伯母の突然の訃報に、驚きながら一夜明けた日曜日、
通夜の行われる伯母の自宅へ、母とともに出かけていった。
伯母が暮らすのは、福岡市内からJR特急で40分ほどの距離にある筑後市。
到着すると、昨日の夜遅く帰郷し、母親と無言の対面をしたはずの息子(いとこのお兄ちゃん)二人が出迎えてくれた。
ミサちゃんの話によると、死因は脳血栓、若しくはくも膜下出血。死亡推定日は5月12日の夜。
実はその日の午前中まで出張で福岡に来ていた次男と一緒に過ごしていたそうだ。だから一瞬頭をよぎった「無縁死」ではないと思う。
彼が東京に帰った後、夕方頃まで日課である庭の草木の手入れをしながら、近所の人と会話している。
その後、一人で入浴中に、意識を失ったのだろう。
発見されるまで約3日。通報で窓を割って家に侵入し、伯母を発見した警察官が、浴槽から出そうと抱えた際、既に腐敗し始めていた伯母の腕の皮膚がはがれたという。
最初に駆けつけたミサちゃんと、もう一人の伯母が遺体を確かめようとした時、
警察の人に「見ないほうがいいです」
と、止められたらしい。
それでも、私が対面した時、棺に納めらた伯母の顔は、少しむくんではいたが、生前の面影をちゃんととどめていてくれた。
だからよけいに切なかった。
たった一人で、誰にも気づかれず、死んでしまうなんて・・・・
怖くなかったろうか・・・
苦しくなかったろうか
身内としては、長く苦しむことなく逝ったことを願うしかない
通夜は親族と、ご近所の人だけでひっそりと行われました。
そして母と私は、一旦帰宅。
翌、月曜日、遺体の損傷が激しいこともあって、葬儀の前に火葬をすることに。
朝早いこともあり、遠方の私と母は火葬場には行かず、家族と近くに住む親族だけで遺骨を拾った。
そして午後からの葬儀も前日同様伯母宅で、ごくごく内輪だけでひっそりと執り行われた。
その後、皆で膳を囲んで伯母の思い出話。
母の兄弟の中で一番元気で活発で社交的だった伯母。運動神経抜群で、体育祭ではいつも大活躍だったらしい。
手先が器用だったから、結婚後は自宅で洋裁の仕事をしていた。
若い頃は母も伯母の仕立てた服を着ていたっけ。
ホントは、この日、純粋に伯母の冥福だけを祈りたかったのだけど・・・
弔いの気持ちに水をさすようなあることで、余計な感情が沸き上がるのを止めることが出来ませんでした。
言ってみてもせん無いことだけど・・・
伯母はもう安らかになっているのだから、
こんな感情から解き放たれているのだろうけど・・・・
残念ながら私はまだ生きていて、人間がまったく出来ていないもので
これじゃぁ、伯母が浮かばれないよと、
怒りの炎を鎮めることが出来なかったのです。
母の兄弟・・・
とうとう母一人になってしまいました。
灯りが消えたみたいに寂しくなった母のふるさとです。
大牟田に通っていた頃は(現在お休み中)、209号線を走りながら「この辺くりくりさんのお母さんの故郷だよなあ。くりくりさん遊びに来てないかなあ」なんて思ってました。もちろん護ご親戚には一度もお目にかかったことはありませんが、なんとなく寂しい気持ちです・・。
別れはつきものだと理解していますが、
心の準備が整わぬ突然の別れは
受け入れがたく、最も辛いものですネ。
子供の頃は今は亡き祖父母を中心に、
嫁いだ娘たち、息子たち、
そして私たち孫が常に集い、とても賑やかな
家だったのに、今その家に住んでいるのは、
いとこのミサちゃんと二人の娘の3人だけ。
かつての賑わいはどこにもなく、
あの頃が遠い夢のようです。