【九里一族】に出会う旅に出かけよう!

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横山党中条氏と宇都宮氏(八田氏)

2018-08-05 22:13:20 | 富木氏周辺


http://www.digistats.net/clan/na/nakajou.htm

横山党の中条義勝の妹で源 頼朝の乳母であった近衛局は宇都宮氏の流れを汲む八田知家の妻(あるいは母親)となっていた。…とあり、さらにこの縁で義勝の子が八田氏を継ぐことになる。…という説もある。http://www.digistats.net/clan/na/nakajou.htm

八田局が近衛院にいたことと、近衛局という人が頼朝乳母であり=八田知家の妻(あるいは母親)も近衛院で働いていたこと、符合しているが…


朝日日本歴史人物事典の解説
中条家長
没年:嘉禎2.8.25(1236.9.26)
生年:永万1(1165)
鎌倉前期の武将。武蔵七党のひとつ横山党の小野義勝(法橋成尋)の子で,藤原道兼の子孫である有力御家人八田知家の養子となる。武蔵国埼玉郡中条保を本拠として,中条氏を称した。右馬允,右衛門尉を経て,貞応2(1223)年従五位下出羽守に至る。治承・寿永の内乱では,源範頼に従い一の谷の戦(1184)に加わり,その後豊後国に転戦。文治5(1189)年奥州藤原氏の追討に参加。源頼朝以下藤原頼経まで歴代の将軍に近侍して,鎌倉幕府宿老として重きをなした。また評定衆創設(1225)以来その職に任ぜられ,幕政に参画した。<参考文献>八代国治『武蔵武士』

横山党の小野氏と宇都宮系の八田氏が繋がったということである。


下記のページに興味深い記事が載っていた。
https://senjp.com/yokoyama/

1113年3月4日、横山隆兼(山口隆兼)の頃とされていますが、横山党の20余人が、相模国愛甲庄を統治していた愛甲内記平大夫を殺害した事により、朝廷より討伐の宣旨が、相模・常陸・上野・下総・上総五カ国の国司に出され、秩父重綱(秩父権守重綱)、三浦為次(三浦平太為次)、鎌倉景政(鎌倉権五郎景政)ら中央政府軍より横山党は討伐を受ける。しかし、横山党は3年間も抵抗

そして、横山隆兼は源為義の被官でもあり、その保護の下に危機を脱し、愛甲氏は横山党に降伏。横山季隆が愛甲庄に入って愛甲三郎と名乗った。原因は横山庄(舟木田荘)をめぐる主権争いとされています。

横山隆兼はさらに相模の海老名波多野氏に娘を嫁がせ、相模国へ横山党が本格的に進出。
また別の娘は秩父平氏・秩父重弘の妻となり、のち有力御家人となった畠山重能小山田有重を産む。
末娘は鎌倉党の梶原景時の母。
さらに二人の孫娘は三浦一族の和田義盛と、高座の渋谷高重の妻となり、姻戚関係を結ぶことにより、槙山党一族は勢力の拡大を図りました。

1156年保元の乱では、源義朝軍として横山党から中条新五、中条新六、成田太郎成綱、箱田次郎、新田次郎、河上三郎、別府行雄、奈良三郎、玉井資重、藍原太郎、海老名源八季貞、波多野小次郎義通が出陣しています。

上記の情報に下記の情報をプラスしてみる。

「源義朝と結婚した修理大夫中原範兼の娘には、波多野義通と結婚した姉があった。」

さらに、


 若狭国遠敷郡 九箇所の地頭、とある。

右衛門尉⇒左衛門尉⇒出羽守


気になる「中条家長」情報でした。




「矢部氏」を探ってみると、

2018-02-25 08:32:20 | 富木氏周辺
矢部氏を探ってみると、三浦氏一族であることがわかった。
集めた情報をここにメモしておこうと思う。
様々な説があるようで、一定してはいない。

