【九里一族】に出会う旅に出かけよう!

姉妹編【九里】を探して三千里 http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori

三浦半島へ! そうか! 熊野と西園寺と佐原と真野の関係

2017-11-07 11:52:49 | 日記
古くは源平合戦のころ、舟を持たぬ源氏に味方した雑賀党は、壇の浦まで奮闘。源頼朝が鎌倉幕府を開いた折、 雑賀党は源氏に従って鎌倉周辺へ。その多くは、三浦半島に落ち着いた、の一文を見つけた。

これは貴重な情報である!

http://s2s.jp/furusato/furusato_p128.html

私も熊野水軍のことを知ってから、海づたいに伊豆・三浦・房総に紀伊国の人たちが移ってきたように感じている。

東国へ行き、そこから近江国へと来たのかもしれない。その線で、調べてみると

素晴らしいブログを見つけた!

https://kamakura8.blogspot.jp/2015/02/blog-post_4.html

「房総半島と紀伊半島にはどのような類似点があるのかというと、大まかに以下の点が挙げられます。」とある。

そして佐原氏との関係も出ているので、そこも重要なのではないかと。

自分の書いた文は、どこからかいただいた情報だった(本かな?)と思うのだが、
「熊野関係は、はじめは藤原北家と関係が深く、後に西園寺家が檀那として結びついている。」

このことと、藤原実明息は公雅であり、その公雅の息が実任であり、その妻が佐原盛連の娘である。
つまり、実明の孫の妻が佐原盛連女ということになる。
上記のブログの記事に、
「三浦大介義明の末子である佐原十郎義連は、紀伊(和歌山県)・和泉(大阪府)両国の守護であり、また遠江国城飼郡笠原荘(静岡県掛川市)の惣地頭兼預所だとありました。

佐原氏は、駿河・紀伊・和泉の三国を領し、遠州灘に面した海陸交通の要衝・笠原荘を押さえ、本拠三浦半島を海路で結ぶネットワークを有していたともあります。三浦半島にとどまらず房総半島をも支配していた三浦一族の佐原氏が紀伊の守護職に就いています。この事実からも、房総・紀伊半島の類似点に、この佐原氏及び三浦一族の存在が関係するのではないかと思えてきます。」

この義連は 盛連の父である。

盛連と西園寺実任の息が、佐原時連(真野次郎左衛門尉・新宮氏祖)となるように、私には思える。

そして、佐原時連(真野次郎左衛門尉・新宮氏祖)の系かと思われる人物が「佐々木哲学校」に登場する。

真野時家である。http://blog.sasakitoru.com/201112/article_1.html
「本佐々木氏では紀道政の一族である真野時家が船木に移住して船木氏を名乗り、さらに若狭に転出するなど、平安末には積極的に高島郡に進出していた。」

…ということは、時連の一族が近江国に来て、船木氏を名乗り、一部は間宮氏となり、一部はその後若狭国に転出・・・と読めるのである。

この佐原時連(真野次郎左衛門尉・新宮氏祖)は、今まで私が追いかけていた「熊野別当行範」の一族ともつながりがある!と確信している次第である。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/c/a410eb560f651da4391acda227a2ff6a

ということは、西園寺家(実明の系)・佐原氏(三浦氏)・真野氏・船木氏・間宮氏・熊野別当家(新宮氏)・鈴木氏が一列に並び、熊野・東国・近江・若狭もつながってくる。

その若狭国では、本郷氏とのつながりができたのではないだろうか?






【九里氏】と【田中氏】(西行も登場!)

2017-11-05 20:53:48 | 九里氏と田中氏
橘姓を持つ「田中氏」は、紀州国の出身なのではないだろうか?
紀州国の「田仲荘」に注目してみた。
コトバンクより↓
田仲荘【たなかのしょう】

紀伊国那賀(なか)郡にあった摂関家領の荘園で,現和歌山県内田(うちた)町の南半域に比定される。田中とも書いた。成立時期は不明。12世紀初めには摂関家領となっており,1110年藤原忠実(ただざね)から得分(とくぶん)の一部が近江日吉社(日吉大社)に法華八講(ほっけはっこう)料として寄進されている。


