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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

出直しヴァージョン 鎌倉時代  中原景経から再考してみる (2) 寛喜三年 鐘 銘

2024-07-07 | 九里【只今の状況・まとめ】


銘は、こちらの鐘に付いていたものと思い込んでいた。
この鐘には「仲原(中原)景経」の銘は無く、名前の記載があったのは、文永五年の鐘であった。😱 


まずは、此処から始める。
ここから分かることは、富永庄の奉行人として「仲原景経」がいたこと。
比叡山延暦寺東塔が願主となり新日吉の神社に鐘を造ったということ。

・・・・・

上記の景経の甥が九里の祖 経久=蓮忍入道=九里太郎なのだが、
「経久」であり且つ「蓮忍」という人物は、めったにはいないと思う。
年代が変わった事で当てはまらなくなる事、
また、新たな可能性は何かを考えようと思う。


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九里の和歌山系図より 小堀氏系図 と 日野俊基の家司後藤助光か?と思われる「小堀助光」

2024-03-25 | 日野氏
九里の和歌山系図の助光が日野俊基の家司?であった後藤助光(太平記)と同時代のようなので、気になっている。1200年後半から1300年前半位生まれの人物であろうと思う。

この系図は和歌山から出てきたものだそうで、途中からしか入手できていない。 ↓

お心当たりの方がいらっしゃいましたら、是非お教えいただきたく思っております。


途中からは近江国御家人井口中原系図と同じキーワードが出てくるため、繋がっていると思われるのだが、名前の通字は違っている。

前半部分が明らかになることで、小堀九里につながる中原藤原秀郷流ということが、証明されるかもしれない。








さて、小堀助光と後藤助光は同一人物かどうか…
また、後藤助光なる人物は実在であったのだろうか?

日野俊基とは、調べてみると俊基の7代前の日野実光から資憲・資長と分かれている資憲の流れであった。




*****

日野家と九里氏(小堀氏)のつながりで、考えられる点をいくつか挙げてみようと思う。

貴光女(吉光女)の母が源朝長と同母で、義朝の妻であった。つまり貴光女の母は中原久経の母でもある。久経は親鸞の叔父になる。(西山深草氏の説)

繋がりは、日野家の親鸞から始まっているのではないだろうか?

近江国の中原の経久の叔父にあたる中原景経が1244年広橋経光(勘解由小路 経光 )に判官にと推挙されている。結果はわからない。
その時、景経は近江国伊香郡の富永庄の召次勾当であった。


日野家は【珠洲】に若山庄を持っていた。
(現在地震で大変なことになっている。心よりお見舞い申し上げます。)

若山荘とはどのような荘園だったのだろうか。


《 能登国珠洲郡にあった能登最大の荘園で、現在の珠洲市西部から能登町の旧内浦町地区全体まで広がっていました。
若山荘は、平安時代末期の康治2(1143)年、能登守・源俊兼の子・季兼(すえかね)が領家職を確保しながら土地の保護を求め、皇太后宮藤原聖子(皇嘉門院〈こうかもんいん〉)を本家と仰いで寄進し、成立したとされています。

承久3(1221)年の「能登国田数目録」には、公田数500町(1町は約1ヘクタール)との記録があり、国内の荘園・国領の中でも最大規模を誇っていたと考えられています。

本家職は皇嘉門院から九条家、領家職は日野家へと伝えられ、地元の武士である打波家や本庄家、松波家が荘園の経営を担いました。当時、園内で盛んに焼かれた珠洲焼は、富山湾を経由して日本海沿岸の東北地方まで広く流通していました。》(コトバンクより)

この松波氏と共に被官と成っていたのが、九里氏(九能利とかかれている)だったのである。
この松波氏は藤原秀郷流波多野氏の末裔とも言われている。



上記から省略 ↓

【若山荘は、日野兼光からその子・日野資実(すけざね)へと伝領され、能登最大の荘園である若山荘は、日野家領となっていく。日野資宣 の名もある。

松波氏・久能利(くのり)氏・山方(やまがた)氏の諸氏についても、本庄氏と同様、荘園領主の日野氏と結んでいた。 】



日野氏と中原氏・藤原秀郷流氏・大江氏とはつながりがあるようで、その後も九里との縁も続くのである。

足利義澄の正室が日野阿子で、日野冨子の姪であった。
俊基とはまた別の系ではあるが、足利義澄が最後に九里氏を頼って水茎岡山城にやってきた背景に、日野氏とのつながりもあったのではないだろうか?

