【九里一族】に出会う旅に出かけよう!

姉妹編【九里】を探して三千里 http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori

皆様、一年間ありがとうございました。

2018-12-30 14:17:18 | 日記

一年が経ちました。

この年末になってから桓武平氏の高棟流であると思われる平親清が「佐々木加賀守親清」を名乗っていたことがわかりました。(『吾妻鏡』建長4年4月1日条。)

そして、京極佐々木氏、高島の平井氏も「加賀守」を名乗っていた事とも繋がってくるのではないか?と気が付き始めたところです。

そして、本郷氏の近くの「佐分川」と「佐分親清」とも名乗っていた平親清。
若狭国とのつながりや構図も、この佐分氏と本郷氏と似ているのです。

来年はこの辺りにも焦点を当ててみたいと思っています。


このブログを訪れて下さった方々、本当にありがとうございました。
また、来年も続けたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

それでは良いお年を~☆






下豊浦!

2018-12-23 17:15:17 | 九里氏と佐々木氏

『尊卑分脈』宇多源氏流によれば、経方は近江佐々木荘下司初代である。
佐々木庄は白河院との関係が深く、佐々木庄の一部の領家だった前斎院悰子内親王堀河院第一皇女)が、天承元年(一一三一)に祖父白河院の冥福を祈るため伊勢神宮に寄進して伊勢御厨にしている。

佐々木御厨(下豊浦)にある新宮神社の摂社大神宮では、三月五日の祭礼で白河院の歌を唱える慣例がある。
また永治二年(一一四二)当時の佐々木庄領家は白河院の養子左大臣源有仁であった(『源行真申詞記』)。

経方は近江佐々木庄を白河院に寄進して立荘(不輸荘領)し、自らは現地管理者である下司になり、同庄に留住していたのである。

上記は佐々木哲学校からの記事である。http://blog.sasakitoru.com/200505/article_15.html

他のページにも記載があった。

佐々木庄の一部は白河院の孫前斎院悰子内親王(堀河天皇の第一皇女)領となり、さらに天承元年(一一三一)白河院の冥福を祈るために神宮御厨となった。佐々木御厨内の神宮神社では、三月五日の祭礼で白河院の歌「さき匂ふ花のけしきを見るからに神の心なよそにしらるゝ」を唱える慣例があった(6)。前斎院領の母体であった佐々木荘全体も、天皇家領であったと推測できる(7)。 このように佐々木庄は白河院と関係が深い。佐々木庄は為俊によって白河院に寄進されたと考えられる。
 のち為俊は村上源氏丹波守季房の養子になり、源家定と名乗った(8)。これで佐々木氏は源氏に復したことになる。永治二年(一一四二)白河院の養子である後三条源氏の左大臣源有仁が佐々木庄領家であり、また清和源氏の源為義が同庄預所であったが、このとき為俊の一族佐々木庄下司行真も源氏を名乗っている(9)。さらに源有仁没後には、後白河院近臣である宇多源氏時中流の権大納言資賢家が、佐々木庄の領家職を獲得したのだろう、その子孫が佐々木(佐々木野)を家名にした。こうして佐々木庄は源氏一色となった。

前斎院のこと、佐々木御厨の場所、佐々木荘と佐々木経方のこと、が書かれていて、先ほどの疑問が少し解決。

その前斎院悰子内親王とは、権大納言資賢家とは、この辺りを調べていきたい。

これは九里を探して三千里にも繋がってくる重要な部分となると思う。






九里氏と本郷氏の関係は‥

2018-12-23 16:56:24 | 九里氏と本郷氏

九里氏が入ってくる以前にも「佐々木本郷」という場所はあっただろうと仮定。

という事は、本郷に入って本郷城を築城した美作氏が本郷氏と名乗り、若狭小浜に所領をもらったためそちらに移り、新たに地頭として入ってきたのが久里氏で久里城と名前を変更した。

久里氏は場所がちょうど〇条九里にあったので、九里氏と名を変える。

領主は大江氏であったのではないだろうか。若しくは波多野氏。

そんな想像をしているこの頃である。

佐々木本郷は「佐々木荘」の中に入っているのだろうか。
若し入っているとすれば源有仁から代々譲渡されているだろうと思うのだが、
「佐々木御厨」とはどのあたりとなるのだろう。下記を見つけたので「前齋院」というのも気になっている。