【九里一族】に出会う旅に出かけよう!

姉妹編【九里】を探して三千里 http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori

下豊浦!

2018-12-23 17:15:17 | 九里氏と佐々木氏

『尊卑分脈』宇多源氏流によれば、経方は近江佐々木荘下司初代である。
佐々木庄は白河院との関係が深く、佐々木庄の一部の領家だった前斎院悰子内親王堀河院第一皇女)が、天承元年(一一三一)に祖父白河院の冥福を祈るため伊勢神宮に寄進して伊勢御厨にしている。

佐々木御厨(下豊浦)にある新宮神社の摂社大神宮では、三月五日の祭礼で白河院の歌を唱える慣例がある。
また永治二年(一一四二)当時の佐々木庄領家は白河院の養子左大臣源有仁であった(『源行真申詞記』)。

経方は近江佐々木庄を白河院に寄進して立荘(不輸荘領)し、自らは現地管理者である下司になり、同庄に留住していたのである。

上記は佐々木哲学校からの記事である。http://blog.sasakitoru.com/200505/article_15.html

他のページにも記載があった。

佐々木庄の一部は白河院の孫前斎院悰子内親王(堀河天皇の第一皇女)領となり、さらに天承元年(一一三一)白河院の冥福を祈るために神宮御厨となった。佐々木御厨内の神宮神社では、三月五日の祭礼で白河院の歌「さき匂ふ花のけしきを見るからに神の心なよそにしらるゝ」を唱える慣例があった(6)。前斎院領の母体であった佐々木荘全体も、天皇家領であったと推測できる(7)。 このように佐々木庄は白河院と関係が深い。佐々木庄は為俊によって白河院に寄進されたと考えられる。
 のち為俊は村上源氏丹波守季房の養子になり、源家定と名乗った(8)。これで佐々木氏は源氏に復したことになる。永治二年(一一四二)白河院の養子である後三条源氏の左大臣源有仁が佐々木庄領家であり、また清和源氏の源為義が同庄預所であったが、このとき為俊の一族佐々木庄下司行真も源氏を名乗っている(9)。さらに源有仁没後には、後白河院近臣である宇多源氏時中流の権大納言資賢家が、佐々木庄の領家職を獲得したのだろう、その子孫が佐々木(佐々木野)を家名にした。こうして佐々木庄は源氏一色となった。

前斎院のこと、佐々木御厨の場所、佐々木荘と佐々木経方のこと、が書かれていて、先ほどの疑問が少し解決。

その前斎院悰子内親王とは、権大納言資賢家とは、この辺りを調べていきたい。

これは九里を探して三千里にも繋がってくる重要な部分となると思う。






【本郷氏】と【佐々木越中守】 (2)

2017-11-05 11:12:26 | 九里氏と佐々木氏

佐々木哲氏の【佐々木哲学校】のブログより

 泰信の長男八郎左衛門尉泰氏は左衛門尉に任官し、のちに従五位下越中守に補任されて受領して越中家の祖となり、以後、越中家は越中守を世襲官途としました。
 
また次男行綱(佐々木四郎が高島惣領となり、六角宗信が供奉した弘安9年(1286)の春日行幸に、正員の右衛門少尉として供奉。行綱にとってまさに晴れ舞台でした。行綱の娘は京極宗綱の嫡子貞宗(能登三郎左衛門尉)に嫁ぎましたが、貞宗が嘉元の乱で討死してしまった。その結果、京極氏の家督は宗綱の娘婿宗氏(佐渡大夫判官)とその子息高氏(佐渡大夫判官・導誉)によって受け継がれました。

行綱のもう1人の娘は、越中四郎範綱に嫁いでいます。行綱の子行信で高島家は断絶しますので、高島惣領の地位は越中家に移りました。越中家が四郎とも八郎とも名乗るのは、高島氏惣領の四郎と、越中家惣領の四郎のどちらも名乗れたからです。
 このように有力在京御家人となった高島七頭は、室町時代にも幕府奉公衆になっていきます。

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そして前回の記事を付け加えてみると。。。
……平井五郎師綱(佐々木越中守)の三男能州九郎左衛門尉師信と推定できる。師綱は兄範綱が早く没した後に、越中家を継いで在京御家人本郷隆泰(若狭大飯郡本郷地頭)女子を妻とした。そのため、師綱に始まる平井氏も広い意味で越中家といえる

つまり、能州九郎左衛門尉師信の母は本郷隆泰女である。
師信の母方の祖父は【泰朝】やすとも であり、美作守左近太夫。家臣に「小山実継」(尾張守)がいた。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hirai.html

