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尾張長岡庄 他 朽木

2017-08-31 | 朽木氏

佐々木信綱と荘園の関係を見てみると、(歴博DB)

 角川地名=輿地史略に佐々木庄の北=安土町北部一帯=天平感宝1聖武が薬師寺に施入した100町の水田が荘園化、薬師寺領=建仁1賀茂社と日吉社の相論

【備考】
 読みは中世、現在ともにトイラ、『荘園志料』の読みトヨウラを改む・東鑑=安貞1佐々木信綱に佐々木豊浦羽爾堅田両庄等の地頭職を給与、承久合戦の恩賞=嘉禎1佐々木信綱宇治河勧賞豊浦庄の替として尾張長岡庄地頭職に補任

wikipediaでは、
承久3年(1221年)6月14日、承久の乱に鎌倉幕府軍として加わり、宇治川を挟んで対する官軍を攻めるべく、芝田兼義、中山重継、安東忠家らと共に川へと入るが、官軍からの矢と急流により渡れず、中州において長男の重綱を総大将である北条泰時の陣へと遣わし援軍を求め、泰時の長男である時氏と共に川を渡り官軍を破る。

これにより乱の大勢は決し、7月2日に官軍に属した長兄の広綱は斬首となり、翌年の9月22日に信綱は宇治川での戦功により佐々木氏の本貫地である近江佐々木豊浦庄、羽爾堅田庄、栗本北郡の地頭職を得る。

嘉禄2年(1226年)1月、前年暮れに元服した藤原頼経の征夷大将軍宣下を得るための朝廷への使者を務め、寛喜4年(1232年)には近江守に任ぜられる。文暦2年(1235年)、承久の乱で得た佐々木豊浦庄に代わり、尾張長岡庄の地頭職を得る。

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信綱は、長兄の息であった「勢多伽丸(せたかまる)」を処刑にすることを主張する。

【勢多伽丸】
承元2年(1208年)、佐々木広綱の子として誕生。
承久3年(1221年)、父・広綱は承久の乱において後鳥羽上皇方に荷担し、鎌倉幕府将軍の恩恵を受ける立場にありながら背信行為をしたことに強い非難と憎悪が向けられ、後藤基清らと共に処刑された。この時、勢多伽丸は出家して仁和寺に在住し、道助入道親王に育てられていたが、父の謀叛に連座して捕らえられ、処刑されることとなった。

これに対し道助と勢多伽丸の母親は勢多伽丸を救うために必死の助命懇願を行い、人道を尊重する執権北条泰時にとっても、勢多伽丸を処刑することは耐えがたきことであった。

しかし、広綱の弟で承久の乱における宇治川の戦いで抜群の武功を挙げた佐々木信綱が、自分の武功を帳消しにしてでも勢多伽丸を処刑することを強く主張した。信綱は泰時の妹婿にあたり鎌倉幕府において枢要な人物であったため、泰時はこれを退けることが出来ず、断腸の思いで勢多伽丸の処刑を指示し、勢多伽丸は処刑された。
なお、勢多伽丸の母は、息子を失った悲しみに耐え切れず、桂川に入水自殺を図ったが死に切れなかった。後に出家して夫・広綱と子を弔ったという。

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気になっている豊浦庄は
1227年に「幕府、佐々木信綱承久の戦功を賞して、近江佐々木豊浦等の地頭職となす」
1235年に「幕府、佐々木信綱を、尾張長岡荘地頭職に補す」     と文書に残っている。

尾張長岡荘(歴博DB)

 角川地名=永岡とも書く=木曽川左岸=祖父江町神明津辺から岐阜県羽島市南部、海津郡北部に比定=本家職は頼通→通子→忠通→高陽院→→近衛家
【備考】
 河東に4郷、河西に6郷・鎌倉期に隣接の堀尾庄と堺相論あり・地頭職=長瀬次郎、佐々木信網、宮太郎左衛門尉盛氏、佐々木信貞、島津殿、下野殿河津氏明、河内観心寺・康正段銭引付=雅楽備中入道殿・『遺文番号』

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虚仮になってからのことだが、
「和泉横山荘地頭の得分を、政子追善の為めに、高野山金剛三昧院念仏用途に寄進することを聴す」とある。(東京大学史料編纂所DB)
歴博DBには、この和泉横山荘の記載に「佐々木信綱・虚仮」の記載は見られない。
高野山領(金剛三昧院領、地頭得分) の記載はあった。

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昨日の草津市史の中にあった「熊野神社」のことだが、追記がある。神道及び神道史, 第 34~38 号 國學院大學神道史學會, 1979 より

「建保六年(ニニ八)二月佐々木信綱が神託を蒙って平貞長入道常善が願主となって紀伊国熊野より勧請したとしているが、その典拠となるものはない。
寛政六年(一七九四)三月に平井清左衛門綱要が社殿を改修したときの棟札には「当社之濫觴遠而不可祥 ...

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伊勢路と東山道の分岐する滋賀県草津市の平井町に熊野神社がある。この神社の本殿に向って左方に小堂があり、その堂内に熊野本地仏像九躯が安置されている。この熊野
神社は社伝によると、建保六年(ニニ八)二月佐々木信綱が神託を蒙って平貞長入道 ...

71 ページ
平井町の熊野本地仏こそ、園城寺が熊野神を勧請して、つづいて鎌倉初頭にその本地仏を造立し、伊勢路から熊野へ詣でる第一歩を踏みだすこの草津の地に、熊野権現を勧請したその歴史意義は誠に注目に価いする。紀路が摂津の窪津王子にはじまり、途中 ...

googlebooksに検索ワードを入れてのことなので、正確ではないかもしれないし、もう少し知りたい!という処で切れてしまうが、熊野詣…の一文には納得である。

平貞長(貞能の息)
ココに神社があればという信綱の神託と貞長の願いがあって、草津の熊野神社はできたらしい。そこに熊野別当湛政(時代的に見てこの人かと思う。)が関わったらしい。
湛快では1174年に亡くなっている。

建保6年は1218年であり、信綱37歳の時である。

ついでに
嘉禎 3年(1237年):朽木村の領主佐々木信綱が、承久の乱で戦死した一族の供養を願い、道元を招く。(memo)
道元と信綱、つながっていたんだ。 

そして、朽木氏となっていく信綱の系 義綱。以前書いた記事よりピックアップすると、

義綱の子孫【朽木経氏】は、桓武平氏の嫡流池氏の池顕盛の猶子となり池氏の所領も相続した。

朽木家文書(東京大学史料編纂所のデータベース)では、この池顕盛はまた【河内次郎顕盛】とも記載有。





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