【九里一族】に出会う旅に出かけよう!

姉妹編【九里】を探して三千里 http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori

九里氏と本郷氏の関係は‥

2018-12-23 16:56:24 | 九里氏と本郷氏

九里氏が入ってくる以前にも「佐々木本郷」という場所はあっただろうと仮定。

という事は、本郷に入って本郷城を築城した美作氏が本郷氏と名乗り、若狭小浜に所領をもらったためそちらに移り、新たに地頭として入ってきたのが久里氏で久里城と名前を変更した。

久里氏は場所がちょうど〇条九里にあったので、九里氏と名を変える。

領主は大江氏であったのではないだろうか。若しくは波多野氏。

そんな想像をしているこの頃である。

佐々木本郷は「佐々木荘」の中に入っているのだろうか。
若し入っているとすれば源有仁から代々譲渡されているだろうと思うのだが、
「佐々木御厨」とはどのあたりとなるのだろう。下記を見つけたので「前齋院」というのも気になっている。



九里氏と本郷氏(2)

2017-10-26 08:09:18 | 九里氏と本郷氏
源有仁が近江国佐々木荘を所領していたことから仮定してみる。
源有泰が受け継いだとしたら、有仁とはどのような関係でだろうか?もう一度考えてみる。

源有仁の父親は輔仁親王・母親は源師忠女である。

輔仁親王の父である後三条天皇の祖父が一条天皇であり、その一条天皇の九卿の一人が源雅信の息で【源扶義】(すけのり)である。
とすると、有仁から離れていき、源扶義~成頼~佐々木義経~経方~~と佐々木氏の系図となっていく。

有仁が領主だったことは確かなようなので、では、母系から見てみよう。

源師忠女であるので、父親は師忠。母親は橘俊綱女であり、俊綱は実は【藤原頼通】の息である。頼通の父親は藤原道長である。
頼通は二男である。

そして道長の養子に【源師房】がいる。村上源氏の中院流の祖である。
村上天皇の皇子具平親王の子。従一位・右大臣。土御門右大臣と号した。父・具平親王を早くに亡くし、姉・隆姫女王の夫である藤原頼通の猶子となったそうだ。
その師房の四男が【師忠】である。

師忠の兄弟に養子で【源広綱】(1048-1108)がいる。(中右記)その裔が【美作朝親】というのだ。

源有仁には荘を相伝するような息がいなかったのであろうか? 法印となった【応仁】という息はいたようであるが。(兄弟という説もある。)

有仁と有泰の関係は今のところこれ以外にはわからないので、次に進む。

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若狭国大飯荘のことが書かれている「大飯町誌」(国立国会図書館)本郷氏に関する部分を複写してみた。

第二章 鎌倉・室町時代の大飯
第一節 

稲庭時定

この人物は福井県史にも登場していた人であり、中原姓である。

wikipediaより稲葉時定をコピーしてみよう。他にもコトバンクなどから寄せ集めてみた。


稲庭 時定(いなば ときさだ、生年不詳 - 建仁2年2月8日(1202年3月3日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての若狭国の在庁官人。本姓は中原氏。子に時国がある遠敷郡太良荘稲葉を本拠とし「稲庭権守」と号した。中原時定とも記される。
平安後期より若狭国衙において有力な地位を占めた中原氏一門の中心的存在であり、在庁官人の筆頭(在国司)として若狭国内に強い勢力を持った。承安4年(1174年)、時定の支配する三方郡三河浦を経由して京に運ばれる公納物に対し津料を課すなどの濫行を働いたとして伯耆国の長講堂領久永御厨が訴訟を起こしたことが『吉記』にみえている。

また、治承4年(1180年)11月に近江国で反平家勢力による一斉蜂起(近江攻防)が起きると、これに加担する動きをみせた「若狭国有勢之在庁」(『玉葉』)とは時定を指すものと比定されている。

しかし、建久7年(1196年)8月、突如源頼朝の勘気を蒙り同族の和久里時継らと共に所領を没収され失脚した。翌月には時定の所領が東国御家人である津々見忠季に与えられ、若狭における鎌倉幕府の影響力は強大なものとなった。