平井師綱高島泰氏佐々木越中五郎左衛門能登
時綱師綱子五郎左衛門能登源阿
頼時時綱子五郎
宗綱時綱子二郎三郎
時秀宗綱子三郎
氏時時綱子五郎
時光時綱子五郎
頼泰時綱子時光子?越中明徳頃
師氏師綱子太田源八
師信師綱子能登九郎左衛門応安頃
頼秀師信子弾正左衛門
満秀頼秀子三郎
持秀満秀子?佐々木能登
  長綱持秀子頼泰嗣弥三郎左衛門能登明応頃


以上のことと、以下の田中氏・香庄貞信のことと、つながってくるのではないだろうか?
今持っている疑問としては、
佐々木四郎兵衛尉=田中貞信が九里三郎貞信なのではないか?
(田中貞信が香庄貞信とすると、香庄源左衛門尉貞信は九里の可能性もあるかもしれないのではないか?)

では、田中氏と平井氏はどのような関係なのだろうか?

武家家伝の朽木氏より↓ (全体像)http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kutuki.html

信綱の次男高信は高島氏を名乗り、泰信・頼綱・胤信らの男子があった。

嫡男の泰信は高島氏を継ぎ、その三男師綱は平井村に住して平井氏を称した。
高信次男の頼綱の長子頼信は横山に住して横山氏、次男の氏頼は田中に住して田中氏、
そして三男の義綱は朽木に住して朽木氏を称したのである。そして、高信の三男胤信は永田城を築いて永田氏を称した。
このように高信の子孫は湖西の高島郡に割拠し、世に「高島七頭」と呼ばれた。

…と高島氏頼別れた同族のようであるのだが、

武家家伝田中氏を見るとおかしなことに、佐々木氏からわかれたような痕跡はないようで、橘為義の系だという。
【橘為義】
近江掾内蔵助通文の子。子の義通、孫の為仲・資成も勅撰集に名を残す歌人。長和四年(1015)、正四位下。最終官は但馬守。藤原道長の家司。

しかも、同じ橘氏系といわれている山中氏と関係があるようだ。web情報によると↓

山中城は、建久5年に山中俊直によって築かれた。 
山中氏は、橘諸兄の後裔橘義清が鈴鹿峠山中に住して山中氏を称し、俊直の代に鈴鹿山麓の山中村地頭で鈴鹿警固役を務めるた。 
その後、惣領家は柏木御厨の地頭に補され山中氏屋敷移住し、甲賀二十一家に数えられる国人となった。

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田中氏と山中氏が同族として、橘姓は楠木氏・和田氏も同族ということになり、熊野別当ともつながってくることになる。

この橘姓の系図を辿ってみると、源師忠に嫁いだ娘がいた。
【橘俊綱】
生没年:1035-1094
父:摂政関白 藤原頼通
義父:讃岐守 橘俊遠
正四位上修理大夫
妻:(父:源隆国)
藤原家光(花山院家へ)
女:
長門守 兼長
刑部少輔 家基
藤壺女御(鳥羽天皇宮人)
娘(大納言 源師忠室)

源師忠と橘俊綱女との娘が後に「源有仁」の母親となるのである。

【源左大臣有仁】は「佐々木荘」の領主である。

その領主の母親の系を辿ると、橘姓田中氏・山中氏につながる…ということのようである。

母系の母系を辿ることなので表には出てこないが、佐々木荘領主であった人々が後々まで近江国の中に住んでいたのである。
九里氏もその中のグループなのではないだろうか?

本郷氏と平井氏との関係から飛躍してしまったが、平井氏が秀義からの系図に含まれるとして、本郷氏は源有仁の叔父の系に含まれるである。
本郷氏と平井氏との婚姻関係からみても、それ以前も融合していたのではないだろうか?

それにしても、【田中氏】の系図は不思議である。もっと詳しいものを見つけなければ!
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tanaka.html










九里太郎経久 蓮忍入道 ・ 佐々木加地氏 と関わる。 そして佐々氏が登場する。

2017-10-21 17:11:07 | 九里氏と佐々木氏

この二段目に源実秀という名が出てくる。(東京大学史料編纂所DB)

web上にも見つけた。http://chibasi.net/ichizoku5.htm
この下の方に文永2年の項に、源実秀と富城入道の名前が出てくる。(平胤員…という名もある。)

文永2(1265)年6月15日『胤員・実秀連署状』という文書である。


【書名】
中山法華経寺文書(紙背文書)
【著者名】

【原蔵者】
法華経寺(千葉県市川市中山2-10-1)

