【九里一族】に出会う旅に出かけよう!

姉妹編【九里】を探して三千里 http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori

【本郷氏】と【佐々木越中守】

2017-10-30 12:05:46 | 本郷氏と佐々木氏
本郷氏と佐々木氏とのつながりを見てみようと思う。
佐々木哲氏のブログ【佐々木哲学校】からのものだが、

「…平井五郎師綱(佐々木越中守)の三男能州九郎左衛門尉師信と推定できる。師綱は兄範綱が早く没した後に、越中家を継いで在京御家人本郷隆泰(若狭大飯郡本郷地頭)女子を妻とした。そのため、師綱に始まる平井氏も広い意味で越中家といえる。」とあるではないか!

http://blog.sasakitoru.com/201010/article_2.html

また、平井に関しては、こちらのページが詳しかった。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hirai1.htm

(1) 高島郡平井……佐々木宗家信綱の子の高島高信の曾孫・師綱は平井左衛門尉を名乗ったが、この流れは戦国末期まで足利将軍家に属し、後に加賀守秀名は信長に仕えたが、子孫は讃岐高松の生駒氏に仕えた。支流が三河にあって安城譜代として旗本にある。師綱の子の時綱は、貞和元年(1345)の足利尊氏の天龍寺供養の際に守護六角氏に従って先陣随兵を務めたから、この平井氏も有力であった。なお、平井定武とほぼ同時代の平井伊予守貞秀やその子ではないかとみられる伊予守秀政(織田信長や豊臣秀長、真田信幸などに仕えた)は、高島郡平井の一族か。

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調べてみると、たしかに蒲生郡安土町大字下豊浦には現在でも平井公民館があり、この付近一帯が平井とみられますが、これは平井氏の一系の祖が「豊浦冠者」と名乗ったこととも符合します。

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豊浦冠者!!ということは、佐々木行実かと思っていたが、平井氏と豊浦も関係があったのだ。そして佐々木宮の神主にも平井氏の名前がある。

平井三郎定景の母は佐々木宗家定綱の娘ということで、しかも氏神たる佐々木宮神主の職ももったから、佐々木氏族のなかでも有力な支族であったといえよう。定景の子の世代で、おそらく武家と神職家とに分かれたとみられ、平井三郎定能の六世孫の九郎家綱・五郎高定兄弟まで「佐々木系図」に見える(『姓氏家系大辞典』平井第三項)。家綱・高定兄弟の曾孫世代くらいにあたるのが平井定武ではないかとみられる。

下の系図と合わせてみるとわかりやすいと思う。
 
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hirai.html
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ともかく、本郷氏が越中家(高島)ともつながりを持っていたことがわかった。心強い証拠である。


以前書いた記事の勘が当たっていたのかもしれない。

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/aaaa8bf96eed0a1bf0fd9da2ab1070a9


九里氏と永田氏

2017-10-30 09:35:33 | 九里氏と永田氏
若狭国を調べていて、意外な人物に出会った。
それが、前回に登場した【永田時信】である。

「平師季の孫が【永田太郎】=【平時信】で、東氏の祖ともいわれているそうだ。」これは網野善彦氏の著作集にあったと思うのだが、どうしてなのか、今まで借りることができたこの著作集がどうも貸し出し禁止…閲覧のみになってしまったようで、検索できるリストに出てこない。(札幌図書館)どうして? とても悲しい。


若狭国の【太良荘】に関する記述を見てみよう。http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-2-01-04-01-01.htm

都の貴族であった平師季遠敷郡長田の地で得た所領は、仁平元年(一一五一)には孫の丹生太郎忠政の名にちなむ太良保内の地と称されるようになっていた(ぬ函一)。この忠政の子の丹生出羽房雲厳は先祖から受け継いだ所領を末武名としてもつほか、治承二年(一一七八)には保を支配する保司から太良保の公文に任じられていた(は函一)。