失脚から6年後の建仁2年(1202年)、「渇命所」として返還されていた遠敷郡西津荘にて死去。
参考文献[ソースを編集]
高橋昌明 『院政期の越前・若狭』「福井県史 通史編2 中世 第一章」(1994年、福井県) ISBN 4938772035

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…当時の若狭には33名の国御家人(くにごけにん)がおり(三方,大飯両郡各7名,遠敷郡19名),彼らはそれぞれ国衙領(こくがりよう),荘園の下司(げし),公文職(くもんしき)あるいは名主職(みようしゆしき)などを有したが,また約半数は何らかの形で国衙とのかかわりがあった。

うち最大の権勢を誇ったのは,国衙の税所(さいしよ)職を掌握する〈有勢之在庁〉であり,少なくとも25ヵ所の所領を有した稲庭(いなば)時定であった。国御家人の間にはおそらく彼を頂点とする統属関係が存在したと推測される。…


…若狭国遠敷(おにゆう)郡にあった荘園。現在地は小浜市太良庄。1125年(天治2)平師季の子丹生隆清が私領の松永保恒枝名田,東郷丹生村,西郷太郎畠を太郎忠政に譲与,この田畠を中心に国衙領の太良保が立てられた。

史料上の初見は51年(仁平1)。忠政の子若丸は叡山の山僧丹生出羽房雲厳となり,78年(治承2)知行国主により公文職に補任され,治承・寿永の内乱を若狭最大の在庁官人である稲庭時定の指揮下で戦い,鎌倉殿御家人になった。…

出羽房雲厳

生年:生没年不詳
平安末期・鎌倉初期の若狭国(福井県)の武士。幼名若丸。若くして比叡山で修行し,丹生出羽房雲厳と名乗る。下山後の治承2(1178)年,国衙領太良保(太良荘,福井県小浜市)の公文職に補任され,祖父以来の根本領主としての権利を継承した。これより以前,雲厳の師凱雲は太良谷に薬師堂を建て,荒野を開発していた。雲厳は治承・寿永の内乱に若狭国最大の在庁官人稲葉時定に従い,鎌倉殿御家人として活躍。しかし建久7(1196)年,時定が失脚し,若狭忠季が守護に補任され,太良保地頭になるにおよんで苦境に陥り,時定の子時国に公文職や薬師堂などの権利を譲り,隠退せざるをえなかった。
 
都の貴族であった平師季が遠敷郡長田の地で得た所領は、仁平元年(一一五一)には孫の丹生太郎忠政の名にちなむ太良保内の地と称されるようになっていた



そして、この平師季の孫が【永田太郎】=【平時信】で、東氏の祖ともいわれているそうだ。

さらに、源頼政も若狭国と関係がある。
源頼政の領地であった若狭国遠敷郡矢代浦(現=福井県)と記載があり調べてみた。頼政の丹波国五箇荘・若狭国東宮川を所領していたことが「平家物語」に出ている。

ということで、次回に永田氏も探ってみたい。



九里氏と本郷氏(1)

2017-10-21 12:27:41 | 九里氏と本郷氏
近江国近江八幡本郷神社と若宮神社
その2つの神社は九之里村(江戸時代にはそう呼ばれていた。)に今でもある。

その神社の由緒に書かれていた。
「本郷神社」
西本郷町は大化改新以前より存し大化時には九の里と呼ばれ若宮神社を奉祀していたが、一農家に奉祀されていた日本武尊の御霊を奉遷したのを創立とする。その後、明治十五年に改築が行われている。

「若宮神社」
創立年代は不詳であるが、大化時の九の里(条里制)の産土神である。現社殿は寛文五年四月に建築されたもので、弘化三年に改築をしている。明治九年村社に加列された。