原寸大写真(「双紙要文」紙背文書,「天台肝要文」紙背文書,「破禅宗」紙背文書,「秘書」紙背文書)
参考:中尾堯編『中山法華経寺史料』第三刷(請求記号:1015-305-(a))

86(「破禅宗」紙背文書第6号)

【形態】
1枚
【注記】
平胤員・源実秀連署書状(年未詳六月十五日)[首欠]

蓮忍・常忍は日蓮の強力なサポーターであったので、その関係であるらしいことがうかがわれる。

~~~*~~~

散々探して、これは佐々木実秀=加地実秀であろう~と見当をつけた。
(大胡実秀という人物もいる。こちらも藤原秀郷流の系図の中に出てくるので、関係があるかもしれない。…但しこの方は、法然を信じているようだ。)

今までなぜ佐々氏と養子縁組が二回もあったのか不思議だったのだが、ココで繋がっていたようなのだ。

佐々氏綱(さっさ うじつな)は、佐々木盛綱の子加地信実の八男。鎌倉時代前期の人物。


九里太郎経久蓮忍は加地信実、そして息の実秀、その弟である佐々氏綱 つながっていたのだ。

そして加地氏は、越後国と縁が深い。そして加地盛綱氏には9人もの子供がいたそうである。
さて、そうなると「富来氏」と近いところに?? 娘の婿とか??

また、加地盛綱の父は佐々木源秀義であるが、母親はなんと源為義女(娘)であり、そうなると鳥居禅尼とは姉妹となる。(為義は婚姻関係が複雑のため、盛綱の母と鳥居禅尼とが同じ母親から生まれたとは限らないが父親は同じである。)
他の情報もある。盛綱の母は、宇都宮座主宗圓女という説もある。(近江蒲生郡志)

どちらにせよ、今まで調べてきたことと繋がりがあるようだ。

~~~*~~~

九里氏に本郷氏になったという形跡(証拠)はないようだが(系図が見当たらないだけかもしれないが)、近江国佐佐木荘に居ること(源有仁所領)、因幡国の富城郷の所領を持っていたこと(本郷信冨の弟矢部定政)、が合致している。
ただし、富城郷は九里1250年以前の所領・矢部氏1340年での所領である。(100年近くの開きがある。)

その中途で本郷氏(矢部氏)と九里氏とに婚姻関係があったなら、所領を譲渡された可能性もあるが。そのあたりをこれから調べなくてはならないと思う。
佐佐木荘もしかりである。

本郷氏は文書に残っている荘園はいくつかあるが、その中に佐佐木荘も富木(城)郷も出てこない。
とすると、父祖伝来の領地である可能性もあると思う。

佐々木盛綱のいただいた領地は、伊予/讃岐の守護、備前藤戸庄/上野磯部郷/越後加地庄の地頭職を得た…とweb上にはあった。
また、加治川右岸大友に加地実秀が居館を構え大友二郎と称しその子・実綱も大友に本拠を置いたという。
近くの東泉寺は建長年間(1249~1256)に加地実秀が真言宗の寺として開基したという。(日蓮‥は?…?)


本郷氏の所領・もしくは地頭職についていた場所は
1357
延文2正平12
4.26
越後守護宇都宮公綱,吉河荘大津・うりゅうを本郷弥五郎に渡す[(5)4001]

5.3
本郷詮泰,三島郡吉河荘中条北方を安堵される[(5)4004]

他に若狭国大飯郡・美濃国雛倉?庄・若狭見方保・上記の吉河荘中条北方(越後国と文書ではなっているが・・)の地頭職をいただいている。

宇都宮公綱からは吉河と大津と瓜生は別々なのではないだろうか?
ココも調べよう!

宇都宮公綱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%85%AC%E7%B6%B1

ウ~ン、これは、やはり宇都宮宗圓が佐々木盛綱と関係があり、しかも本郷氏とつながっているに違いない!(所領を渡す…本郷氏にとられたのかもしれない?)相伝や譲るではなく、渡す…ここが気にかかる。

コトバンクより
1302-1356 鎌倉-南北朝時代の武将。
乾元(けんげん)元年生まれ。宇都宮貞綱の子。下野(しもつけ)(栃木県)宇都宮城主。元弘(げんこう)の乱には幕府側として楠木正成とたたかう。のち後醍醐(ごだいご)天皇方にしたがい,建武(けんむ)政権では雑訴決断所一番の奉行となる。同政権が崩壊後も南朝方について各地を転戦した。延文元=正平(しょうへい)11年10月20日死去。55歳。初名は高綱。

