっと伺っていたのだが、同時にその難しさも熟知していたつもりだった。
ところが、河村康輔氏によって企画された福山市立美術館での展示最終日に、尾道の洋らんセンターで行われるというアフターパーティーへの出演依頼を受けた際、このネタについて河村氏に話をしたところすんなりと通ってしまい、実現する運びとなってしまったのである。
果たして、この試みの成果は予想の上をいくものとなった。“WITHOUT BREAK WITH ALL POWER”なる美学を自身の演奏の中で貫くHIKO氏の終わりなきドラミングと、地元の元暴走族の若者が操る2台の単車が奏でるアクセルミュージックは、夕暮れ時から夜に差し掛かる時間帯に、劇的に変化していく景色の中へと溶け込んでいった。
これに続く、映像と音声を駆使して行われたユダヤジャズの特異な即興演奏は、初見の者には大きな衝撃を与えたようだった。地元のバンドによる、この一瞬に賭ける演奏のテンションの高さにはやはり心打たれるものがあり、調子に乗って私たち(私、黒パイプファイブイヤーズ、山口元輝、ユダヤジャズ)もどさくさに紛れてセッションを行うなど、素晴らしい乱痴気騒ぎとなった。ドラムンベースが好きだという地元民・フクちゃんが持ち込んだ自前のサウンドシステムは、すり鉢状に植林された木々によって天然のプラネタリウムを形づくる洋らんセンターの中で夜通し鳴らされ続けたのであった。
「緩やかな登り坂」と題された福山市立美術館での展示は、福山に住まう若い連中が各々の現況を鑑みてこのような状況を打破したい一心で行った小さな反抗であったのだと察する。
AVという媒体におけるイメージやパッケージが裏テーマであったという各参加作家の作品をここで個別に評価する余裕はないが、いかにも美術館でございますといわんばかりにとりすました館内に置かれた伝説のジゴロ・伏見直樹氏とそのご子息・直人氏による人生とエロスをテーマとした親子合作の数々や、特殊漫画家・根本敬氏による夥しい量の“上質な下品”を醸す作品郡は圧巻であったし、美術館でございますの中に見事忍び込むことに成功した地元の若い作家たちの作品群も余すところなく異様さを呈しており、中々に痛快な展示風景であった。
同展は、2009年1月に姿を変えて東京で開催されると聞いている。反抗を止めるということとはすなわちゆっくりと時間をかけて自殺するということなのだから、この企てには概ね賛同する。しかしながら、私たちにとっての当たり前をもっとたくさんこの手に取り戻すためには、その準備は静かに、より周到に進めなければならないだろう。そしてその先にどの様な答えが待っているのだろうか。それは、密かに上演され続けているこの芝居に参加する役者たちの意志次第で如何様にも姿を変えるだろう。だから各々方、その時こそはどうか、当たり前で在り給え。
UPPER:GRAPHIXX発行のフリーペーパー「Body Conscious magazine vol.03」所収