他方で鎌倉期初めには最有力在庁官人の稲庭時定が保の地頭に相当する地位にあったが、幕府から所領のほとんどを奪われて没落し、代わって守護の若狭忠季が太良保の地頭となった。建保四年(一二一六)、知行国主とみられる源兼定は、後鳥羽院母の七条院が建立した歓喜寿院の修二月雑事料として太良保の年貢を充てたため保は荘園となり、承久三年(一二二一)四月には正式に歓喜寿院領太良荘として立荘された(せ函四)。しかしこの直後におこった承久の乱の結果として、七条院領である太良荘は国衙に没収されて再び太良保となり、勝ち誇る地頭若狭忠清は公文職や百姓名を押領し、些細なことに言いがかりをつけて農民たちから科料(罰金)をとるなど、その支配は横暴を極めた。 

…というのが、平師季と後裔永田時信、雲厳と稲葉時定との関りであった。(よくわからないが‥)

しかし、時信を調べてみると、息に「時定」という名前がある。また、「時忠」もいるのである。

その時忠の子どもは多いので、wikipediaから。
父:平時信
母:二条大宮(令子内親王)の半物
異母弟:平親宗
同母姉:平時子 - 平清盛継室
同母妹:藤原親隆室 - 権少僧都・全真の母
異母妹:冷泉局 - 建春門院女房
異母妹:平滋子(建春門院)
異母妹:平清子 - 平宗盛室
異母妹:坊門殿 - 平重盛室、維盛母?
異母妹:帥局 - 建礼門院女房

正室:藤原領子(藤原顕時の娘)
男子:平時宗
女子:平宣子 - 後鳥羽天皇典侍

生母不詳(前妻の子)
長男:平時実(1151-1213)
次男:平時家(?-1193)
女子:蕨姫 - 源義経側室

生母不詳
男子:平時定
男子:平時国 - 時国の末裔が能登で豪農(上時国家、下時国家)となり、現在も続いている[42][43]。
女子:中山忠親室

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この時定と時国が若狭・能登方面担当だったのではないだろうか?

時定は、稲庭時定(中原姓)なのではないか?
母親が中原であり、娘も中原女と呼ばれていて文書に出てくる人物ではないだろうか?

