http://www.digistats.net/clan/na/nakajou.htm
横山党の中条義勝の妹で源 頼朝の乳母であった近衛局は宇都宮氏の流れを汲む八田知家の妻(あるいは母親)となっていた。…とあり、さらにこの縁で義勝の子が八田氏を継ぐことになる。…という説もある。http://www.digistats.net/clan/na/nakajou.htm
八田局が近衛院にいたことと、近衛局という人が頼朝乳母であり=八田知家の妻(あるいは母親)も近衛院で働いていたこと、符合しているが…
朝日日本歴史人物事典の解説
中条家長
没年:嘉禎2.8.25(1236.9.26)
生年:永万1(1165)
鎌倉前期の武将。武蔵七党のひとつ横山党の小野義勝(法橋成尋)の子で,藤原道兼の子孫である有力御家人八田知家の養子となる。武蔵国埼玉郡中条保を本拠として,中条氏を称した。右馬允,右衛門尉を経て,貞応2(1223)年従五位下出羽守に至る。治承・寿永の内乱では,源範頼に従い一の谷の戦(1184)に加わり,その後豊後国に転戦。文治5(1189)年奥州藤原氏の追討に参加。源頼朝以下藤原頼経まで歴代の将軍に近侍して,鎌倉幕府宿老として重きをなした。また評定衆創設(1225)以来その職に任ぜられ,幕政に参画した。<参考文献>八代国治『武蔵武士』
横山党の小野氏と宇都宮系の八田氏が繋がったということである。
下記のページに興味深い記事が載っていた。
https://senjp.com/yokoyama/
1113年3月4日、横山隆兼(山口隆兼)の頃とされていますが、横山党の20余人が、相模国愛甲庄を統治していた愛甲内記平大夫を殺害した事により、朝廷より討伐の宣旨が、相模・常陸・上野・下総・上総五カ国の国司に出され、秩父重綱(秩父権守重綱)、三浦為次(三浦平太為次)、鎌倉景政(鎌倉権五郎景政)ら中央政府軍より横山党は討伐を受ける。しかし、横山党は3年間も抵抗。
そして、横山隆兼は源為義の被官でもあり、その保護の下に危機を脱し、愛甲氏は横山党に降伏。横山季隆が愛甲庄に入って愛甲三郎と名乗った。原因は横山庄(舟木田荘)をめぐる主権争いとされています。
横山隆兼はさらに相模の海老名・波多野氏に娘を嫁がせ、相模国へ横山党が本格的に進出。
また別の娘は秩父平氏・秩父重弘の妻となり、のち有力御家人となった畠山重能・小山田有重を産む。
末娘は鎌倉党の梶原景時の母。
さらに二人の孫娘は三浦一族の和田義盛と、高座の渋谷高重の妻となり、姻戚関係を結ぶことにより、槙山党一族は勢力の拡大を図りました。
1156年保元の乱では、源義朝軍として横山党から中条新五、中条新六、成田太郎成綱、箱田次郎、新田次郎、河上三郎、別府行雄、奈良三郎、玉井資重、藍原太郎、海老名源八季貞、波多野小次郎義通が出陣しています。
上記の情報に下記の情報をプラスしてみる。
「源義朝と結婚した修理大夫中原範兼の娘には、波多野義通と結婚した姉があった。」
さらに、
若狭国遠敷郡 九箇所の地頭、とある。
右衛門尉⇒左衛門尉⇒出羽守
気になる「中条家長」情報でした。