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「X性とノイズ」

2010-07-29 00:43:49 | text

「X性とノイズ」


 2005年の夏の蒸し暑い夜、誘導灯を振る地回りに500円玉を渡し、僕たちの乗るホンダ・シビックはだだっ広い空き地に停車した。もう九時過ぎだというのに、この即席駐車場はほぼ満車だった。入口の割高なたこ焼きやフランクフルトを売る屋台には、子供たちや茶髪でジャージ姿の姉ちゃんたちが群がり、嬌声を上げたり地面にツバを吐いたりしながらヒマを持て余している。つまり女子供はここで待たされているのだろう。さながら祭りのような体裁を繕っているこの不穏な催しは所謂一つの泥棒市というやつなのだが、当時その土地の新聞社に勤めていた友人のH君から「今度、◯◯山の方で市があるらしい」という情報を受け、僕と友人のFは誘われるがままこれに同行したのだった。三人が車を降りて会場に到着すると、入口のにぎわいとは裏腹に砂利を踏む音だけが耳に入ってくるくらいの静けさに身が引き締まる。そして目をぎらつかせた男たちだけが忙しく行き交う一種異様な光景に目を奪われる。この時、Fがぼそっと「この感じ、Xだな」と呟いたのを僕は聞き逃さなかった。男たちの年齢層は少年~老人と幅広く、同様に目的も様々だった。ワケがありすぎるバイクを無免許で入手しようとする者、地回りの資金源である膨大な裏DVDの中に独自のファンタジーを見い出そうとする者、ブランド服のバッタもんを大量に買い占め転売を目論む者などが、灯のない暗闇の中に突如現れた市の中で、懐中電灯片手にひしめき合っている。それはまるで、患者の口腔を無理矢理こじ開け、特殊な器具で虫歯の在処を調べる歯科医どもの群像劇を見ているかのようだった。もっとも、この場にいた我々全員が、じめじめした巨大な暗闇の中に息を凝らして潜みながら、繁殖を企む虫歯菌そのものだったのかもしれないが。しかしこの中には、地回りの誘いを断ることが出来ず嫌々参加しているような気の弱い出店者も数名いて、僕はかったるそうに地べたに座っているくたびれた親父の“古本コーナー”でTAIJIの著書『伝説のバンド「X」の 生と死―宇宙を翔ける友へ』を購入し、会場を後にした……。

 '70年代末に中学生だったYOSHIKIが幼なじみのTOSHIとともに千葉県館山市で初めて結成したバンドの名前は「NOISE」だった。暴走族のアクセルミュージックが、残虐スプラッターのスチール写真をちぎった紙吹雪が、カマシとしての英語の濫用の果てに生み出された稚拙なポエジーの数々が、ヴァイオレットフィズ&セブンスター味のゲロが、石けんと栗の花のにおいに満ちた惨めなセックスとオナニーが、今もパラレルワールドにおけるよど号のように中空を彷徨っていて、それらが(灰野敬二が何処か遠い国の人に用意させた)100台のハイワットから一斉出力される轟音ノイズとなって茶の間を床下から揺さぶる──そんなX性の噴出に僕は今でも焦がれているし、それは最早X JAPANが担えるものではないのだが、やはり問われるべきはノイズ自体の現れ方ではないだろうか、と思う。


アート倉持(モデル)




※『モーニング・ツー』誌(No.34)/ 西島大介氏連載『I Care Because You Do』欄外 /『nu』誌(Vol.5,1)所収





V.I.I.Mプロジェクト ─ 9台のプロジェクターと人間たちによる野蛮なる冒険の始まりに寄せて

1999-02-25 11:39:25 | text
V.I.I.Mプロジェクト ─ 9台のプロジェクターと人間たちによる野蛮なる冒険の始まりに寄せて
文:アート倉持(UPLINK、JACK、他)


 未だ決着がついていない現場を探し出すことが何よりも好きだ。と書くと、随分と底意地の悪い奴だと思われてしまいそうだが、勝敗無き闘いの様相を呈す現代の「表現の世界」に没入すればするほど、この感覚の有無こそがこの道を往く者たちの明暗を分けるのだと固く信じている自分がいる。

