千葉頼胤の三男か四男が胤信であるのだが、注意しないともう一人胤信が存在している。
それは、千葉常胤の四男 大須賀胤信である。
私が今まで知っていた胤信は 近江国佐々木氏の高島高信の三男 胤信である。
【胤】とついていることから、千葉氏との関係を探ると、高島高信の妹が千葉胤綱の妻となっていた。
そこで、千葉氏と佐々木氏とのつながりができていた。
更に六角時信の息『直綱』と葛西高清の娘が婚姻関係となって『繁綱』(水沢佐々木氏につながる)・『直信』(気仙田茂山佐々木氏につながる)・『宗綱』(気仙佐々木氏につながる)と、奥州で活躍する。
これは、https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/1d089ae21a78025e5f0d26a8ddaba993
上記の記事につながってくる。
-佐々木氏の入部と躍進-
応永15年(1408)、足利4代将軍・義持に仕えていた佐々木将監繁綱は、葛西氏を頼って奥州に下向した。繁綱は葛西氏により胆沢郡に知行を与えられ、水沢城を居城にしたといわれる。
また、繁綱の弟・宗綱も幕命により北方奉行に任じられ、斯波郡に居住したと伝えられる。二人は母方の縁故により、葛西氏を頼って下向したものと思われる。
いろいろ調べてみると【葛西氏】【佐々木氏】【千葉氏】は婚姻関係・養子縁組等で強くつながりを持っていたように思われる。
https://chibasi.net/oushumain.htm
建治2(1276)年、清時は千葉介頼胤の子・胤信を養子として迎えたとされ、頼胤は胤信に一族の臼井三郎左衛門常俊、千葉飛騨守胤常、千葉左馬助胤氏の三人を附けさせて奥州へ下向させたとある。葛西氏に入った胤信は「清信」と名を改めて太守となったことが伝承として伝えられている。
葛西清時=時清か? ↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E6%99%82%E6%B8%85
時清の跡は「仙台葛西系図」では葛西経清が、
「盛岡葛西系図」の清信(この清信の子が貞清なので宗清に相当か)が継いだ。
其の後、高清の娘と六角時信の息直綱が結ばれたとすると、宗清(=千葉胤信・長田胤信・永田胤信→貞清→高清(娘が六角時信の息直綱と結ばれる))
千葉の頼胤に仕えていた【富木常忍】、頼胤の養子の可能性もある【長田(永田)胤信】
胤信が葛西に入り【葛西清信(=貞清・宗清)】となる。
奥州と繋がり、その後の奥州の佐々木氏となっていく。
‥‥となっていったのではないだろうか?
あくまでも仮想の話である。
このつながりは、過去に遡ると渋谷氏と豊島氏の時代からだったのではないだろうか?