久能利(くのり)氏も九里氏の一族なのであろうか?
【中世の奥能登の荘園・若山荘】の中に出てきた久能利氏
http://www.geocities.co.jp/une_genzaburo/WakayamaPrivateLand.htm
久乃利氏は九ノ里を本拠地としてともに、久乃利殿の知行地として「久乃利」「立壁」「半人注文写(猪橋文書)には遊佐氏の知行地と記す「赤崎」と略)久能利百余貫也」とある。
(googlebooksのため、なんだか意味が不明だが、能登に居た証にはなると思う。久能利氏の後、遊佐氏が知行をし、赤崎という名にあらためたということであろうか。
http://nanao.sakura.ne.jp/matsunami/matsunami.html
能登半島の先端珠洲郡の大半は中世には若山庄と呼ばれる荘園が占めていた。この若山庄の荘園領主は京都の公家である日野氏であった。京都から遠く離れたこの若山庄の経営は現地荘官が行っていた。つまり日野氏の現地における被官と言える者に松波氏、本庄(本城)氏、久能利氏、山方(山形)氏の四氏がおり、徐々に本庄氏が台頭してきた。
奥能登珠洲郡の若山庄に荘園領主である公家・日野家家臣に、松波氏、本庄(本城)氏、久能利氏、山方(山形)氏の四氏がいた。南北朝時代から家臣としてみえ、その中でも松波氏は、1200貫の知行を持ち、最も有力とされる家柄であった。それゆえ、その出自は鎌倉後期、日野頼宣の子・忠俊が日野家庶流の松波氏の始祖となったとする説がある。また松波氏は藤原斉藤氏の一族とも言われる。
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ココで、私が注目したのは「日野氏」とのつながりであった。
日野氏が珠洲郡若山庄の領主となったいきさつには、上記のwebにもあるように、「源季兼」との婚姻関係である。
源季兼という人物はコトバンクによると「醍醐(だいご)源氏,源俊兼の子。石見守(いわみのかみ),木工権頭(もくのごんのかみ)となり,正四位下にいたる。康治(こうじ)2年(1143)父から伝領した能登(のと)(石川県)若山荘を皇嘉門院に寄進し,領家職を確保。のち荘園本家は九条家に,領家職は季兼の娘婿となった日野資長の子孫につたえられた。」
「平安末期の官人。父は土佐守源俊兼。摂関家の藤原忠通に仕えて,石見守から木工権頭を経るなかで摂関家の政所の経営に尽くす。一方,能登国の500町におよぶ大荘園の若山荘を忠通の娘皇嘉門院に寄進したが,これはのちに九条家に伝えられ,季兼の子季長が九条家に仕えるようになり,以後,子孫は九条家に仕えるようになる。<参考文献>五味文彦『院政期社会の研究』 」ということである。
季兼の周辺の系図を貼ると、(ここに後に橘氏に改姓とある。)信濃小路(九条家諸大夫)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/6b/99de08ab3e54c20d09468e3dd7cc0b41.jpg)
父の俊兼
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/d3/eecab341a121da7ac83395f5f78d3b46.jpg)
祖父の清長(母親が宇多源氏で近江国佐々木氏の先祖である「源扶義」の弟 雅通の娘)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/2f/93eed185278c97a369781e3baebd898f.jpg)
久能利氏や久乃利氏も、南北朝以降のことなのであろうか?