次に「荘園」を見てみようと思う。
「本郷」という名のついた、または関連のある近江国内の荘園は、4つある。



それらを順に見ていこう。

甲賀
【荘園名】
宇治河原保
【フリガナ】
ウジカワラ
【参考市町村】
甲賀郡水口町
【明治村字名】
氏河原
【領家・本家】
伊勢神宮領(加納)
【初見年和暦】
応永十九年
【初見年西暦】
1412
【出典】
山中文書
【地名辞典】
 荘園志料=なし・角川地名=野洲川を隔てて柏木本郷に接し、鎌倉末に加納地として柏木御厨に編入=保米を官幣使の供給に充当=弊保司は山中氏、応永19地頭
【備考】
→2104016「柏木御厨」参照

~~~*~~~

山中氏は、九里と共に六角氏に反旗を翻して戦った同志である。
橘姓を持っており、九里にも丸に橘・折敷に橘の紋を持っている人も存在する。

~~~*~~~

【郡名】
坂田
【荘園名】
柏原庄
【フリガナ】
カシワバラ
【参考市町村】
坂田郡山東町
【明治村字名】
柏原・伊吹・大久保・藤川・板並・上野・大清水・杉沢・須川・大野木・梓河内・長久寺・村木
【史料村郷名】
本郷・実恒名・杉沢郷
【領家・本家】
郁芳門院領・醍醐寺領・円光院領・新御願堂領
【初見年和暦】
応徳二年
【初見年西暦】
1085
【出典】
醍醐雑事記・醍醐寺文書・佐々木文書・常楽記・醍醐三宝院文書・醍醐寺方管領諸門跡等目録・杉沢勝居神社鰐口銘・成菩提院文書・大原観音寺文書・徳源院文書
【遺文番号】
ヘ1234・ヘ2199・ヘ2200・ヘ2241・ヘ2266・ヘ2267・ヘ2268・ヘ2393・ヘ2402・ヘ2403・ヘ2478・ヘ2533・ヘ2704・ヘ3433・ヘ3863・カ83・カ1361・カ2165・カ5104・カ15886・カ23588
【記録類】
『東鑑』正治2,12,27・『満済准后日記』応永33,8,17・『親元日記別録』文明7,7,27・同3,9,28・『明月記』
【地名辞典】
 角川地名=伊吹山南麓、天野川上流=応徳2太政官牒に四至、空閑81町余、墾田26町余、百姓地2町余=延暦14立荘、のち郁芳門院が醍醐寺円光院仏聖油に
【備考】
佐々木京極氏の本貫地・『出典』追加:政所賦銘引付

~~~*~~~

【郡名】
坂田
【荘園名】
黒田庄
【フリガナ】
クロダ
【参考市町村】
坂田郡山東町
【明治村字名】
本郷・大鹿・北方・志賀谷・山室・堂谷
【領家・本家】
醍醐寺領・遍智院領
【初見年和暦】
正応三年
【初見年西暦】
1290
【出典】
山城醍醐寺文書・康正段銭引付
【地名辞典】
 荘園志料=記事なし・角川地名=庄号なし→黒田(山東町)=黒田川流域、現山東町本郷一帯に比定=黒田氏累代居館あり=康正2黒田備前守領=大永5領家職半
【備考】
 佐々木黒田氏の本貫地・カ17285正応3実勝譲状(醍醐寺文書)=遍智院とともに近江国高良庄、黒田庄など仁承に譲与・康正段銭引付=佐々木黒田備前守殿=黒田、高木2ヶ所段銭

~~~*~~~
【郡名】
未勘
【荘園名】
山本庄
【フリガナ】
ヤマモト
【領家・本家】
桜井宮門跡領・山門領
【初見年和暦】
文永五年
【初見年西暦】
1268
【出典】
壬生家文書
【地名辞典】
 荘園志料=なし・角川地名=庄名なし
【備考】
 坂田郡山本(五箇庄町)、浅井郡山本(湖北町)、蒲生郡山本(日野町)、野洲郡山本郷(現在地不明)などあり、不明

最後の山本庄は「山本郷」と出ていたので検索ワードで引っかかって来たと思われる。
と思っていたが、後に山本氏とも婚姻関係が発生しているので、関係があるのかもしれない。