矢部郷は現在の横浜市戸塚区の中心部にあたる矢部町・上矢部町周辺に比定され、古くは鎌倉郡山内荘に属していた。
矢部郷の地頭矢部為行(谷部太郎)の名が残っている。

相模国三浦郡矢部郷(現神奈川県横須賀市大矢部・小矢部)

桓武平氏・三浦氏流の津久井義行の子・為行が、三浦郡矢部郷を領して矢部氏を呼称。鎌倉時代のこと。

三浦義行…〔(牧野)という記載のある系図もある。〕の長男、
  武蔵矢部太郎為行
  叔父三浦大介義明の命によって北相模鎮護のため、
  長竹村の宝ヶ峰(城山)に築城し、
  当地を始めたと伝えられ、
  北相の津久井郡の名はこれに起因すると言う伝承もあります。

この義明の十男が「佐原義連」であり、義連の姉か妹に源義朝側室がおり、また義連の息に盛連がいる。

その盛連はコトバンクによると「?-1233 鎌倉時代の武士。
三浦義連の子。母は武田信光の娘。悪遠江守(あくとおとうみのかみ)とよばれる。嘉禄(かろく)2年京都で酒によって乱暴をはたらき,天福元年5月悪事犯として幕府に殺された。6人の子は三浦氏の乱で幕府方にくわわった。」とある。(一説に波多野小三郎義道の娘ともある)。

この人の息 佐原時連(=新宮時連)真野次郎左衛門尉・新宮氏祖
?-? 鎌倉時代の武士。
佐原盛連の6男。三浦氏の乱(1247)では三浦一族でありながら執権北条時頼方にくわわる。左衛門尉。康元元年時頼の出家にともない出家。通称は遠江(とおとうみ)六郎。法名は観蓮。

wikipediaによると【矢部禅尼】にココに関連する事が載っている。(重要!)もともとは「北条泰時」北条の正室である。

三浦氏佐原流の佐原盛連に再嫁して三子(蘆名光盛・加納(三浦)盛時・新宮時連)を産み、夫・盛連の死後は三浦矢部郷に帰って出家し、法名禅阿、矢部禅尼と称した。嘉禎3年(1237年)6月、幕府から矢部禅尼に和泉国吉井郷が与えられ、孫の時頼が三浦矢部郷まで下文を届ける使いをしている。北条氏との対立によって三浦一族が滅亡した宝治元年(1247年)の宝治合戦では、矢部禅尼の子達は北条氏側として戦い、盛時は後に三浦姓を名乗って三浦家を再興している。

~~~*~~~
次に地図を見ていこうと思う。


ちょっと拝借いたします。↑↓


この地図の津久井の海側は「久里浜」なのである。

関係がありそうで、気になっている。
この「久里浜」の「久里」を近江八幡の地頭となった際にたまたま条里制の「九里」に城を構えたために「九里」と漢字を替えた・・・とか。
「久里」と書かれているものも残っていることもあり、気になるところである。

しかし、山の中にも「津久井」があり、「矢部」もあるので、注意が必要のようである。








友枝孫二郎宗高と一族一二人が、因幡国富木郷・日置郷地頭職を足利直冬から宛行

2018-02-25 08:28:53 | 富木氏周辺

私が追い求めている「富木中太蓮忍」とは時代が違うと思うが、因幡国富木郷に関する記載を見つけた。

友枝孫二郎宗高と一族一二人が、因幡国富木郷・日置郷地頭職を足利直冬から宛行…(アデアック みやこ町 文化遺産より)

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/4062555100/4062555100200040?hid=ht040240

そして、その一族の十二人に、矢部氏が絡んでくる。
「暦応3年(1340年)には矢部綸綱による因幡国千土師郷の押領が確認されるほか、法美郡富木郷にも所領があった。」とwikipediaにあったが、

「友枝宗高ら一族に矢部平次左衛門尉常忍申伏」鳥取県の地名(平凡社 googlebooks)(法華経寺所蔵双紙要文紙背文會)

これらは、いったい何を意味するのだろうか?

これから探っていきたい。