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片岡氏系図 片岡氏から多賀氏へ そしてまた片岡氏へ

2020-04-22 | 片岡氏

この系図の説は、どうなのだろう。
奥州の多賀城(域?)主からはじまり、常陸国鹿島行方に住し、義経に付き従って奥州高館衣川で討死。
1469年文明元年に蒲生郡下郡嶋向の「伊庭六郎」の跡地領地をもらい受けてる。

以前載せた系図を見て欲しい。中ほどにある「片岡氏 家系」の部分を!
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/1a8c8dc3a2aae55c1c60febb937713c6

まず、佐々木京極氏と書いてるのに、奥州宮城郡多賀城主の末裔とあること。??
京極豊後守高忠は佐々木京極高数の息と言われているので、その点にも触れられておらず…??

しかし、系図は何かを残したく思って書いていると思う。
それは、もしかすると、片岡氏と多賀氏は昔から繋がっているのだ!という事なのではないだろうか。
この片岡氏は私もずっと気になっている片岡氏なので、是非解明したく思う。

大中臣の鹿島神宮の片岡なのか、伊香郡余呉の片岡なのか、大和国にある片岡、紀伊国名草郡片岡なのか、、、、近江国草津の片岡…

多賀高忠は佐々木京極の出だが、妻は多賀高直の娘だそうである。

さらに、本阿弥光悦のwikipediaには、
「京都の本阿弥光二の二男二女のうち長男として生まれる。父光二は、元々多賀高忠の次男片岡次大夫の次男で、初め子がなかった本阿弥光心(侍所の開闔や政所の執事代を勤めた松田氏一族から娘婿として迎えた六代当主本光の子息で本阿弥七代当主)[1]の娘(妙秀)婿養子となったが、後に光心に実子(八代当主光刹)が生まれたため、自ら本家を退き別家を立てた。光悦もこうした刀剣関係の家業に従ったことと思われる。」とある様に、

高忠の息は「片岡次大夫」と名のっていた。

===*===

土佐藩郷士 片岡家も関係があるとすると、前野氏・乾氏・山内氏も出てくることになる。

===*===

多賀城
奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった

奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。創建は神亀元年(724)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから11世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。第1期は724年 - 762年、第2期は762年 - 780年で天平宝字6年(762)藤原恵美朝狩が改修してから宝亀11年(780)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、第3期は780年 - 869年で焼失の復興から貞観11年(869年)の大地震(貞観地震)による倒壊[7]および溺死者千人ばかりを出した城下に及ぶ津波[8]被災[9]まで、第4期は869年 - 11世紀半ばで地震及び津波被災からの復興から廃絶までに分けられる[10]。なお、多賀城の「城」としての記載は『日本三代実録』中の貞観津波が「忽至城下」が最後であり、翌貞観12年の日本三代実録では「修理府」、藤原佐世『古今集註孝経』の寛平6年(894)朱書「在陸奥多賀国府」ほか、「府」あるいは「多賀国府」と記載されている[11]。

多賀城創建以前は、仙台郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定されている。陸奥国府のほか、鎮守府が置かれ[12]、政庁や食料を貯蔵するための倉などが置かれ、附属寺院が設けられていた。霊亀2年(716)には、移民によって黒川以北十郡(黒川・賀美・色麻・富田・玉造・志太・長岡・新田・小田・牡鹿)が成立し、神亀元年(724)には陸奥国府は仙台郡山遺跡から多賀城に移された。北方の備えとして石巻平野から大崎平野にかけては天平五柵(牡鹿柵・新田柵・玉造柵・色麻柵・不明の1柵/中山柵か[13]が設置され、これらは石背国・石城国・陸奥国に三分された陸奥国を養老4年(720)ふたたび統合し、新国府として多賀城を建設し、弱体化した陸奥国の支配強化を図った[14]。これにより、奈良時代の日本では、平城京を中心に、南に大宰府、北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城を建てて一大拠点とした。

多賀城跡とその周辺の調査が1961年から開始され[15]、外郭は東辺約1000m、西辺約700m、南辺約880m、北辺約860mの築地塀や柵木列がめぐる政庁域が確認された。その中心からやや南寄りに東西約106m、南北約170mの築地塀で囲まれた区域があり、主要な建物の跡と見られる礎石や柱穴が多数確認され、正殿と考えられた[16]。政庁の南東方向に「多賀城廃寺」(位置)(旧称「高崎廃寺」、城下の山王遺跡の発掘調査では「観音寺」の墨書土器が出土している)、政庁正殿の北側には延喜式内社の多賀神社(六月坂)がある。

多賀城政庁東門跡(位置)に隣接して陸奥国百社を祀る陸奥総社宮がある。陸奥国一宮鹽竈神社(塩竃神社)を精神的支柱として、松島湾・千賀ノ浦(塩竃湊)を国府津とする。都人憧憬の地となり、歌枕が数多く存在する[17]。政庁がある丘陵の麓には条坊制による都市が築かれ、砂押川の水上交通と東山道の陸上交通が交差する土地として繁栄した。