 殊に、大きな物語どころか小さな物語の数々までもが知らぬ間に虱潰しにされ、恰も予め無かったことのようにされてしまいがちな昨今の風潮においては、そういった現場自体の絶滅を危惧する心も一入だ。そしていつもがらんどうの空間だけが残され、我々に与えられるのである。「お前に何が出来るのだ」と言わんばかりに。

 ロカペニスと高橋啓祐。共に「BABY-Q」「ニブロール」といったダンスカンパニーで映像による演出を担う者。空間を常に客観的に見つめ、あわよくば映像を効果的に用いて人心を惑わせることを四六時中考えているような危険な男たちだ。9台のプロジェクターより照射される意志を持った映像群が空間を支配し、それを以て作品とするという発想は確かに画期的なのだが、実はそれは相当におっかないことなのではないか。

 決して越えてはならぬ一線を消失させ続ける映像が其処彼処を跋扈することにより、越境の果てに原型を失ってキマイラ化した虎や猫や音やダンスが大暴れ。そしてこの野蛮なる冒険に同行しなければならなくなったあなたの瞳孔は常に開きっぱなしで脳髄はヌレヌレに。六本木の地下で密かに行われるこの禁断の映像ショーの成功は、果たして我々の心に何を齎すのだろうか。秘鑰は既にあなたの手の中に。それでは良い旅を。





V.I.I.M project 001

■日時:7月20日(月・祝)、21(火)両日ともに19:30開場
    ◎20:00より作品A「ネコロール」(演出・映像:高橋啓祐)
    ◎21:30より作品B「TIGER.TIGER」(演出・映像:ロカペニス)
    
□料金:前売¥2,500/当日¥3,000
□会場:Super Deluxe
    http://www.super-deluxe.com/

ROKAPENISインタビューhttp://sdlx.blogspot.com/

大変遅ればせながら「映像夜間中学講義録 イエスタデイ・ネヴァー・ノウズ」の発売に寄せて

1999-02-24 02:16:38 | text
Text : アート倉持(UPLINK/「映像夜間中学」東京校・学級代表)


“なんでもあり”のルールを己に課してから10数年経った今になって、急に“当たり前”を欲する自分が居ることに気付きます。夏はオクラが安くて美味しいとか、香典への記名は薄墨でなければならない…とか。

僕の仕事は遊びのようなもので、遊びもまた然りで仕事のようなものなのですが、その合間を縫ってバンド活動のようなこともやっておりまして、以前ギタリストの今井和雄さんに「倉持君はどういう音楽をやっているの?」と尋ねられたおり「いやー、出鱈目ですよ」と何の気無しに答えたところ、暫くの沈黙のあと今井さんに「出鱈目が一番難しいんだよ」と返され、その場ですぐさま襟を正したことを思い出しました、今。

そう、本当は出鱈目が一番難しいんですよね。疑うべきは世の中の常識ではなく出鱈目とされる人、物、事であるべきでしょう。

ユダヤジャズの相馬大さんは、そういった出鱈目と常識の扱いが本当に上手い。故に、彼は自らが関わる現場には絶対に安易な決着を持ち込まないし、その姿勢を頑に崩さない。ならば「講義録」に添えられたDVD「男・友情の小さな旅」とは、実際のところ同書の“解説”と捉えるべきでありましょう。

出鱈目を作り出すことの難しさを知る者が、最早言葉にすらならない思いを、言葉にならないからこそ違う方法を以て全力で放った豪速球なのだから、考えすぎるのは野暮。

つまり、話し相手の言葉ににじむ訛りからその人の出身を察し、単なる詮索に止まらず気遣いを以てその先にハッテンさせることで初めて成り立つ世界というものがあり、それを僕たちは友情と呼ぶより外ないのだと思うんです。

先に述べたバンド活動の一環で、僕は10月にスイスのローザンヌという街へと赴きます。この街には、「男・友情の小さな旅」の主演を務めた宮間英次郎さんが作品を提供し、パフォーマンス(?)を行ったと伝え聞いている「アール・ブリュ美術館」(世界唯一のアウトサイダーアート専門美術館。アウトサイダーアートの提唱者、ジャン・ドュビュッフェが1976年に設立)があります。

僕たちのバンドを呼んでくれたスイス人の友人たちと、春に東京で会っている時に「Do you know Mr. Miyama?」と尋ねても首を横に振るばかりでしたが、「Ok, Do you Know Uncle hat?(じゃあ、帽子おじさんは知ってる?)」と尋ね直した時に彼らがみせた笑顔の輝きといったら、もう…。

