聖書と翻訳 ア・レ・コレト

聖書の誤訳について書きます。 ヘブライ語 ヘブル語 ギリシャ語 コイネー・ギリシャ語 翻訳 通訳 誤訳

(000)イザヤ書34章11節後半

2018年05月13日 | イザヤ書



この記事は『聖書と翻訳 ヘブライ語の解釈 イザヤ34章11節前半』の続きで、11節後半の解釈をしてみます。

この記事の目次
・11節後半の解釈
・文法解釈の間違い
・巻尺と下げ振り
・トーフー ボーフーの間違った解釈
・旧約聖書の神は怒りっぽい神?
・感動ポルノと聖書翻訳


~11節後半の解釈~

新改訳は次のように翻訳しています。
新改訳 イザヤ34:11後半
・・・主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。

全く意味が分かりません。これを読んで理解できる日本人はいないと思います。11節前半は、表と裏、両方の解釈ができましたが、同じように後半も両方の解釈ができます。ヘブライ語が語る真意は、裏の解釈です。

וְנָטָ֥ה עָלֶ֛יהָ קַֽו־תֹ֖הוּ וְאַבְנֵי־בֹֽהוּ׃・・・
・・・ベナター アレハー カーイ・トーフー ベアブネー・ボーフー

私訳 表の解釈 イザヤ34:11後半
・・・巻尺も、下げ振り(さげふり)も使わずに。

私訳 裏の解釈 イザヤ34:11後半
・・・律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。




従来の日本語訳聖書は、間違った文法解釈をしていて、更に、ここが比喩として表現されていることを見落としています。


~文法解釈の間違い~

新改訳 イザヤ34:11後半
・・・主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。

新改訳は『直訳、トランスペアレント訳』が翻訳理念だと宣言しているにも関わらず、ここ11節は、原文の文法を無視して翻訳しています。主語が『主は・・・』となっていますが、ヘブライ語に『エロヒーム、ヤーウェー 神、主』といったことばはありません。次の図をご覧ください。



なぜ新改訳は、原文にない『主』ということばを主語にしたのでしょう?二つの理由が考えられます。一つ目の理由は、英訳聖書がそのような解釈をしているので、英訳の真似をしたということです。

New International Version 誤訳
・・・God will stretch out over Edom the measuring line of chaos and the plumb line of desolation.
・・・神は混乱の測りなわでエドムを測り、荒廃の下げ振りを伸ばす。??? ←意味不明、誤訳

二つ目の理由は、文法解釈の間違いです。文法的な話になるので、苦手な方は読み飛ばしていただいて結構です。11節の中に動詞は三つあります。11節前半の『ビレシューハー 所有する』と『イシュケヌー・バー 棲む』、11節後半の『ベナター アレハー 計測する、あてがう』です。『ビレシューハー 所有する』と『イシュケヌー・バー 棲む』の主部は『4つの鳥』で、これは異論がないでしょう(新改訳は誤訳しています。詳しくは、ヘブライ語の解釈 イザヤ書34章11節前半参照)。次『ベナター アレハー 計測する、あてがう』についてですが、この動詞の主部になれるのは、『4つの動物』か『巻尺、下げ振り』しかありません。ヘブライ語の語順は、基本的に『動詞+主語』ですから『ベナター アレハー 計測する、あてがう』が動詞で、主部は『巻尺、下げ振り』になります。基本通り素直に解釈すればいいんです。

さて、『וְנָטָ֥ה  wenatah ベナター(5186)計測する、あてがう』は『動詞、カル形、三人称、男性、単数』の形になっています。カル形は、一般的に能動態として解釈されるので、新改訳は、次のように考えたのでしょう。『三人称、男性、単数』が主語になるから、主語は・・・「He」じゃないかな?英訳もそう解釈している。「主が縄を張る・・・」できた!』

ところがです、この文脈の中で、ベナターは『受動態』に変化しています。『カル、三男単は、受動態に変化する場合がある』これは、ヘブライ語文法、入門レベルの知識です。新改訳のセンセイ!『聖書ヘブライ語』入門レベルのテキストを見返してください。載ってるはずですよ。主部は『巻尺と、下げ振り(否定名詞句)』。動詞は受動態なので、『巻尺も、下げ振りも使われない(無生物主語+動詞受動態否定)』となります。文法上、この解釈しかできないんです。意味だって文脈とピッタリ合っています。