1966年4月11日、遺跡は国の特別史跡に指定された[18]。その後も発掘調査が進展した結果、多賀城跡一帯とともに多賀城廃寺跡、館前遺跡(位置)、柏木遺跡(位置)、山王遺跡(位置)などを含む範囲の追加指定がなされている[19]。
歴史
神亀元年(724)- 大野東人によって創建される(多賀城碑)。
天平9年(737)- 『続日本紀』に北方を固める「天平五柵」とともに「多賀柵」として初出。天平五柵とは、石巻平野から大崎平野にかけて造営された牡鹿柵・新田柵・玉造柵・色麻柵の四柵と不明の一柵である。伊東信雄は「古代史」『宮城県史』第1巻(1957)で不明の一柵に小田郡中山柵[20]を充てた。
天平宝字6年 (762)- 藤原朝狩によって大規模に修造される(多賀城碑)。
宝亀11年(780)- 伊治呰麻呂の乱で焼失した後に、再建された事が書かれている。
延暦21年(802) - 坂上田村麻呂が蝦夷への討伐を行い、戦線の移動に伴って鎮守府も胆沢城(岩手県奥州市)へ移されて、兵站的機能に移ったと考えられる。
貞観11年 (869)- 陸奥国で巨大地震(貞観地震)が起こり、地震被害とともに城下は津波によって被災し、溺死者を千人ばかり出している(『日本三代実録』)。この後、「多賀国府」として復興した[21]。
11世紀前半頃までかろうじて維持された国府政庁は、11世紀後半には政庁隣接地に平場を設け、政庁に代わる宴会儀礼の場が整備され、国府中枢としての機能は大きく変質した[22]。
11世紀後半の前九年の役や後三年の役においても軍事的拠点として機能し、承徳元年(1097)にも陸奥国府が焼失している。
養和元年(1181)には陸奥国府および「高用名」(国府用に由来。南宮荘・岩切村・村岡村ほか)を拠点とする勢力は平泉の藤原秀郷を陸奥守として迎え入れ、八幡館(末の松山)および開発低湿地(八幡荘・中野郷・萩薗郷・蒲生郷を私領化。多くは津波被災地)に拠点を置く陸奥介らの勢力とに袂別した。多賀国府の勢力は文治5年(1189)奥州合戦および大河兼任の乱で没落していったが、八幡館を拠点とする陸奥介は鎌倉幕府から地頭職を得て、鎌倉に屋地を得るまでになっている[23]。八幡荘は鎌倉将軍家を本所とする関東御領として存続した可能性が強い[24]。

多賀神社(多賀城市)
近江国の多賀大社から勧請している。延暦15年(796年)に朝廷より従五位下の神階を受けた。その後、多賀城の衰退と共に神社も衰退し、所在不明となり、陸奥国一之宮の鹽竈神社では、延享2年(1745年)の『鹽竈社記』において、現在の多賀城廃寺の塔跡がある「塔の越原」の礎石跡を往古の大社「多賀神社」の跡地と推定していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%B3%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%A4%9A%E8%B3%80%E5%9F%8E%E5%B8%82)

久那土神 岐の神  疫病にも関係があるそうである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E3%81%AE%E7%A5%9E

===*===

多賀城が国府の機能も有していたことは、中原氏と大きく関わる。
なぜならば、在庁官人や出納であった江州中原氏(冨城氏)が因幡国に派遣されていたように、この陸奥国にも派遣されていたとも考えられるからだ。
押領使であった江州中原氏もいる。

大宰府にも赴き、陸奥にも赴いていたのだろうか。

===*===

多賀氏と片岡氏、そして佐々木京極氏。さらに本阿弥氏。

河端氏と片岡氏が九里氏の裔だという説もある。



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3 コメント

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多賀柵 (犬連れ)
2021-11-25 15:50:34
多賀柵は賀民郡にあった柵で天平九年に大野東人が豪年に誰かが城郭を作る下準備をしました。多賀柵が改修されて多賀城となったなら多賀城は賀美郡に存在したはずです。神亀元年に大野東人は按察使や鎮守将軍に任ぜられておらず、しかも、賀美郡から遠く離れた名取郡で多賀城碑が出土したとされています。碑文の虚偽と出土場所から多賀城碑は偽物と言えます。安本実典氏の文字分析から江戸時代に作られた偽物としています。
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押領使 (i犬連れ)
2021-11-25 15:58:21
押領使は寛弘三年三月九日 [類聚符宣抄七] 1006年に刈田郡以北の麁蝦夷の南下を防ぐために置かれた職です。九世紀終わり頃に刈田郡以北の律令支配は放棄され、律令で取り締まれない麁蝦夷追捕のため置かれた職です。表記の文献を調べてください。
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コメントありがとうございます。 (kunorikunori)
2021-11-25 18:50:00
犬連れ 様

コメントありがとうございます。
多賀城碑に関して、情報をありがとうございます。
近江の多賀氏を調べている時に同じ「多賀」という名前が気になっている程度でした。

さて、押領使は近江国御家人井口中原系図の中原の系図に出ている為、書きました。

近江の伊香郡に関わる系図となりますが「押領使」と記載があります。
「麁蝦夷追捕のため」という事から始まったかもしれませんが、警察・軍事の指揮官と時代と共に職務も移って行ったように思っております。

全くの素人の為、あちこちに間違いがあると思います。また、ご指摘いただけましたら再考する機会にもなります。どうぞよろしくお願いいたします。
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