【九里一族】に出会う旅に出かけよう!

姉妹編【九里】を探して三千里 http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori

「矢部氏」を探ってみると、

2018-02-25 08:32:20 | 富木氏周辺
矢部氏を探ってみると、三浦氏一族であることがわかった。
集めた情報をここにメモしておこうと思う。
様々な説があるようで、一定してはいない。

矢部郷は現在の横浜市戸塚区の中心部にあたる矢部町・上矢部町周辺に比定され、古くは鎌倉郡山内荘に属していた。
矢部郷の地頭矢部為行(谷部太郎)の名が残っている。

相模国三浦郡矢部郷(現神奈川県横須賀市大矢部・小矢部)

桓武平氏・三浦氏流の津久井義行の子・為行が、三浦郡矢部郷を領して矢部氏を呼称。鎌倉時代のこと。

三浦義行…〔(牧野)という記載のある系図もある。〕の長男、
  武蔵矢部太郎為行
  叔父三浦大介義明の命によって北相模鎮護のため、
  長竹村の宝ヶ峰(城山)に築城し、
  当地を始めたと伝えられ、
  北相の津久井郡の名はこれに起因すると言う伝承もあります。

この義明の十男が「佐原義連」であり、義連の姉か妹に源義朝側室がおり、また義連の息に盛連がいる。

その盛連はコトバンクによると「?-1233 鎌倉時代の武士。
三浦義連の子。母は武田信光の娘。悪遠江守(あくとおとうみのかみ)とよばれる。嘉禄(かろく)2年京都で酒によって乱暴をはたらき,天福元年5月悪事犯として幕府に殺された。6人の子は三浦氏の乱で幕府方にくわわった。」とある。(一説に波多野小三郎義道の娘ともある)。

この人の息 佐原時連(=新宮時連)真野次郎左衛門尉・新宮氏祖
?-? 鎌倉時代の武士。
佐原盛連の6男。三浦氏の乱(1247)では三浦一族でありながら執権北条時頼方にくわわる。左衛門尉。康元元年時頼の出家にともない出家。通称は遠江(とおとうみ)六郎。法名は観蓮。