全く知らない一族の許に逃げ込むとは考えられず、困った状況とはいえ、なんらかの繋がりがあったから…と思うのである。









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伊香郡の丹生神社  息長丹生真人

2023-06-02 | 井口氏 バラバラ情報

中原・井口氏の開発領地となる以前のことである。

伊香郡には丹生氏・物部氏がいたのではないかと思われる節がある。

中原景経が勾当としていた富永庄の近くも流れている『高時川』の上流は『丹生川』という名称のようだ。

伊香郡の丹生を「上丹生・下丹生・管並・田戸・小原・鷲見・針川・甲並・尾羽梨,以上九村を丹生郷と云,余湖の庄の内なり」

http://kamnavi.jp/ny/yogokami.htm

この伊香郡の丹生は、ずっと前に調べた「オコナイ」に関係するのではないかと思い調べると、

本当に関係がありそうである。(丹生氏は息長氏の一族だそうだ。)

オコナイの様子 ↓

https://chekipon.com/archives/5263

http://www.mfutamura.com/sub84.htm

https://www.sugatani.co.jp/blog/?p=2288

 

 

丹生神社と丹生氏の研究: 伊都国王の盛衰と丹生氏の出自についての一考察(丹生広良著)より

丹生と関係する土地 遠敷もそうである。(長田氏)

桓武平氏長田氏族の丹生氏。関係神社、遠敷郡、若狭比古神社二座若狭国遠敷郡人丹生弘吉云々、勅して位三階を叙す。太良荘の開発領主丹生二郎隆清(恒枝保も) その父は下野守師季

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/a615a7544cb84088d6a832870aa44b33

http://amanokuni.blue.coocan.jp/hani.htm

 

 

 

稚淳毛二俣王

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%9A%E9%87%8E%E6%AF%9B%E4%BA%8C%E6%B4%BE%E7%9A%87%E5%AD%90

 

http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%8B%A5%E9%87%8E%E6%AF%9B%E4%BA%8C%E4%BF%A3%E7%8E%8B%E6%97%A7%E8%B7%A1

 

息長丹生大国

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%AF%E9%95%B7%E4%B8%B9%E7%94%9F%E5%A4%A7%E5%9B%BD

 

息長丹生文継

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%AF%E9%95%B7%E4%B8%B9%E7%94%9F%E6%96%87%E7%B6%99

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中原橘次経任の「橘氏」を考える(1)  藻原 と 阿智村 浪合 を繋ぐ線

2021-01-30 | 九里【只今の状況・まとめ】

昨日の記事で「経任は橘次となっており、予想では「三崎庄【橘樹荘】」と関係ができたためと思われ、佐竹義政の婿となった「片岡経春」の弟分として入ったのではないかと思われる。」と書いた。
が、片岡という地名が鹿嶋神社にあった事と、藻原に橘樹神社(橘木神社)があった事等もどこか関係しているはずである。
この周辺は再考しよう‥‥と思う。



まずこの系図では賢清=中原久経と思われる。
中原信房が道賢という法名であったが、この『賢清』も法名であった可能性もある。
久経…源義朝の妻であった藤原氏秀郷流波多野義通の妹が母である。(源朝長を産んでいる。義朝と別れた後に中原某の妻となっている。そして久経を産む。)

この系図では景経=政経=政恒法師と思われる。
政経…一条家の家司。1199年に三左衛門事件の三人の首謀者の一人として捕らえられる。が、後は釈放されたようである。近江国伊香郡に逼塞していたようである。)この系図では景経かその周辺の人物と思われる。景経と同時期に同じく近江国伊香郡にいた。

関東御家人として「近江国伊香郡 召次案主職 政恒法師」が突如1246年に文書に登場する。
まさに同じ時期、中原景経が近江国伊香郡富永庄の召次勾当になっていたことがわかっている。親子かもしれない?
景経は判官と成れるように勘解由長官藤原経光に後ろ盾となってもらっている。(1244年)

経任…橘次であり系図の註に「改橘氏」とある。
この人が、今日の主人公である。

経任の「橘氏」 どこの橘氏とつながったのか。そこを考えたい。
①藤原巨勢麻呂の息黒麻呂の妻の系との関係の橘諸兄から続く橘氏
②藻原の橘樹神社 常忍の文書に藻原に戻り‥‥というような表現があったためだ。(未確認だが、日蓮宗の関係文書であったと思う)
③片岡氏が三崎庄(橘庄)の地頭として活躍している時代に、養子として入った。(上総海上氏の片岡氏)橘庄の地頭であったため橘氏を名乗っていたかもしれない。
④橘直幹の裔の橘氏