無駄に頭の回転が速いせいもあろうかと思いますが、兎に角僕たちは考えすぎるきらいがあるからこそ、どうしてもイイ塩梅というものが必要になってくるのでしょう。UPLINKで毎月最終金曜日に開催されているイベント「映像夜間中学」という場は、そういったイイ塩梅が不足している向きのために用意されている“心の湯治場”のようなものなのかな、と「映像夜間中学」開校10周年を目前に控える今になって初めて考えるようになりました。なんというか、根本学長と一緒にフルチンで湯に浸かる感じ(それに、悪戯とかあっち方面のことは温泉に入った後にするべきでしょう)。

と、僕たちが温泉に浸かりながら、誰よりも頭の回転の速い根本学長から聞かせてもらったたくさんのイイ話の数々がまとめられたこの一冊、ご購入を今更ながら激しくお薦めする次第です。

尚、最後に余談ではありますが、僕は先に述べたバンド活動の一環で、ローザンヌでのライブ終了後にフランスのマルセイユという街にも行くつもりです。その街には、根本学長の因果マラ兄弟的且つ孤軍奮闘的な鬼才、パキート・ボリノさん(出版芸術集団「Le Dernier Cri」のボス)が住んでおり、この機会にご挨拶してこようと思っています。



解説PV

東野祥子インタビュー

1999-02-23 17:23:29 | text
Performing Arts in Japan / Artist Interview
http://www.performingarts.jp/J/art_interview/0810/1.html

Xは細部に宿る

1999-02-22 04:35:54 | text
Xは細部に宿る
記録映像の上映を通してTOSHI講壇、PATA理論、おもHIDEぽろぽろ、鬼TAIJI、そして日本のYOSHIKI美を幻視する(Text: 黒パイプスターダスト)


「STUDIO VOICE」誌、2008年4月号所収

あたりまえでありたまえ

1999-02-21 23:34:18 | text
photo : Kosuke Kawamura (ZAIDE)




あたりまえでありたまえ
─ 福山市立美術館「緩やかな登り坂」展、そして尾道でのアフターパーティー(Text: 黒パイプスターダスト)


 面白くて当たり前のことこそ体験できないように仕組まれた世界の中に閉じ込められているように感じながら生きている人間は少なくない。この世が提示する「当たり前の面白さ」と個々人が目指す「面白くて当たり前」の間には、まるで真っ赤な“満”の字が横たわっているかのようだ。
 だからこそ、無垢の表現が生まれないことへのあきらめと嘆きの声があらゆる現場から漏れ伝わってくる2000年代後半の東京において、SEX -Virgin Killer-というバンドがビジュアル系の原始─すなわちVISUAL SHOCKを本気で体現しようとする度にいちいち心を打たれたり、或いは、突如リリースされた吉野公佳のアダルトイメージビデオの中に最新かつ超前衛な表現を見い出してしまったりする、私たちのようなひょうきん族が生まれるのである。兎に角おかしなことがよくおこるものだ。いつもは大抵、頭の中で。
 そう、大抵のことはいつも頭の中で終わってしまう。情報量と経験回数が釣り合わないからであろうか。しかし、周囲の一気コールに煽られて飲み干す「情報」の類いってのは、所詮、翌朝に駅のホームでカピカピに乾涸びたGEROとして駅員に発見される程度のものなのだ。そんなことを繰り返していて駅員が可哀想だと思わないのか。いったい誰が実際の世の中でその駅員の役割を演じているのか、あんた達は考えたことないのか。
 この悪循環から抜け出すためには、自らの脳内で合成された上質なネタの一つ一つを現実の中にぶち込む、キメる、流し込むという行為を、地道に実践していくより他ないのである。