紀伊国那賀郡(現,和歌山県那賀郡打田町,桃山町)の荘園。11世紀の成立と推定される摂関家領荘園で,1110年(天永1)藤原忠実(ただざね)によって得分(とくぶん)の一部が日吉神社の法華八講料にあてられている。鎌倉時代には近衛家領となったが,近衛家は荘務権を有せず,領家職(りようけしき)は僧円基(近衛基通の子),僧慈禅(近衛兼経の弟)を経て,その法系である浄土寺門跡(もんぜき)が室町末期にいたるまで伝領した。

(平治1)美福門院が鳥羽上皇の菩提を弔うために高野山に寄進し,金泥一切経蔵料所とされた。成立当初より摂関家領田仲・吉仲両荘などとの間に領有をめぐる紛争があり,とくに田仲荘の預内舎人佐藤仲清・能清父子の侵攻は鎌倉初期まで執拗(しつよう)にくりかえされた。これは田仲荘域が紀ノ川以南まで及んでいて,荒川荘の北辺との境界があいまいであったためであろうが,高野山は64年(長寛2)在家70宇,田畠14町余を寺僧に配分する免家・分田支配を他荘にさきがけて創設し,これに対抗した。…

この預内舎人佐藤仲清・能清父子は、西行の辞典に以下のような記載があった。

「義清(西行)の弟に仲清がいます。兄との説もありますが弟と断定してよいようです。義清出家後に仲清が佐藤家を継ぎました。
 
 仲清には能清と基清の二人の男子があり、能清は佐藤家を継ぎ、基清は一族の後藤家に養子に行って後藤基清と名乗ります。
 
 この基清は源平合戦の折に源義経と行動を共にしていたことが平家物語巻十一などに見えます。」

また、西行と田中荘という企画展があったようで、そこにはこう書かれていた。
「平安時代の歌人として知られる西行は、本名を佐藤義清といいます。佐藤氏は、紀伊国田中荘(現在の打田町南部)などを拠点に活躍したたいへん裕福な豪族で、出家前の西行も巨額の絹の献納によって兵衛尉という官職に任官していて、佐藤氏の財力は都にもよく知られていました。」
http://www.syamashita.net/history/tsukatuki/tsukatsukiso/heian.html
この中の図を見ると、以前から気になっていた粉河荘がすぐ近くである。

「高野山文書」に佐藤家の領地・田中荘と隣の高野山領・荒川荘の境界争いの記述があり、佐藤家の系図に西行の俗名・義清(のりきよ)があるのが発見されたからとのこと。」という記述のあるweb情報もあり。http://wbs-waka.sblo.jp/article/13098785.html

この荘園の近くには、近江国にもその名前がある地名が多いような気がするが、気のせいか。

近江国 田中貞信が香庄貞信として、その香庄の地図を見つけた。



熊野神社古墳群や、住宅の中に田中氏のお名前も。気になる気になる。紀州と近江、熊野と近江、、、




【本郷氏】と【佐々木越中守】 (2)

2017-11-05 11:12:26 | 九里氏と佐々木氏

佐々木哲氏の【佐々木哲学校】のブログより

 泰信の長男八郎左衛門尉泰氏は左衛門尉に任官し、のちに従五位下越中守に補任されて受領して越中家の祖となり、以後、越中家は越中守を世襲官途としました。
 
また次男行綱(佐々木四郎が高島惣領となり、六角宗信が供奉した弘安9年(1286)の春日行幸に、正員の右衛門少尉として供奉。行綱にとってまさに晴れ舞台でした。行綱の娘は京極宗綱の嫡子貞宗(能登三郎左衛門尉)に嫁ぎましたが、貞宗が嘉元の乱で討死してしまった。その結果、京極氏の家督は宗綱の娘婿宗氏(佐渡大夫判官)とその子息高氏(佐渡大夫判官・導誉)によって受け継がれました。