橘樹(橘木)神社 橘木庄(安楽寿院領・茂原市) 

https://jinjamemo.com/archives/post-14337.html#toc8

弟橘姫命との関連で氏とは関係のない「橘」なのかもしれない。

しかし、この藻原という土地は藤原巨勢麻呂の息黒麻呂が開拓した土地(牧)で有る。
其の妻の一人は「県犬養氏」であり、橘氏と関係が深い。
元明天皇から橘氏を賜った県犬養三千代や、県犬養広刀自(聖武天皇の夫人)がその一族から出ている。

県犬養三千代は、はじめ美努王に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為)・牟漏女王を生んで、其の後、藤原不比等に嫁いでいる。

藤原黒麻呂は同時代に二人いて、巨勢麻呂の長男も黒麻呂、乙麻呂の長男も黒麻呂であった。乙麻呂とは巨勢麻呂の兄である。
込み入っているので略して書くが、その息たち両黒麻呂の妻は、其々橘氏関係であったのだ。 
巨勢麻呂の息の黒麻呂は県犬養氏・乙麻呂の息の方の黒麻呂(是公)の妻は橘佐為の娘であった。
前出しているように其の橘佐為の母親が縣犬養三千代なのだ。
藤原黒麻呂(巨勢麻呂の息の方)の息春継の母が縣犬養氏である。

春継の系が常陸大目坂上盛という人物の娘を妻にもらい、しっかりと土着したようなのである。
藤原春継の孫が菅根、その菅根の息に元方がおり、やはり妻が『橘良殖の娘』である。
元方と橘良殖の娘から生まれたのが藤原 陳忠(ふじわら の のぶただ)で、神坂峠に近い長野県阿智村園原と関係がある。

この地名は聞いたばかりで、阿知村に浪合があったではないか!!!
ここで、原氏(千葉氏一流の)とのつながりがわかった。このようなピンポイントでの偶然はないと思う。


【藤原陳忠】に関しては、とても面白い話がwikipediaに紹介されていたので、そのままここに貼っておく。

今昔物語集 巻28
「信濃守藤原陳忠落入御坂語 第三十八」

信濃守の任期を終え京へ帰還する陳忠は、信濃・美濃国境の神坂峠を過ぎるとき、乗っている馬が橋を踏み外し、馬ごと深い谷へ転落した。随行者たちが谷を見下ろすと、とても生存しているようには思われなかった。しかし、谷底から陳忠の「かごに縄をつけて降ろせ」との声が聞こえ、かごを降ろし、引き上げてみるとかごには陳忠ではなくヒラタケが満載されていた。再度かごを降ろし、引き上げると今度こそ陳忠がかごに乗っていたが、片手に一杯のヒラタケを掴んでいる。随行者たちが安心し、かつ呆れていると、陳忠は「転落途中に木に引っかかってみれば、すぐそばにヒラタケがたくさん生えているではないか。宝の山に入って手ぶらで出てくるのは悔やみきれない。『受領は倒るるところに土をもつかめ』と言うではないか。」と言い放った。

浪合のことや周辺を書いた記事 ↓
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/bd935e99c1e3f50fbae745bf4c7e4e8b

この藤原家が原氏とどこかで通じていているはずである。
婚姻関係かも知れないが、これからその接点を調べていきたい。

藤原氏と原氏、共に【阿智村・浪合】に関係している。

===*===

藻原という地にある神社も、藤原黒麻呂(巨勢麻呂の息)が創建したのだろうか?
もしもそうならば、藻原の神社と原氏とも関係しているのかもしれない。

寛平(かんぴょう)二年(八九〇)八月の藤原菅根
以下に施入に始まる藻原庄(もばらのしょう)(興福寺領・茂原市)以下、橘木庄(安楽寿院領・茂原市)、玉崎庄(上西門院領・一宮町)、千田庄(皇嘉門院領・多古町)などを除いては、鎌倉以降の中世的荘園とされている。事実、『吾妻鏡』の文治二年(一一八六)三月十二日条に、下総国内の荘園として一四庄が記されているが、九十九里沿岸では三崎庄(銚子市・海上町・飯岡町)と匝瑳南庄(八日市場市・光町・野栄町)の二庄のみで、臨海低地の本格的開発は中世後期以降であるものと考えられる。