『そんなはずないだろ。カル態は能動態だろ』と、納得できない方がいると思うので、説明させていただきす。聖書の中で『ベナター (カル、三男単)』が、どのように使われているか確認すればよいのです。ベナターが使われているのは、次の4か所になります。出エジプト33:7、イザヤ34:11、エレミヤ43:10、エゼキエル30:25。ヘブライ語をご覧ください、4か所ともベナターの主語は『もの(無生物)』で、動詞は『受動態、三男単』になっています。ところが、新改訳は、4か所ともぜ~んぶ誤訳してます。文字数の都合上、ここでは詳しく説明しませんが、入門レベルの文法知識があれば、理解できるはずです。

ヘブ-英インターリニアを見てみましょう。次のインターリニアは文法解釈を間違えています(He shall stretch out)。


King James Version 誤訳
・・・and he shall stretch out on it the line of confusion, and the stones of emptiness.
・・・彼(主)は、混乱の縄を伸ばし、空っぽの石を敷きつめる???

誤訳となっているのは、King James Versionだけではありません、ほとんどの英訳が、主語を『Lord, God, He(=Lord/God)』と誤訳しています。神学者がおこなう翻訳というのはこの程度だということです。辞書、文法書、インターリニアを、三種の神器の如くあがめる方がいますが、どれも鵜呑(うの)みにできる代物(しろもの)ではありません。はっきり言わせてもらうと、神学者や聖書学者が作った、辞書、文法書、インターリニアというのは、所詮、素人が作ったものなんです。素人がやることですから、間違った解説、不適切な説明、誤訳は、至るところに含まれています。

通訳翻訳を経験した方であれば分かると思いますが、辞書、文法書、インターリニアに書いてあることを、100%信用することはできないのです。信用できるのは、せいぜい50%程度です。ところが学校では、辞書や文法書を、絶対的基準のように扱い、辞書と文法書に依存させてしまうのです。もし、辞書、文法書、インターリニアを有効に使いたいのであれば、そこにかなりの不完全さがあることを弁(わきま)えておくことが大切です。

新改訳の翻訳理念は『ヘブル語及びギリシャ語本文への安易な修正を避け、原典に忠実な翻訳をする』『行き過ぎた意訳や敷衍(ふえん)訳ではなく、それぞれの文学類型(歴史、法律、預言、詩歌、ことわざ、書簡等)に相応しいものとする』このように述べています。ここ11節を見れば分かるように、新改訳は、原文にない『主は』ということばを創作し、主語をすり替え、原文とは異なる意味に変えています。新改訳は、原文に修正を加え、行き過ぎた敷衍訳をおこなっているのです。翻訳理念は、立派な文言で書かれていますが、実際の訳文は誤訳になっています。

中学一年生の英語のテストで、主語を間違えて翻訳したら不合格ですよね。動詞の能動態と受動態を間違えて翻訳したらバツになります。新改訳翻訳者の中には、考古学、言語学で、博士号を取得した優秀な方も中にはいるのかも知れません。ご専門の分野においては第一級の研究者かも知れませんが、だからといって、プロとして通訳や翻訳ができるというものではないのです。この記事で示した通り『主語がどれか理解できない。動詞の能動態、受動態の区別がつかない。仕方ないから英訳を真似て翻訳しちゃった』。神学者や聖書学者がおこなう聖書翻訳というのは、この程度。これが現実です。


~巻尺と下げ振り~

新改訳 イザヤ34:11後半
・・・主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。

これを読んで理解できる日本人は、いないと思います。一見して、日本語のように見えても、意味が成立していない文を『非文』といいます。新改訳の訳文は、非文です。いくら翻訳理念が『直訳(トランスペアレント訳)だ』といってもですね、こんな変なことば使いで出版するってあり得ないでしょ。新改訳は『その時代の日本語に相応しい訳出を目指す』という理念があるんですから、現代日本人が使うことばで翻訳するべきです。表の解釈で翻訳するのであれば、せめて『・・・巻尺も、下げ振りも使われない』と翻訳してもらいたものです。