時国はこちら。

上時国
http://tokikunike.jp/

下時国
http://www.tokikunike.com/


もしも、この時定が稲庭だったとすると、永田時信の孫ということになる。

中原時国(稲庭)は雲厳の養子となった。と地方紙研究という本にあるようだ。

そして稲庭時国は、地頭中条家長の代官となり、さらに建保四年(一二一六)に太良保を支配するようになっていた前治部卿従三位源兼定の子息土御門少将家兼家人にもなって、在京するようになったのである。

~~~*~~~

では、九里氏はもともとは稲庭時定とつながっていたのだろうか? 
戦国時代・江戸時代初期・中期の永田氏とのつながりなので、鎌倉・室町から繋がっていた証拠はないのだが、この若狭国・能登の荘園を巡るときからの関係かも知れない。





九里氏と本郷氏(2)

2017-10-26 08:09:18 | 九里氏と本郷氏
源有仁が近江国佐々木荘を所領していたことから仮定してみる。
源有泰が受け継いだとしたら、有仁とはどのような関係でだろうか?もう一度考えてみる。

源有仁の父親は輔仁親王・母親は源師忠女である。

輔仁親王の父である後三条天皇の祖父が一条天皇であり、その一条天皇の九卿の一人が源雅信の息で【源扶義】(すけのり)である。
とすると、有仁から離れていき、源扶義~成頼~佐々木義経~経方~~と佐々木氏の系図となっていく。

有仁が領主だったことは確かなようなので、では、母系から見てみよう。

源師忠女であるので、父親は師忠。母親は橘俊綱女であり、俊綱は実は【藤原頼通】の息である。頼通の父親は藤原道長である。
頼通は二男である。

そして道長の養子に【源師房】がいる。村上源氏の中院流の祖である。
村上天皇の皇子具平親王の子。従一位・右大臣。土御門右大臣と号した。父・具平親王を早くに亡くし、姉・隆姫女王の夫である藤原頼通の猶子となったそうだ。
その師房の四男が【師忠】である。

師忠の兄弟に養子で【源広綱】(1048-1108)がいる。(中右記)その裔が【美作朝親】というのだ。

源有仁には荘を相伝するような息がいなかったのであろうか? 法印となった【応仁】という息はいたようであるが。(兄弟という説もある。)

有仁と有泰の関係は今のところこれ以外にはわからないので、次に進む。

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若狭国大飯荘のことが書かれている「大飯町誌」(国立国会図書館)本郷氏に関する部分を複写してみた。

第二章 鎌倉・室町時代の大飯
第一節 

稲庭時定

この人物は福井県史にも登場していた人であり、中原姓である。

wikipediaより稲葉時定をコピーしてみよう。他にもコトバンクなどから寄せ集めてみた。


稲庭 時定(いなば ときさだ、生年不詳 - 建仁2年2月8日(1202年3月3日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての若狭国の在庁官人。本姓は中原氏。子に時国がある遠敷郡太良荘稲葉を本拠とし「稲庭権守」と号した。中原時定とも記される。
平安後期より若狭国衙において有力な地位を占めた中原氏一門の中心的存在であり、在庁官人の筆頭(在国司)として若狭国内に強い勢力を持った。承安4年(1174年)、時定の支配する三方郡三河浦を経由して京に運ばれる公納物に対し津料を課すなどの濫行を働いたとして伯耆国の長講堂領久永御厨が訴訟を起こしたことが『吉記』にみえている。

また、治承4年(1180年)11月に近江国で反平家勢力による一斉蜂起(近江攻防)が起きると、これに加担する動きをみせた「若狭国有勢之在庁」(『玉葉』)とは時定を指すものと比定されている。

しかし、建久7年(1196年)8月、突如源頼朝の勘気を蒙り同族の和久里時継らと共に所領を没収され失脚した。翌月には時定の所領が東国御家人である津々見忠季に与えられ、若狭における鎌倉幕府の影響力は強大なものとなった。

失脚から6年後の建仁2年(1202年)、「渇命所」として返還されていた遠敷郡西津荘にて死去。
参考文献[ソースを編集]
高橋昌明 『院政期の越前・若狭』「福井県史 通史編2 中世 第一章」(1994年、福井県) ISBN 4938772035

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…当時の若狭には33名の国御家人(くにごけにん)がおり(三方,大飯両郡各7名,遠敷郡19名),彼らはそれぞれ国衙領(こくがりよう),荘園の下司(げし),公文職(くもんしき)あるいは名主職(みようしゆしき)などを有したが,また約半数は何らかの形で国衙とのかかわりがあった。

うち最大の権勢を誇ったのは,国衙の税所(さいしよ)職を掌握する〈有勢之在庁〉であり,少なくとも25ヵ所の所領を有した稲庭(いなば)時定であった。国御家人の間にはおそらく彼を頂点とする統属関係が存在したと推測される。…


…若狭国遠敷(おにゆう)郡にあった荘園。現在地は小浜市太良庄。1125年(天治2)平師季の子丹生隆清が私領の松永保恒枝名田,東郷丹生村,西郷太郎畠を太郎忠政に譲与,この田畠を中心に国衙領の太良保が立てられた。

史料上の初見は51年(仁平1)。忠政の子若丸は叡山の山僧丹生出羽房雲厳となり,78年(治承2)知行国主により公文職に補任され,治承・寿永の内乱を若狭最大の在庁官人である稲庭時定の指揮下で戦い,鎌倉殿御家人になった。…

出羽房雲厳

生年:生没年不詳
平安末期・鎌倉初期の若狭国(福井県)の武士。幼名若丸。若くして比叡山で修行し,丹生出羽房雲厳と名乗る。下山後の治承2(1178)年,国衙領太良保(太良荘,福井県小浜市)の公文職に補任され,祖父以来の根本領主としての権利を継承した。これより以前,雲厳の師凱雲は太良谷に薬師堂を建て,荒野を開発していた。雲厳は治承・寿永の内乱に若狭国最大の在庁官人稲葉時定に従い,鎌倉殿御家人として活躍。しかし建久7(1196)年,時定が失脚し,若狭忠季が守護に補任され,太良保地頭になるにおよんで苦境に陥り,時定の子時国に公文職や薬師堂などの権利を譲り,隠退せざるをえなかった。
 
都の貴族であった平師季が遠敷郡長田の地で得た所領は、仁平元年(一一五一)には孫の丹生太郎忠政の名にちなむ太良保内の地と称されるようになっていた



そして、この平師季の孫が【永田太郎】=【平時信】で、東氏の祖ともいわれているそうだ。

さらに、源頼政も若狭国と関係がある。
源頼政の領地であった若狭国遠敷郡矢代浦(現=福井県)と記載があり調べてみた。頼政の丹波国五箇荘・若狭国東宮川を所領していたことが「平家物語」に出ている。

ということで、次回に永田氏も探ってみたい。



九里太郎経久 蓮忍入道 ・ 佐々木加地氏 と関わる。 そして佐々氏が登場する。

2017-10-21 17:11:07 | 九里氏と佐々木氏

この二段目に源実秀という名が出てくる。(東京大学史料編纂所DB)

web上にも見つけた。http://chibasi.net/ichizoku5.htm
この下の方に文永2年の項に、源実秀と富城入道の名前が出てくる。(平胤員…という名もある。)

文永2(1265)年6月15日『胤員・実秀連署状』という文書である。


【書名】
中山法華経寺文書(紙背文書)
【著者名】

【原蔵者】
法華経寺(千葉県市川市中山2-10-1)

原寸大写真(「双紙要文」紙背文書,「天台肝要文」紙背文書,「破禅宗」紙背文書,「秘書」紙背文書)
参考:中尾堯編『中山法華経寺史料』第三刷(請求記号:1015-305-(a))

86(「破禅宗」紙背文書第6号)

【形態】
1枚
【注記】
平胤員・源実秀連署書状(年未詳六月十五日)[首欠]

蓮忍・常忍は日蓮の強力なサポーターであったので、その関係であるらしいことがうかがわれる。