 映画「ジプシー・キャラバン」の大ヒットにより、日本のワールドミュージックファンの間でも一躍人気者となった、クイーン・ハリシュというインドの女形ジプシーダンサーがいる。私はつい最近、彼とイベントを共にする機会を得た。イベント当日に挨拶をしようと楽屋の戸を開けると、ちょうど着替え中だった上半身裸のハリシュは、すぐさま両手をクロスさせて胸元を隠し「いや~ん」という表情をしたのであった。流石だな、と思った。
 所謂“出来る奴”というのは、自らの役割を熟知しそれを演じ切ることの出来る者のことをいう。この世という、文字通り世界最大規模の演劇空間に身を投じることが出来るか否か、これに総てがかかっているのだ。
 因みにイベント終了後、ハリシュたっての希望で渋谷のインドカレー屋「サムラート」で遅めの夕食を摂ったのだが、この場合の彼の振る舞い(インド人がベタなカレー屋に日本人を誘うという行為)は演技ではなく“素”なのである。この絶妙な温度差は、同じ“芝居”を共演しなければ見極められないが、逆にこれこそがこの道を往く上での醍醐味であるといえよう。


 以上のこと─この世の在り方、この道の歩き方を念頭において考えると、2008年9月、私たちは随分浮かれていたんだと思う。クララが立った時─成り立たないと思い込んでいることが成り立ってしまった時、人はどうあっても浮かれてしまうものなのだろう。つまり、福山市の立派な美術館と、瀬戸内海に浮かぶ向島の洋らんセンターに役者が揃ってしまったのだ。そして役者たちのその手には、それぞれにとっての最高のネタが握りしめられていたのだった。


 私は予てよりハードコアパンクバンド「GAUZE」のドラマー・HIKO氏と族車のセッションというネタを頭の中で暖め続けており、これを録音し、作品化することが自分の役割だと考えていた。そしてこれを実行する機会をじっと伺っていたのだが、同時にその難しさも熟知していたつもりだった。
 ところが、河村康輔氏によって企画された福山市立美術館での展示最終日に、尾道の洋らんセンターで行われるというアフターパーティーへの出演依頼を受けた際、このネタについて河村氏に話をしたところすんなりと通ってしまい、実現する運びとなってしまったのである。
 果たして、この試みの成果は予想の上をいくものとなった。“WITHOUT BREAK WITH ALL POWER”なる美学を自身の演奏の中で貫くHIKO氏の終わりなきドラミングと、地元の元暴走族の若者が操る2台の単車が奏でるアクセルミュージックは、夕暮れ時から夜に差し掛かる時間帯に、劇的に変化していく景色の中へと溶け込んでいった。
 これに続く、映像と音声を駆使して行われたユダヤジャズの特異な即興演奏は、初見の者には大きな衝撃を与えたようだった。地元のバンドによる、この一瞬に賭ける演奏のテンションの高さにはやはり心打たれるものがあり、調子に乗って私たち(私、黒パイプファイブイヤーズ、山口元輝、ユダヤジャズ)もどさくさに紛れてセッションを行うなど、素晴らしい乱痴気騒ぎとなった。ドラムンベースが好きだという地元民・フクちゃんが持ち込んだ自前のサウンドシステムは、すり鉢状に植林された木々によって天然のプラネタリウムを形づくる洋らんセンターの中で夜通し鳴らされ続けたのであった。


 「緩やかな登り坂」と題された福山市立美術館での展示は、福山に住まう若い連中が各々の現況を鑑みてこのような状況を打破したい一心で行った小さな反抗であったのだと察する。
 AVという媒体におけるイメージやパッケージが裏テーマであったという各参加作家の作品をここで個別に評価する余裕はないが、いかにも美術館でございますといわんばかりにとりすました館内に置かれた伝説のジゴロ・伏見直樹氏とそのご子息・直人氏による人生とエロスをテーマとした親子合作の数々や、特殊漫画家・根本敬氏による夥しい量の“上質な下品”を醸す作品郡は圧巻であったし、美術館でございますの中に見事忍び込むことに成功した地元の若い作家たちの作品群も余すところなく異様さを呈しており、中々に痛快な展示風景であった。
 同展は、2009年1月に姿を変えて東京で開催されると聞いている。反抗を止めるということとはすなわちゆっくりと時間をかけて自殺するということなのだから、この企てには概ね賛同する。しかしながら、私たちにとっての当たり前をもっとたくさんこの手に取り戻すためには、その準備は静かに、より周到に進めなければならないだろう。そしてその先にどの様な答えが待っているのだろうか。それは、密かに上演され続けているこの芝居に参加する役者たちの意志次第で如何様にも姿を変えるだろう。だから各々方、その時こそはどうか、当たり前で在り給え。




UPPER:GRAPHIXX発行のフリーペーパー「Body Conscious magazine vol.03」所収