巻尺、下げ振りは大工道具


『カーイ 巻尺』は、辞書で次のように解説されています。
קָו カーイ、カブ(6957)
縄、巻尺、規則、線、輪郭、楽器の弦

恐らくどの辞書にも載っていないと思いますが『カーイ 巻尺』は『律法』の比喩です(例、イザヤ28:10 但し従来の日本語訳聖書は誤訳になっています)。『巻尺⇒生活の基準となるもの⇒律法』ということです。『カーイ・トーフー』は、表の解釈をすると『巻尺がない』となり、裏の解釈をすると『律法を持たない(エドム人)』となります。


『ベアブネー 下げ振り』は、辞書で次のように解説されています。
אָ֫בֶן ベアブネー、エベン(68)
石で作られた物、石、おもり

昔、下げ振りのおもりは、石で造られていました。


恐らくどの辞書にも載っていないと思いますが『ベアブネー/エベン 石』は『神に選ばれた民イスラエル』の比喩です。『eben エベン 石』と『ben ベン 子孫』は発音が似ていることから、掛けことばとして使われています。『エベン 石』は『神の民イスラエル、神に従う者』を意味する比喩です。『ベアブネー・ボーフー』は、表の解釈をすると『下げ振りがない』。裏の解釈をすると『(エドムには)神に従う者がいない』となります。『カーイ・トーフー ベアブネー・ボーフー』は、裏の解釈をすると『律法を持たない(エドム人)、(エドムには)神に従う者がいない』という意味です。同義句反復になっていますね。



もし、現代の日本人が、古代イスラエル人と同じ文化、同じ価値観を持っているのであれば、表の解釈で翻訳された訳文から、裏の意味を推察することができるでしょう。しかし、現代日本人は、古代イスラエルの言語文化を持っていないのですから、表(おもて)の解釈で翻訳されても、その真意を理解することはできません。つまり、日本人が理解できる訳文を作るには、裏(うら)の解釈で翻訳しなければならないということです。神学者や聖書学者は『直訳が原文に忠実な翻訳方法だ。聖書は直訳で翻訳するのがよい』この様に言ってきましたが、これはウソです。

さて、以上検討してきた内容をまとめると、次のようになります。
11節後半のまとめ
・動詞『ベナター アレハー』は、『計測する、あてがう』という意味。
・ベナターは『カル、三男単、受動態』になっている。
・主部は『巻尺、下げ振り(無生物主語)』。『主』ではない。
・原文は比喩で表現されてるので『裏の解釈』で訳出する。
・カブ⇒縄⇒巻尺⇒律法(トーラー)
・エベン⇒石⇒下げ振り⇒神に従う者

11節後半は、次のように訳出しないと、日本人が理解できる訳文になりません。
私訳 イザヤ34:11後半
・・・律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。


11節全体は、次のようになります。
私訳 イザヤ34:11
不道徳と犯罪を繰り返す国エドム。律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。


新改訳は誤訳。読んでも意味が分かりません。
新改訳 イザヤ34:11
ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む。主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。


~トーフー ボーフーの間違った解釈~

『תֹּ֫הוּ בֹּ֫הוּ トーフー ボーフー』は熟語で、創世記1:2、イザヤ34:11、エレミヤ4:23の、3か所で使われています。『トーフー ボーフー』を、間違って解釈する方がとても多いので説明させていただきます。多くの方が、次のように解釈してます。『創世記1:2のトーフー バボーフーは、大地が混沌とした状態、茫漠としているという意味だ!従って、イザヤ34:11のトーフー ボーフーは、大地が混沌とした状態になるという意味だ!』これは間違いです。創世記の『トーフー バボーフー』を正しく解釈すると、『(大地はまだ)影も形もなかった(否定同義句反復)』となります(聖書と翻訳 地は茫漠としてた?参照)。『トーフー バボーフー』は『ないよないよ。何にもないよ(否定同義句反復)』という意味ですから、イザヤ書34章も『エドム王国に律法はない。神に従う者は一人もいない(否定同義句反復)』という意味を表しています(詩篇14篇、53篇、ローマ3:10)。創世記とエレミヤ書は、次のように解釈しなければなりません。