宇都宮公綱
うつのみやきんつな
(1302―1356)
南北朝時代の下野(しもつけ)(栃木県)の武将。初名高綱。正眼庵と号す。元弘(げんこう)の変(1331)に北条高時の命を受けて西上し、「戦場で命を捨てることなどまるで塵(ちり)か芥(あくた)のようにしか思っていない」と恐れられた股肱(ここう)の臣「紀(き)・清両党(せいりょうとう)」(『太平記』)を率いて大坂・四天王寺で楠木正成(くすのきまさしげ)と戦った。のち後醍醐(ごだいご)天皇に投じ、建武(けんむ)政権成立後、兵部少輔(ひょうぶのしょう)に任じ、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)一番の奉行(ぶぎょう)を務めた。足利尊氏(あしかがたかうじ)が鎌倉で反すると、新田義貞(よしさだ)に従って東下し、箱根竹ノ下で足利軍と戦って敗れ、いったん降伏するが、ふたたび朝廷方に帰順し各地を転戦した。吉野の行在所(あんざいしょ)にも参じ、その功により正四位下左少将に叙任された。のち出家、益子(ましこ)町大羽(おおば)に隠栖(いんせい)した。法名理蓮。1356年10月20日没。[新川武紀]

【下野国】より

…鎌倉期の寺院では,仏国国師の再興になる黒羽町の臨済宗雲巌寺や足利義兼の持仏堂から発展した足利の鑁阿寺(ばんなじ),二宮町高田の専修寺などが著名である。
[南北朝時代]
 1331年(元弘1)後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げると小山,足利,宇都宮,那須などの諸氏は幕府方として戦い,とりわけ宇都宮公綱は紀・清両党を率いてめざましい活躍をした。最初幕府方として挙兵した足利尊氏は33年後醍醐天皇に応じて京都の六波羅探題を攻め,幕府倒滅に活躍した。…

きせいりょうとう【紀・清両党】
下野国一宮二荒山(ふたらやま)神社(俗に宇都宮大明神)に奉仕した紀氏,清原氏の子孫。とくに鎌倉~南北朝期,同神社座主宇都宮氏に従属して活躍した武士団の一つ。《紀氏系図》《堀田芳賀系図》によれば紀氏は大納言紀麻呂より6代後の清主が下野大掾(しもつけだいじよう)(一説に下野守)として初めて下野に住したのに始まり,同時に社職のことをつかさどったという。清原氏は系図上では天武天皇の皇子舎人(とねり)親王の後裔ということになっているが詳細は不明。

藤原道隆の弟の粟田口関白道兼、その曾孫に宇都宮大明神の座主となった宗圓がいる。
この流は下野宇都宮。

この宇都宮公綱
豊前宇都宮氏・城井氏の一族

web上よりいただいた情報であるが…
概要
一族は豊後国内に門葉を広め、およそ次のような氏がある。
2代宇都宮信房の兄弟からは、中原氏(中原宗隆)、野仲氏(野仲重房)、山田氏、高野氏(山田政房)、深水氏(深水興房)、西郷氏(西郷業政)、廣澤氏(廣澤直房)、那須氏(那須有家)、江良氏(江良業俊)、江里口氏
3代宇都宮景房の兄弟からは、笠間氏(笠間有房)、如法寺氏(如法寺信政)、仲八屋氏(仲八屋家信)、麻生氏、白川氏(麻生国弘)、加来氏(加来正房)、鹿島氏(鹿島康房)、山田氏(山田景長)
4代宇都宮道房の兄弟からは、深江氏(深江盛吉)、増淵氏、横川氏(横川為平)、友枝氏、荒巻氏(友枝信範)、荒尾氏(荒尾範景)、赤熊氏(赤熊範資)
5代宇都宮頼房の兄弟からは、七井氏(七井盛房)、上条氏(上条道氏)
7代宇都宮冬綱(城井冬綱)の兄弟からは、佐田氏(佐田公景)

人物
城井則房(筑後宇都宮氏の蒲池久憲の子)
野仲鎮兼(城井鎮房の乱に参加し討死)
佐田隆居(城井宇都宮氏庶流)
佐田鎮綱(隆居の子、豊薩合戦で唯一大友方であった豊前の有力国人)

以前の記事にも「宇都宮朝綱の息に【城井信房】がいる。宇都宮信房、またの名が中原信房である。」と書いてあった。http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/abc08cef8a5df9ed303a06f4ed53094c

この話はまだまだ続く。。。