【九里一族】に出会う旅に出かけよう!

姉妹編【九里】を探して三千里 http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori

米原市 顔戸 と 額戸氏 は関係があるのだろうか?

2017-12-17 22:41:23 | 九里氏と田中氏
【城郭探訪】さんのブログに触発されて、調べてみると面白いことが…
田中屋敷 近江国(近江町田中屋敷 近江国(近江町) http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/561eb4dfa31d57e5514cc006b25d0977

米原市(旧坂田郡近江町)【顔戸】map:https://yahoo.jp/-9RvbV

そして【額戸氏】似ている。しかも音はどちらも【ゴウド】のようである。(しかも田中氏!) 

額戸氏/強戸氏/合土氏(ごうどし)は、清和源氏の流れを汲む、新田氏の支族である。「額戸」の意味は渓谷を指すと伝わる。
しかも、長岡氏も庶家として名を連ねている。 
庶家
強戸氏
合土氏
鶴生田氏
入生田氏
風間氏
長岡氏
長田氏


額戸経義という人物もいたようである。
清和源氏新田氏の一族だそうで、新田義重の息として以下のようにwikipediaにあった。

里見義俊、山名義範、新田義兼、得川義季、経義、祥寿姫(源義平正室)、
足利義清室、武田信光室、那須与一室?、得河義秀?

足利義清は、以仁王挙兵では頼政と行動を共にしていた【矢田判官代】だそうで、wikipediaにあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E6%B8%85_(%E7%9F%A2%E7%94%B0%E5%88%A4%E5%AE%98%E4%BB%A3)

後醍醐天皇・新田義貞あたりも関係があるのかもしれない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E8%B2%9E

城郭探訪yamaziro様 いつもたくさんのヒントをありがとうございます!
 



【九里氏】と【田中氏】(西行も登場!)

2017-11-05 20:53:48 | 九里氏と田中氏
橘姓を持つ「田中氏」は、紀州国の出身なのではないだろうか?
紀州国の「田仲荘」に注目してみた。
コトバンクより↓
田仲荘【たなかのしょう】

紀伊国那賀(なか)郡にあった摂関家領の荘園で,現和歌山県内田(うちた)町の南半域に比定される。田中とも書いた。成立時期は不明。12世紀初めには摂関家領となっており,1110年藤原忠実(ただざね)から得分(とくぶん)の一部が近江日吉社(日吉大社)に法華八講(ほっけはっこう)料として寄進されている。


紀伊国那賀郡(現,和歌山県那賀郡打田町,桃山町)の荘園。11世紀の成立と推定される摂関家領荘園で,1110年(天永1)藤原忠実(ただざね)によって得分(とくぶん)の一部が日吉神社の法華八講料にあてられている。鎌倉時代には近衛家領となったが,近衛家は荘務権を有せず,領家職(りようけしき)は僧円基(近衛基通の子),僧慈禅(近衛兼経の弟)を経て,その法系である浄土寺門跡(もんぜき)が室町末期にいたるまで伝領した。

(平治1)美福門院が鳥羽上皇の菩提を弔うために高野山に寄進し,金泥一切経蔵料所とされた。成立当初より摂関家領田仲・吉仲両荘などとの間に領有をめぐる紛争があり,とくに田仲荘の預内舎人佐藤仲清・能清父子の侵攻は鎌倉初期まで執拗(しつよう)にくりかえされた。これは田仲荘域が紀ノ川以南まで及んでいて,荒川荘の北辺との境界があいまいであったためであろうが,高野山は64年(長寛2)在家70宇,田畠14町余を寺僧に配分する免家・分田支配を他荘にさきがけて創設し,これに対抗した。…

この預内舎人佐藤仲清・能清父子は、西行の辞典に以下のような記載があった。

「義清(西行)の弟に仲清がいます。兄との説もありますが弟と断定してよいようです。義清出家後に仲清が佐藤家を継ぎました。
 
 仲清には能清と基清の二人の男子があり、能清は佐藤家を継ぎ、基清は一族の後藤家に養子に行って後藤基清と名乗ります。
 
 この基清は源平合戦の折に源義経と行動を共にしていたことが平家物語巻十一などに見えます。」

また、西行と田中荘という企画展があったようで、そこにはこう書かれていた。
「平安時代の歌人として知られる西行は、本名を佐藤義清といいます。佐藤氏は、紀伊国田中荘(現在の打田町南部)などを拠点に活躍したたいへん裕福な豪族で、出家前の西行も巨額の絹の献納によって兵衛尉という官職に任官していて、佐藤氏の財力は都にもよく知られていました。」
http://www.syamashita.net/history/tsukatuki/tsukatsukiso/heian.html
この中の図を見ると、以前から気になっていた粉河荘がすぐ近くである。

「高野山文書」に佐藤家の領地・田中荘と隣の高野山領・荒川荘の境界争いの記述があり、佐藤家の系図に西行の俗名・義清(のりきよ)があるのが発見されたからとのこと。」という記述のあるweb情報もあり。http://wbs-waka.sblo.jp/article/13098785.html

この荘園の近くには、近江国にもその名前がある地名が多いような気がするが、気のせいか。

近江国 田中貞信が香庄貞信として、その香庄の地図を見つけた。



熊野神社古墳群や、住宅の中に田中氏のお名前も。気になる気になる。紀州と近江、熊野と近江、、、