『トーフー バボーフー』正訳(私訳)



トーフー ボーフーの解釈を、新改訳は全部誤訳しています。



新改訳だけではありません。従来の日本語訳聖書はどれも誤訳になっています。誤訳となった原因は、創世記で『トーフー=茫漠』『ボーフー=虚無』と、単語の意味を絞り込み、これを、イザヤ書とエレミヤ書に、強引に適用したからです。直訳グセが染み付いていると、ことばの意味を一つに絞り込み、全ての個所に同じ定義を当てはめようとします。しかし、通訳翻訳において、訳語を固定することはできません(言語の恣意性)。ことばというものは、文脈が変われば、意味も変化するからです。新改訳聖書は、直訳(トランスペアレント訳)で翻訳されているので、聖書全体にわたり誤訳悪訳があるということです。


~旧約聖書の神は怒りっぽい神?~

『旧約聖書の神は怒りっぽい神。キレやすく、懲罰を与えることが好きな神』。一方『新約聖書の神は愛の神、赦しの神』。こういう解説をするセンセイがいます。本当でしょうか?創世記6章に、神の子が人間の美しい女と肉体関係を持ち、こどもを生ませた。これに立腹した神は、大洪水を起こし人類を滅ぼした。この様に書かれています。11章は、人間がバベルの塔(高層建築物)を立てたことに、神は立腹し人間の言語を混乱させた。この様に翻訳しています。従来の日本語訳聖書は、どれもこういう訳し方をしています。如何にも『怒りっぽい、キレやすい、懲罰を与えることが好きな神』という印象を読者に与えているのです。ところが、大洪水も、バベルの塔も、どちらも誤訳されています。ヘブライ語テキストには、神さまが、憤慨した理由がきちんと書いてあるんですが、間違った翻訳をしているので『怒りっぽい神、懲罰を与えることが好きな神』という印象を読者に与えているのです。詳しくは、別の記事で書かせていただきます。

さて、この記事で取り上げた、イザヤ書34章も同じことです。ヘブライ語を見ると、11節に、神さまがエドム王国を滅ぼした理由が書かれているのですが、従来の翻訳聖書は、ここを誤訳し、その理由が翻訳されていません。それで『どうして神さまはエドムを滅ぼしたのだろう???』読者は、こうした疑問を抱くのです。聖書が誤訳され、悪文が作られることで『旧約聖書の神は怒りっぽい神』という間違った印象が作られています。新改訳と私訳を読み比べてください。

新改訳 イザヤ34:11
ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む。主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。

私訳 イザヤ34:11
不道徳と犯罪を繰り返す国エドム。律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。


私訳の様に訳出してあれば『エドムは滅ぼされるに値することをやっていたんだな』ということが理解できるので、『旧約の神は怒りっぽい神』という印象は受けないはずです。『旧約の神は怒りっぽい神』という歪んだ印象は、誤訳が絡んでいるのです。


通訳翻訳という仕事の目的は『意味』を伝えることであって『原文の文法や表現形式』を伝えることではありません(Dynamic Equivalence、 Eugene A. Nida 意味的等価論 ユージン・ナイダ)。ですから、聖書翻訳も『意味』を伝えることが一番大切なんです。翻訳された聖書が『意味』を表現していれば、牧師が説教の準備をする時、非常に楽になります。

私訳 イザヤ34:11
不道徳と犯罪を繰り返す国エドム。律法を持たず、主なる神に従う者がいない背徳の国。


この様に聖書本文が意味を表していれば、「ヘブライ語を見ると『ペリカン、サギ、フクロウ、カラスがエドムに来て棲家(すみか)を造った』と書いてあるなあ。これは『エドムが不道徳と犯罪に染まっていたこと』を象徴しているのか。なるほど。またヘブライ語には『巻尺も、下げ振り(さげふり)も使われない』とあるなあ。これは『エドムに主なる神に従う者がいないこと』を象徴しているということか。なるほど・・・」。この様に理解しやすくなるはずです。聖書が直訳文で書かれていたら、ヘブライ語を見ても、何を意味しているのか理解できないはずです。日本語で書かれたウエブサイト、英語で書かれたウエブサイトを調べましたが、ここ11節について、原文の意味を正しく説明しているものを見たことがありません。一つもないはずです。聖書が読んで理解できることばで翻訳されるということは、一般信徒、求道者、牧師、学者、誰にとってもありがたいはずです。代々、日本語訳聖書は『直訳』をおこない、意味不明な聖書を出版してきました。また、聖書刊行会も、聖書協会も『格調高いことば』を翻訳理念にかかげ、あたかも、聖書が文学作品であるかのように、アカデミックな脚色を施してきたのです。これは、ヘブライ語聖書本来の姿ではありません。偽りの姿です。