===*===

これ以下は片岡氏に関係する橘庄のことである。

〔関東下知状写〕橘庄〈号東庄〉粟野郷内田肆拾□三崎庄〈号海上庄〉本庄内田陸拾町、浜〈長塚〉地頭職事、右任亡父左衛門尉平盛胤〈正安元年七月日〉連券状〈任此状□□一期之後可配分之由載之〉幷同自筆状、守先例可令領掌之状、依仰下知状如件、・・・

===*===

④の橘直幹も橘佐為からの系と成る。













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中原久経が 景経 と 経任 の父と仮定。

2020-11-24 | 中原氏バラバラ情報


中原久経、この1192年を境に政所の文書には名前は見当たらない。
1185年に九州にまでも近藤国平とともに廻っている久経。

源義朝の息朝長のあとに、その母(=波多野氏・源朝長は松田殿ともよばれていた)が中原氏に再嫁して設けた子と言われていることから、生まれたのは1145年位ではないだろうか? ちなみに中原親能も母は波多野氏であり、1143年生まれである。もしかすると異母兄弟かもしれないとも思う。
父は中原広季・母は波多野氏の従姉妹という事も考えられる。(広季は、親能の養父・久経の実父かもしれない!)
久経の母は波多野義通の娘・親能は波多野経家の娘である。
大江広元も中原広季が養父となっている。

散位久経、と書かれているので、1192年にはもう職には就いていなかったのかもしれない。
久経、1145年に生まれていれば、1185年40歳。1192年47歳。

そして、1170年あたりに景経、経任が生まれたとすると、景経が74歳で判官になった事となり、ちょっと苦しいかもしれない。
1175年あたりに景経は生まれたか?

さらに、久経の孫と思われる経久が1190年に生まれ、常忍は1216年に生まれたのではないだろうか?(甥で姉の息かもしれない。)
常忍の母が1185年生まれであることはわかっているので、だいたいあっているかもしれない。


勿論もっと早くに結婚し、子をもうけていた可能性も大であるが、始まりは久経が生まれた1145年以降と限定してみた。
中原久経の息たち三人兄弟で、景経政経・橘に養子に入った経任、だったのではないだろうか?
三左衛門事件は1199年。

その頃、政経は25歳あたり、と考えると、景経・経任の兄弟か、もしくは景経と同一人物か?となりそうである。
というのも、景経1244年に判官となり、1246年関東御家人として 近江国伊香郡 召次案主職 政恒法師が登場する。
これは、景経の事のように思われるのである。
景経、近江国伊香郡富永庄の召次案主であったこと。
判官として推薦してくれたのが広橋経光であり、その妻は妻は「藤原親実の娘」であった。


藤原親実とは、(コトバンクより)

生年:生没年不詳
鎌倉前期の幕府吏僚。明経道の中原忠順の子。評定衆中原師員の叔父。仁治2(1241)年の安芸厳島社神官等申状は,親実が70歳を超えていたことを記す。摂家将軍藤原頼経に仕えた諸大夫で,将軍御所の儀礼や祭祀などの奉行を務めた。確認できる官職は,周防守。文暦2(1235)年,厳島社造営の人事として,周防守護から安芸守護に転任,厳島神社の神主に任ぜられた。寛元2(1244)年には上洛して,六波羅評定衆となる。その後,周防守護に戻り,寛元3年から建長3(1251)年までの在職がみとめられる。建長5年の法勝寺阿弥陀堂供養では,在京人として西二階門を警固した。<参考文献>佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』,森幸夫「六波羅評定衆考」(小川信古稀記念論集『日本中世政治社会研究』)

親実と景経は、ほぼ同じ年代であったと思える。その義理の父よりの頼みがあって、広橋経光も動いたのかもしれない。
経光32歳の時である。(中原景経を判官として推してくれた時)



久経ー政経・景経・経任
経任ー経久ー常忍 

ではないだろうか?


