矢部氏を探ってみると、三浦氏一族であることがわかった。
集めた情報をここにメモしておこうと思う。
様々な説があるようで、一定してはいない。
矢部郷は現在の横浜市戸塚区の中心部にあたる矢部町・上矢部町周辺に比定され、古くは鎌倉郡山内荘に属していた。
矢部郷の地頭矢部為行(谷部太郎)の名が残っている。
相模国三浦郡矢部郷(現神奈川県横須賀市大矢部・小矢部)
桓武平氏・三浦氏流の津久井義行の子・為行が、三浦郡矢部郷を領して矢部氏を呼称。鎌倉時代のこと。
三浦義行…〔(牧野)という記載のある系図もある。〕の長男、
武蔵矢部太郎為行は
叔父三浦大介義明の命によって北相模鎮護のため、
長竹村の宝ヶ峰(城山)に築城し、
当地を始めたと伝えられ、
北相の津久井郡の名はこれに起因すると言う伝承もあります。
この義明の十男が「佐原義連」であり、義連の姉か妹に源義朝側室がおり、また義連の息に盛連がいる。
その盛連はコトバンクによると「?-1233 鎌倉時代の武士。
三浦義連の子。母は武田信光の娘。悪遠江守(あくとおとうみのかみ)とよばれる。嘉禄(かろく)2年京都で酒によって乱暴をはたらき,天福元年5月悪事犯として幕府に殺された。6人の子は三浦氏の乱で幕府方にくわわった。」とある。(一説に波多野小三郎義道の娘ともある)。
この人の息 佐原時連(=新宮時連)真野次郎左衛門尉・新宮氏祖
?-? 鎌倉時代の武士。
佐原盛連の6男。三浦氏の乱(1247)では三浦一族でありながら執権北条時頼方にくわわる。左衛門尉。康元元年時頼の出家にともない出家。通称は遠江(とおとうみ)六郎。法名は観蓮。
wikipediaによると【矢部禅尼】にココに関連する事が載っている。(重要!)もともとは「北条泰時」北条の正室である。
三浦氏佐原流の佐原盛連に再嫁して三子(蘆名光盛・加納(三浦)盛時・新宮時連)を産み、夫・盛連の死後は三浦矢部郷に帰って出家し、法名禅阿、矢部禅尼と称した。嘉禎3年(1237年)6月、幕府から矢部禅尼に和泉国吉井郷が与えられ、孫の時頼が三浦矢部郷まで下文を届ける使いをしている。北条氏との対立によって三浦一族が滅亡した宝治元年(1247年)の宝治合戦では、矢部禅尼の子達は北条氏側として戦い、盛時は後に三浦姓を名乗って三浦家を再興している。
~~~*~~~
次に地図を見ていこうと思う。
ちょっと拝借いたします。↑↓
この地図の津久井の海側は「久里浜」なのである。
関係がありそうで、気になっている。
この「久里浜」の「久里」を近江八幡の地頭となった際にたまたま条里制の「九里」に城を構えたために「九里」と漢字を替えた・・・とか。
「久里」と書かれているものも残っていることもあり、気になるところである。
しかし、山の中にも「津久井」があり、「矢部」もあるので、注意が必要のようである。
集めた情報をここにメモしておこうと思う。
様々な説があるようで、一定してはいない。
矢部郷は現在の横浜市戸塚区の中心部にあたる矢部町・上矢部町周辺に比定され、古くは鎌倉郡山内荘に属していた。
矢部郷の地頭矢部為行(谷部太郎)の名が残っている。
相模国三浦郡矢部郷(現神奈川県横須賀市大矢部・小矢部)
桓武平氏・三浦氏流の津久井義行の子・為行が、三浦郡矢部郷を領して矢部氏を呼称。鎌倉時代のこと。
三浦義行…〔(牧野)という記載のある系図もある。〕の長男、
武蔵矢部太郎為行は
叔父三浦大介義明の命によって北相模鎮護のため、
長竹村の宝ヶ峰(城山)に築城し、
当地を始めたと伝えられ、
北相の津久井郡の名はこれに起因すると言う伝承もあります。
この義明の十男が「佐原義連」であり、義連の姉か妹に源義朝側室がおり、また義連の息に盛連がいる。
その盛連はコトバンクによると「?-1233 鎌倉時代の武士。
三浦義連の子。母は武田信光の娘。悪遠江守(あくとおとうみのかみ)とよばれる。嘉禄(かろく)2年京都で酒によって乱暴をはたらき,天福元年5月悪事犯として幕府に殺された。6人の子は三浦氏の乱で幕府方にくわわった。」とある。(一説に波多野小三郎義道の娘ともある)。
この人の息 佐原時連(=新宮時連)真野次郎左衛門尉・新宮氏祖
?-? 鎌倉時代の武士。
佐原盛連の6男。三浦氏の乱(1247)では三浦一族でありながら執権北条時頼方にくわわる。左衛門尉。康元元年時頼の出家にともない出家。通称は遠江(とおとうみ)六郎。法名は観蓮。
wikipediaによると【矢部禅尼】にココに関連する事が載っている。(重要!)もともとは「北条泰時」北条の正室である。
三浦氏佐原流の佐原盛連に再嫁して三子(蘆名光盛・加納(三浦)盛時・新宮時連)を産み、夫・盛連の死後は三浦矢部郷に帰って出家し、法名禅阿、矢部禅尼と称した。嘉禎3年(1237年)6月、幕府から矢部禅尼に和泉国吉井郷が与えられ、孫の時頼が三浦矢部郷まで下文を届ける使いをしている。北条氏との対立によって三浦一族が滅亡した宝治元年(1247年)の宝治合戦では、矢部禅尼の子達は北条氏側として戦い、盛時は後に三浦姓を名乗って三浦家を再興している。
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次に地図を見ていこうと思う。
ちょっと拝借いたします。↑↓
この地図の津久井の海側は「久里浜」なのである。
関係がありそうで、気になっている。
この「久里浜」の「久里」を近江八幡の地頭となった際にたまたま条里制の「九里」に城を構えたために「九里」と漢字を替えた・・・とか。
「久里」と書かれているものも残っていることもあり、気になるところである。
しかし、山の中にも「津久井」があり、「矢部」もあるので、注意が必要のようである。