wikipediaによると【矢部禅尼】にココに関連する事が載っている。(重要!)もともとは「北条泰時」北条の正室である。

三浦氏佐原流の佐原盛連に再嫁して三子(蘆名光盛・加納(三浦)盛時・新宮時連)を産み、夫・盛連の死後は三浦矢部郷に帰って出家し、法名禅阿、矢部禅尼と称した。嘉禎3年(1237年)6月、幕府から矢部禅尼に和泉国吉井郷が与えられ、孫の時頼が三浦矢部郷まで下文を届ける使いをしている。北条氏との対立によって三浦一族が滅亡した宝治元年(1247年)の宝治合戦では、矢部禅尼の子達は北条氏側として戦い、盛時は後に三浦姓を名乗って三浦家を再興している。

~~~*~~~
次に地図を見ていこうと思う。


ちょっと拝借いたします。↑↓


この地図の津久井の海側は「久里浜」なのである。

関係がありそうで、気になっている。
この「久里浜」の「久里」を近江八幡の地頭となった際にたまたま条里制の「九里」に城を構えたために「九里」と漢字を替えた・・・とか。
「久里」と書かれているものも残っていることもあり、気になるところである。

しかし、山の中にも「津久井」があり、「矢部」もあるので、注意が必要のようである。







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友枝孫二郎宗高と一族一二人が、因幡国富木郷・日置郷地頭職を足利直冬から宛行

2018-02-25 08:28:53 | 富木氏周辺

私が追い求めている「富木中太蓮忍」とは時代が違うと思うが、因幡国富木郷に関する記載を見つけた。

友枝孫二郎宗高と一族一二人が、因幡国富木郷・日置郷地頭職を足利直冬から宛行…(アデアック みやこ町 文化遺産より)

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/4062555100/4062555100200040?hid=ht040240

そして、その一族の十二人に、矢部氏が絡んでくる。
「暦応3年(1340年)には矢部綸綱による因幡国千土師郷の押領が確認されるほか、法美郡富木郷にも所領があった。」とwikipediaにあったが、

「友枝宗高ら一族に矢部平次左衛門尉常忍申伏」鳥取県の地名(平凡社 googlebooks)(法華経寺所蔵双紙要文紙背文會)

これらは、いったい何を意味するのだろうか?

これから探っていきたい。
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波多野氏と越前 領地(メモ)

2018-02-25 08:14:38 | 熊野と近江

承久の乱の恩賞地として、波多野義重は越前国志比庄に移り,

曹洞宗の道元和尚を所領の志比庄に迎え、永平寺を建立し、以後代々曹洞宗の庇護者となった。

志比庄 http://wp1.fuchu.jp/~zenshoji/dogen_6.html

http://www.fukureki.com/eiheiji/ei.html

波多野秀遠…佐伯経範の孫、鳥羽院の蔵人所衆に仕える。刑部丞。
波多野遠義…秀遠の子。筑後権守。
波多野義通
波多野義景
波多野盛通…義景の子。
波多野有常
波多野義重…越前国地頭。日本曹洞宗開基
波田野景之…越前国地頭。真宗誠照寺派開基

https://www.weblio.jp/wkpja/content/波多野氏_波多野氏の概要



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醍醐源氏 信濃小路系図 と その周辺(メモ)その2.

2018-02-15 14:36:38 | 雑記

【源季兼】を中心に、周囲を調べてみようと思う。
信濃小路(九条家諸大夫)の系図を貼っておく。


国立歴史民俗博物館研究報告, 第 104 号によると、

『信濃小路氏中世前期以来、家司(家僕)として家門との主従関係が強かった醍醐源氏の後裔である。
侍身分の家僕 石井氏東九条御領下司職を相伝する。
室町期より家僕として台頭し唐橋氏とも関係があり「石井三家」に分かれて勢力を伸ばした。

矢野氏.小原氏ともに東九条御領(境内)周辺に所領を持つ勢力。
矢野氏も複数の家に分かれていた。
矢野氏は東九条御領の公文と思われ、室町中期ごろより、小原氏は戦国期(政基期)より家僕としての活動がみえる。
その他「政基公旅引付」に山田,長法寺,馬場.塩野.…』
『唐橋.信濃小路.冨小路,石井氏は家僕の中核的存在として九条家の下にとどまつた。
石井氏を除くといずれの家名も九条亭をとりまく東九条の地名に由来する家僕たちである。
唐橋氏は白川氏(神祇伯家) ,竹原氏,橘氏にも養子,猶子を入れ、彼ら(白川富秀,竹原定雄,橘以緒)も家僕に名を連ねた。』googlebooksより

またweb情報としては、次のようなことが書かれていた。
 『九条家諸大夫の信濃小路家。系図としては醍醐源氏盛明親王流とされていますが、江戸初期の宗増の代で橘氏に改姓しています。』
wikipediaでは、
『江戸時代に入ると、元和6年(1620年)九条家の諸大夫であった信濃小路宗増が関白・九条幸家の命令により醍醐源氏から橘氏に改姓し、信濃小路家が橘氏の嫡流とされた。』

季兼の息をもう一人見つけた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/源季広

季兼ー季広ー長俊 となる。

上記のwikipediaよりだが、
季広が藤原定家と同じ兼実の家司であった可能性があるそうだ。

【季兼】の母親は、高階章行の娘である可能性も半分はあるようだ。あとの半分は陸奥守藤原朝元である。藤原実方の息だそうだ。実方は姉か妹に「鈴木重室」に嫁いだ人がいる。





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醍醐源氏 信濃小路系図 と その周辺(メモ)

2018-02-12 11:16:38 | 雑記
前回わかったことをまとめつつ、新たな私的発見を書いていこう。

前回、季兼の祖父「清長」の母親が、近江国佐々木氏の「源扶義」の弟 源雅通娘であることがわかった。
系図としては、清長ー俊兼ー季兼ー季長・頼暹
となる。

一方、季兼の妻が藤原資長の娘(日野流)であること、その息が「藤原兼光」(姉小路)が近江権守であったこと。
藤原資長(日野入道)は日野実行の次男であり、母は高階重仲の娘であった。そして高階栄子とも時代が重なっている。

なお、資長の長男は「資憲」(蔵人・勘解由次官) 二男が「資長」である。

季兼のコトバンクを読むと、「平安末期の官人。父は土佐守源俊兼。摂関家の藤原忠通に仕えて,石見守から木工権頭を経るなかで摂関家の政所の経営に尽くす。
一方,能登国の500町におよぶ大荘園の若山荘を忠通の娘皇嘉門院に寄進したが,これはのちに九条家に伝えられ,季兼の子季長が九条家に仕えるようになり,以後,子孫は九条家に仕えるようになる。<参考文献>五味文彦『院政期社会の研究』 」とある。能登若山庄を寄進した先の「皇嘉門院」であり、崇徳天皇の中宮となる。


能登国の荘園の領家職が日野資長の子孫に伝わり、九条家の家司の方は源季兼の子孫の方に伝わっていった。

…とそこで、源季長を調べていくと、意外なことに突き当たった。
(源季長…九条家の家司のみならず、伊予守・太皇太皇亮兼伊予守を務めている。)

この季長だが、同時代に「中原宗房」の息にも同じ名前の人物がいた。
しかも、この宇都宮氏は【藤原北家道兼流宇都宮氏】で、まさに「藤原北家九条流」で、関係がありそうに思える。(安易だろうか?)



そして、(日野資長の息=)兼光の息には「資実」「広橋頼資」がいる。

この広橋勘解由経光(頼資の息)は、中原景経と関係がある。ここで九里氏との関係もあった可能性が高まるように思える。


この中原景経こそ、九里の祖(九里太郎蓮忍入道)の伯父となる人物で、近江国伊香郡 富永庄の勾当だったのである。



http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/富永庄


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