~感動ポルノと聖書翻訳~

さて『感動ポルノ Inspiration porn』ということばがあります。『障がい者はみんな、ハンディキャップを抱えながら勇敢に生きているに違いない』『障がい者はみんな、感動的な生き方をしているはずだ』。こうした間違った思い込みが、社会に広がっていると、ステラ・ヤング(Stella Young)氏は語ります。障がい者が、メディアに取り上げられる場合、決まって、健常者に感動を与える存在として描かれます。障がい者を聖人君子のように祭り上げることで、健常者が何らかの利益を得る仕組みになっている。『障がい者は、健常者の欲求を満たすための、道具(感動ポルノ)ではない』と語ります。



代々、日本の神学者や聖書学者は『聖書は文学作品であるから、文学に相応しい格調高い日本語で翻訳するべきだ。ヘブライ語は難解だ、聖書は難解だ。聖書を理解するためには、歴史、文化、翻訳の知識が必要だ』このように言ってきました。これは聖書を、知識ポルノ、学術ポルノ(inteligence porno、academic porno)に仕立て上げることです。聖書は、神学者の利益や知的好奇心を満たすために存在しているのではありません。『聖書は難解な文学作品である』ということで、聖書が神学者の利益のために利用されています。日本の神学者は、ヘブライ語の原文解釈ができていません。この記事で示したように、主語がどれか理解できない、動詞の能動と受動の区別ができていないのです。主語と動詞が理解できないような人物が『聖書は文学作品である』『聖書は難解だ』などと言えるのでしょうか?間違った翻訳理念を捨て、謙虚に一から翻訳を学ばなければならないのは、神学者や聖書学者です。それができないのであれば、原文解釈も聖書解釈もする資格がないでしょう。

ヘブライ語で書かれた聖書は、本来、ユダヤ人であれば誰もが口ずさむことができることば、身近なことばで書かれています聖書と翻訳 箴言-1参照。また、ヘブライ語が難解なのではありません。翻訳をおこなう人物が、文法と辞書に依存した翻訳方法しか知らず、直訳主義で翻訳しようとするから難解に感じるのです。直訳、トランスパレント訳という方法が間違っているのです。

『聖書を理解するためには、歴史、文化、翻訳の知識が必要です』と仰るセンセイが多くいますが、これは本来、大学で聖書を勉強する人に必要な知識であって、一般の信徒に対し言うべき言葉でないと思います。そのように語るセンセイのサイトを見ると、間違った原文解釈が載っていて『このセンセイ、本当に翻訳の知識があるのだろうか?』と疑問に思わざるを得ないものがあります。自分が翻訳について知識も経験もないのに、さも翻訳の専門家であるかのように装い、間違った解釈を公表している方がいるのです。こういうのを、羊頭狗肉(ようとうくにく)と言うのです。

神学者、牧師が大学で、専門教育を受けるのは、何のためですか?聖書の分かりにくいお話しを、一般の人が分かるよう教える為ではありませんか?分かりにくいお話しを、分かりにくいことばでしか説明できないというのは、自分自身が理解できていないということです。『聖書を理解するためには、歴史、文化、翻訳の知識が必要です』これは、専門教育を受けた人が自分自身を戒めるために使うことばであって、一般信徒、求道者に求めることではないはずです。



現代のキリスト教神学者は、律法学者が陥った間違いを繰り返し、同じ轍を踏むことになってはいけません。イエスさまは、律法学者を次のように叱っています。
マルコ7:6~8、7:13(マタイ15:7~9)
6 イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
7 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
8 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」
13 こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」



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