~~~*~~~

散々探して、これは佐々木実秀=加地実秀であろう~と見当をつけた。
(大胡実秀という人物もいる。こちらも藤原秀郷流の系図の中に出てくるので、関係があるかもしれない。…但しこの方は、法然を信じているようだ。)

今までなぜ佐々氏と養子縁組が二回もあったのか不思議だったのだが、ココで繋がっていたようなのだ。

佐々氏綱(さっさ うじつな)は、佐々木盛綱の子加地信実の八男。鎌倉時代前期の人物。


九里太郎経久蓮忍は加地信実、そして息の実秀、その弟である佐々氏綱 つながっていたのだ。

そして加地氏は、越後国と縁が深い。そして加地盛綱氏には9人もの子供がいたそうである。
さて、そうなると「富来氏」と近いところに?? 娘の婿とか??

また、加地盛綱の父は佐々木源秀義であるが、母親はなんと源為義女(娘)であり、そうなると鳥居禅尼とは姉妹となる。(為義は婚姻関係が複雑のため、盛綱の母と鳥居禅尼とが同じ母親から生まれたとは限らないが父親は同じである。)
他の情報もある。盛綱の母は、宇都宮座主宗圓女という説もある。(近江蒲生郡志)

どちらにせよ、今まで調べてきたことと繋がりがあるようだ。

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九里氏に本郷氏になったという形跡(証拠)はないようだが(系図が見当たらないだけかもしれないが)、近江国佐佐木荘に居ること(源有仁所領)、因幡国の富城郷の所領を持っていたこと(本郷信冨の弟矢部定政)、が合致している。
ただし、富城郷は九里1250年以前の所領・矢部氏1340年での所領である。(100年近くの開きがある。)

その中途で本郷氏(矢部氏)と九里氏とに婚姻関係があったなら、所領を譲渡された可能性もあるが。そのあたりをこれから調べなくてはならないと思う。
佐佐木荘もしかりである。

本郷氏は文書に残っている荘園はいくつかあるが、その中に佐佐木荘も富木(城)郷も出てこない。
とすると、父祖伝来の領地である可能性もあると思う。

佐々木盛綱のいただいた領地は、伊予/讃岐の守護、備前藤戸庄/上野磯部郷/越後加地庄の地頭職を得た…とweb上にはあった。
また、加治川右岸大友に加地実秀が居館を構え大友二郎と称しその子・実綱も大友に本拠を置いたという。
近くの東泉寺は建長年間(1249~1256)に加地実秀が真言宗の寺として開基したという。(日蓮‥は?…?)