===*===

いっぽう、越前の気比寺院者の神人であった中原政康は1214年に「「気比大菩薩神奴」(気比神人)を兼ねた養父の跡を継いですでに四〇年も当郡に居住している」と書いている。
養父は、妻の父ではなく、やはり養子先の父親ではないだろうか?
とすると、この時(1214年)にだいたい50歳とすると、1164年あたりに生まれた人物と成る。
または、1214年に60歳あたりと成ると、1154年あたり。 

つまり、中原政康と中原政経は、兄弟ではなく、どちらかというと親子ぐらい年が離れていると思われるのだ。

中原政康は日吉神社の神人であったことがわかっている。

伊香郡の高月にある日吉神社の神人の関係とみることもでき、、やはり中原景経周辺の人物なのではないかと思う。

さらに、経任が橘次となっていることも、もしかすると政康と関係しているような気もしている。








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越前國一之宮 氣比神宮 中原政康・中原政経・景経(2)政経の追放 そして政恒法師

2020-11-20 | 中原氏バラバラ情報

三左衛門事件で追放となった中原政経はその後どのようにしていたのか私にはまだ情報はない。
しかし突如1246年 関東御家人として 近江国伊香郡 召次案主職 政恒法師が登場する。
どこにも中原氏とは書かれていない。が、中原景経が近江国伊香郡富永庄の召次勾当になっていたことがわかっている。ならば、伊香郡の召次の統轄役ともいえる召次案主職になっている可能性もあるのではないだろうか?

そのあたりを、探していると網野氏の論説に、ピンポイントで政恒法師が登場していた。
時代は遡って平安の前期から中期あたりと思うが、院召次勾当成行(中原成行)そして「久則」という名が出てくる。
秦久則、のこと。と出ているが、そうではなく「くのり」かも知れない。
他に秦久弘が出てくるので、分が悪いのだが…

「秦氏」でもなく、唐突に名前を「久則申す」と左大弁宰相平成俊奏事目録の文書に書くだろうか。
これは苗字なのではないだろうか?
久則は召次を統轄していた人物とある。


<論説>中世前期の「」と給免田 : 召次・雑色・駕輿丁を中心に
網野善彦 著

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238269/1/shirin_059_1_1.pdf

この論説により、政恒法師の周囲の状況も少々だが、わかってくる。
42頁。

===*===

追放された中原政経が政恒法師であるならば、御家人として復帰していたことになる。
その御家人としての時代に中原経任・経久も関東にいたのだと思うのだ。

===*===

いっぽうの越前国の「中原政康」の方は、中原政経よりも一世代前と思われる。越前に居住してから40年とあるので、1214年にはもう、50歳60歳くらいだったのではないだろうか。

川崎町の歴史より
http://www1.rcn.ne.jp/~nonami/kawasaki/rekisi.htm

1214、(建保2)中原政康。「この人は建保2年、守護から御家人役である内裏大番役を催促され、自分は神事を営む身で『兵つわもの』の氏ではなく、その器量ではないとして、これを拒否している。神人が官位をもつ侍身分の人だったことはすでに明らかにされているが、廻船人あるいは海商であったとみられる政康が、このように御家人と比肩しうる人物だった事実は/政康が自ら憚るところなく、むしろ誇りをもって、『気比大菩薩神奴』といっていることに注意しなくてはならない。/神の『奴』と名乗ることは、平民と異なる聖別された存在であることの強調であり、実態としても、神人は特権――政康の場合はおそらく海上交通を妨げなく行いうる特権を保証された、侍身分の人だったのである。/そしてこの中原政康のような気比社の神人は、本社の所在する敦賀郡、それに丹生郡の浦々をはじめ、能登、越中の名古浦(放生津付近)越後の曾平、佐渡などの諸国に分布しており、能登・佐渡の神人は丸蚫、和布等を、越中・越後の神人は鮭を気比の神に進めていた。/気比神人が廻船人・海商として活動していたことは、はるか後年のことではあるが、気比社に毎年の神事料を納め、気比神人の後身とみられる敦賀の道川どうのかわ氏が川舟座の中心として、日本海を舞台とする広域的な海上交通、交易に従事している事実からも、十分に推測することができる。そしてこの時期の気比神人の動きは、それ自体、山門・日吉社の影響下にあったのである。」(網野善彦、『海と列島文化』第1巻)

web情報では、
http://yoshi-bay.com/publics/index/113/
「715年(霊亀元年) 近江守藤原武智麻呂は比叡山で氣比神と出会う。」

『古事談』二九、叡山中堂建立に蠣殻出現の事、とあり、気比が此の比叡山と関係があったことを示しているようなのである。


図説福井県史目次
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/indexzu.htm

===*===

もう一つ、論文を見つけたので、更にご紹介しよう。中原成行が登場している!

