三浦義澄 http://yoshitsune.gooside.com/miurajinbustu.html
(1127~1200)
三浦氏5代当主。三浦介義明の二男。通称は矢部次郎。または荒次郎、三浦介。官途は相模介。娘は天野政景・安西景益に嫁いでいます。
上総権介常澄の加冠によって元服したともされ(『中世東国武士団の研究』野口実氏著)、衣笠城下の矢部村を領して「矢部次郎義澄」を称していました(『系図簒要』)。
長寛元(1163)年秋、兄の杉本義宗が安房で負った傷がもとで没すると嫡子とされ、老齢の義明に代わって三浦党の指揮をとっていたと思われます
三浦氏と清和源氏の結びつき
後三年の役に鎌倉党梶原氏 大庭氏らの祖とされる権五郎景正と共に参軍した
三浦平太郎為継は「将軍源義家のつはもの」でありかつ「相模のつはもの」
そして「聞こえたかきもの」とされています
桓武平氏一族のものが相模國三浦郡に土着したのは
為継の親の為通のとき「三浦平太夫 長門守 従五下 康平六年頼義より
相模國三浦郷を宛われて衣笠山城を築きてこれに居す。初めて三浦氏と称ふ」
というところです。しかしほんとうのところ良茂の孫の公義がまず三浦郷に来て
その土地の有力者の娘と婚姻して土着したものと考えます、そして後から
為通が入ってきてこの土地の支配権を手に入れ、公義の子の為継を
養子として公義家にとってかわったものと思われます。
三浦為通 (1010~1083)平ノ為通・碓井・平大夫・長門守・為名。「頼光の四天王」の平ノ貞通(碓井貞光)の子孫。村岡忠通の息。叔父・平ノ忠光に養育される。相模国御浦郡の豪族。源ノ頼義に相模三浦郷を与えられる。源ノ頼義・義家に従い1051~1062年「前九年」に従軍する。息に三浦為次(為継)、為直。<三浦氏の祖で源氏を支える一族。源ノ頼光の四天王・平(碓井)貞光の子孫。鎌倉・梶原・大庭氏と同族。>
*▽三浦為継 (*)為次。為通の息。源ノ義家の郎党。1083~1087年「後三年の役」に従軍し軍功。息に義継。
大中臣為継は
兼豊、帰宅の後、予これを披見すれば、是は文永十一年(1274)、大祀の時(の注文)なり。
(時の)祭主の為継卿は壽詞の文を知らずなり。いかでかその職たるべき旨を、隆陰卿が訴え申す。
【為継】「神祇権少副大中臣為茂男。文永十年(1273)五月任。在任二年。正応二年(1289)十二月廿四日還補。」(祭主次第)
別人である。
(1127~1200)
三浦氏5代当主。三浦介義明の二男。通称は矢部次郎。または荒次郎、三浦介。官途は相模介。娘は天野政景・安西景益に嫁いでいます。
上総権介常澄の加冠によって元服したともされ(『中世東国武士団の研究』野口実氏著)、衣笠城下の矢部村を領して「矢部次郎義澄」を称していました(『系図簒要』)。
長寛元(1163)年秋、兄の杉本義宗が安房で負った傷がもとで没すると嫡子とされ、老齢の義明に代わって三浦党の指揮をとっていたと思われます
三浦氏と清和源氏の結びつき
後三年の役に鎌倉党梶原氏 大庭氏らの祖とされる権五郎景正と共に参軍した
三浦平太郎為継は「将軍源義家のつはもの」でありかつ「相模のつはもの」
そして「聞こえたかきもの」とされています
桓武平氏一族のものが相模國三浦郡に土着したのは
為継の親の為通のとき「三浦平太夫 長門守 従五下 康平六年頼義より
相模國三浦郷を宛われて衣笠山城を築きてこれに居す。初めて三浦氏と称ふ」
というところです。しかしほんとうのところ良茂の孫の公義がまず三浦郷に来て
その土地の有力者の娘と婚姻して土着したものと考えます、そして後から
為通が入ってきてこの土地の支配権を手に入れ、公義の子の為継を
養子として公義家にとってかわったものと思われます。
三浦為通 (1010~1083)平ノ為通・碓井・平大夫・長門守・為名。「頼光の四天王」の平ノ貞通(碓井貞光)の子孫。村岡忠通の息。叔父・平ノ忠光に養育される。相模国御浦郡の豪族。源ノ頼義に相模三浦郷を与えられる。源ノ頼義・義家に従い1051~1062年「前九年」に従軍する。息に三浦為次(為継)、為直。<三浦氏の祖で源氏を支える一族。源ノ頼光の四天王・平(碓井)貞光の子孫。鎌倉・梶原・大庭氏と同族。>
*▽三浦為継 (*)為次。為通の息。源ノ義家の郎党。1083~1087年「後三年の役」に従軍し軍功。息に義継。
大中臣為継は
兼豊、帰宅の後、予これを披見すれば、是は文永十一年(1274)、大祀の時(の注文)なり。
(時の)祭主の為継卿は壽詞の文を知らずなり。いかでかその職たるべき旨を、隆陰卿が訴え申す。
【為継】「神祇権少副大中臣為茂男。文永十年(1273)五月任。在任二年。正応二年(1289)十二月廿四日還補。」(祭主次第)
別人である。