本郷氏の所領・もしくは地頭職についていた場所は
1357
延文2正平12
4.26
越後守護宇都宮公綱,吉河荘大津・うりゅうを本郷弥五郎に渡す[(5)4001]

5.3
本郷詮泰,三島郡吉河荘中条北方を安堵される[(5)4004]

他に若狭国大飯郡・美濃国雛倉?庄・若狭見方保・上記の吉河荘中条北方(越後国と文書ではなっているが・・)の地頭職をいただいている。

宇都宮公綱からは吉河と大津と瓜生は別々なのではないだろうか?
ココも調べよう!

宇都宮公綱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%85%AC%E7%B6%B1

ウ~ン、これは、やはり宇都宮宗圓が佐々木盛綱と関係があり、しかも本郷氏とつながっているに違いない!(所領を渡す…本郷氏にとられたのかもしれない?)相伝や譲るではなく、渡す…ここが気にかかる。

コトバンクより
1302-1356 鎌倉-南北朝時代の武将。
乾元(けんげん)元年生まれ。宇都宮貞綱の子。下野(しもつけ)(栃木県)宇都宮城主。元弘(げんこう)の乱には幕府側として楠木正成とたたかう。のち後醍醐(ごだいご)天皇方にしたがい,建武(けんむ)政権では雑訴決断所一番の奉行となる。同政権が崩壊後も南朝方について各地を転戦した。延文元=正平(しょうへい)11年10月20日死去。55歳。初名は高綱。

宇都宮公綱
うつのみやきんつな
(1302―1356)
南北朝時代の下野(しもつけ)(栃木県)の武将。初名高綱。正眼庵と号す。元弘(げんこう)の変(1331)に北条高時の命を受けて西上し、「戦場で命を捨てることなどまるで塵(ちり)か芥(あくた)のようにしか思っていない」と恐れられた股肱(ここう)の臣「紀(き)・清両党(せいりょうとう)」(『太平記』)を率いて大坂・四天王寺で楠木正成(くすのきまさしげ)と戦った。のち後醍醐(ごだいご)天皇に投じ、建武(けんむ)政権成立後、兵部少輔(ひょうぶのしょう)に任じ、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)一番の奉行(ぶぎょう)を務めた。足利尊氏(あしかがたかうじ)が鎌倉で反すると、新田義貞(よしさだ)に従って東下し、箱根竹ノ下で足利軍と戦って敗れ、いったん降伏するが、ふたたび朝廷方に帰順し各地を転戦した。吉野の行在所(あんざいしょ)にも参じ、その功により正四位下左少将に叙任された。のち出家、益子(ましこ)町大羽(おおば)に隠栖(いんせい)した。法名理蓮。1356年10月20日没。[新川武紀]

【下野国】より

…鎌倉期の寺院では,仏国国師の再興になる黒羽町の臨済宗雲巌寺や足利義兼の持仏堂から発展した足利の鑁阿寺(ばんなじ),二宮町高田の専修寺などが著名である。
[南北朝時代]
 1331年(元弘1)後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げると小山,足利,宇都宮,那須などの諸氏は幕府方として戦い,とりわけ宇都宮公綱は紀・清両党を率いてめざましい活躍をした。最初幕府方として挙兵した足利尊氏は33年後醍醐天皇に応じて京都の六波羅探題を攻め,幕府倒滅に活躍した。…

きせいりょうとう【紀・清両党】
下野国一宮二荒山(ふたらやま)神社(俗に宇都宮大明神)に奉仕した紀氏,清原氏の子孫。とくに鎌倉~南北朝期,同神社座主宇都宮氏に従属して活躍した武士団の一つ。《紀氏系図》《堀田芳賀系図》によれば紀氏は大納言紀麻呂より6代後の清主が下野大掾(しもつけだいじよう)(一説に下野守)として初めて下野に住したのに始まり,同時に社職のことをつかさどったという。清原氏は系図上では天武天皇の皇子舎人(とねり)親王の後裔ということになっているが詳細は不明。

