源有仁が近江国佐々木荘を所領していたことから仮定してみる。
源有泰が受け継いだとしたら、有仁とはどのような関係でだろうか?もう一度考えてみる。
源有仁の父親は輔仁親王・母親は源師忠女である。
輔仁親王の父である後三条天皇の祖父が一条天皇であり、その一条天皇の九卿の一人が源雅信の息で【源扶義】(すけのり)である。
とすると、有仁から離れていき、源扶義~成頼~佐々木義経~経方~~と佐々木氏の系図となっていく。
有仁が領主だったことは確かなようなので、では、母系から見てみよう。
源師忠女であるので、父親は師忠。母親は橘俊綱女であり、俊綱は実は【藤原頼通】の息である。頼通の父親は藤原道長である。
頼通は二男である。
そして道長の養子に【源師房】がいる。村上源氏の中院流の祖である。
村上天皇の皇子具平親王の子。従一位・右大臣。土御門右大臣と号した。父・具平親王を早くに亡くし、姉・隆姫女王の夫である藤原頼通の猶子となったそうだ。
その師房の四男が【師忠】である。
師忠の兄弟に養子で【源広綱】(1048-1108)がいる。(中右記)その裔が【美作朝親】というのだ。
源有仁には荘を相伝するような息がいなかったのであろうか? 法印となった【応仁】という息はいたようであるが。(兄弟という説もある。)
有仁と有泰の関係は今のところこれ以外にはわからないので、次に進む。
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若狭国大飯荘のことが書かれている「大飯町誌」(国立国会図書館)本郷氏に関する部分を複写してみた。
第二章 鎌倉・室町時代の大飯
第一節
稲庭時定
この人物は福井県史にも登場していた人であり、中原姓である。
wikipediaより稲葉時定をコピーしてみよう。他にもコトバンクなどから寄せ集めてみた。
稲庭 時定(いなば ときさだ、生年不詳 - 建仁2年2月8日(1202年3月3日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての若狭国の在庁官人。本姓は中原氏。子に時国がある。遠敷郡太良荘稲葉を本拠とし「稲庭権守」と号した。中原時定とも記される。
平安後期より若狭国衙において有力な地位を占めた中原氏一門の中心的存在であり、在庁官人の筆頭(在国司)として若狭国内に強い勢力を持った。承安4年(1174年)、時定の支配する三方郡三河浦を経由して京に運ばれる公納物に対し津料を課すなどの濫行を働いたとして伯耆国の長講堂領久永御厨が訴訟を起こしたことが『吉記』にみえている。
また、治承4年(1180年)11月に近江国で反平家勢力による一斉蜂起(近江攻防)が起きると、これに加担する動きをみせた「若狭国有勢之在庁」(『玉葉』)とは時定を指すものと比定されている。
しかし、建久7年(1196年)8月、突如源頼朝の勘気を蒙り同族の和久里時継らと共に所領を没収され失脚した。翌月には時定の所領が東国御家人である津々見忠季に与えられ、若狭における鎌倉幕府の影響力は強大なものとなった。
失脚から6年後の建仁2年(1202年)、「渇命所」として返還されていた遠敷郡西津荘にて死去。
参考文献[ソースを編集]
高橋昌明 『院政期の越前・若狭』「福井県史 通史編2 中世 第一章」(1994年、福井県) ISBN 4938772035
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…当時の若狭には33名の国御家人(くにごけにん)がおり(三方,大飯両郡各7名,遠敷郡19名),彼らはそれぞれ国衙領(こくがりよう),荘園の下司(げし),公文職(くもんしき)あるいは名主職(みようしゆしき)などを有したが,また約半数は何らかの形で国衙とのかかわりがあった。
うち最大の権勢を誇ったのは,国衙の税所(さいしよ)職を掌握する〈有勢之在庁〉であり,少なくとも25ヵ所の所領を有した稲庭(いなば)時定であった。国御家人の間にはおそらく彼を頂点とする統属関係が存在したと推測される。…
…若狭国遠敷(おにゆう)郡にあった荘園。現在地は小浜市太良庄。1125年(天治2)平師季の子丹生隆清が私領の松永保恒枝名田,東郷丹生村,西郷太郎畠を太郎忠政に譲与,この田畠を中心に国衙領の太良保が立てられた。
史料上の初見は51年(仁平1)。忠政の子若丸は叡山の山僧丹生出羽房雲厳となり,78年(治承2)知行国主により公文職に補任され,治承・寿永の内乱を若狭最大の在庁官人である稲庭時定の指揮下で戦い,鎌倉殿御家人になった。…
出羽房雲厳
生年:生没年不詳
平安末期・鎌倉初期の若狭国(福井県)の武士。幼名若丸。若くして比叡山で修行し,丹生出羽房雲厳と名乗る。下山後の治承2(1178)年,国衙領太良保(太良荘,福井県小浜市)の公文職に補任され,祖父以来の根本領主としての権利を継承した。これより以前,雲厳の師凱雲は太良谷に薬師堂を建て,荒野を開発していた。雲厳は治承・寿永の内乱に若狭国最大の在庁官人稲葉時定に従い,鎌倉殿御家人として活躍。しかし建久7(1196)年,時定が失脚し,若狭忠季が守護に補任され,太良保地頭になるにおよんで苦境に陥り,時定の子時国に公文職や薬師堂などの権利を譲り,隠退せざるをえなかった。
都の貴族であった平師季が遠敷郡長田の地で得た所領は、仁平元年(一一五一)には孫の丹生太郎忠政の名にちなむ太良保内の地と称されるようになっていた
そして、この平師季の孫が【永田太郎】=【平時信】で、東氏の祖ともいわれているそうだ。
さらに、源頼政も若狭国と関係がある。
源頼政の領地であった若狭国遠敷郡矢代浦(現=福井県)と記載があり調べてみた。頼政の丹波国五箇荘・若狭国東宮川を所領していたことが「平家物語」に出ている。
ということで、次回に永田氏も探ってみたい。