国立歴史民俗博物館研究報告第92集2002年2月 [都鄙のあいなか]ー 鋤柄俊夫 著
file:///C:/Users/mamo/AppData/Local/Temp/kenkyuhokoku_092_08.pdf


そんな中、網野善彦氏が述べているように、一O世紀後葉までに山門が若狭に荘園を形成して以降、北陸道の諸国には多くの山門と日吉社領の荘園が設けられ、また加賀の白山社、越前の気比社をその末社とし、出羽以北についてもその末社や末寺が分布することからも、山門と日吉社は、北東日本海域に対して強い影響力を及ぼしていたと考えられている。そしてその実際の運営を担ったのが近江国愛知郡司も兼ねた中原成行などに代表される日吉神人であった。かれらは大津を中心に右方と左方に分かれて十二世紀前半から鎌倉期まで「北陸道神人」と呼ばれた巨大な組織を形成して北陸道諸国に分布し、出挙・借上の活動に従事して、ひろく日本海の廻船人として活躍し、あるいは日吉神人であると同時に気比の神人でもあった中原政康のように、敦賀に居住して和布・丸抱・鮭などを貢納していたとされる。

とあり、中原と日吉神社のつながりが近江国から越前敦賀にまでおよんで、更に越中、能登、等にも広がっていたと思われるのである。

ダイナミックで、あの紫式部が父と見た様子のようである。

https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/A17/A171.htm
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/A17/A172.htm
http://kakitutei.web.fc2.com/murasaki/etizen/index.html


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越前國一之宮 氣比神宮と中原政康 その政康と中原政経 さらに中原景経

2020-11-19 | 中原氏バラバラ情報

以前記事にしたことのある「中原政康」だが、三左衛門事件の「中原政経」の兄弟かもしれない。政経が政恒法師となって近江国伊香郡に帰っていたとして再考してみた。

広橋経光をもって、勘解由判官になれるよう請願していたのが、中原景経であり、富永庄の召次勾当であった。(1244年)


一方、中原政経と思われる「政恒法師」は以下の書状をもらっているようである。
重時朝臣使者(重家・淳賢)を送り、近江の国伊香郡召次案主職の事、政恒法師関東家人たるに依ってこれを執り申す。早く奏すべきの由返答しをはんぬ。十四日事の由を申し、院宣を遣わしをはんぬ。
1246年 寛元4年 9月8日 癸亥 [葉黄記]

景経が歿した後なのかもしれない。伊香郡召次案主職。

中原政康は敦賀にいた人物で、以下のようにある。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E6%94%BF%E6%81%92%E6%B3%95%E5%B8%AB

https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-0a1-02-02-03-05.htm

神人が大番役を守護から催促されることもあった。建保二年四月二十五日、中原政康は解状を守護所に進め、自分は先祖以来「兵の氏」ではなく「弓箭の道」を永く絶っており、敦賀郡に居住して日吉神人であるとともに、「気比大菩薩神奴」(気比神人)を兼ねた養父の跡を継いですでに四〇年も当郡に居住しているが、大番役を勤めたことはないと強調し、所労が滅気しない状況でもあるので催促を止めてほしいと訴えている(同一〇号)。



写真16 中原政康解(醍醐寺文書)


http://historia.justhpbs.jp/giryoujin.html

この三人に注目し、伊香郡と敦賀気比神宮にもつながりを求めてみたい。
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宮部金吾 宮部鼎蔵 宮部継潤 は 一族なのだろうか?

2020-10-10 | 雑記

私の好きな北海道にゆかりの人物の一人、宮部金吾氏!
江戸時代後期、宮部金吾の家と松浦武四郎と家が近く、金吾の父は武四郎と昵懇の間柄であり、金吾はまだ少年の頃から武四郎の描いた蝦夷漫画絵を見せてもらっていたそうである。そこから北海道や北方の植物に目覚めていくのである。