藤原道隆の弟の粟田口関白道兼、その曾孫に宇都宮大明神の座主となった宗圓がいる。
この流は下野宇都宮。

この宇都宮公綱
豊前宇都宮氏・城井氏の一族

web上よりいただいた情報であるが…
概要
一族は豊後国内に門葉を広め、およそ次のような氏がある。
2代宇都宮信房の兄弟からは、中原氏(中原宗隆)、野仲氏(野仲重房)、山田氏、高野氏(山田政房)、深水氏(深水興房)、西郷氏(西郷業政)、廣澤氏(廣澤直房)、那須氏(那須有家)、江良氏(江良業俊)、江里口氏
3代宇都宮景房の兄弟からは、笠間氏(笠間有房)、如法寺氏(如法寺信政)、仲八屋氏(仲八屋家信)、麻生氏、白川氏(麻生国弘)、加来氏(加来正房)、鹿島氏(鹿島康房)、山田氏(山田景長)
4代宇都宮道房の兄弟からは、深江氏(深江盛吉)、増淵氏、横川氏(横川為平)、友枝氏、荒巻氏(友枝信範)、荒尾氏(荒尾範景)、赤熊氏(赤熊範資)
5代宇都宮頼房の兄弟からは、七井氏(七井盛房)、上条氏(上条道氏)
7代宇都宮冬綱(城井冬綱)の兄弟からは、佐田氏(佐田公景)

人物
城井則房(筑後宇都宮氏の蒲池久憲の子)
野仲鎮兼(城井鎮房の乱に参加し討死)
佐田隆居(城井宇都宮氏庶流)
佐田鎮綱(隆居の子、豊薩合戦で唯一大友方であった豊前の有力国人)

以前の記事にも「宇都宮朝綱の息に【城井信房】がいる。宇都宮信房、またの名が中原信房である。」と書いてあった。http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/abc08cef8a5df9ed303a06f4ed53094c

この話はまだまだ続く。。。

九里氏と本郷氏(1)

2017-10-21 12:27:41 | 九里氏と本郷氏
近江国近江八幡本郷神社と若宮神社
その2つの神社は九之里村(江戸時代にはそう呼ばれていた。)に今でもある。

その神社の由緒に書かれていた。
「本郷神社」
西本郷町は大化改新以前より存し大化時には九の里と呼ばれ若宮神社を奉祀していたが、一農家に奉祀されていた日本武尊の御霊を奉遷したのを創立とする。その後、明治十五年に改築が行われている。

「若宮神社」
創立年代は不詳であるが、大化時の九の里(条里制)の産土神である。現社殿は寛文五年四月に建築されたもので、弘化三年に改築をしている。明治九年村社に加列された。

次に「荘園」を見てみようと思う。
「本郷」という名のついた、または関連のある近江国内の荘園は、4つある。



それらを順に見ていこう。

甲賀
【荘園名】
宇治河原保
【フリガナ】
ウジカワラ
【参考市町村】
甲賀郡水口町
【明治村字名】
氏河原
【領家・本家】
伊勢神宮領(加納)
【初見年和暦】
応永十九年
【初見年西暦】
1412
【出典】
山中文書
【地名辞典】
 荘園志料=なし・角川地名=野洲川を隔てて柏木本郷に接し、鎌倉末に加納地として柏木御厨に編入=保米を官幣使の供給に充当=弊保司は山中氏、応永19地頭
【備考】
→2104016「柏木御厨」参照

~~~*~~~

山中氏は、九里と共に六角氏に反旗を翻して戦った同志である。
橘姓を持っており、九里にも丸に橘・折敷に橘の紋を持っている人も存在する。

