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九里氏と永田氏

2017-10-30 09:35:33 | 九里氏と永田氏
若狭国を調べていて、意外な人物に出会った。
それが、前回に登場した【永田時信】である。

「平師季の孫が【永田太郎】=【平時信】で、東氏の祖ともいわれているそうだ。」これは網野善彦氏の著作集にあったと思うのだが、どうしてなのか、今まで借りることができたこの著作集がどうも貸し出し禁止…閲覧のみになってしまったようで、検索できるリストに出てこない。(札幌図書館)どうして? とても悲しい。


若狭国の【太良荘】に関する記述を見てみよう。http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-2-01-04-01-01.htm

都の貴族であった平師季遠敷郡長田の地で得た所領は、仁平元年(一一五一)には孫の丹生太郎忠政の名にちなむ太良保内の地と称されるようになっていた(ぬ函一)。この忠政の子の丹生出羽房雲厳は先祖から受け継いだ所領を末武名としてもつほか、治承二年(一一七八)には保を支配する保司から太良保の公文に任じられていた(は函一)。

他方で鎌倉期初めには最有力在庁官人の稲庭時定が保の地頭に相当する地位にあったが、幕府から所領のほとんどを奪われて没落し、代わって守護の若狭忠季が太良保の地頭となった。建保四年(一二一六)、知行国主とみられる源兼定は、後鳥羽院母の七条院が建立した歓喜寿院の修二月雑事料として太良保の年貢を充てたため保は荘園となり、承久三年(一二二一)四月には正式に歓喜寿院領太良荘として立荘された(せ函四)。しかしこの直後におこった承久の乱の結果として、七条院領である太良荘は国衙に没収されて再び太良保となり、勝ち誇る地頭若狭忠清は公文職や百姓名を押領し、些細なことに言いがかりをつけて農民たちから科料(罰金)をとるなど、その支配は横暴を極めた。 

…というのが、平師季と後裔永田時信、雲厳と稲葉時定との関りであった。(よくわからないが‥)

しかし、時信を調べてみると、息に「時定」という名前がある。また、「時忠」もいるのである。

その時忠の子どもは多いので、wikipediaから。
父:平時信
母:二条大宮(令子内親王)の半物
異母弟:平親宗
同母姉:平時子 - 平清盛継室
同母妹:藤原親隆室 - 権少僧都・全真の母
異母妹:冷泉局 - 建春門院女房
異母妹:平滋子(建春門院)
異母妹:平清子 - 平宗盛室
異母妹:坊門殿 - 平重盛室、維盛母?
異母妹:帥局 - 建礼門院女房

正室:藤原領子(藤原顕時の娘)
男子:平時宗
女子:平宣子 - 後鳥羽天皇典侍

生母不詳(前妻の子)
長男:平時実(1151-1213)
次男:平時家(?-1193)
女子:蕨姫 - 源義経側室

生母不詳
男子:平時定
男子:平時国 - 時国の末裔が能登で豪農(上時国家、下時国家)となり、現在も続いている[42][43]。
女子:中山忠親室

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この時定と時国が若狭・能登方面担当だったのではないだろうか?

時定は、稲庭時定(中原姓)なのではないか?
母親が中原であり、娘も中原女と呼ばれていて文書に出てくる人物ではないだろうか?

時国はこちら。

上時国
http://tokikunike.jp/

下時国
http://www.tokikunike.com/


もしも、この時定が稲庭だったとすると、永田時信の孫ということになる。

中原時国(稲庭)は雲厳の養子となった。と地方紙研究という本にあるようだ。

そして稲庭時国は、地頭中条家長の代官となり、さらに建保四年(一二一六)に太良保を支配するようになっていた前治部卿従三位源兼定の子息土御門少将家兼家人にもなって、在京するようになったのである。

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では、九里氏はもともとは稲庭時定とつながっていたのだろうか? 
戦国時代・江戸時代初期・中期の永田氏とのつながりなので、鎌倉・室町から繋がっていた証拠はないのだが、この若狭国・能登の荘園を巡るときからの関係かも知れない。