そんな金吾は北海道大学(その頃は札幌農学校)にやって来て、新渡戸稲造・内村鑑三と親しくなり、その三人の潤滑油みたいな役をしていたそうだ。

宮部金吾と宮部鼎蔵 宮部継潤が一族かどうかはわからなかったのだけれど、武士家伝 宮部氏によると「近江国中原井口氏」で、九里氏と同じ祖であることがわかった。

九里経久の父経任の兄が景経(余呉・富永庄勾当)で、その息三人が源経・仲経・経全。仲経の曾孫が員経である。
つまり、源経・仲経・経全は経久と従兄弟となる。











私は札幌の桑園という場所に住んでいたので、小さな時分によく植物園に行って遊んでいた。
そこには本物の子熊も孔雀も飼育されていて、不思議なところだった。

エゾリス、四季折々の花々にも出会う頃のできる素敵な場所でもあり、建物も西洋風で外国に来たみたい~といつも思っていた。
その西洋風建築のひとつが、【宮部金吾記念館】である。

内部には、細かに描かれた植物画や手紙もある日常とは違う気分になる場所でもあった。

博物館本館の方はもっと素敵な建物なのだが、はく製がたくさんあり、怖ろしく且つ匂いも気になったような記憶がある。現在は知らないのだが…
https://gipsypapa.exblog.jp/17943567/

11月3日まで開園。其の後は冬季休業に入る。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E9%83%A8%E9%87%91%E5%90%BE%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8



もう一人同期で広井勇がいる。
当時とてもケチだったと言われたそうだが、アメリカに自費で行くためのお金を貯めていたそうである。偉い!
叔父が「片岡利和」だそうである。
この片岡氏は、家紋は揚羽蝶で、桓武平氏を名乗る。片岡氏は土佐国高吾北地方の有力な国人領主であった。
上野国片岡郷を源とし、室町時代に片岡直綱が土佐に下向したと伝えられている。
私がいままで記事に取り上げていた片岡氏のことである。

https://www.hiroi-isami.com/%E5%BB%A3%E4%BA%95%E5%8B%87%E3%81%AE%E5%8A%9F%E7%B8%BE/%EF%BC%93-%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E8%BE%B2%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%B8%E5%85%A5%E5%AD%A6/

さらに、新渡戸稲造は太田の叔父の家の養子となっていた。
その太田氏とは…富木常忍の義兄弟であった乗明の太田氏だろうか?

繋がっている。時をも越えて!

素敵な明治・大正・昭和時代の建物のブログを見つけた!
札幌の古き良き時代の家屋も載っている。
冬のことを考えると住むのは大変そうなのだが、いいなぁ~~と憧れている。

https://gipsypapa.exblog.jp/17891543/





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《天児屋根尊》の祖父神である【津速産霊神】。その系の中に 伊香連 がいる。

2020-05-18 | 古代からのつながり


大倉精神文化研究所の「古語拾遺」では、津速産霊神の曾孫が天児屋根尊となっているそうで、
「古語拾遺」とは、忌部氏の文書だそうです。

伊賀津臣命は 異称、伊香津臣命 という。

http://engishiki.org/oumi/bun/oum221145-01.html

天川命神社 近江国 伊香郡鎮座(富永庄のあったあたりと思う。)

https://trakl.exblog.jp/18206088/

===*===




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菅原道真 羽衣伝説と関係? 菅山寺 阿闍梨尊元

2020-04-06 | 雑記

近江史を歩く さんのHPより
http://biwap.raindrop.jp/details1015.html

この「菅原是善卿」という人名に覚えがあった。

【九里久里久利一族】という本があり、そこに出てた「是善」そしてその兄「善主」



この「是善」の兄の系に久利氏が…
遠い話かと思っていたが、伊香郡とつながっているとは。(伝承を信じると…)

http://kanzanji.jpn.org/blog/category/%E3%81%94%E5%A0%B1%E5%91%8A

今、猛烈にココによばれているような気が。
目標! ここに行ってみる!!

さらに調べているうちに「鐘仲原景経」が出てきた。
この人物は九里の祖「中原経任」の兄。この兄の鐘が建治三年となると、大変。
今まで思っていた年代が崩れ、考え直さなくてはならない。
ただ、他の資料には「建治三年丁廿五月八日 一山衆徒 大工左馬允丹治国則」となっている。
そこに仲原氏の名はない。



鐘を鎮める祭祀と関係のある「中原景経」。
富永庄のみではなく、伊香郡余呉庄にも関係があったようである。

以前書いた記事に鐘を鎮める祭祀と井ノ口氏・賀茂氏のことも絡めて書いたものがある。
もう一度思い出してみようと思う。
年代が‥‥1264年…1246年と思い違いしていた…大変!
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/934a96f756ad435e0f1a57de3761d9a8



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