~~~*~~~

【郡名】
坂田
【荘園名】
柏原庄
【フリガナ】
カシワバラ
【参考市町村】
坂田郡山東町
【明治村字名】
柏原・伊吹・大久保・藤川・板並・上野・大清水・杉沢・須川・大野木・梓河内・長久寺・村木
【史料村郷名】
本郷・実恒名・杉沢郷
【領家・本家】
郁芳門院領・醍醐寺領・円光院領・新御願堂領
【初見年和暦】
応徳二年
【初見年西暦】
1085
【出典】
醍醐雑事記・醍醐寺文書・佐々木文書・常楽記・醍醐三宝院文書・醍醐寺方管領諸門跡等目録・杉沢勝居神社鰐口銘・成菩提院文書・大原観音寺文書・徳源院文書
【遺文番号】
ヘ1234・ヘ2199・ヘ2200・ヘ2241・ヘ2266・ヘ2267・ヘ2268・ヘ2393・ヘ2402・ヘ2403・ヘ2478・ヘ2533・ヘ2704・ヘ3433・ヘ3863・カ83・カ1361・カ2165・カ5104・カ15886・カ23588
【記録類】
『東鑑』正治2,12,27・『満済准后日記』応永33,8,17・『親元日記別録』文明7,7,27・同3,9,28・『明月記』
【地名辞典】
 角川地名=伊吹山南麓、天野川上流=応徳2太政官牒に四至、空閑81町余、墾田26町余、百姓地2町余=延暦14立荘、のち郁芳門院が醍醐寺円光院仏聖油に
【備考】
佐々木京極氏の本貫地・『出典』追加:政所賦銘引付

~~~*~~~

【郡名】
坂田
【荘園名】
黒田庄
【フリガナ】
クロダ
【参考市町村】
坂田郡山東町
【明治村字名】
本郷・大鹿・北方・志賀谷・山室・堂谷
【領家・本家】
醍醐寺領・遍智院領
【初見年和暦】
正応三年
【初見年西暦】
1290
【出典】
山城醍醐寺文書・康正段銭引付
【地名辞典】
 荘園志料=記事なし・角川地名=庄号なし→黒田(山東町)=黒田川流域、現山東町本郷一帯に比定=黒田氏累代居館あり=康正2黒田備前守領=大永5領家職半
【備考】
 佐々木黒田氏の本貫地・カ17285正応3実勝譲状(醍醐寺文書)=遍智院とともに近江国高良庄、黒田庄など仁承に譲与・康正段銭引付=佐々木黒田備前守殿=黒田、高木2ヶ所段銭

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【郡名】
未勘
【荘園名】
山本庄
【フリガナ】
ヤマモト
【領家・本家】
桜井宮門跡領・山門領
【初見年和暦】
文永五年
【初見年西暦】
1268
【出典】
壬生家文書
【地名辞典】
 荘園志料=なし・角川地名=庄名なし
【備考】
 坂田郡山本(五箇庄町)、浅井郡山本(湖北町)、蒲生郡山本(日野町)、野洲郡山本郷(現在地不明)などあり、不明

最後の山本庄は「山本郷」と出ていたので検索ワードで引っかかって来たと思われる。
と思っていたが、後に山本氏とも婚姻関係が発生しているので、関係があるのかもしれない。

ココまで書いてみて、本貫地のことや郷の中の基地という意味での「本郷」全国に多々あることがわかった。
九里の本郷城もそのような意味で使われただけで、本郷氏とは全く関係がないかもしれない。

しかし不思議な符合する点があるので、忘れないうちに書いておこうと思う。

本郷氏の中で、矢部氏に養子に行った者がいた。矢部定政である。
その人が、因幡国の富木(城)庄にも所領があったと書かれている情報があり、まさにその因幡国の富城庄(郷)は蓮忍・常忍の所領でもあり…(九里蓮忍=富木蓮忍ならば!)
同じ土地に関わっていることになる。(年代は本郷矢部氏の方が後世)

偶然に…ということがあるだろうか?
【国名】
因幡
【郡名】
法美
【荘園名】
富城庄
【フリガナ】
トキ
【重複コード】

【参考市町村】
岩美郡国府町
【明治村字名】
登儀
【史料村郷名】
【初見年和暦】
元弘三年
【初見年西暦】
1321
【出典】
興尊全集
【遺文番号】
カ31966
【記録類】

【関係文献】

【地名辞典】
 荘園志料=なし・角川地名→富木郷=南北朝期からみえる郷名、法美郡の内=富来、富城とも=貞和6足利直冬御教書に富木郷=建長2日蓮遺文に富城中太入道あ
【備考】
 『地名辞典』追加:=和名抄罵城郷の地=国府町登儀・カ31966日興興文=因幡国富城庄本主今常忍=日蓮高弟富城常忍の本貫地か


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