行綱のもう1人の娘は、越中四郎範綱に嫁いでいます。行綱の子行信で高島家は断絶しますので、高島惣領の地位は越中家に移りました。越中家が四郎とも八郎とも名乗るのは、高島氏惣領の四郎と、越中家惣領の四郎のどちらも名乗れたからです。
 このように有力在京御家人となった高島七頭は、室町時代にも幕府奉公衆になっていきます。

~~~*~~~

そして前回の記事を付け加えてみると。。。
……平井五郎師綱(佐々木越中守)の三男能州九郎左衛門尉師信と推定できる。師綱は兄範綱が早く没した後に、越中家を継いで在京御家人本郷隆泰(若狭大飯郡本郷地頭)女子を妻とした。そのため、師綱に始まる平井氏も広い意味で越中家といえる

つまり、能州九郎左衛門尉師信の母は本郷隆泰女である。
師信の母方の祖父は【泰朝】やすとも であり、美作守左近太夫。家臣に「小山実継」(尾張守)がいた。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hirai.html

平井師綱高島泰氏佐々木越中五郎左衛門能登
時綱師綱子五郎左衛門能登源阿
頼時時綱子五郎
宗綱時綱子二郎三郎
時秀宗綱子三郎
氏時時綱子五郎
時光時綱子五郎
頼泰時綱子時光子?越中明徳頃
師氏師綱子太田源八
師信師綱子能登九郎左衛門応安頃
頼秀師信子弾正左衛門
満秀頼秀子三郎
持秀満秀子?佐々木能登
  長綱持秀子頼泰嗣弥三郎左衛門能登明応頃


以上のことと、以下の田中氏・香庄貞信のことと、つながってくるのではないだろうか?
今持っている疑問としては、
佐々木四郎兵衛尉=田中貞信が九里三郎貞信なのではないか?
(田中貞信が香庄貞信とすると、香庄源左衛門尉貞信は九里の可能性もあるかもしれないのではないか?)

では、田中氏と平井氏はどのような関係なのだろうか?

武家家伝の朽木氏より↓ (全体像)http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kutuki.html

信綱の次男高信は高島氏を名乗り、泰信・頼綱・胤信らの男子があった。

嫡男の泰信は高島氏を継ぎ、その三男師綱は平井村に住して平井氏を称した。
高信次男の頼綱の長子頼信は横山に住して横山氏、次男の氏頼は田中に住して田中氏、
そして三男の義綱は朽木に住して朽木氏を称したのである。そして、高信の三男胤信は永田城を築いて永田氏を称した。
このように高信の子孫は湖西の高島郡に割拠し、世に「高島七頭」と呼ばれた。

…と高島氏頼別れた同族のようであるのだが、

武家家伝田中氏を見るとおかしなことに、佐々木氏からわかれたような痕跡はないようで、橘為義の系だという。
【橘為義】
近江掾内蔵助通文の子。子の義通、孫の為仲・資成も勅撰集に名を残す歌人。長和四年(1015)、正四位下。最終官は但馬守。藤原道長の家司。

しかも、同じ橘氏系といわれている山中氏と関係があるようだ。web情報によると↓

山中城は、建久5年に山中俊直によって築かれた。 
山中氏は、橘諸兄の後裔橘義清が鈴鹿峠山中に住して山中氏を称し、俊直の代に鈴鹿山麓の山中村地頭で鈴鹿警固役を務めるた。 
その後、惣領家は柏木御厨の地頭に補され山中氏屋敷移住し、甲賀二十一家に数えられる国人となった。

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田中氏と山中氏が同族として、橘姓は楠木氏・和田氏も同族ということになり、熊野別当ともつながってくることになる。

この橘姓の系図を辿ってみると、源師忠に嫁いだ娘がいた。
【橘俊綱】
生没年:1035-1094
父:摂政関白 藤原頼通
義父:讃岐守 橘俊遠
正四位上修理大夫
妻:(父:源隆国)
藤原家光(花山院家へ)
女:
長門守 兼長
刑部少輔 家基
藤壺女御(鳥羽天皇宮人)
娘(大納言 源師忠室)

源師忠と橘俊綱女との娘が後に「源有仁」の母親となるのである。

【源左大臣有仁】は「佐々木荘」の領主である。

その領主の母親の系を辿ると、橘姓田中氏・山中氏につながる…ということのようである。

母系の母系を辿ることなので表には出てこないが、佐々木荘領主であった人々が後々まで近江国の中に住んでいたのである。
九里氏もその中のグループなのではないだろうか?

本郷氏と平井氏との関係から飛躍してしまったが、平井氏が秀義からの系図に含まれるとして、本郷氏は源有仁の叔父の系に含まれるである。
本郷氏と平井氏との婚姻関係からみても、それ以前も融合していたのではないだろうか?

それにしても、【田中氏】の系図は不思議である。もっと詳しいものを見つけなければ!
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tanaka.html