ココまで書いてみて、本貫地のことや郷の中の基地という意味での「本郷」全国に多々あることがわかった。
九里の本郷城もそのような意味で使われただけで、本郷氏とは全く関係がないかもしれない。

しかし不思議な符合する点があるので、忘れないうちに書いておこうと思う。

本郷氏の中で、矢部氏に養子に行った者がいた。矢部定政である。
その人が、因幡国の富木(城)庄にも所領があったと書かれている情報があり、まさにその因幡国の富城庄(郷)は蓮忍・常忍の所領でもあり…(九里蓮忍=富木蓮忍ならば!)
同じ土地に関わっていることになる。(年代は本郷矢部氏の方が後世)

偶然に…ということがあるだろうか?
【国名】
因幡
【郡名】
法美
【荘園名】
富城庄
【フリガナ】
トキ
【重複コード】

【参考市町村】
岩美郡国府町
【明治村字名】
登儀
【史料村郷名】
【初見年和暦】
元弘三年
【初見年西暦】
1321
【出典】
興尊全集
【遺文番号】
カ31966
【記録類】

【関係文献】

【地名辞典】
 荘園志料=なし・角川地名→富木郷=南北朝期からみえる郷名、法美郡の内=富来、富城とも=貞和6足利直冬御教書に富木郷=建長2日蓮遺文に富城中太入道あ
【備考】
 『地名辞典』追加:=和名抄罵城郷の地=国府町登儀・カ31966日興興文=因幡国富城庄本主今常忍=日蓮高弟富城常忍の本貫地か


http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E7%9F%A2%E9%83%A8%E6%B0%8F_%E7%9F%A2%E9%83%A8%E6%B0%8F%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81





黒田氏がいたと思われる黒田村と中原景経がいた(九里の祖 経久の叔父にあたる)富永 

2017-10-20 22:26:57 | 九里氏と本郷氏
滋賀県 伊香郡である。
黒田氏がいたと思われる付近 ①番


中原景経が勾当をしていた富永荘付近 ➃番


両方の一関係


ほとんど同じ地域にいたことがお分かりいただけたのでは、と思う。
ただ、近くにいたから仲がいいというわけでもないが、同じ小笠原氏長・宗長と縁がある同志である。
そして、同じく将来的に赤松氏と縁ができてくるのである。







本郷氏と赤松氏・赤松氏と黒田氏・黒田氏と小笠原氏 つながっている。

2017-10-20 20:38:52 | 九里氏と本郷氏

💛読者登録ありがとうございます~♪ 感謝デス。(ひとつは自分です)

NHK大河ドラマの「官兵衛」を観て、司馬遼太郎を読んでいた時に、黒田氏は九里氏のようだ…と思っていた。
きっと九里もこの黒田のように近江国に居ることができなくなって、他の国へ行ったのだと…そう思って見ていた。

九里の祖 近江国御家人井口中原系図に記載があるように祖は「中原氏」であり、余呉・伊香と深い関係にある。
とすると、黒田氏のいた黒田村と重なる地域にいたことになる。

そして↓のアドレスに貴重な情報があった。京極宗満の四男頼満が黒田氏の祖だというのだ。
さらに、母は小笠原長氏というではないか! 近江国の中原には小笠原宗長に嫁いだ「中原行経女」がいる。(宗長妻と言われているが、諸説ある。)

その小笠原宗長は、調べてみると小笠原長氏の息であったのである。

http://www11.plala.or.jp/kuroda6/satumaxxkurodasi/shintouryuu/01sinntouryuuxxframe.html

さらに、もう一点符合すること。それは赤松氏との関係である。
武家家伝 黒田氏の【もう一つの黒田氏系図】の中に、「重康の妻赤松貞村妹と、重範の妻佐々木高信女」と書かれており、赤松氏と婚姻関係があることが記載されているのである。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kuroda_2.html

前回の記事にあるように本郷氏と赤松氏とは同じ系図内に書かれている。

また下記は文安年中の文書だが、同じ文書の中に「本郷氏」「佐々木黒田氏」「赤松氏」「小笠原氏」が一堂に。
皆、幕府の奉行衆であったのである。